ユネスコの世界遺産委員会は、26日に鹿児島県と沖縄県にまたがる「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」を世界自然遺産に、27日には「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道と東北北部三県)を世界文化遺産に認定した。
これで鹿児島では自然遺産が二か所(他に屋久島)と文化遺産が一か所(明治日本の産業革命遺産)の三か所となった。他の県との重複はあるものの、一県で三か所あるのは珍しい。(※三件抱えているのは他に奈良県と岩手県があるが、この二県は文化遺産のみである。)
内訳は自然遺産が2件、文化遺産が1件である。しかし、以前にもブログで触れているが、今度、文化遺産に決まった北海道・北東北の縄文遺跡群より遺構も遺物も多量にあり、かつ年代も明確な、「鹿児島の縄文早期遺跡群」も認定して欲しいものだ。
鹿児島は黒潮という暖流の影響で、最終氷期の真っただ中(15,000年前)でも人の居住に耐えられる気候が覆っており、あまつさえ火山活動が温泉や地熱の恵みを与えてくれたので古縄文人が住むには適していた。(※古縄文人というのは私の造語で、「縄文早期以前の縄文人」のことである。)
最終氷期が終わる12000年前になると古縄文人の活動はさらに活発になり、漁労採集と言われる中でも彼らは漁労に長けていた。この当時の丸木舟の発掘は無いが、石製の「丸のみ」が出土しているので大木を成形する技術はあったし、ほどなくして採集した物を蓄えたり、煮炊きに使う秀麗な「貝殻文土器」が作られるようになった。
【古日向に多い「縄文の壺」の謎】
旧国分市の「上野原遺跡」はそれらを余すところなく伝えており、中でも7500年前の「縄文の壺」は世界最古の現存する壺である。
実は縄文の壺(展示では「壺型土器」とされている)は、鹿児島県内のみならず宮崎県内でもかなりの数が出ており、それらの土器が最初に発掘された際は「弥生時代の壺」として処遇されていた。
ところが、約25年前に上野原遺跡で発掘された時、被っていた桜島由来の火山灰層の年代によって7500年前に埋められたことが判明したので、他の地域で発掘された壺型土器も晴れて「縄文の壺」と認定されたのである。
年代が一気に5000年もさかのぼるという、世にも稀な比定年代の変更であった。
この変更の度合いの余りの大きさは、これまでの発掘物の常識を全く覆すものなので、いまだに考古学では正当な市民権を得ていないようだ。
先年、久しぶりに東京に行った時、時間があったので上野公園の国立博物館を見学したのだが、上野原のこの突拍子もない遺跡の展示や解説が無くてがっかりしたことを記憶している。
おそらく考古学者のこれまでの常識が「縄文文化は北方系の文化で、縄文時代は関東東北が先進地であった」から、南九州で年代的にも遺構・遺物的にも、それらを上回る遺跡が発掘されたとしても、「常識」を変えようとはしないのだろう。
惜しむらくは鹿児島及び宮崎にまたがる一帯(古日向)は、7500年前の「鬼界カルデラ大噴火」による火砕流と火山灰によって壊滅的な打撃を受けたので、壺型土器や秀麗な貝殻文土器を作った古縄文人が四散したことである。鬼界カルデラの大噴火が無ければ、一帯の縄文早期文化はそのまま継続していて、南九州(古日向)こそが縄文文化の発祥地とされていたに違いない。
考古学者の縄文文化北方起源説によれば、土器の起源は大陸のシベリアあたりだろうというのだが、肝心のシベリアで12000年前を溯る土器が発見されたのだろうか。第一に、その時代は最終氷期が終わったとはいえ、凍土のシベリアでは寒過ぎて人は住めなかったはずだ。
私は古縄文人(縄文早期以前の縄文人)のルーツは、中国大陸の大陸棚がまだ陸地であった寒冷期(15000年前)に、黒潮の洗う沿岸地域にすんでいた人々だと考えている。上で触れた自然遺産の「奄美、徳之島、沖縄島、西表島」が、まだ大陸と地続きの頃である。
鹿児島も黒潮の通り道であるが、さらに多くの火山の恩恵によって一層住み易かったのかもしれない。
その頃そこで話されていた言葉こそが「日本語」のルーツに繋がっているとも考えてみたい。
これで鹿児島では自然遺産が二か所(他に屋久島)と文化遺産が一か所(明治日本の産業革命遺産)の三か所となった。他の県との重複はあるものの、一県で三か所あるのは珍しい。(※三件抱えているのは他に奈良県と岩手県があるが、この二県は文化遺産のみである。)
内訳は自然遺産が2件、文化遺産が1件である。しかし、以前にもブログで触れているが、今度、文化遺産に決まった北海道・北東北の縄文遺跡群より遺構も遺物も多量にあり、かつ年代も明確な、「鹿児島の縄文早期遺跡群」も認定して欲しいものだ。
鹿児島は黒潮という暖流の影響で、最終氷期の真っただ中(15,000年前)でも人の居住に耐えられる気候が覆っており、あまつさえ火山活動が温泉や地熱の恵みを与えてくれたので古縄文人が住むには適していた。(※古縄文人というのは私の造語で、「縄文早期以前の縄文人」のことである。)
最終氷期が終わる12000年前になると古縄文人の活動はさらに活発になり、漁労採集と言われる中でも彼らは漁労に長けていた。この当時の丸木舟の発掘は無いが、石製の「丸のみ」が出土しているので大木を成形する技術はあったし、ほどなくして採集した物を蓄えたり、煮炊きに使う秀麗な「貝殻文土器」が作られるようになった。
【古日向に多い「縄文の壺」の謎】
旧国分市の「上野原遺跡」はそれらを余すところなく伝えており、中でも7500年前の「縄文の壺」は世界最古の現存する壺である。
実は縄文の壺(展示では「壺型土器」とされている)は、鹿児島県内のみならず宮崎県内でもかなりの数が出ており、それらの土器が最初に発掘された際は「弥生時代の壺」として処遇されていた。
ところが、約25年前に上野原遺跡で発掘された時、被っていた桜島由来の火山灰層の年代によって7500年前に埋められたことが判明したので、他の地域で発掘された壺型土器も晴れて「縄文の壺」と認定されたのである。
年代が一気に5000年もさかのぼるという、世にも稀な比定年代の変更であった。
この変更の度合いの余りの大きさは、これまでの発掘物の常識を全く覆すものなので、いまだに考古学では正当な市民権を得ていないようだ。
先年、久しぶりに東京に行った時、時間があったので上野公園の国立博物館を見学したのだが、上野原のこの突拍子もない遺跡の展示や解説が無くてがっかりしたことを記憶している。
おそらく考古学者のこれまでの常識が「縄文文化は北方系の文化で、縄文時代は関東東北が先進地であった」から、南九州で年代的にも遺構・遺物的にも、それらを上回る遺跡が発掘されたとしても、「常識」を変えようとはしないのだろう。
惜しむらくは鹿児島及び宮崎にまたがる一帯(古日向)は、7500年前の「鬼界カルデラ大噴火」による火砕流と火山灰によって壊滅的な打撃を受けたので、壺型土器や秀麗な貝殻文土器を作った古縄文人が四散したことである。鬼界カルデラの大噴火が無ければ、一帯の縄文早期文化はそのまま継続していて、南九州(古日向)こそが縄文文化の発祥地とされていたに違いない。
考古学者の縄文文化北方起源説によれば、土器の起源は大陸のシベリアあたりだろうというのだが、肝心のシベリアで12000年前を溯る土器が発見されたのだろうか。第一に、その時代は最終氷期が終わったとはいえ、凍土のシベリアでは寒過ぎて人は住めなかったはずだ。
私は古縄文人(縄文早期以前の縄文人)のルーツは、中国大陸の大陸棚がまだ陸地であった寒冷期(15000年前)に、黒潮の洗う沿岸地域にすんでいた人々だと考えている。上で触れた自然遺産の「奄美、徳之島、沖縄島、西表島」が、まだ大陸と地続きの頃である。
鹿児島も黒潮の通り道であるが、さらに多くの火山の恩恵によって一層住み易かったのかもしれない。
その頃そこで話されていた言葉こそが「日本語」のルーツに繋がっているとも考えてみたい。