今朝の雨風は尋常ではなかった。
早朝から9時過ぎまでは普通の雨降り(小雨)だったのだが、その後は寒冷前線の通過があったのか、突然風が吹き出し、伴う雨も台風時並みの強さになった。
11時前には早朝と変わらない降り方に戻り、昼頃に雨はすっかり上がった。庭に出てみると風向きが西に変わっており、やや冷たさが増していた。
今日は「昭和の日」(旧「みどりの日」)で祭日だが、いまだにこの名称には馴染めず、昭和天皇の「天皇誕生日」の方がしっくりくる。
昭和天皇は在位が長く、戦前の1926年(大正15年=昭和元年)12月25日に父の大正天皇が崩御されてすぐに践祚されてから、1989年(昭和64年=平成元年)1月7日に崩御されるまでの62年間であった。
その62年のうち、戦前が20年、そして戦後が42年。戦後の42年だけでも明治以降の一世一元制度では、明治天皇の45年に次いで長い。
昭和天皇は太平洋戦争の終戦前までは、「大日本帝国」の神聖にして侵すべからざる天皇であった。しかも陸海軍の元帥でもあり、かつ皇室祭祀の実行者という面も持たれており、多面的であった。
終戦後は「大日本帝国」は崩壊し、それとともに米軍を主力とする連合国軍の占領下に置かれ、陸海軍の元帥の地位は解任され、神聖にして侵すべからずという地位すら、占領軍の軍政下では危うくなった。
しかし天皇自らがGHQのマッカーサー総司令官を訪ねた時に、「わが身はどうなってもよいから国民を助けてくれ」という懇願に接したマッカーサーは、自分の命乞いに来たとばかり思っていた昭和天皇のその言葉に唖然とし、ついに天皇を処罰することはなかった。
国民の天皇に対する敬愛がすこぶる強く、天皇を処罰したらそれこそ各地で占領軍に対する反乱がおきるだろうとGHQは思わざるを得なかった。
その結果、天皇制は温存され、なおかつ天皇制の淵源のひとつである伊勢神宮祭祀も廃止されることはなかったのである。
戦後のGHQは数々の占領政策において「日本人の骨抜き」を施行したのだが、皇室と皇室祭祀に手を付けることはなく、今でもラッキーだったと思われてならない。(※ただし、宮家は廃止され、一般国民と同等扱いされるようになった。現在の皇室の「後継者不足」はそこに原因があるという考えも成り立つ。)
ともあれ戦前の白馬に乗った元帥姿の昭和天皇と、戦後、全国各地を巡回して回るあの中折れ帽子スタイルの昭和天皇とでは「月とスッポンの違い」があり、多量の写真が無かったら、誰も同じ人物だとは思わないだろう。
GHQが昭和天皇を廃止して全くの別人を担ぎだしたとしても、証拠写真が無ければそれで通用したかもしれないくらい、戦前の天皇と戦後の天皇の姿には違いがあり過ぎた。
しかし戦後の「象徴天皇」こそが本来の天皇の姿に近く、戦前の軍服姿の天皇の方が長い歴史の天皇制の下では異常だったのである。「帝国主義」が世界を覆っていた時代相の下ではそれも仕方がなかったかもしれないが、今や帝国主義の象徴である「植民地主義」は過去のものとなり、世界は基本的には自由と民主主義によって繫栄し、発展して来た。
そういう戦後の時代相の下で、日本の天皇制度はそれなりにうまく機能して来たのだが、今再び世界が専制主義のロシア・中国と民主主義諸国との間の葛藤にさいなまされるようになって来た。
といって、昭和天皇が戦前の20年間で経験し尽くした労苦を再び味わいたくはない。平和に徹し、必死になって働いていた戦後の昭和時代が懐かしく思い出される。
<降る雪や 明治は 遠くなりにけり>
と詠んだのは中村草田男で、昭和6年の冬に実感したのが元になっている。
自分は <春雷や 昭和も 遠くなりにけり>
という心境である。
早朝から9時過ぎまでは普通の雨降り(小雨)だったのだが、その後は寒冷前線の通過があったのか、突然風が吹き出し、伴う雨も台風時並みの強さになった。
11時前には早朝と変わらない降り方に戻り、昼頃に雨はすっかり上がった。庭に出てみると風向きが西に変わっており、やや冷たさが増していた。
今日は「昭和の日」(旧「みどりの日」)で祭日だが、いまだにこの名称には馴染めず、昭和天皇の「天皇誕生日」の方がしっくりくる。
昭和天皇は在位が長く、戦前の1926年(大正15年=昭和元年)12月25日に父の大正天皇が崩御されてすぐに践祚されてから、1989年(昭和64年=平成元年)1月7日に崩御されるまでの62年間であった。
その62年のうち、戦前が20年、そして戦後が42年。戦後の42年だけでも明治以降の一世一元制度では、明治天皇の45年に次いで長い。
昭和天皇は太平洋戦争の終戦前までは、「大日本帝国」の神聖にして侵すべからざる天皇であった。しかも陸海軍の元帥でもあり、かつ皇室祭祀の実行者という面も持たれており、多面的であった。
終戦後は「大日本帝国」は崩壊し、それとともに米軍を主力とする連合国軍の占領下に置かれ、陸海軍の元帥の地位は解任され、神聖にして侵すべからずという地位すら、占領軍の軍政下では危うくなった。
しかし天皇自らがGHQのマッカーサー総司令官を訪ねた時に、「わが身はどうなってもよいから国民を助けてくれ」という懇願に接したマッカーサーは、自分の命乞いに来たとばかり思っていた昭和天皇のその言葉に唖然とし、ついに天皇を処罰することはなかった。
国民の天皇に対する敬愛がすこぶる強く、天皇を処罰したらそれこそ各地で占領軍に対する反乱がおきるだろうとGHQは思わざるを得なかった。
その結果、天皇制は温存され、なおかつ天皇制の淵源のひとつである伊勢神宮祭祀も廃止されることはなかったのである。
戦後のGHQは数々の占領政策において「日本人の骨抜き」を施行したのだが、皇室と皇室祭祀に手を付けることはなく、今でもラッキーだったと思われてならない。(※ただし、宮家は廃止され、一般国民と同等扱いされるようになった。現在の皇室の「後継者不足」はそこに原因があるという考えも成り立つ。)
ともあれ戦前の白馬に乗った元帥姿の昭和天皇と、戦後、全国各地を巡回して回るあの中折れ帽子スタイルの昭和天皇とでは「月とスッポンの違い」があり、多量の写真が無かったら、誰も同じ人物だとは思わないだろう。
GHQが昭和天皇を廃止して全くの別人を担ぎだしたとしても、証拠写真が無ければそれで通用したかもしれないくらい、戦前の天皇と戦後の天皇の姿には違いがあり過ぎた。
しかし戦後の「象徴天皇」こそが本来の天皇の姿に近く、戦前の軍服姿の天皇の方が長い歴史の天皇制の下では異常だったのである。「帝国主義」が世界を覆っていた時代相の下ではそれも仕方がなかったかもしれないが、今や帝国主義の象徴である「植民地主義」は過去のものとなり、世界は基本的には自由と民主主義によって繫栄し、発展して来た。
そういう戦後の時代相の下で、日本の天皇制度はそれなりにうまく機能して来たのだが、今再び世界が専制主義のロシア・中国と民主主義諸国との間の葛藤にさいなまされるようになって来た。
といって、昭和天皇が戦前の20年間で経験し尽くした労苦を再び味わいたくはない。平和に徹し、必死になって働いていた戦後の昭和時代が懐かしく思い出される。
<降る雪や 明治は 遠くなりにけり>
と詠んだのは中村草田男で、昭和6年の冬に実感したのが元になっている。
自分は <春雷や 昭和も 遠くなりにけり>
という心境である。