鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

光明禅寺と光明寺跡(指宿)考③

2023-10-30 19:27:17 | 鹿児島古代史の謎

  <第4条>(志布志における天智天皇の事績)

『三国名勝図会』に記載された天智天皇の記事で、国分(現在は霧島市)の台明寺に産する「青葉竹」(青葉の笛の材料)の故事について、これは明らかに皇太子時代の九州朝倉宮に「対唐・新羅戦大本営」が置かれた時に九州各地を巡見し、兵力の募集を行った際に訪れた時のものだろうと推測される。

ところがこれから述べて行く志布志郷の天智天皇伝承はそれとは一線を画し、白村江の敗戦以後ののっぴきならぬ雰囲気を漂わせている。

指宿の田良浜に上陸した天智天皇が「風穴」の中で神楽を奏したという故事は、なぜ洞穴でそうしたのかに首を傾げるのだ。

天皇ともあろうものが、何故こともあろうに洞窟の中で神楽を奏上しなければならなかったのか。その姿は尋常とは言い難く、何かに知られないように隠れてそうっと洞窟の中で――という雰囲気である。何かに追われていたのだろうか。

その後天智天皇は首尾よく開聞岳の麓の「開聞神社」のある所まで行き着くことができて、かの大宮姫と再会した。

これで一件落着と行きたいところだが、天智天皇は都へ帰らなければならず、半年後に再び大隅半島の志布志港に戻って来た。

第4巻の末尾に記載された志布志郷の「御在所岳」の項に、その経緯が次のように書かれている。

<天皇頴娃(開聞)よりまた志布志に遷幸あり。白馬に跨りて毛無野を過ぎ、この嶽(岳)に登る。開聞岳を望み、遠く去るに忍びず、行宮を建てらる。且つ崩御後には廟をここに建つべしと詔し給ふ。この冬、志布志浜にて船に乗じて還幸したまふといへり。(中略)天皇崩御ののち、和銅元年(708年)6月18日、この嶽(岳)の絶頂に神廟を建て、一宮といい、また山宮大明神と称す。祭神一座、天智天皇是なり。>

【天智天皇は頴娃の開聞神社から都への帰路に就き、鹿児島湾を渡り、大隅半島を横断して志布志の浜に帰り着いた。

そして志布志の港から北東約15キロに位置する秀麗な「御在所岳」(530m)に登って、はるか南西の開聞岳を望んで大宮姫のことを偲んだという。

ところが大宮姫を偲んだだけでは済まず、自分が死んだ後はこの山に「御廟」を建てて欲しいとまで詔し、志布志の浜から帰路に就いた。

そして崩御後の和銅元年(708年)に「神廟」を創建し、山宮大明神と称した。】

以上が志布志郷に描かれた天智天皇の事績である。

最後に記された「山宮大明神」は山頂から遷御し、今日の山宮神社になっている。祭神はもちろん天智天皇だが、境内の大クスは鹿児島県でも指折りの大樹としてつとに著名である。

天智天皇が標高530mの御在所岳に登り、開聞岳の麓の大宮姫を偲んだという描写は切々と肺腑をゆするが、この大宮姫との別れが、今生の別れであり、また白村江の戦役で唐新羅軍に大敗したいわゆる「戦犯」として唐からの交渉団に捕縛される前の出来事であれば、なお一層胸を打つ。

私は天智天皇は結局唐の交渉団によってとらえられ、非業の死を遂げたと考えるのである。

その墓所が開聞神社の境内の中だったり、御在所岳の絶頂だったり、水鏡の記す山科の山中だったり様々でまったく明瞭を欠くのだが、いずれにしても天智天皇の廟(墓所)は見当たらない。

それもそのはずでどうも私は上述のように非業の死を遂げたとしか思えないのだ。

その証拠らしき記事がある。それは天武天皇前紀の672年3月条と20年も後の持統天皇の6年(692年)閏5月条の記事である。

前者の672年3月条の記事は前年(671年)の11月に2000名を率いてやって来て筑紫に滞在していた唐使・郭務悰のもとへ使者を遣わし、天皇天智が死んだことを伝えたら、郭務悰以下一行が「ことごとに喪服を着て」弔意を表したという記事である。

もう一つ後者の持統天皇6年(692年)閏5月条の記事は、「唐使・郭務悰が自ら造った阿弥陀象を筑紫から都へ上送せよ」という内容である。

671年の11月に2000人もの大部隊を連れて筑紫にやって来た郭務悰はそのまま筑紫に止め置かれていた。唐による占領拠点「筑紫都督府」が設置されていたのだろう。

日本書紀によると同じ12月に天智は亡くなっている(「天武天皇即位前紀12月条」)のだが、天皇が亡くなったのであれば最低でも死の場所(宮殿の名)、墓所(御廟)などが記されるのだが、全く見当たらない。

郭務悰ら唐使の大集団が筑紫に671年の11月に上陸し、天智はわずか1か月後の12月に死亡している。そして翌年の3月に朝廷から天智天皇の死の情報が届き、それを聞いた郭務悰らは喪服に着替えたという。

このことは次の憶測を生むに十分ではないか。

即ち、天智は筑紫(九州)の中でも南九州に逃れたが、ついに筑紫都督府の探索の網にかかり、志布志港から連行された。その行き先はもちろん筑紫都督府(今日の太宰府か)であり、戦犯の罪状を着せられて処断された(あるいは自害した)。

その後郭務悰らは朝廷から甲冑・弓矢・絹織物・木綿の布・綿など大量の品を与えられ、5月末日に帰国している(天武天皇元年3月条・5月条)。これらの品は戦時賠償であろう。

戦時賠償よりはるかに大きかったのが、白村江戦役における敗戦責任者つまり戦犯と化した天智天皇の捕縛と処断で、さすがの郭務悰も非業の死を遂げた天智の菩提をとむらうために「阿弥陀仏像」を造った。これが持統6年(692年)の記事につながっている。

阿弥陀仏は故人の来世での安楽をもたらすとされる仏で、そのくらいの仏教の素養は郭務悰自身、身につけていたと思われる。もちろん天智天皇の死後の安楽を願ってのものである。

持統天皇はそのような仏教に惹かれつつあった。郭務悰の阿弥陀仏を筑紫から送らせた同じ時に「筑紫大宰(つくしのおおみこともち=後の大宰帥)」である河内王に対して「沙門(僧)を大隅と阿多に遣わして、仏教を伝うべし」との詔を発している。

指宿市史の『三国名勝図会』引用の記述に、「指宿の正平山光明寺は定恵が開山で、その開基の年は文武天皇元年(697年)であった」(要旨)とあるうち、開基の年が697年なのは持統天皇が692年に「大隅・阿多(薩摩)に僧侶を派遣して仏教を伝えよ」という詔を出したという記事と年代的にはよく符合する。

だが「開山は藤原鎌足の子定恵(じょうゑ)である」とする記述はいかがなものか。『藤氏家伝』では定恵の死亡年を唐から帰朝した665年と同じ年だというのである。

もっとも『藤氏家伝』の定恵665年死亡説にも疑問を感じる。この年は前年の劉仁願の来朝に次ぐ第2陣の劉徳高の来朝であったのだが、その同じ使節船団の船に定恵が乗っていたのである。

この同船の意味するところを、私は在唐12年の長きにわたり仏教と中国語に精通していた定恵を敗戦後の倭国のトップに据えようとした唐側の思惑があったからだと考えるのだ。

したがって定恵は665年には死んではいない。『藤氏家伝』はそこのところを曖昧にしたかった。なぜなら中臣真人改め藤原定恵こそが持統の夫である天武(大海人皇子)その人だからである。

天武は天智の4人の皇女をすべて后妃および妃としているが、天武が天智と同じ母(斉明天皇)の子であったらこんなことはあり得ない。血筋(父系)の違う天皇が立った場合のみこのような事が起きている。定恵が藤原氏の血筋だからこそ前代の皇女をすべて入内させたのだろう。

天武が藤原定恵であればこそ、持統天皇が「藤原宮」造営を企画したのであり、天武を凌ぐ女帝として古代史に大きな足跡を残したのだろう。その裏には非業の死を遂げた父天智への哀惜と憧憬とがあったに違いない。

天武は即位後の記事に「天文・遁甲に能し(すぐれている)」とされているが、どちらも当時の大陸文化の華であったのだが、大海人皇子とされる皇子時代にそのようなものを学んだという記事は全くない。そのことよりそもそも大海人皇子としての事績もないのである。

これも天智つまり中大兄皇子と同母弟だったことを疑問視される原因であり、肝心の対唐・新羅戦争(白村江の戦役)への関与も見えない。天智や母の斉明天皇とともに朝倉大本営に行ったとも、飛鳥の都で留守を守っていたとも何の記事もないのである。まるで透明人間としての大海人皇子なのだ。

この不鮮明極まりない大海人皇子は仮称であり、実は藤原定恵(中臣真人)であったとすればつじつまが合う。

この定恵が指宿になぜやって来たのかは、明確な結論を出せないが、天智天皇が唐の占領政府である筑紫都督府に追われ、開聞方面への逃避行で力尽き、ついに南九州で捕らわれて非業の死を遂げたことと無縁ではないだろうとまでは言えよう。


光明禅寺と光明寺跡(指宿)考②

2023-10-29 13:45:05 | 鹿児島古代史の謎

①では指宿の光明禅寺(所在地南迫田。柳田公民館の奥)に関する故事、特に光明禅寺の前身である「光明寺」という寺院の開山が藤原鎌足の長子である「定恵(じょうゑ)」だったという指宿市史の記述に驚いたことから、実際に訪れてみた感想を記した。

指宿市史はかの薩摩藩幕末の地歴書『三国名勝図会』を引用している。

そこで『三国名勝図会』(熊本青潮社刊、全4巻)に当たって見ると、確かに第2巻の指宿郷の記述の中に「正平山光明寺」という項があり、「開山、定慧和尚、定慧は大織冠鎌足公の子なり。(中略)文武天皇元年三月朔日、当寺を建立し、十一面観音を安置す。」とある。

文武天皇は持統天皇の皇子・軽太子で、西暦697年に持統天皇の「生前譲位」により、天皇となった。

しかしこの光明寺の開基年の697年はそもそも定恵(定慧)が生存しておらず、定恵の開山は有り得ないと前回の①で指摘した。定恵の実家つまり鎌足から始まる藤原氏の「家伝」によれば、定恵は665年に唐から帰朝したその年に死んだことになっているのだ。

実家の「家伝」(系譜)の方を是とするのが順当な見方だろう。

ただこの地方に、いったい何でまた藤原鎌足の長子で唐に仏道を学びに行っていた定恵という人物が建立した寺があると記述されたのだろうか。

火の無いところに煙は立たない――という成句を採用すれば、この九州最南端の地方にそれらしき「火」がチロチロと燃えていたと考えるのもあながち荒唐無稽ということにはなるまい。

私は中臣鎌足に彼の死の直前に「藤原姓」と「大織冠」という臣下最高位の地位を授けた天智天皇その人の死の謎との関連を考えるのである。

天智天皇の死をめぐっては、明確な死の床の描写と年代(没年)と墓所が書かれていないことが以前から不審視されていた。

『水鏡』では天智天皇の死について山科での行方不明説が言われており、行方知れずなら確かに没年も墓所も書かれることはない。

その「行方知れず」後のことがもしかしたら書かれているのが『三国名勝図会』ではないかと、今回つぶさに調べてみた。

『三国名勝図会』は薩摩藩幕末における地歴書(地誌)であり、上梓を命令したのは薩摩藩第27代島津斎興(なりおき)で、それまでにあった地誌『薩藩名勝志』(白尾国柱著)では足りなかった寺院など仏教関係の項目を増加し、天保14年(1843年)に完成した。

薩摩藩の統治領域は鹿児島県の薩摩半島・大隅半島・宮崎県の南部および奄美の島嶼まで広範囲にわたるが、現在手元にある青潮社版では大冊の全4巻が充てられ、薩摩藩108の外城(とじょう)とも言われる諸郷それぞれの地誌や名所・旧跡・社寺・産物などが取り上げられている。

この4巻のほかに別冊1巻の索引が設けられているので、参照の便がすこぶる良いのが特徴である。

さてこの索引によると「天智天皇」という項目は何と65にわたる。鹿児島は古日向の地であり、天孫降臨の「日向三代」(二ニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズ)に割かれる項目が多いのは当然だが、皇孫の一代ではあるにしても天智天皇に割かれた項目の多さには改めて驚かされる。

これを見ただけでも天智天皇と南九州との関係を示す伝承のいかに多いかが推測される。

では青潮社版の『三国名勝図会』全4巻に見える天智天皇の記事の概略を述べて行こう。

 

 <第1巻>(序文から鹿児島城下~水引郷)

この巻では天智天皇の事績記述はなく、すべて天智天皇が祭られている神社が挙げられているだけで、一つ関連があるのは永吉郷の海上にある「久多島神社」の祭神が天智天皇の皇女だということである。

 <第2巻>

指宿郷の地誌があり、件の指宿郷の光明寺跡のことが記されている。

そして天智天皇自身の事績が初めてこの郷で記されるのだが、それは神社の項の最初に出て来る「開聞新宮九社大明神」のちの「指宿神社」の箇所である。

指宿神社が「開聞新宮」と呼ばれるのは、貞観16年(874年)に開聞岳が大噴火を起こし、開聞岳の麓にあった枚聞(開聞)神社が崩壊し、指宿に移転して新しく祭られたからである。

ここには葛城宮という摂社があって「葛城皇子」こと天智天皇が祭られているのだが、これは枚聞(開聞)神社にすでに祭られていたものであり、その経緯は枚聞神社の項に詳しく載せられている。

指宿には天智天皇が漂着したという伝承の地が存在する。

それは「多羅大明神」という神社で、魚見岳という田良浜にそそり立つ山の下にあり、「天智帝御臨幸の時、御船の着きたるところ」という。(※天智天皇がどこから来たかといえば、志布志からなのだがこれについては志布志郷の載る第4巻で詳述する。)

また同じ田良浜に面する魚見岳の崖下に「風穴洞」という洞穴があり、田良浜に着船した天皇がその穴の中で神楽を奏したという。

次に頴娃郷の開聞こそが天智天皇の南九州巡幸の目的地であった。

開聞神社の縁起(設立由来)によると、この開聞の地はホホデミが向かったとされる「竜宮」であったといい、竜宮の主・豊玉姫を祭っている。(※他にホホデミ・天照大神・猿田彦・国常立など)

この地に生まれた大宮姫は「鹿から生まれた神女」(鹿葦津姫=カアシツヒメ)といわれ、宮中に上がったが、「鹿葦津姫」を「鹿足津姫」(鹿の足の姫)と誤解されて里帰りした。しかし天智天皇の哀惜は止まず、ついに会いにやって来ることになった。

都からの旅中のことは不明だが、大隅の志布志湾に上陸し、大隅半島を横断して鹿児島湾を渡り、指宿の田良浜に辿り着いたのは、指宿郷の地誌にある通り。

天皇はしばらく滞在ののち、再び志布志まで戻り、そこから都に帰ることになるのだが、志布志郷を立ち去る際の伝承は切々と胸に迫るものがある。(※第4巻で詳述する。)

 <第3巻>

この巻の中の国分清水郷には、天智天皇の故事として有名な「青葉の笛」を産する台明寺が登場する。

台明寺は「竹林山衆集院台明寺」といい、古来「青葉竹」を産することで知られていた。この竹林をどこで知ったのか、天智天皇がまだ中大兄皇子として母の斉明天皇に従って、百済救援軍を指揮して筑前朝倉宮に逗留の頃、九州巡見の際にここを訪れ、青葉の笛の素材として献上させたという。

皇太子中大兄が九州を巡見したのは決して物見遊山ではなく、諸国から兵士や武器の調達を行っていたのだろう。その途次に竹の名産地として噂に高い当地を訪れたのである。

 <第4巻>

この巻では薩摩藩が統治していた現在の宮崎県(日向国)南部の諸郷が記されているが、当時、現在の大隅半島の志布志市と大崎町は「日向国」に属していた。大崎郷と志布志郷は第4巻でも一番最後に登場する。

さてこの最後の志布志郷での天智天皇の伝承こそが白眉である。(以下③に続く)

 

 

 


光明禅寺と光明寺跡(指宿)考①

2023-10-25 18:01:36 | 鹿児島古代史の謎

指宿は家内の故郷で、墓参りに行くというので一緒に出掛けた。

鹿屋からは垂水フェリーで鹿児島市の鴨池港まで行き、そこからは薩摩半島をほぼ南下する国道226号線を走り、8時40分に出発して着いたのが11時だった。

途中、約50分はフェリーに乗っていたから、90分の運転時間である。よく晴れていて226号線の50キロほどのドライブは景色もよく快適だった。

家内の昔からの墓は当節では当たり前になって来た「墓じまい」を済ませており、某寺院の集合墓地に遺骨などを移し、そこにお参りする形になっている。

お墓のアパートと言うべきか、もしくはお墓の店子と言うべきか、家の中にある仏壇を簡略化した同じ形式の墓がひしめき合う形で並んでいる。

簡略化した仏壇の下は遺骨を入れておく観音開きの「タンス」になっている。

仏壇に線香を焚き、水と故人の好きな物をお供えして手を合わせる。ただし生ものと生花はご法度である。

墓掃除は要らないから、手を合わせる方としては便利この上ない。跡継ぎのいないか、いても都会に出て行って帰ってこないような子供しかいない場合の墓守の一つの形だろう。

寺による「永代供養」なので寺が存続する限りは墓参が可能であるが、子孫の存続と寺の存続とではどちらが末永いかが、このような形式を取る際の判断材料だ。家内の家では二人の娘が他家を選んだので、この形にした。

お寺を辞して車は指宿の元湯に向かったが、南指宿中学校に近い柳田というところにある「光明禅寺」を訪ねてみたくて車を柳田信号で右折させた。

光明禅寺本堂の内。野口良雄師に本堂内部を拝見ささせていただいた。

最初期の本尊は十一面観音だが、鎌倉期に阿弥陀如来が加わった。

左手上の逗子の中には明治2年の廃仏毀釈の法難にあった際に打ち捨てられそうになったのを辛くも隠しおおせ、今に至るまで木造寄木造りの素晴らしく優美な鎌倉造形を余すところなく伝えている阿弥陀仏の立像がある。

惜しげもなく見せていただいたのには大感激であった。

さて正平山光明禅寺は鹿児島県でも一つか二つかしかない曹洞宗の禅寺であるが、『指宿市史』によるとこの寺の前身は「光明寺」といい、光明禅寺への道をさらに山手に200mほど上がった場所にあったという。

当時の宗派は「法相宗」で、開山は何とあの藤原鎌足の長子である「定慧(じょうゑ)」(定恵)だというのだ。

定恵は鎌足の庶長子だったらしいが、それでも当時最高の権力者であった藤原鎌足(614~669年)の子であれば官位に付けば相当な出世を果たしたであろうに、なぜか仏門に入り、その上、唐へ留学僧として渡っている。

定恵は在唐12年の長きにわたって仏教を学び、白村江の戦い(663年)で倭国軍が大敗したのちの665年に、唐からの使者・劉徳高の船で故国に還って来た(孝徳天皇紀5年の伊吉博徳書による注)。

※劉徳高は白村江戦役後の唐からの使者としては2番目で、最初の使節団(占領軍を含む)が倭国側と交渉し、当時の敗戦責任者(戦犯天皇)である天智に代わって誰かを即位させるよう促した際に、候補に挙がったのが中国語に堪能な仏教僧・定恵だった――と私は考えている。

さてこの留学僧定恵がなぜ指宿に渡来し、「光明寺」という法相宗の寺院を建立したのか。あるいはできたのだろうか? 

しかも指宿市史が引用する『三国名勝図会』ではその建立年代を文武天皇元年(697年)と特定している。

ところが定恵は697年まで存命しておらず、「孝徳天皇紀3年」の注によれば『藤氏家伝』に定恵は唐から帰朝した同じ年(665年)の内に亡くなったとあるのだ。

665年に死んだ人が697年に寺院を建立するわけはない。だとすると指宿市史が引用する『三国名勝図会』の記述が誤っていたことになる。

そこで私は次のように考えるのだ。

上の※の所で述べたように、唐としては敗戦国倭国の当時の天皇(ただし称制)である天智の天皇位を認めなかった。天智(中大兄皇子)は唐の占領軍によって戦犯として捕らえられそうになったが、うまく逃げおおせた。それが水鏡に書かれている「天智天皇の山科における行方知れず」だと思われる。

逃げおおせた先が、かつて皇太子時代に九州朝倉に「対唐・新羅戦大本営」を置いた際に九州を巡見して足を伸ばして各地を見聞した経験から、人的なつながり、特に水運を掌握していた南九州だったのではないだろうか。

天智天皇と南九州との関係は『三国名勝図会』にはこれでもかというほど描かれている。特に有名なのが志布志市における数々の説話である。

そして薩摩半島でも特に指宿及び開聞岳には天智天皇の遺称地が色濃く残っている。

そのことと天皇が股肱の臣とし、臣下として最高位の「大織冠」を死の間際に授けた藤原鎌足の遺児である定恵との繋がりは、深かったと考えられるのである。

そのことが、このような九州の果ても果ての南隅に、光明寺なる寺院を建立させた理由だったと考えてみたい。(以下②に続く)


原子力発電は国策?!

2023-10-23 18:46:01 | 日本の時事風景

今日の鹿児島県臨時県議会に「川内原発20年延長を問う県民投票の会」が提出した条例制定直接請求の議案が上程された。

現県知事の塩田康一氏は知事選のマニュフェストで「(原発の再稼働については)必要に応じて県民投票を実施する」と謳っていたのだが、この5月に「条例制定後の県民投票は慎重に判断する」という否定的な見解を発表していた。

それにもかかわらず「県民投票の会」が集めた署名の数は、4万6千票という条例制定のための署名数を大幅に超えた。

これを巡り、ようやく臨時議会が開かれ、今日の知事の見解を皮切りに議会の委員会で審議に入り、26日には本議会が開かれて県民の代表者である県議会議員全員による条例制定への賛否の投票が行われる。

巷ではこれまで同様の条例制定請求が行われた宮城・茨城・新潟などではことごとく否決されていることから、鹿児島でも否決されるだろうと言われている。

その理由は原発の存非に関しては、賛成(〇)か反対(×)かという2者選択にはなじまないというもっともらしい意見が多くを占めており、「CO2を出さない原発はとりあえず必要である」という「とりあえず論」が大勢だからだ。

しかしながら原発は高濃度の放射性廃棄物を生み出すし、福島原発事故のような脅威もあるから「とりあえず」というような先送り論は、結局、我が首を絞めることになる。

この際すっぱりと原発は廃止して、持続可能なエネルギー資源開発を積極的に推し進めるべきだ。

1951年に米国で始まった原子力発電はスリーマイル島原発事故、ソ連のチェルノブイリ原発事故、そして福島の原発事故と20年に一回の取り返しのつかない事故を起こしている。

火力発電所や水力発電所の取り返しのつかない事故というのはほぼゼロである。もし起きても数か月か数年で恢復されるものがほとんどだし、ましてや目に見えない核による汚染によってゴ―ストタウンを生むなどという被害は全くない。

水力・火力に加えて太陽光・風力といった新技術もラインナップしている。その他にも様々な安全な技術が生まれている。

原子力は核戦力と共に人類の手に余る技術であり、人類を脅かす存在である。

まして日本は火山列島と呼ばれるほど火山が多く、また地殻プレートの集積場所でもある。第二の東日本大震災がいつ起きてもおかしくない場所だ。

40年を超えた20年の期限延長という「国策」は間違っている。ましてや「停止期間を除外しての20年延長を可能とする」という「奇策」は狂気に近い発想だ。

「それほど原発を危険視するならあんたは電気を使うな」と言われそうだが、ご心配無用、そのために太陽光パネルを屋根に載せてある。

東京都では新築の建物の上には必ず太陽光パネルを乗せるという条例を作ったそうだが、都知事の英断を支持したい。


久しぶりの大きな噴煙(2023.10.19)

2023-10-19 20:10:48 | おおすみの風景

鹿児島国体が行われている時に桜島の噴火活動がやや盛んになり、他県からの選手が驚いたそうだが、それでも鹿児島らしく火山灰が薄っすらと積もった光景に好意的な感想を寄せる選手が多かった。

桜島の噴火は9月頃まではほとんど話題にならない程度の噴火しかなかったが、まさに時を同じくして今度の国体期間中に何度か噴煙を上げ、鹿児島市方面よりも風向きが西寄りだったので大隅半島や霧島市方面に降った。

当地鹿屋市でも、朝、車に乗ろうとしてフロントガラスにうっすらと積もったのを2度ばかり拭き取ったのを覚えている。

今日の夕方、テレビを観ていると画面の上の方にテロップが入った。地震情報かなと思ったのだが、桜島の噴火情報だった。5時少し前に噴煙の高さが3600mで、大隅半島の北部に流れるという予報だった。

10分ほどしてまた噴火情報が出たので、これは外に出て確認するしかないと思い、デジカメを手に自転車を引っ張り出して南側の畑の向こうの道路まで行ってみた。

ダイコン畑の向こうの2軒の家の後ろに横たわる高隈連山のはるか上に、さっき最初にテロップで流された桜島の上空3600メートルまで上がった噴煙が灰色の雲となって流れて行くのが見える。

噴煙の行く先は右手、鹿屋市の北部を占める輝北町の方向らしい。あと1時間くらいしたら細かい火山灰が向こうに降るのだろう。

しばらくしたらまた噴煙が上がった。左手に見える黄色い壁の住宅の上に左から右へ流れるのが分かる。

これもどうやら上がって間もなく上空のやや強い風にあおられて、右手(東)の方へと向きを定めたようだ。

この10月になっていきなり涼しくなったのだが、その原因は「西高東低」の冬型の気圧配置になったからだ。北西から吹く大陸性高気圧由来の強い風は、鹿児島の東にある大隅半島にやって来る。

ただしこの風は強烈な冷たさはもたらさない。鹿児島本土に上陸する前にまず東シナ海の海流の暖かさが寒さを和らげ、さらに大隅半島に上陸する前にはこれも暖かい鹿児島湾の上を通過する。

だから北西の風と言ってもコートが欲しくなるような冷たさはない。

それでも暖かさに慣れている大隅半島の住民には一入寒く感じられる。この点は寒暖を感じる主体の「体感的相対論」で説明ができよう。

ともあれ、今年も秋冬の「降灰のシーズン」の入り口に入ったということになる。