<第4条>(志布志における天智天皇の事績)
『三国名勝図会』に記載された天智天皇の記事で、国分(現在は霧島市)の台明寺に産する「青葉竹」(青葉の笛の材料)の故事について、これは明らかに皇太子時代の九州朝倉宮に「対唐・新羅戦大本営」が置かれた時に九州各地を巡見し、兵力の募集を行った際に訪れた時のものだろうと推測される。
ところがこれから述べて行く志布志郷の天智天皇伝承はそれとは一線を画し、白村江の敗戦以後ののっぴきならぬ雰囲気を漂わせている。
指宿の田良浜に上陸した天智天皇が「風穴」の中で神楽を奏したという故事は、なぜ洞穴でそうしたのかに首を傾げるのだ。
天皇ともあろうものが、何故こともあろうに洞窟の中で神楽を奏上しなければならなかったのか。その姿は尋常とは言い難く、何かに知られないように隠れてそうっと洞窟の中で――という雰囲気である。何かに追われていたのだろうか。
その後天智天皇は首尾よく開聞岳の麓の「開聞神社」のある所まで行き着くことができて、かの大宮姫と再会した。
これで一件落着と行きたいところだが、天智天皇は都へ帰らなければならず、半年後に再び大隅半島の志布志港に戻って来た。
第4巻の末尾に記載された志布志郷の「御在所岳」の項に、その経緯が次のように書かれている。
<天皇頴娃(開聞)よりまた志布志に遷幸あり。白馬に跨りて毛無野を過ぎ、この嶽(岳)に登る。開聞岳を望み、遠く去るに忍びず、行宮を建てらる。且つ崩御後には廟をここに建つべしと詔し給ふ。この冬、志布志浜にて船に乗じて還幸したまふといへり。(中略)天皇崩御ののち、和銅元年(708年)6月18日、この嶽(岳)の絶頂に神廟を建て、一宮といい、また山宮大明神と称す。祭神一座、天智天皇是なり。>
【天智天皇は頴娃の開聞神社から都への帰路に就き、鹿児島湾を渡り、大隅半島を横断して志布志の浜に帰り着いた。
そして志布志の港から北東約15キロに位置する秀麗な「御在所岳」(530m)に登って、はるか南西の開聞岳を望んで大宮姫のことを偲んだという。
ところが大宮姫を偲んだだけでは済まず、自分が死んだ後はこの山に「御廟」を建てて欲しいとまで詔し、志布志の浜から帰路に就いた。
そして崩御後の和銅元年(708年)に「神廟」を創建し、山宮大明神と称した。】
以上が志布志郷に描かれた天智天皇の事績である。
最後に記された「山宮大明神」は山頂から遷御し、今日の山宮神社になっている。祭神はもちろん天智天皇だが、境内の大クスは鹿児島県でも指折りの大樹としてつとに著名である。
天智天皇が標高530mの御在所岳に登り、開聞岳の麓の大宮姫を偲んだという描写は切々と肺腑をゆするが、この大宮姫との別れが、今生の別れであり、また白村江の戦役で唐新羅軍に大敗したいわゆる「戦犯」として唐からの交渉団に捕縛される前の出来事であれば、なお一層胸を打つ。
私は天智天皇は結局唐の交渉団によってとらえられ、非業の死を遂げたと考えるのである。
その墓所が開聞神社の境内の中だったり、御在所岳の絶頂だったり、水鏡の記す山科の山中だったり様々でまったく明瞭を欠くのだが、いずれにしても天智天皇の廟(墓所)は見当たらない。
それもそのはずでどうも私は上述のように非業の死を遂げたとしか思えないのだ。
その証拠らしき記事がある。それは天武天皇前紀の672年3月条と20年も後の持統天皇の6年(692年)閏5月条の記事である。
前者の672年3月条の記事は前年(671年)の11月に2000名を率いてやって来て筑紫に滞在していた唐使・郭務悰のもとへ使者を遣わし、天皇天智が死んだことを伝えたら、郭務悰以下一行が「ことごとに喪服を着て」弔意を表したという記事である。
もう一つ後者の持統天皇6年(692年)閏5月条の記事は、「唐使・郭務悰が自ら造った阿弥陀象を筑紫から都へ上送せよ」という内容である。
671年の11月に2000人もの大部隊を連れて筑紫にやって来た郭務悰はそのまま筑紫に止め置かれていた。唐による占領拠点「筑紫都督府」が設置されていたのだろう。
日本書紀によると同じ12月に天智は亡くなっている(「天武天皇即位前紀12月条」)のだが、天皇が亡くなったのであれば最低でも死の場所(宮殿の名)、墓所(御廟)などが記されるのだが、全く見当たらない。
郭務悰ら唐使の大集団が筑紫に671年の11月に上陸し、天智はわずか1か月後の12月に死亡している。そして翌年の3月に朝廷から天智天皇の死の情報が届き、それを聞いた郭務悰らは喪服に着替えたという。
このことは次の憶測を生むに十分ではないか。
即ち、天智は筑紫(九州)の中でも南九州に逃れたが、ついに筑紫都督府の探索の網にかかり、志布志港から連行された。その行き先はもちろん筑紫都督府(今日の太宰府か)であり、戦犯の罪状を着せられて処断された(あるいは自害した)。
その後郭務悰らは朝廷から甲冑・弓矢・絹織物・木綿の布・綿など大量の品を与えられ、5月末日に帰国している(天武天皇元年3月条・5月条)。これらの品は戦時賠償であろう。
戦時賠償よりはるかに大きかったのが、白村江戦役における敗戦責任者つまり戦犯と化した天智天皇の捕縛と処断で、さすがの郭務悰も非業の死を遂げた天智の菩提をとむらうために「阿弥陀仏像」を造った。これが持統6年(692年)の記事につながっている。
阿弥陀仏は故人の来世での安楽をもたらすとされる仏で、そのくらいの仏教の素養は郭務悰自身、身につけていたと思われる。もちろん天智天皇の死後の安楽を願ってのものである。
持統天皇はそのような仏教に惹かれつつあった。郭務悰の阿弥陀仏を筑紫から送らせた同じ時に「筑紫大宰(つくしのおおみこともち=後の大宰帥)」である河内王に対して「沙門(僧)を大隅と阿多に遣わして、仏教を伝うべし」との詔を発している。
指宿市史の『三国名勝図会』引用の記述に、「指宿の正平山光明寺は定恵が開山で、その開基の年は文武天皇元年(697年)であった」(要旨)とあるうち、開基の年が697年なのは持統天皇が692年に「大隅・阿多(薩摩)に僧侶を派遣して仏教を伝えよ」という詔を出したという記事と年代的にはよく符合する。
だが「開山は藤原鎌足の子定恵(じょうゑ)である」とする記述はいかがなものか。『藤氏家伝』では定恵の死亡年を唐から帰朝した665年と同じ年だというのである。
もっとも『藤氏家伝』の定恵665年死亡説にも疑問を感じる。この年は前年の劉仁願の来朝に次ぐ第2陣の劉徳高の来朝であったのだが、その同じ使節船団の船に定恵が乗っていたのである。
この同船の意味するところを、私は在唐12年の長きにわたり仏教と中国語に精通していた定恵を敗戦後の倭国のトップに据えようとした唐側の思惑があったからだと考えるのだ。
したがって定恵は665年には死んではいない。『藤氏家伝』はそこのところを曖昧にしたかった。なぜなら中臣真人改め藤原定恵こそが持統の夫である天武(大海人皇子)その人だからである。
天武は天智の4人の皇女をすべて后妃および妃としているが、天武が天智と同じ母(斉明天皇)の子であったらこんなことはあり得ない。血筋(父系)の違う天皇が立った場合のみこのような事が起きている。定恵が藤原氏の血筋だからこそ前代の皇女をすべて入内させたのだろう。
天武が藤原定恵であればこそ、持統天皇が「藤原宮」造営を企画したのであり、天武を凌ぐ女帝として古代史に大きな足跡を残したのだろう。その裏には非業の死を遂げた父天智への哀惜と憧憬とがあったに違いない。
天武は即位後の記事に「天文・遁甲に能し(すぐれている)」とされているが、どちらも当時の大陸文化の華であったのだが、大海人皇子とされる皇子時代にそのようなものを学んだという記事は全くない。そのことよりそもそも大海人皇子としての事績もないのである。
これも天智つまり中大兄皇子と同母弟だったことを疑問視される原因であり、肝心の対唐・新羅戦争(白村江の戦役)への関与も見えない。天智や母の斉明天皇とともに朝倉大本営に行ったとも、飛鳥の都で留守を守っていたとも何の記事もないのである。まるで透明人間としての大海人皇子なのだ。
この不鮮明極まりない大海人皇子は仮称であり、実は藤原定恵(中臣真人)であったとすればつじつまが合う。
この定恵が指宿になぜやって来たのかは、明確な結論を出せないが、天智天皇が唐の占領政府である筑紫都督府に追われ、開聞方面への逃避行で力尽き、ついに南九州で捕らわれて非業の死を遂げたことと無縁ではないだろうとまでは言えよう。