鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

世界遺産、相次いで登録

2021-07-29 09:05:12 | 古日向の謎
ユネスコの世界遺産委員会は、26日に鹿児島県と沖縄県にまたがる「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」を世界自然遺産に、27日には「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道と東北北部三県)を世界文化遺産に認定した。

これで鹿児島では自然遺産が二か所(他に屋久島)と文化遺産が一か所(明治日本の産業革命遺産)の三か所となった。他の県との重複はあるものの、一県で三か所あるのは珍しい。(※三件抱えているのは他に奈良県と岩手県があるが、この二県は文化遺産のみである。)

内訳は自然遺産が2件、文化遺産が1件である。しかし、以前にもブログで触れているが、今度、文化遺産に決まった北海道・北東北の縄文遺跡群より遺構も遺物も多量にあり、かつ年代も明確な、「鹿児島の縄文早期遺跡群」も認定して欲しいものだ。

鹿児島は黒潮という暖流の影響で、最終氷期の真っただ中(15,000年前)でも人の居住に耐えられる気候が覆っており、あまつさえ火山活動が温泉や地熱の恵みを与えてくれたので古縄文人が住むには適していた。(※古縄文人というのは私の造語で、「縄文早期以前の縄文人」のことである。)

最終氷期が終わる12000年前になると古縄文人の活動はさらに活発になり、漁労採集と言われる中でも彼らは漁労に長けていた。この当時の丸木舟の発掘は無いが、石製の「丸のみ」が出土しているので大木を成形する技術はあったし、ほどなくして採集した物を蓄えたり、煮炊きに使う秀麗な「貝殻文土器」が作られるようになった。

 【古日向に多い「縄文の壺」の謎】

旧国分市の「上野原遺跡」はそれらを余すところなく伝えており、中でも7500年前の「縄文の壺」は世界最古の現存する壺である。

実は縄文の壺(展示では「壺型土器」とされている)は、鹿児島県内のみならず宮崎県内でもかなりの数が出ており、それらの土器が最初に発掘された際は「弥生時代の壺」として処遇されていた。

ところが、約25年前に上野原遺跡で発掘された時、被っていた桜島由来の火山灰層の年代によって7500年前に埋められたことが判明したので、他の地域で発掘された壺型土器も晴れて「縄文の壺」と認定されたのである。

年代が一気に5000年もさかのぼるという、世にも稀な比定年代の変更であった。

この変更の度合いの余りの大きさは、これまでの発掘物の常識を全く覆すものなので、いまだに考古学では正当な市民権を得ていないようだ。

先年、久しぶりに東京に行った時、時間があったので上野公園の国立博物館を見学したのだが、上野原のこの突拍子もない遺跡の展示や解説が無くてがっかりしたことを記憶している。

おそらく考古学者のこれまでの常識が「縄文文化は北方系の文化で、縄文時代は関東東北が先進地であった」から、南九州で年代的にも遺構・遺物的にも、それらを上回る遺跡が発掘されたとしても、「常識」を変えようとはしないのだろう。

惜しむらくは鹿児島及び宮崎にまたがる一帯(古日向)は、7500年前の「鬼界カルデラ大噴火」による火砕流と火山灰によって壊滅的な打撃を受けたので、壺型土器や秀麗な貝殻文土器を作った古縄文人が四散したことである。鬼界カルデラの大噴火が無ければ、一帯の縄文早期文化はそのまま継続していて、南九州(古日向)こそが縄文文化の発祥地とされていたに違いない。

考古学者の縄文文化北方起源説によれば、土器の起源は大陸のシベリアあたりだろうというのだが、肝心のシベリアで12000年前を溯る土器が発見されたのだろうか。第一に、その時代は最終氷期が終わったとはいえ、凍土のシベリアでは寒過ぎて人は住めなかったはずだ。

私は古縄文人(縄文早期以前の縄文人)のルーツは、中国大陸の大陸棚がまだ陸地であった寒冷期(15000年前)に、黒潮の洗う沿岸地域にすんでいた人々だと考えている。上で触れた自然遺産の「奄美、徳之島、沖縄島、西表島」が、まだ大陸と地続きの頃である。

鹿児島も黒潮の通り道であるが、さらに多くの火山の恩恵によって一層住み易かったのかもしれない。

その頃そこで話されていた言葉こそが「日本語」のルーツに繋がっているとも考えてみたい。

やっと梅雨明け本番

2021-07-27 09:10:52 | おおすみの風景
鹿児島で梅雨明け宣言が出されたのは7月11日で、5月11日の例年より2週間ほども早かった梅雨入りからまる2か月、ようやく明けたかと思ったのだが、その後もすっきりした夏空は無く、台風6号の余波で曇りがちの風の強い日々が続いた。

しかし今朝は朝日の昇る東の空が久しぶりに高く晴れ、青空が顔を見せた。

ウッドデッキに絡ませた朝顔が、今朝はかなり多目に咲いていたので、写真を撮ろうとデッキに出ると、途端にセミの鳴く声があちこちから聞こえて来た。クマゼミがほとんどのようだが、アブラゼミらしき声も交じっている。

昨日の夜、道路の街路灯に一匹のやや大きな虫が盛んに体当たりを繰り返し、その後地面に落ちたので「もしかしてカブトムシか」と近寄って見たのだが、なんとアブラゼミだった。今朝の鳴き声の主だったろうか。


デッキの手すりに絡んだ、というより、絡ませ過ぎた朝顔。去年種を取っておいたのを蒔いたのだが、ほとんどが白花だった。まるでユウガオの花のようだ。

〈朝顔に 手すり取られて・・・〉では、余りすっきりした感じがしないが、夏には欠かせないのが朝顔である。

庭の花では2か月前から咲いているホウセンカとポーチュランカ、ひと月前から咲き出したサルスベリ、そしてつい3,4日前からのテッポウユリ(高砂ユリ)などが彩っている。何にしても、快晴と高温こそは彼らの大好物でよくマッチしている。


同じように高温の中、汗だくの花が咲いているのが東京オリンピックだ。

高温でもカラッとしていればまだしも、日本の真夏は欧米人やアラブ人などからしたらまるで「サウナの中」らしい。

開会式前の女子ソフトボールの試合で対オーストラリア戦を見たが、今が冬のオーストラリア人からすれば耐え難いほどの暑さだったに違いない。早々と来日してこちらの気候に順応しようと努力したようだが、3本の2ランホームランを打たれ、5回コールド負けを喫していた。

彼らは、アメリカの利権まみれのテレビメディアによる勝手な日程のごり押しで、気候の良い秋にすれば何の問題もなかろうにわざわざサウナ並みにくそ暑い真夏の東京でやらされた被害者だろう。

今後も利権が主役の、今度のような夏季オリンピックになるのなら、もうご免だ。南半球の国でやればよいのだ。東京はじめ日本の都市は金輪際立候補しないことだ。

その代わり冬のオリンピックは何度でも立候補してよい。日本の雪質と量は世界でも定評があり、しかも多くは温泉地帯の中に在るという、これまた世界でも稀な存在感を持っている。

ただし簡素な運営を提供しなければなるまい、金まみれにならぬように。

倭人語(日本語)のルーツ

2021-07-25 08:58:05 | 邪馬台国関連
タイトルでは「倭人語」としたが、この名称は一般的には使われない。「倭語」としてもよいが、魏志倭人伝では「倭人」が多用されており、それに沿ったネーミングにしてみた。

【魏志倭人伝から見た倭人語と、朝鮮半島南部の韓語】

魏志倭人伝には当時の倭人の言葉が散見される。

まずは「倭」。これは「ワ」と読む。倭人が自分のことを指してそう言ったのを、中国史官である陳寿が「倭」という漢字を当てたのだろう。これは今日でも十分に理解できる言葉(一人称)である。

他には「卑狗」(ヒク)、「卑奴母離」(ヒナモリ)が登場するが、これらは「彦」「夷守」と書けば、今日でも十分理解できる。

倭人の国々の名も倭人語の宝庫である。「対馬(ツイマ)」はそのまま今日の対馬であり、「一支(イキ)」も今日の壱岐である。「末盧(マツロ)」(松浦=唐津を含む)、「伊都(イツ)」(厳木)など、今日の地名を髣髴させるに十分だ。

「邪馬台(ヤマタイ)」を私は「アマツヒツギ」のことと考えており、中国史官が語頭の「ア」音に「Y」を添加して「ヤマ」となり、さらに「ツヒツギ」は略音化によって「タイ」となったとする。「アマツヒツギ」とは「天から由来の」という意味である。女王卑弥呼は天の声(具体的に言えば天照大神の神託)を聞くことができたのだろう。

邪馬台国連盟に属する「斯馬(シマ)」「伊邪(イヤ)」「都支(トキ)」「彌奴(ミナ)」など21の国々も、存在した場所については詳しくは分からないのだが、国名の多くは今日の日本語音に非常に近い。

邪馬台国連盟以外では「狗奴国」と「投馬国」が挙げられる。

「狗奴国」は「熊国」としてよく、今日の熊本県域に比定される。男王がいて倭人伝では「卑弥弓呼(ヒミココ)」とするが、これは「卑弓弥呼(ヒコミコ)」の誤記だろう。彦御子のことで、卑弥呼の「姫御子」と対を為す。また狗奴国の「官」に「狗古智卑狗(クコチヒコ)」がいると書くが、これは「菊池彦」のことに違いない。菊池は熊本県の北東部、菊池川流域に位置している。

また、「投馬国」は「ソツマ国」の「ソ」の脱落した当て漢字で、中国史官(記録者)が「ツ」という音の強勢に押されて書き落としたものと考えられる。この「ソツマ」の「ツ」は「~の」という助詞であり、「ソのマ」とは「マ」が場所や地域(国)のことであるから、「ソの国」となる。要するに「曽(襲)の国」であり、南九州人は自分の領域を「曽の国」すなわち「ソツマ」と呼んでいた。

魏志倭人伝に登場するこういった国名や地名・人名・官名は2世紀から3世紀の倭人たちの言葉であるが、多くは現代日本語でも何とか理解できる。もちろん倭人自身による書き言葉ではなく、その当時の中国史官の漢字による表記であるから、意味を取るうえで「隔靴掻痒の感」は免れないのだが、倭人の言語が今日の日本語と同族であることは証明されたと言ってよい。

ただ、いま「隔靴掻痒の感」と書いたが、倭人伝には以上のように当時の倭人語が数多く出て来るのだが、最も知りたい「文語(文章語)」は出てこないのである。例えば、魏の使いが帯方郡から末盧国に上陸し、道順を訪ねたら「ここからは・・・」というような倭人自身の話や、邪馬台国に到着して卑弥呼が挨拶に出て来てこう言っていたとかいうような、ある程度まとまった文章言葉は全く無いのである。

その点が非常に残念なのだが、しかし魏志では、倭人条の一つ前に書かれている「韓の条」に、やや文章に近い長い「称号」が残されている。それを紹介しよう。

韓の条を魏志倭人伝に倣って「魏志韓伝」とするが、魏志韓伝には「馬韓」「弁韓」「辰韓」という三韓が、今の韓国に相当する地域に展開していたのだが、馬韓の中の一国「月支(ツキシ・ツクシ)国」を統治している辰王(辰韓の王)のことを、現地の首長層たちが次のように呼びならわしているというのである。

 〈 臣雲遣支報、安邪踧支、濆臣離児、不例、狗邪、秦、支廉 之号 〉
 読み〈 シウクシフ、アヤシキ、ヒジリニ、フレ、クヤ、シン、シレ の号(称号)〉

本文には読点は無いのだが、意味を取りやすくするために入れてある。この「号」つまり「称号」もしくは「尊称」の意味は次のようだと考えている。

〈 辰王(臣雲)は偉大な奇し日(遣支報)、妙なる(安邪踧支)聖に(濆臣離児)降り(不例)、狗邪、秦(を)知る(お方=大王)〉

となるが、直訳過ぎるので以下のように補って訳してみると、

「辰韓を治めていた辰王は偉大な王、類い稀れな聖(ひじり=日知り)として降臨され、弁韓と辰(秦)韓を知ろしめす」大王

となる。

秦王朝が成立する時の混乱のさなかに、逃れて来た衛満によって半島の中央を治めていた辰王は駆逐されて、南の馬韓に入り、国を与えられたが、その国を「月支国」といった。そこからさらに東南に国を拓いて辰(秦)韓12国を統治し、さらに弁韓(狗邪)12国も派生した。

それらの史的経過をこの称号は凝縮しているのだが、ここで注目したいのが、「不例(フレ)」と「支廉(シレ)」である。これはどちらも動詞であるから、この称号は一文を形成している。主語は勿論「辰王」である。

この一文は、漢字をうまく万葉仮名風に当てて当時の「三韓」において話されていた言葉を写し取ったもので、非常に貴重な一文である。漢字を当てたのはおそらく中国史官だったろうが、見事に今日のいわゆる「アルタイ語」に属するとされる朝鮮語が2~3世紀にまでさかのぼれることを示している。

同じアルタイ語に属するとされる日本(倭人)語の話し言葉も、当時はこのような語順では使われていたと想像がつく。三韓の言語は倭人語とほぼ重なると言ってよい。三韓の国々の名も、上に紹介した倭人国家群の名に近似していることからもそのことが言える。

【倭人語(日本語)と韓語(朝鮮語)の共通語は?】

倭人の言葉と半島南部の韓の言葉は、言語学的には「アルタイ語」という北方アジアの言語を祖語(共通語)として生まれたという。

しかし、その「アルタイ語」が語源とされる日本語の根幹がアルタイ語と言い切れない、とされているのだ。『日本語の起源』(村山七郎・大林太良著=1973年刊 弘文堂)では、日本語も朝鮮語もウラル・アルタイ語に属するとしながら、そうは言い切れないとする(同書75ページ)。

そして日本語には「南島語的な要素が少なくない」(同書75ページ)ともいう。

ウラル・アルタイ語に属するトルコ語やモンゴル語などを例示して、日本語がいかにアルタイ語的かということを散々述べて来て、今度は南方的な要素も否定できない――というのである。

たしかに日本列島は朝鮮半島を通じてアジアの北方的な影響を受けているのは間違いない。そして黒潮ルートを通じて南からの影響も強かったであろうことは想像に難くない。

上記の『日本語の起源』ではこれが正解という結論は出していないが、おおむね日本列島では南島的な言語が基層としてあったところに、弥生時代以降、朝鮮半島経由で北方アジアのアルタイ系言語が流入して倭人(日本)語になったとしている。しかし南島語の基層よりもさらに古い縄文語のような存在があり得るのではないか、とも提起している。(同書226~7ページ)

実は邪馬台国論争でおなじみの安本美典氏は、言語学にも精通しており、氏が提示する日本語と朝鮮語のルーツとして「古極東アジア語」があったことを推論している。そこから5000年くらい前に日本語と朝鮮語は分裂して独自の発展を遂げたと考えている。

『日本語の起源』でも安本氏の「古極東アジア語」を取り上げているが、言語学的な捉え方としては物足りない、という風に言っている。

しかし私はこちらに与したいのである。

ただ、5000年前に存在した「古極東アジア語」がどこにあったのか、それがどのようにして列島や半島に広がったのかについては考慮されていない。

ここで私は次のように考える。

「古極東アジア語」の発祥の地は、今は海底にある中国大陸の大陸棚ではないか、と。

もちろん海の中に人が住み、そこで言語が生まれたわけではない。まだ大陸棚が陸地だった頃である。最後の氷河期(ヴェルム氷河期)が終わる約15000年前まで、中国大陸から張り出していた陸地は沖縄諸島の近くまで広がっていた。寒冷期のほとぼりはまだ覚めず、寒かった内陸に比べると、海岸地帯は比較的温暖で暮らしやすかった。(※与那国島の海底遺跡はこの頃の遺跡ではないかと思う>)

この温暖で海産物も豊富な海岸地帯で生まれて発展したのが「古極東アジア語」ではなかっただろうか。その範囲は南西諸島や九州島から四国南部に及んでいたと思われる。鹿児島の縄文時代でいえば、7500年前の縄文早期まではそれが使用されていたのだろう。だから別言すれば、「古極東アジア語」とは「古縄文語」と言えるのではないか。

しかし最終氷期が徐々に終わるにつれ、大陸棚はどんどん縮小して行った。当然そこに暮らしていた「古極東人」は四散して行った。その四散の先が北方アジアであったり、中国大陸の中だったり、南島だったりした。そしてこれにさらに追い打ちをかけたのが、7500年前に起きた鹿児島の縄文早期文明を壊滅させた「鬼界カルデラ」の大噴火だった。(※中国浙江省の河姆渡遺跡はこの時代の遺跡と思われる。)

同じ鹿児島でも北西部の一帯はカルデラ噴火の直接の被害は軽微だったが、やはり定住は難しい状況だったから、人々は九州の西海岸伝いに逃れて行ったであろう。その避難先に、北部九州はもとより朝鮮半島があったと考えても無謀ではあるまい。九州島と朝鮮半島との交流は思いのほか相当に古いと考えてよいだろう。

いずれにしても、古縄文語(古極東アジア語)は後の倭人語に繋がり、同時にまた韓語(のちの朝鮮語)に繋がっていたのである。

また日本語に南島語系の身体語などが数多く見えるのは、かつて大陸棚文化圏(仮称)が繫栄しており、それが大規模な海進によって定住地を失って移動した南島語族系の古族がいたことを物語ると思われるのだが、それが縄文人につながるのかどうかは今のところ不明である。


観客動員は茨城県を見習うべし

2021-07-24 09:33:49 | 日本の時事風景
昨夜、ついに2020東京オリンピックが開会式を迎えた。

大会関係者と報道陣以外は中に入れない「無観客開催」であった。

それでも選手団の入場が始まると、オリンピックらしい華やいだ雰囲気が一気に溢れ出ていた。多色のプロジェクションを駆使した演出も素晴らしかった。

天皇陛下の開会宣言では時下の新型コロナ感染拡大を鑑みて「お祝いする」ではなく「記念する」と変えられていたというが、やはり「セレブレイト(celebrate)」が使われていたようだ。まあ、何にしても、皇居での各国要人を迎えての面会では、式典も飲食も何もなかったわけだから、陛下の感染下で(無理矢理に)開催するこのオリンピックへのお気持ちは十分に伝わっただろう。

21日から競技はすでに始まっており、福島の球場では女子ソフトボールの試合(予選リーグ)が行われ、上野投手が率いる日本チームは対オーストラリア戦では5回コールドで勝利し、翌日の対メキシコ戦では延長8回裏にサヨナラ勝ちをした。どちらの試合でも上野選手が降板したあとを20歳の後藤投手が見事なピッチングで三振の山を築いていたが、これからが楽しみな選手である。

また、22日の夜は男子サッカー4か国ごとの予選リーグで、日本は南アフリカと戦ったが、南アフリカの徹底した防御作戦に苦しみ、8回目のシュートだったか、新鋭でこれまた20歳の久保が、ようやく、ゴールに技ありの一発を決めて辛勝した。

どちらも無観客だった会場は、確かに全く盛り上がりに欠けていた。しかしここはイギリスではない。

イギリスでは、つい最近コロナ感染規制が解除され、6万とかいう通常の観衆を集めたサッカー大会が開かれたが、その一方で国内感染者数が1日に3万とか4万とか計上された中での試合である。ほとんどの観客はマスクもつけず、酒も飲んで騒いでいたが、正気の沙汰とは思えない。

ただ、無観客というのは大観衆の声援に慣れたスポーツ選手にとって、気の抜けた話には違いない。特にサポーター頼みのサッカー選手の中には不満を漏らす者があると聞く。

そこで見習いたいのが、茨城県の観客動員対応だ。茨城県では県内の鹿島サッカースタジアムで男女合わせて11試合が行われるそうだが、一般観客を入れない代わりに、学校の生徒を「見学?」者として動員するという。

県内の小中高各学校に試合の日程に合わせて「見学?」を要請するのだろうが、その際サッカー部員だけなのか、それとも、生徒なら誰でも動員されるのか、細かいことは分からないのだが、夏休みでもあることだし、実に名案ではないか。

菅首相も言っていたように、オリンピック競技を間近に生で見ることができれば、その感動は一生ものだろう。まして自分のあこがれの選手がそこにいて汗を流しながらプレーをしていたなら、感動は宝物に変わるだろう。

プレーをする選手にとっても、我が弟や妹くらいの生徒たちの応援は、大いに励みになるはずだ。

いまからでも遅くないから、他の競技場を抱える自治体が、独自に学校生徒の動員を図ったらよい。この際、政府や組織委員会が旗を振る必要はない。地方の(地元の)学校の状況は何より当該自治体がよく把握しているわけから、それぞれに任せればよい。

オリンピックがだめなら、せめて、今回は中止にならなかった夏の高校野球甲子園大会ではそうして欲しいものだ。

最低でも出場する学校生徒の保護者や家族は観客として受け入れ、さらに近隣(関西圏=日帰り圏)の小中高生を動員できないか。もちろん拍手だけの応援、三密の回避など感染予防対策は徹底しての話だが、甲子園での開会式は8月9日だから、今から準備すれば可能な計画だろう。

去年は早々と中止を打ち出し、世の球児たちを泣かせた高野連の汚名挽回にもなるはずだ。



「自立への不安」とは

2021-07-21 14:52:50 | 母性
先日の南日本新聞の『論点』「社会的養護に医療の支援を」(著者:上薗昭二郎氏)は人としての自立をめぐって、私の肺腑に響くものだった。

氏はこう書いている。

〈私は特に自立に関する不安は、子どもを最大の精神的危機状態に陥らせることがあると感じている。いくら言葉で、「私たちはずっとあなたを見守るよ」と伝えても、得体のしれない不安感が、子どもを襲っているようにみえるのである。〉

〈(中略)自立は、子どもの発達に必要な愛着と基本的信頼感の確立抜きに語ることはできない。愛着は、子どもからの一方的な寄りかかりではなく、大人との相互の関係の中にしかない。それは、「あなたに出会えて良かった」と相互に感じ合えることに他ならない。この関係を抜きにして、穏やかに子どもたちと暮らし、彼らを自立へと導いていくことはできないのである。〉

上薗氏は某「子どもの家」を主宰され、親から虐待されたりしてそこに身を寄せる子どもたちを保護・養護して以上の考え方に到達されたのだが、誠に鋭い指摘と言わなければならない。

同時にまた、一般家庭においても肝に命じなくてはならない親子関係の要諦を示しておられる。

思うに、子どもの自立には3つの段階がある。

肉体的自立、精神的自立、そして社会的自立、である。

①肉体的自立・・・これは母胎から生れ落ちれば、いやおうなしに自立を果たす。それまで10か月間、まさに「同体」だったのが、出産によって母と子に分離する。つまり母子といえども「他人同士」になるわけである。

映画「男はつらいよ」で、寅さんが、寅さんを慕い一緒にテキヤ稼業に連れて行ってくれと頼むのぼるに、「馬鹿を言うな。お前と俺とは所詮他人じゃねえか。例えば、俺が芋を喰ったらお前が屁をするか? しないだろ。それ見ろ、だから俺とお前とは他人だ。とっとと故郷へ帰れ!」と捨て台詞を吐く場面があるが、母と乳飲み子も同じだ。母親が好きな芋をどれだけ食べても、子が芋の屁をすることはない。(※ついこの間久しぶりに鑑賞した「男はつらいよ」第一話の最大の見せ場を思い出してしまった・・・。)

②精神的自立・・・乳飲み子で生まれた子は、当初は乳で、一年ほど経つと離乳食で、そして言葉でも何でも母親や外部からの働きかけで修得し、徐々に行動及び精神領域を広げていく。

人が最も成長して行くのが幼少年期で、この期間の長さは他の哺乳動物をはるかにしのぐ。この間は家庭や近隣、学校などで人間特有の成長を果たし、産み育ての環境から次第に離脱して行く。

③社会的自立・・・これが人としての自立の目標である。社会に出て人との交わりの中で、自分らしさを否定せずに他者ともつながりながら、社会生活に自分の居場所を見つけ出す。必ずしも安穏な居場所ではないかもしれないが、他者に寄り添い、時に寄り添われながら人生軌道を修正しつつ暮らしていけるようになる。

以上が自分の考える3段階の自立だが、上薗氏の預かっている子どもたちは、最後の社会的自立の前に「最大の精神的危機状態」に陥ることが多いようである。①の肉体的自立は生れ落ちる以上、誰でも平等に持つのだが、問題は②の精神的自立が果たせていないケースが多いということである。

両親が不仲で喧嘩が絶えなかったり、ちょっとしたことで殴られたり、罵倒されたり、そういった家庭環境で育った子どもは、よく言われるように「承認の欲求が満たされないので、自己肯定感が弱い」上に、本来なら親から見習うべき礼儀作法なども身に付いていない。

特に自己肯定感は精神的自立へのパスポートである。

「僕(私)のような人間を誰が認めてくれるのか。親でさえ認めてくれなかったんだ・・・」――このような自己否定感情が先に立ち、社会に出て自立など思いもよらないのだ。それが「自立への不安」の中身だろう。たとえ高学歴でも、自己肯定感というパスポートが無ければ、結果として社会的自立は果たせない。


【追記】

以上のように書いて来た私自身も「自立への不安」に苛まされた一人である。

その拠って来るところは、一言でいえば「母親不在」で、母親がいなかったわけでも、長らく病気で入院していたというわけでもない。それどころか十分に元気な人であった。

核家族で子供が四人の6人家族だが、両親ともに教員の共働きだった。(※住み込みの家政婦を雇い、家事などをこなしていたので、正確には7人暮らしである。)

母の勤務先は我が家から歩いて行けるくらい近かったのだが、それでも子供が学校に行くときにはすでに出勤しており、我々兄弟は一度たりと「行ってらっしゃい。忘れ物はないね」と言ってもらったことはなく、また下校して我が家に帰っても「お帰り。おやつがあるよ」などと、これも一度もなかった。

極め付けは、入学式にも卒業式にも参列してもらったことがなかったことだ。母の勤務先の学校は同じ区内にある学校なので、入学式も卒業式も兄弟の通学先と同じ日に行われるからである。(※母が学校の事務職員だったら担任を持たないので、当日、或いは休みが取れたかのもしれないが。)

学校参観にも顔は出さず、午後から雨が降って来たなどという場合でも、校門で傘を持って待っていてくれるなんてこともなかった。

運動会や学芸会も同じ区内の学校では同じ日に行われることが多い。たまたま違う日になったこともあったとは思うが、母を運動場や講堂(当時はホールというような施設はなく講堂で学芸会や各種の式典が行われた)で見たことはなかった。

おしなべて「ないない尽くし」の母子関係であった。そこには寄り添ってくれる母の姿はなかった。教員だから夏休みがあっただろうと言われそうだが、それは大人の考え方で、子どもにとっては毎日の継続的な母子関係こそが精神的には重要なのである。

保護されて養護施設に入る子供たちの多くは、親からの暴力(体罰)や育児放棄による生存への脅威といった「ハードな虐待」が原因だと思うが、我が家の場合は「育児や保護に放棄傾向のあるソフトな虐待」と言えるかもしれない。

こうして育つと、ハードな虐待と同じようにやはり「承認への欲求」が満たされず、「自己肯定感」の薄い性格に陥ってしまう。それによって人生本来の目的である社会的な自立も、阻害されてしまう。これが私の「自立への不安」の大きな要因であった。

四人兄弟のうちの末子である弟は、中学2年の時に「不登校」に陥り、心療内科の診察を受けたりしながら、紆余曲折の末、20歳までに定時制高校を卒業したのだが、「社会的な自立」の前提である「精神的自立」さえ果たすことなく、精神病院で不帰の客となってしまった。

不登校を始めた時に、母が我が家の専業主婦になって弟に寄り添えば、まだ中学生だったわけだから、立ち直りの機会はいくらでも作れたはずで、歴史に「if」は許されぬというが、返す返すも残念であった。私を含む他の兄弟の社会的自立にも、必ずや良い影響を与えたに違いない。

今どきは「母親にばかり責任を押し付けるな」との声が強いのだが、やはり母親は我が子を産んだ以上、寄り添うことが本分である。いかにAI化が進んでも、子産みロボットや子育てロボットはできない。何兆円積んでも母親は作れないし、子どもも生まれないのだ。母親の存在の大きさがこれで分かろうというものだ。

子どもの成長は待ったなし。母親よ子どもに寄り添ってくれ。