「新春の京都三社と伊勢三宮」が長くなったが、長くなりついでに伊勢神宮の存続の危機についても触れておきたい。
前回、伊勢神宮が祟神天皇の娘ヤマトヒメの時に創建されたと縷々書いてきたが、逆に存続の危機に見舞われた時代があった。
源平の争乱・南北朝の対立、そして戦国時代の混乱の中で、斎宮や遷宮制度が廃されることはあっても神宮そのものは守られてきたので、今日までつながる神宮の長い歴史があるのだが、実は存続の危機にさらされたのはその長い歴史から見ればつい最近の事に属する。
いわゆる「神道指令」である。
日本の降伏(9月2日)を受けて置かれた「連合国軍最高司令部」(GHQ)が神道指令を発したのは終戦の年(1945年)の12月15日だった。
神道指令は「神道分離令」というのが正確だが、政治と神道とを 分離せよというものだ。国家神道と軍国主義によって「現人神」視された天皇の、その祖先神たる天照大神信仰の原点が伊勢神宮であると知ったGHQは、伊勢神宮そのものを廃止したかったのである。
これに慌てたのが日本の神道界で、何とか阻止しようと考えを巡らせたのが、「伊勢神宮は宗教施設ではなく、自然そのものに神が宿るという日本人の考え方の象徴なのであり、いわば自然公園のようなものだから、廃止されたら国民からの大反発を招く」という、自然崇拝施設論だった。伊勢神宮(内宮)の参道や境内地の周辺には大人で三抱えもあるような杉の巨木が相当数林立しており、また周辺には池や照葉樹林の森もあり、宗教施設というより自然公園的な雰囲気がする。西洋の教会が樹木の生えていない市街地の真ん中の石畳の広場に屹立する石造りの大きな建物であるのとは全く対照的だ。伊勢神宮に限らず、多くの日本の神社仏閣では境内地が林か森のようになっているが、これが日本の「宗教施設」の他に例を見ない特徴だ。
GHQとしては1899年に制定されたハーグ条約によって、占領軍はたとえ被占領地であってもそこの文化・宗教等で伝統あるものには手を下さないことは心得ていた。
したがって、伊勢神宮を宗教施設だからという理由で廃絶しようという考えはなかったが、国民の天皇崇拝が軍国主義を助長したことは間違いないので、日本の軍国主義・全体主義の精神的支柱であったという理由からその大元締めの伊勢神宮の廃絶を目論んだのである。
しかしマッカーサーと会見した時に昭和天皇から「国民に罪はない、罰するなら私を」という真情を聞かされたり、国民の天皇への思慕の強さに、次第に、軍国主義と天皇崇拝とは必ずしも表裏一体のものではないことを理解しはじめ、これが翌年(1946年)6月17日の「天皇は極東軍事法廷で裁くことはない」というキーナン声明に現れ、結果として神宮の廃絶は沙汰止みとなった。
さらに翌年(1947年)の10月10日、同じキーナンは「天皇と実業界に戦争責任はない」との声明を発表し、天皇と神宮(それに伴って全国の神社)は完全に守られることになったのであった。