鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

昭和の日(旧みどりの日=昭和天皇生誕日)

2022-04-29 16:32:40 | 日本の時事風景
今朝の雨風は尋常ではなかった。

早朝から9時過ぎまでは普通の雨降り(小雨)だったのだが、その後は寒冷前線の通過があったのか、突然風が吹き出し、伴う雨も台風時並みの強さになった。

11時前には早朝と変わらない降り方に戻り、昼頃に雨はすっかり上がった。庭に出てみると風向きが西に変わっており、やや冷たさが増していた。

今日は「昭和の日」(旧「みどりの日」)で祭日だが、いまだにこの名称には馴染めず、昭和天皇の「天皇誕生日」の方がしっくりくる。

昭和天皇は在位が長く、戦前の1926年(大正15年=昭和元年)12月25日に父の大正天皇が崩御されてすぐに践祚されてから、1989年(昭和64年=平成元年)1月7日に崩御されるまでの62年間であった。

その62年のうち、戦前が20年、そして戦後が42年。戦後の42年だけでも明治以降の一世一元制度では、明治天皇の45年に次いで長い。

昭和天皇は太平洋戦争の終戦前までは、「大日本帝国」の神聖にして侵すべからざる天皇であった。しかも陸海軍の元帥でもあり、かつ皇室祭祀の実行者という面も持たれており、多面的であった。

終戦後は「大日本帝国」は崩壊し、それとともに米軍を主力とする連合国軍の占領下に置かれ、陸海軍の元帥の地位は解任され、神聖にして侵すべからずという地位すら、占領軍の軍政下では危うくなった。

しかし天皇自らがGHQのマッカーサー総司令官を訪ねた時に、「わが身はどうなってもよいから国民を助けてくれ」という懇願に接したマッカーサーは、自分の命乞いに来たとばかり思っていた昭和天皇のその言葉に唖然とし、ついに天皇を処罰することはなかった。

国民の天皇に対する敬愛がすこぶる強く、天皇を処罰したらそれこそ各地で占領軍に対する反乱がおきるだろうとGHQは思わざるを得なかった。

その結果、天皇制は温存され、なおかつ天皇制の淵源のひとつである伊勢神宮祭祀も廃止されることはなかったのである。

戦後のGHQは数々の占領政策において「日本人の骨抜き」を施行したのだが、皇室と皇室祭祀に手を付けることはなく、今でもラッキーだったと思われてならない。(※ただし、宮家は廃止され、一般国民と同等扱いされるようになった。現在の皇室の「後継者不足」はそこに原因があるという考えも成り立つ。)

ともあれ戦前の白馬に乗った元帥姿の昭和天皇と、戦後、全国各地を巡回して回るあの中折れ帽子スタイルの昭和天皇とでは「月とスッポンの違い」があり、多量の写真が無かったら、誰も同じ人物だとは思わないだろう。

GHQが昭和天皇を廃止して全くの別人を担ぎだしたとしても、証拠写真が無ければそれで通用したかもしれないくらい、戦前の天皇と戦後の天皇の姿には違いがあり過ぎた。

しかし戦後の「象徴天皇」こそが本来の天皇の姿に近く、戦前の軍服姿の天皇の方が長い歴史の天皇制の下では異常だったのである。「帝国主義」が世界を覆っていた時代相の下ではそれも仕方がなかったかもしれないが、今や帝国主義の象徴である「植民地主義」は過去のものとなり、世界は基本的には自由と民主主義によって繫栄し、発展して来た。

そういう戦後の時代相の下で、日本の天皇制度はそれなりにうまく機能して来たのだが、今再び世界が専制主義のロシア・中国と民主主義諸国との間の葛藤にさいなまされるようになって来た。

といって、昭和天皇が戦前の20年間で経験し尽くした労苦を再び味わいたくはない。平和に徹し、必死になって働いていた戦後の昭和時代が懐かしく思い出される。

<降る雪や 明治は 遠くなりにけり>

と詠んだのは中村草田男で、昭和6年の冬に実感したのが元になっている。

自分は <春雷や 昭和も 遠くなりにけり>

という心境である。

藤原氏と藤原宮(記紀点描㊿)

2022-04-28 20:50:45 | 記紀点描
中臣鎌足が藤原鎌足となったのは、天智天皇が天武8年(669年)の10月に死の床にあった鎌足に対して、その勲功を賞して「藤原姓」を与えたからである。

鎌足は同時に「大織冠」を授けられ、「内大臣」という臣下としては最高の位に上った。しかし藤原氏となった鎌足はその翌日に死亡したから、鎌足自身は藤原姓が与えられたといっても、もうすでに意識朦朧であったに違いない。

しかしその後の藤原氏の大活躍の発火点になったことは間違いなく、平安期からは藤原氏の専制体制と言ってもよい時代になり、「五摂家」を生み、全国にその名を取り入れた「佐藤・伊藤・斎藤・・・」などを輩出した一大姓勢力である。。

この「藤原」は大和国の高市郡(橿原市)に見える地名であり、おそらく見事な山藤(栽培種以前の野生のフジ)の繁る一帯だったがゆえに付けられた地名であったろう。

669年に姓として授けられる前に、藤原という地名が登場するのは、允恭天皇の時代と推古天皇の時代である。

允恭天皇(第19代 在位412~443年)の6年(417年)、皇后・押坂オオナカツヒメの妹の衣通姫(ソトオリヒメ)というたいそうな美人を後宮に入れようとして、皇后にねたまれ、衣通姫のために「藤原宮」を建てたという記事があるのが、藤原の初見である。

藤原という地名の所に建てたので宮の名が「藤原宮」となったのだが、この藤原宮は約280年後の694年に持統天皇が唐式都城として建設した後述の藤原宮と同じ宮名である。ただし宮の建設地は重なっていない。允恭天皇の藤原宮の方がより飛鳥の村に近かったようである。

この時の藤原宮は2年足らずで放棄され、大和の外の河内に新しく「茅渟(ちぬ)宮」が造られた。姉の嫉妬が苦しく感じられてならない衣通姫のたっての願いで、飛鳥からはるかに遠い河内の茅渟に造営された。首尾よく行ったようだが、姉の嫉妬は止まず、「頻繁に出かけたら、人民の負担となるから、回数を減らしなさい」とくぎを刺されている。

さて、推古天皇(第33代 在位593~628年)の時代に登場するのは「藤原池」である。推古天皇15年(607年)の記事に、「今年の冬、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を作る」とあり、河内国でも「戸苅池・依網池を作る」とある。いずれも灌漑用の池であろう。またこの年には小野妹子と鞍作福利を隋に遣わしている(第1回遣隋使)。

その後の地名由来の「藤原」については、天智天皇の正式な即位年7年(668年)のこととして、次の記事があるのみである。

<7年(668年)2月、古人大兄皇子の娘・倭姫を立てて皇后とす。ついに4姫を納れり。(省略)遠智娘(オチのイラツメ)は1男2女を生む。第一を太田皇女、第二を鵜野(ウノ)皇女ともうす。ウノ皇女は、天下を保ちたまふに及び、飛鳥浄御原宮にまします。後に宮を藤原に移したまふ。>

ウノ皇女はのちの持統天皇のことで、夫の天武天皇亡き後に「藤原宮」を造営している。

天武天皇から持統天皇の時代は、663年に白村江の海戦で唐・新羅連合軍に完膚なきまで敗れ、半島の権益を失って列島だけの自立国家にするため唐に倣った「法治国家」(律令体制)樹立を目指していた時代であった。

都城の建設もその一環であり、持統天皇の4年から8年にかけ、4年の歳月をかけて竣工している。南北1キロ、東西1キロ(100ヘクタール)の大陸式の都で、朝堂院はじめ唐の都城を模した本格的な「天子の城」である。

この本格的な法治国家観による都城の名をなぜ「藤原宮」としたのだろうか?

もちろん付近に地名としての「藤原」があり、上に述べた「藤原池」のある地域であった。そこに展開する都城が藤原宮であってさしたる不思議はないのだが、一点だけ不審なのは「藤原氏」という地名ではない「姓(氏)」の存在である。

藤原姓は最初に触れたように、中臣鎌足の死の直前に天智天皇によって与えられた姓であった。その姓は鎌足の出生地でもあった地名・藤原から採ったものだろう。その藤原姓が669年に始まり、藤原宮が完成した694年頃には鎌足の後嗣の藤原不比等も官僚として中堅どころを担っていた。

父が大殊勲のある内大臣鎌足であり、それへの賜姓によって藤原氏が生まれたのはいいとしても、新しく建設された巨大な大陸式都城に「藤原宮」という名を名付けるのはいかがなものか。たとえ功労第一等の内大臣とはいえ、天皇の臣下に過ぎないのである。

その姓と同じ名称を新式都城に使うのは普通はためらうはずである。史上の事例では淳仁天皇の幼名が「大伴皇子」だったため、天皇側近の大伴氏は「伴氏」に名称変更されている。

「藤原宮」は天皇の名ではなく都城の名だが、それでも当時は中堅官僚であった鎌足の長子・藤原不比等の「藤原」の字を避けるか、あるいは逆に「藤原宮」名を優先して藤原氏の名称を例えば「藤井氏」などのように変えるのが普通ではないかと思うのである。

ところがそれをしなかった。

そこで考えられるのが、天武天皇の出自である。私は天武天皇は孝徳天皇の4年(653年)に唐に僧として留学し、白村江戦役の終了後の665年に唐の使者・劉徳高の船で帰って来た藤原鎌足の長男・真人(僧籍名・定恵)ではないかと考えている。

つまり天武天皇とは鎌足の長男中臣真人(藤原賜姓後は藤原真人=僧籍名・定恵)であり、であれば藤原姓は藤原宮とは同格ということになり、藤原を共有して怪しまなかったとということになる。

天武天皇の幼名とされる「大海人皇子」という人物が、天智天皇紀にほとんど登場せず、登場した時は「皇弟」「大皇弟」と書かれるのみで、一向に「大海人皇子」としては出てこない不審もこれで氷解される。「大海人皇子」という名の皇子の実体はなかったのである。

※「大海人皇子」または「大海皇子」は舒明天皇紀2年(630年)正月条に、舒明天皇と皇極天皇の子供として「葛城皇子(中大兄皇子=天智天皇)、間人(はしひと)皇女、大海皇子」があったことが紹介された後は、書紀の記述に一切登場せず、常に「天智天皇の弟」の意味の「皇弟」だったり(孝徳天皇紀4年条)、「大皇弟」だったり(天智3年2月条・7年5月条・8年5月条)、「東宮大皇弟」だったり(天智8年10月条・天智10年正月条)、初めて「皇太子」(天智10年5月条)が当てられ、さらに「東宮」(天智10年10月条)という名称で最後の登場となった。

その間、一貫して「大海人皇子」とも「大海皇子」とも書かれず、例えば「大皇弟・大海人皇子」というような書き方は一切なく、言わば「大海人皇子」の存在は無視されているのである。つまり「大海人皇子」という人物は舒明天皇と皇極天皇との間の子ではなく(天智天皇の兄弟ではなく)、まったくの造作であると言っているに等しいのだ。

その「東宮」が死の間際の天智天皇から、「東宮なのだから私の死後に天皇になって欲しい。そして我が子の大友皇子を皇太子にしてほしい。」と言われ、はいそう致しますとは言わず、「いえ、次期天皇には皇后陛下がなり、大友皇子を東宮に据えるべきです」と、私の出る幕は有りませんとばかり、即日出家して法服を着用して吉野宮に隠遁したのであった。

ここで「即日に出家した」とあり、法服(僧衣)まで着用した天武天皇だが、大海人皇子時代に仏教を学んだなどという記述は一切見えていない。大海人皇子という人物を主語にした記録が一切書記には記されていないのだから、当たり前と言えば当たり前だが、即日の出家という記事の唐突感は全く以て不可解である。

また即位後の記事として「天武天皇紀・上」の即位前記には、あれだけ書かれていなかった「大海人皇子」が幼名として取り上げられている。これは舒明紀の皇極天皇との間の子として「葛城皇子(中大兄皇子)・間人皇女・大海皇子」と造作したことに対する「〆め」のようなものである。

天皇はまた「天文・遁甲(トンコウ)を能くする」と書かれており、このような学問を誰からどこで習ったという記事も当然ながら皆無である。

そしてさらに「和風諡号」を見てみると、それは「天渟中原瀛真人(あめのぬなはらおきのまひと)」である。最初の「天渟中原」(あめのぬなはら)とは天から見た地上の中心という意味で、「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」に近い意味だろう。「瀛(おき)」は大陸から見た日本列島を「瀛洲(エイシュウ)」と言ったことから日本を指している。

その日本を治める「真人」(まひと)が、天武天皇の属性であった。真人は道教における「神人」と言って良いから、天武天皇のこの和風諡号は、「豊葦原と言われるはるか海の向こうの日本を神のごとく治める天皇」と解釈される。

ところが「真人」には道教の神に相当する人物という意味に加えて、藤原鎌足の長子であるのちの留学僧「定恵」(貞慧とも書く)の本名が「中臣真人」だったことをも想起せざるを得ないのである。

この定恵こと中臣(藤原)真人が天武天皇であってみれば、天皇が天智天皇の譲位の申し出を断ったその日に剃髪して法服(僧衣)を身に纏って吉野に隠遁したことも、天文や遁甲を能くしたことも了解される。

また孝徳天皇の5年(653年)の遣唐使船で唐に留学し、向こうで13年も学んだ挙句に白村江の戦役の後に唐から遣わされた終戦処理の交渉団(団長は劉徳高)の船で帰って来た(665年)ことは、「はるか海の向こうの日本(瀛洲=エイシュウ)を神のごとく治める」ための帰国だったと解釈できよう。唐としても中国語を理解できる「留学僧中臣真人こと定恵」を天皇に据えれば、倭人をコントロールしやすいと踏んでの天皇交代劇だったのだろう。

しかし唐の思惑は外れた。一つは新羅が敗戦後の百済のみならず、唐によって敗れた高句麗までをも征服して半島を統一したこと(675年)と、天武天皇の後継となった天智天皇の娘の持統天皇の強力なリーダーシップによって列島を日本独自の律令体制でまとめ上げたことである。唐の制度に倣うばかりでなく日本古来の祭政をうまく制度化した功績は大きい。


スペイン風邪と新型コロナ感染

2022-04-26 10:07:04 | 災害
昨晩10時のNHK番組「映像の世紀」では1918年から20年にかけて大流行したスペイン風邪の光景を映し出していた。

スペイン風邪はインフルエンザのことで、流行の発生地となったのはアメリカカンザス州にあった陸軍基地であったようだ。冬になるとカナダから越冬地を求めてカモの飛来する川があり、そのカモがウイルスの媒体になった可能性が考えられるという。

そこの兵員にまず感染者が現れ、その後基地内に流行したのだが、折しも第1次世界大戦の最中で、この基地からヨーロッパの戦線に出陣した一行が上陸地のフランスで流行らせたらしい。

その後は毎年秋から冬にかけて第3波まで繰り返し、感染者総数は全世界で約5億人、死亡者は4000万という大パンデミックになった。スペイン風邪という名になっているのは、スペインにおける感染によってはじめて「インフルエンザウイルスによる大流行」と発表されたからである。

感染キャリアの兵隊を送ったアメリカも、ヨーロッパで最初に流行したフランスでも、軍事上の秘密事項として扱い、外部には公表しなかったというから悪質だ。

奇しくも今日の新聞報道では、新型コロナウイルスの世界の感染者数が5億人を突破したようで、スペイン風邪の患者数と肩を並べた。

ただ当時の世界人口は15億から20億、今日の世界人口は70億余と総数に違いがあるので、単純に比較はできない。スペイン風邪の感染率は30%から25%にもなる。世界の3人から4人に一人は罹患したのだ。

そして死者数の割合も桁違いに大きかった。スペイン風邪では何と8%である。現在の世界のコロナの死者数は620万であるから、致死率は1.24%で、スペイン風邪の7分の1と極めて少ない。医療体制の充実度からすれば当然と言えば言える。

日本でのスペイン風邪も、世界と同様3波があり、第1波では2000万、第2波では200万、第3波では20数万と波を数えるほどに劇的に減っていった。

しかし当時の人口を考えると感染率は極めて高く、30%を超えていた。死者数は40万くらいだったようだから、新型コロナ感染に比べると感染率も致死率もどちらも圧倒的に高い。(※4月25日現在の日本の感染者総数は769万、死者数は2万9千。致死率は0.4%)

鹿児島県内では、3月末から4月初旬の春休みと組織の人事移動に伴う人の動きがあった頃には、一日当たり800名を超えるような日が数日続き、その後も高止まりの感染者数で推移していたが、この1週間前頃からは500名を切り400名、300名台と減少し、今朝の発表では374人であった。

住んでいる鹿屋市でもその傾向が顕著で、一時は一日当たり100名を突破する日があったが、今朝は14名とぐんと少なくなっている。

しかしこの頃の減少傾向も、続くのはゴールデンウイーク前までだろう。行楽地の人出ラッシュが手ぐすねを引いて待っているのだからしょうがない。

せいぜい免疫力をアップしてウイルスを寄せ付けない(引き込まない)ようにしよう。

ブーメラン効果?

2022-04-24 18:12:21 | 災害
去年の年末頃から中国ではオミクロン株による感染が増加し、今や200万の大台をうかがうほどになった。

それ以前は2年余り感染者数が8万台をずーっとキープしていたのだが、オミクロン株の感染しやすさから、あっという間に増加した。

冬季北京オリンピックの開催が感染者数を増やしたことは間違いないところだ。ちょうど健常者のオリンピックが幕を閉じようとした2月24日のロシアによるウクライナ侵攻の陰に隠れてしまったため、報道からは逸脱してしまった感があるが、感染者数は確実に増えて来ていた。

今日の新聞によると、194万余りの感染者数で、死者は14000人弱である。今現在で感染者数は毎日2万余り増加している。

日本は同じ時点で感染者数760万余り、一日当たり4万人余りの増で、死者数は約3万。

彼我を比べると、日本の増加数は中国の2倍で、当分中国が日本を抜くことはないが、感染者数に対する死者数の割合は中国の方がかなり高い(約2倍)。

中国はかたくなにゼロコロナ対策をとっており、最も流行している上海では、ロックダウンが実施されている。

しかもある高層住宅では数名の感染者が出ただけで、そこの住民をすべて外出させたうえで全体を消毒して回るという徹底ぶりで、住民からは相当な反発が起きている。

これは自由主義諸国では考えられない対策であり、共産党一党支配の専制国家体制だから可能なことだ。住民の反発は強圧的に抑え込まれているようである。

昔の中国だったら、住民が賄賂を握らせて、消毒隊に手心を加えてもらうという構図だったのだろうが、今や世界の目がすぐそこにあることもあり、そういった旧態はもう過去のものになった。進歩と言えば進歩である。

しかし今の中国の新型コロナ感染者の増加は、言って見れば2年3か月前に発現し、世界を感染の嵐に巻き込んだ武漢発の新型コロナウイルスが回りまわって再び発生地の中国に戻って来た――つまりブーメラン現象ということである。

「世間は広いが、世界(地球)は丸い」ということが如実に表れている。

日本の新型コロナ感染は今度のゴールデンウィークのことを考えると収まる気配はない。特に10代以下の子供への感染は家庭内感染の典型で、家族間隔離は不可能なので今後も長く続くだろう。

今後は季節性インフルエンザ的な流行に移行していくように思われるが、そうであれば軽症の感染に効果のある飲み薬の普及がカギを握るに違いない。国の早い「新薬の承認」を願いたいものだ。




黒海艦隊旗艦の沈没

2022-04-21 23:13:06 | 鹿児島古代史の謎
クリミア半島のある黒海に展開していたロシア海軍の「黒海艦隊」の指揮艦「モスクワ号」が、ウクライナの攻撃によって航行不能になりついに海の藻屑となったという記事に接し、薩英戦争の時にイギリスの旗艦「ユリアラス号」が薩摩藩の砲撃によって大損害を受けたことを思い出した。

文久2年(1862年)8月21日に横浜の生麦村で起きた「生麦事件」により、幕府と薩摩藩に対して損害賠償を要求したイギリスは、幕府からは10万ポンドをせしめたが、薩摩藩は賠償金の支払いがないうえ、殺された英国商人の下手人の処刑をも拒否されたため、ついに軍艦7隻を薩摩藩に差し向け脅そうとしたのであった。

文久3年(1863年)の6月27日に英国艦隊は錦江湾に入り、28日には鹿児島城下の目前に7隻の艦隊を布陣し、賠償の要求を迫った。

7月2日に至ってもなお薩摩藩が要求に応じないため、業を煮やしたイギリス側は、錦江湾奥に錨を下ろしていた薩摩藩有の汽船3隻を拿捕しようとした。

しかし事ここに至ってさすがの薩摩藩も砲撃を開始したのである。

慌てた英国艦隊は逃れようとしたが、旗艦ユリアラス号には砲弾が命中し、艦長および副艦長までもが砲弾の犠牲となってしまった。

しかし数時間後には英国艦隊からアームストロング砲による反撃が開始され、薩摩藩の砲台のほとんどがやられ、あまつさえ城下にも砲弾が飛んで大損害を被る羽目となった。

艦隊の指揮官が乗る旗艦がやられた意味は大きく、英国艦隊7隻は薩摩藩との交渉もせずに錦江湾を後にしたのであった。

薩摩藩側も英国艦隊のアームストロング砲の威力を目の当たりにして「攘夷」を完全に捨て、以後、軍備の近代化にまい進し始め、幕末では幕府をしのぐような近代的な防衛力を充実させるようになった。

(※奇しくもこの年と翌元治元年=1864年に起きた長州の馬関戦争によって敗れた長州藩が、近代的軍備の必要性に目覚めたのと軌を一にしており、この目覚めた二藩が土佐の坂本龍馬のあっせんで同盟関係を結んだことで、三年後に幕府を滅亡に追い込んだのであった。)

さてプーチン(ロシア)は、黒海艦隊の旗艦喪失を自爆のように報道しているが全くのフェイクで、事実、翌日にはその「仕返し」のため、撤退したはずのキエフ(キーウ)近郊を爆撃している。

このような「目には目を」的な仕返しをするようになったら憎しみの連鎖は続く。これによってプーチンの最期は近くなった。最終章の幕は切って落とされたとしか言いようがない。