鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

思わず快哉!

2023-07-30 15:23:30 | 専守防衛力を有する永世中立国
今朝の新聞で「日本世論調査会」という団体が、全国の一般市民に郵送でアンケート調査をした結果が載せられていたが、私はアンケート結果に思わず快哉を上げていた。

このアンケートは全部で18問。残念ながら回答者の全体数については不明だが、問10の結果としてそれへの賛成者と反対者の数が明記されていた。それによると前者は1182人、後者は534人だったから、回答者は1700人を超える数であったことは判明する。

無回答も少なからずあったので、全国から寄せられた回答者の数は2000名ほどだろうか。こういった世論調査で、いつもどれくらいの人たちへ質問を送るのかが不明なのだが、特定の信条を持つ人々を対象にしてはいないはずなのでおおむねの国民心情は表現されているだろう。

さてこのアンケート調査は「平和に関する調査」で、間もなくやって来る終戦の日の暑い夏の前に必ず実施されている。

今回の特徴はこの5月に開催されたG7による「広島サミット」にかんする質問が全18問中8問もあったことだ。もう一つはウクライナ戦争でロシアのプーチンがちらつかせた「核(攻撃)」に関するもので、こちらは6問あった。

最大の質問事項である「広島サミット」について、よかったか悪かったかは想像通りで、7割方は支持し、3割が否定した。支持側は岸田総理のお膝元でもあり、ウクライナのゼレンスキ―大統領を含む各国代表全員が原爆資料館を見学したことへの評価が高い。

一方で否定派の方は、先の「核兵器禁止条約」への日本のオブザーバー参加さえなかったことと、日本は核廃絶への道筋を示すべきなのに、それを無視するかのような岸田総理の「アメリカの核の傘」への依存が透けて見えることへの失望があった。

広島サミットに関する8問と核兵器使用に関する6問を除く4問のうち、私が驚いたのは問9であった。その質問とは、

<問9 あなたは日本が戦争をしない国であり続けるためには、何が最も必要だと思いますか?>というもので、それへの回答は、

1,戦争放棄を掲げる憲法9条を守る 28%
2,平和外交に力を入れる     32%
3,米国による日本の防衛義務を定めた日米安保条約を堅持する 6%
4,専守防衛に徹する 4%
5,防衛力を増強し、他国から攻められないようにする 21%
6,国連の安全保障会議が機能する 7%
7,無回答 2%

と多岐にわたっている。

この回答のうち、私が驚いたというか目を疑ったのは3番目である。

日米安保を「日本が戦争をしないための防波堤として絶対に必要だ」としたのがたったの6%だったのだ。

日米安保をさらに強固なものにするとか、緊密に連携する、などと必ず表明するのが自民党の首班(総理)の定番であったはずだ。その表明の背景は、米軍の強大な軍事力が日本に駐留しいざとなったらその力で日本は守られる、ということだ。

自民党支持者は大方の世論調査でいつも30~40パーセント、多くは30パーセント台の後半である。それだったらこの3番目の回答の割合もそれに近いものであっておかしくない。

それがたったの6%とはどういうことか、思わず目を疑ったのであった。

私にとっては嬉しい限りだが、日米安保を絶対的に支持しているはずの自民党支持者の本音は何なのだろうか。

2番、4番、5番に分散したのだろうか。

平和外交に徹しつつ、専守防衛力を増強し、それは自衛隊が管理するから米軍は要らない――というのであれば、日米安保は不要ということになる。

もしかしたら東アジアでキナ臭くなった原因は単純に「米中覇権対立」によるもので、日本は中国とは1972年の「日中国交正常化声明」(田中角栄首相)と1978年の「日中平和友好条約」(福田赳夫首相)以来、友好国であったから、それを今日でも遵守すべきで、敵対すべきではない――という感情を持っている自民党支持者には意外に多いのかもしれない。

日米安保という二国間軍事同盟はもう反古にし、アメリカとは当たり前の自由と民主を標榜する「同志国」として付き合うべきだろう。

日本はその上で、永世中立国を宣言すべきだ。世界はそれを待っている。





古日向域の巨大古墳②

2023-07-28 17:46:38 | 邪馬台国関連
【男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳】

古日向域(鹿児島県と宮崎県を併せた領域)の中でも宮崎県側には前方後円墳はじめ円墳や方墳などでも大型のものが多く、県域でこれら土を盛った「高塚古墳」は3000基は下らないとされている。

この数は高塚古墳の本場大和地方と、関東の両毛(上野・下野)地方と並び、全国でも屈指の数を誇っている。

中でも西都原古墳群に所在する「男狭穂塚」と「女狭穂塚」(以下「古墳」を省略)は最大の高塚古墳で、ほぼ同時に造営されたと言われ、被葬者が誰なのかに関心が集まっている。

宮崎県当地では並んで造られたこの二つの古墳の被葬者を(1)ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメ説と、(2)諸県君牛諸井と娘で仁徳天皇の后妃に入内した髪長姫説、とに分かれている。

まず(1)の説だが、これは日向神話(天孫降臨神話)から比定された説で、いわゆる「神代」と言われる時代にこのような高塚古墳があったとは認めがたいので、即時に否定される。

次に(2)の諸県君牛諸井(うしもろい)を男狭穂塚にあて、娘の髪長姫を女狭穂塚に当てる説であるが、牛諸井が大和王権に仕えていたが年老いたため娘の髪長姫を代わりに差し出し、自分は本国に帰った(応神天皇13年条の割注による)とあるので、牛諸井が男狭穂塚の被葬者である可能性はゼロではないが、大和に上がった娘の髪長姫の墓が女狭穂塚である可能性はゼロである。

以上から男狭穂塚と女狭穂塚の被葬者についての地元宮崎の伝承は受け入れがたい。

ただ諸県君牛諸井の支配領域は「諸県(もろかた)」であるので、西都原よりも南の今日の都城市一帯からさらに南部の鹿児島県大隅半島部の大崎町・志布志市がこれに相当し、その領域内にある大型古墳なら牛諸井の陵墓として該当するかもしれない。

【狭穂彦と狭穂姫】

そこで視点を変えてみる。

垂仁天皇の后に「狭穂姫」がいた。この女性の出自は垂仁天皇紀では記されないのだが、実兄に「狭穂彦」がおり、この人物は開化天皇紀によると皇子の日子坐(ヒコイマス)王の子であるから、第9代開化天皇の孫に当たっている。垂仁天皇も開化天皇の子である崇神天皇の皇子であるから、やはり開化天皇の孫世代に当たる。

したがって垂仁天皇と狭穂姫の婚姻は世代的には整合性のあるカップルである。

ただし、どのような経緯で婚姻に至ったかの付いての記述はなく、垂仁天皇の2年に「狭穂姫を立てて皇后とす。后、ホムツワケノミコトを生みませる。」といきなり紹介されているだけである。

ところが4年になると急転直下、狭穂姫の兄狭穂彦が謀反を起こすよう狭穂姫をそそのかすのだ。

「なあ狭穂姫よ、垂仁と俺とどっちが好きなんだ。俺が好きだったら垂仁を殺せ。俺が天下を治めるのだ。」

こう姫に迫ったのである。

姫は兄の方を選んだのだが、垂仁を殺すことができず、かえって狭穂彦が謀反を起こしたとして天皇側から攻撃される。

この一件が垂仁天皇紀には「狭穂彦の反乱」として一項目を当てられ、かなり長い記述になっている。

だが、その内容が単純そのものなのである。サホヒコとサホヒメは堅固な稲城を作って、防戦したというのだが、その稲城がどこに造られたのか、防戦の仲間(配下)はいたのかいなかったのか、などについては全く書かれていないのである。

この点では同じ天皇に対する謀反でも、崇神天皇の時にあった「タケハニヤスとアタヒメの反乱」とは全く違う。こちらは官軍のヒコクニブクが奈良山に登って陣を敷いたこと、タケハニヤスに矢を射って殺したこと、多くの敵軍の首を斬り「はふりぞの」に捨てたことなど、争乱の姿が実に具体的であった。

ところがサホヒコの反乱には全くそれがないのだ。果たして奈良のどこで起きた叛乱なのか首を傾げるのである。

そこで私はどうもこの反乱は大和地方で起きたものでないのでは?――という疑問に逢着したのだ。

【キーパーソンは八綱田(やつなだ)】

垂仁天皇は鎮定将軍に「八綱田」という人物を起用する。

これに対してサホヒコは稲を積んで堅固な「稲城」を作って籠城した。妹のサホヒメも「兄を失ってはともに天下を治めることはできない」と皇后の身を捨てて兄のいる稲城に、皇子ホムツワケを抱いて入った。

これに対して天皇側は皇后と皇子の帰順を促すが、皇后は姿を現しながら結局従わなかったので将軍八綱田は稲城に火をつけて焼き払った。

(※この時皇子のホムツワケが救い出されたという記述はないが、23年条に30歳になっても言葉を話せなかったホムツワケが、空を飛ぶクグイを見て単語を発したため、アメノユカワダナに命じて取りに向かわせ、ついに但馬国で捕えた――という記事があるので、救い出されたのは確実である。古事記では稲城が焼き払われる前に赤子のホムツワケは天皇軍側に渡っている。)

稲城が焼き払われたことで首謀者のサホヒコとサホヒメが死んで「サホヒコの反乱」は一件落着となる。

この戦いで官軍を率いた八綱田は垂仁天皇から戦功を賞され、次の姓を貰うことになった。その性とは

<倭日向武日向彦八綱田>

で、これを多くの市販本の脚注は「やまとひむか・たけひむか・ひこ・やつなだ」と読むのだが、意味を採れ切れずにうやむやにしている。

この長い姓の中の「向」の解釈がなされていないことが最大のネックになっているのだ。

この「向」は「日向」という熟語として読んでは意味が分からないのである。「向かう」という述語として読まなければならないのだ。

そうすると次の解釈に至る。

<倭日(やまとひ)に向かい、武日(たけひ)に向かいし彦・八綱田>

倭日(やまとひ)とは、「あまつひ」からの転訛で、端的に言えば「邪馬台国」である。邪馬台国を私は「アマツヒツギのヒメミコの国」と考えており、アマツヒツギは漢字表現の邪馬台に、またヒメミコは漢字表現の卑弥呼にほかならない。

さらに武日(たけひ)とは古事記の国生み神話において筑紫(九州島)を構成する4つの国(筑紫国・肥国・豊国・熊曽国)のうち熊曽国がこれに該当している。熊曽国の別名が「建日別(たけひわけ)」であった。

以上から「彦(彦は本名のあとに付くのが普通だが、この場合「男の中の男」という強調表現だろう)八綱田」という人物は、九州の邪馬台国との戦いに従軍し(向かい)、さらに熊曽国との戦いにも従軍した(向かいし)軍士として一流の人物であったという属性が判明する。

こう解釈ができると、大和地域の内部(佐保地方)で起きたと一般に言われていることに対して大いに疑問符が付くのだ。大和地方の戦乱を鎮定したのならなぜそのような姓が与えられたのか、全く説明のしようがないのである。

【狭穂彦の反乱の性格】

サホヒコがいきなり皇后であった妹をそそのかして垂仁の天皇位を奪おうとしたのが、サホヒコの反乱の趣意であった。

しかしそれが大和地方で起きたようには感じられず、まして反乱を鎮定した将軍に対して「倭日(やまとひ)に向かい、武日(たけひ)に向かいし彦・八綱田」という賜姓が行われたことから考えると、実はサホヒコの反乱は崇神天皇時代に大和で起きた「タケハニヤスヒコの反乱」に呼応する叛乱ではなかったかと思われるのである。

要するにサホヒコは、タケハニヤスを最後の王権者とする南九州由来の「橿原王権」の南九州における近親者であり、遠く大和を治めていたはずの南九州由来の王権が北部九州から侵攻した「五十王権」こと崇神王権によって打倒されたという情報を得て、加勢すべく立ち上がったのだろう。

そこを足早に攻勢に出て来たのが八綱田を将軍とする官軍で、かつて南九州の投馬国王権が畿内大和へ向かったのとは反対に、海路攻め上って来た。

サホヒコは稲城を造って防戦したというが、南九州には「稲積」という地名伝承があり、防御施設としての稲城は普遍的であったのかもしれない。だが、サホヒコは敗れた。

妹のサホヒメが垂仁天皇の最初の皇后だったというのは、垂仁天皇こと「イクメイリヒコイソサチ」の時代、つまり「生目」(倭人伝では伊支馬)だった若き日に南九州(古日向)の投馬国から貰った嫁だったことを意味しているのだろう。

そのサホヒメも兄のサホヒコに殉じた。ただし垂仁(イクメイリヒコ)との子ホムツワケを残して。ホムツワケは稲城が燃え、すべてが火の中に崩れ落ちる前に救い出されたのだが、このシーンはカムアタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)が「火中出産」したことを想起させるに十分だ。

かくて古日向のおそらく諸県地方から宮崎地方のどこかで、サホヒコとサホヒメは火の中で帰らぬ人となった。

これを悼んだ古日向人が西都原台地の奥津城に葬ったのではないだろうか。それこそが「男狭穂塚」と「女狭穂塚」であったとは考えられないだろうか。









古日向域の巨大古墳①

2023-07-25 21:06:56 | 邪馬台国関連
一昨日の大崎町総合体育館での「カブトムシ相撲大会」で、参加した孫たちの2回戦、3回戦の順番待ちをしている間、館内は暑いので入り口のロビーに行くと、そこには工業用扇風機が回っており、かなり涼しかったのでしばらく休憩を兼ねて待つことにした。

と、隣のベンチを見ると、どこかで会ったことのある高齢者がやはり暑さを避けて座っていた。

孫たちがベンチから離れて館内に行ってしまうと、その高齢者を間近に見ることになった。

ああ、もしかして――と気付き、意を決して高齢者に挨拶した。

「Tさんですよね?大隅史談会にいた松下です。」「ああ、松下さんか」

というわけで、もうかれこれ6、7年ぶりになるだろうか、当時の面影がそのままはっきりと思い出された。

「御無沙汰してます。」「いや、いや、こちらこそ」

T氏は私より11歳上の84歳だという。矍鑠としているが、「実は胃がんの手術後でね」には驚いた。

「そうなんですか。でもお元気そうですよ」「いや、いや。まあ、何とか」

口振りなどは当時と変わらず、穏やかな人である。

「Tさん、7年かそのくらい前に、この体育館で、大崎町の横瀬古墳のシンポジウムがありましたよね」

「そうだったね、ゲストに著名人が来てくれてね」

T氏は大崎町の文化財審議委員をされていたから、その当日はゲストの人たちを出迎えていたようだ。

横瀬古墳とは前方後円墳で長径が140m近くもある巨大古墳で、しかもシンポジウムの前に「二重の周濠のある畿内型前方後円墳」ということが確認され、大きな話題になっていた。

鹿児島県内では前方後円墳は少ないと思われがちだが、少ないのは薩摩半島側で、大隅半島側では140m級の2基を含めて30基ほどは確認されている。

古墳群としては「飯隈古墳群」「神領古墳群」(大崎町)、「岡崎古墳群」(串良町)、「唐仁古墳群」(東串良町)、「塚崎古墳群」(肝付町高山)などが挙げられ、この中でも「唐仁古墳群」最大の前方後円墳「大塚古墳」は全長が148mという南九州でも屈指の大きさである。

南九州のうち鹿児島と宮崎両県域を併せた領域を私は「古日向」と呼んでいるが、この古日向域で最も大きいのは宮崎県西都市に所在する「男狭穂(おさほ)塚古墳」と「女狭穂(めさほ)塚古墳」で両者はほぼ全長が180mと共通である。

この2古墳を別格として、次に位置するのが唐仁大塚古墳で、それに次ぐのが横瀬古墳であるという。

これら4つの古墳のうち男狭穂(おさほ)塚古墳と唐仁大塚古墳はどちらも前方部が貧弱(?)という特徴を持ち、女狭穂(めさほ)塚古墳と横瀬古墳は定型的な前方後円墳の形状をしている。

横瀬古墳の場合はさらにかつては周濠を二重に巡らせており、その点では形状が似ているとはいえ女狭穂(めさほ)塚古墳とは大きく異なっている。

ただし女狭穂(めさほ)塚古墳は西都原古墳群のある西都原台地の中でもやや小高い地点に築かれているから、そもそも周濠を巡らすための水利がないのは当然と言えば言える。もし台地の上ではなく低地に築かれていたら、周濠があったのかもしれない。

その条件は西都原台地の男狭穂(おさほ)塚古墳にも当てはまる。その一方で肝属川の河口に近い低地にある唐仁大塚古墳には一重だが立派な周濠がある。

「松下さん、横瀬古墳の被葬者は誰だと思う?」T氏は難しい質問をして来た。

「うーん、横瀬古墳には畿内型の2重の周濠があるということだから、畿内と強い関係のある人物でしょうね。それから古墳の前方部の一角に賀茂神社が祭られているようで、そうなると古日向の鴨族の首長で畿内大和で活躍した人物。もしかしたら半島に渡りながら向こうで勝手な振る舞いをしたので王権から叱責されたという葛城襲津彦なんかどうでしょう?」

「いや、それは考えたことがないな」

T氏の困惑顔を目の当たりにしながら、それ以上の考えは引っ込めたが、はてさてこれから考えを深めてみよう。

その前に実は西都原古墳群の盟主「男狭穂(おさほ)塚」と「女狭穂(めさほ)塚」については、とある心当たりがあるのでそっちをまずは考えてみたいと思う。





カブトムシ相撲大会

2023-07-23 21:34:41 | おおすみの風景
今日は鹿屋から東に20キロばかり行った所にある大崎町という街へ行った。

そこの総合体育館で子どもの「カブトムシ相撲大会」が催され、孫たち3人が参加するというのである。

9時に始まるというので10分前に体育館に到着したが、館内は子どもを連れた親たちで大にぎわいで、かなり広い館内は熱気であふれていた。

主催者は町当局ではなく、愛生会という社会福祉法人であった。書いたものはなかったのだが、入り口付近に設置されはためいていた上り旗を見ると、大崎町を中心に隣接の志布志市にも拠点を抱える障碍者施設であるようだ。

9時きっかりに始まった開会式で理事長らしき人がカブトムシ相撲大会は今年で35回目だが、この3年間はコロナ禍のため中止となり、4年ぶりの開催になったという話をしていたので驚いた。

そう言えばこの総合体育館は「あすぱる大崎」という温泉施設を備えた交流センターの一角にあり、「あすぱる大崎」の国道からの入り口近くには巨大なカブトムシのステンレス製のモニュメントがある。おそらく交流センターの開設当初からカブトムシをシンボルとしていたのだろう。

その取り組みに合わせて「カブトムシ相撲大会」が行われてきたに違いない。ただ相撲大会の主催者は開設当時と違い、町当局から愛生会という福祉法人に移行されたのではないだろうか。

それはそれとして、始まった相撲大会は大きく二つのグループに分かれていて、小学生以上は「相撲」、幼稚園児以下は「綱渡り」を行った。

孫のうち2年生の女児は相撲の部に参加した。


「相撲場」は茅葺の4本柱の各辺が1.5mほどの本格的な作りで、烏帽子姿の行司もいれば呼び出しまでいるではないか。
真ん中にクヌギの大木を30センチくらいに胴切りした上に二匹のカブトムシを乗せて戦わせるのだ。

蜜だろうか、平たい輪切りの真ん中に垂らしておき、それを吸わせる位置に2匹を置いて「はっけよい」だ。2年生の孫のカブトムシは真ん中からほとんど動かず、相手のカブトムシが逃げ回る形で勝ち進み、4回戦まで行った。

孫のうち幼稚園の年長の男児と年少の女児は「綱渡り」に参加。


2匹とも順調に勝ち進んだが、何と4回戦で兄妹対決となった。

左手の綱を渡る妹のカブトムシの早いこと早いこと、兄のカブトムシの倍速に近かった。

妹のカブトムシはその後5回戦から8回目の決勝戦まで勝ち上がり、とうとう優勝してしまった。

兄の方はさすがに負けた時はべそをかいていたが、妹は何やらシレっとしたまま表彰式に臨んだそうだ。(私は9時から12時まで、最後の決勝戦まで見ていたが、館内が暑いうえに疲れたのでそれを見届けると体育館を後にした。帰宅途中に串良の温泉で汗を流した。)

帰宅後のラインのやり取りで確かめた優勝賞品は「ビニールプール」だったそうだ。そう言えば体育館の舞台の上にたくさんの賞品が並べてあったが、ひときわ大きな空気を入れたビニールプールも飾ってあった。空気は抜いて渡されたのだろうな。

安保は分断を生む

2023-07-21 19:36:03 | 専守防衛力を有する永世中立国
種子島の西表市に属する馬毛島では、これまで計上されていた自衛隊基地建設に関する予算が1700億円から3500億円に嵩上げされたという。しかも地元には何の連絡もなかったそうだ。

自衛隊基地なんだから防衛省の予算内で、仮に大幅に予備費を投入するにしてもそれなりの通知が地元にあってしかるべきだろう。

この政府の「突出」に対して自衛隊基地建設に賛成の自治体は大喜びだろう。基地建設への予算増額に見合った助成金が生まれるからだ。

地元の建設業者や商工会は積極的とは言わないまでも、自衛隊基地建設には賛成の立場だが、馬毛島に新しく港湾を整備する過程で一定の海域の漁業権を取り上げられた漁業者は反対している。

陸の業者と海の業者の間に深い溝が生まれ、お互いに知り合いも多いだろう小さな地域に分断が生まれているのだ。

また南西諸島で最も西に位置し台湾にも近い与那国島では、かなり前から自衛隊基地の建設を要望していた地元だが、自衛隊基地建設のゴーサインが出て始まったはいいが、その自衛隊基地に敵基地攻撃タイプのミサイル部隊がやって来るというので困惑が起きている。

お笑い芸人の殺し文句ではないが、「聞いてないよ!」そのものだ。

私の地元鹿屋でも、去年の11月から自衛隊鹿屋航空隊基地を使用した米軍による無人偵察機MQ9の運用が始まったが、MQ9の運用に関する情報は一切地元に知らされていない。防衛上の機密だそうである。

これも「聞いてないよ!」のパターンだ。

このような軍事機密を伴った展開は近年の米中対立によるもので、それまで盛んに唱えられてきた対中国への「国際法を守れ」という牽制から一歩進んだ一種の脅しへと明らかに変化している。

これは単なる台湾問題というより、米中の覇権争いへと移行しつつあると考えた方がよい。

その矢面に立たされているのが日本だ。

あの鄧小平以来「政経分離」の原則で深いつながりを持ち続けて来た日本が、いったいなぜこうも「対中敵視策」に転換したのだろうか。

結局のところアメリカの対中敵視戦略に巻き込まれたというのが正解だろう。

そもそも日米安保という「二国間軍事同盟」は戦後世界では無用のもので、国際紛争はすべて国連を中心に常任理事国のイニシアチブによる「集団安保」によって解決すべきはずだった。

1992年のソ連邦崩壊後、実は日米安保は解消されて仕方がないという認識がアメリカ側にはあったのだが、日本側の安保至上主義者や日米同盟があった方が日本独自の戦力が最小限に抑えられるという革新勢力の言い分の奇妙な合意で日米安保は残されたのであった。

もっとも1970年の安保改定の節目で「自動延長」が決定され、その後の自民党政治ではそれが催眠術化し、誰もが日米安保は日本にとってなくてはならぬものという認識に変質して行った。

つまり自衛隊の存在(による戦力保持)には反対しても、日米安保(による米軍の戦力)には反対しないという訳の分からない認識が護憲勢力のみならず多くの日本人の認識にもなって来たのである。

今度の日本南西部における戦力の増強は結局アメリカ側の対中敵視策に基づくもので、日本は日米安保という「不可侵条約」にひき摺らているだけの話である。

今回言われている南西諸島の基地建設による分断も馬毛島の自衛隊基地(とは言いながら実は米軍の空母艦載機離発着訓練場)整備による分断も、また大きく言うなら沖縄における米軍基地再編問題もすべて日米安保条約の日本側の対応なのだ。

この分断のもとを断つには日米安保の廃棄しかないだろう。その上で「永世中立国」を宣言すべきだ。

そうなったら日本は中国や北朝鮮にやられまくるではないか――そう思う人は世界で最も安全で頼りになるアメリカへ移住すればよいではないか。