鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「生目」の意味から見た生目古墳の被葬者

2024-10-27 19:01:50 | 古日向の謎
 跡江貝塚について

宮崎市中心部から北西に直線にして6キロほどの所にある「生目古墳群」だが、本来の地名からすれば「跡江古墳群」というのが正解だ。

生目村に統合される前の跡江村はかつては大淀川河口域にあり、日向灘の入り江がその村域だった。その一部に「跡江貝塚」があり、今は大淀川の流れに近い右岸にその名をかすかに残している。

この貝塚の下層から縄文時代前期の「曽畑式土器」が多数見つかったが、実はこの形式の土器が何と南米エクアドルのバルディビア遺跡で発掘された土器と瓜二つということで注目を集めたことがあったようだ。

1961年にアマチュア研究家の日高という人がここで奇妙な文様の土器を発見し、その後大分県の別府大学が発掘調査し当時は「県指定の遺跡」となった。

しかし県では調査後は記録に留めただけで、遺跡は宅地開発によってほぼ消えてしまったという。

発見者の日高氏の記録によると貝塚内のアカホヤ層(鬼界カルデラ由来で7400年前)の下に多種類の文様を持つ土器片が見つかっており、土器の底はどれも平底だったそうである。

鬼界カルデラの噴出物(アカホヤ)の下から発見されたと言えば、国分の上野原遺跡が代表的な遺跡だが、まさに上野原遺跡から発掘された土器類は平底だった。

上野原遺跡ではそのアカホヤの噴出堆積によって縄文早期の文化が壊滅したのだが、跡江貝塚人は噴出堆積を逃れて這う這うの体で海に出たのだろうか。

計画的な船団による移住なのか、慌てて単船で海に出て暴風や荒波に遭って南米に辿り着いたのか、知る由もないが、とにかく宮崎の海岸部と南米エクアドルの海岸部とに、何らかの繋がりを感じざるを得ない。

 生目の意味から考える生目古墳の被葬者

今回は跡江貝塚のそのような話はさて置いて、テーマは「生目」という意味から探る生目古墳群の被葬者の姿」であった。

私はかつて5年前まで大隅地区の「大隅史談会」に属しており、『大隅』誌に最後の論考を寄せた中に「生目考」があった。

今回はそれを下敷きにして、その後に考えたことを述べてみたい(引用文には若干の改変がある)。

《私は次のことを想定している。それは崇神・垂仁王統(糸島王家=大倭)の東征と密接な関係がある。

 二世紀の半ば頃に、南九州の投馬国から畿内大和へ「東征」(実は避難的な移住)があり、その主導者は神武天皇の子とされいる「タギシミミ」であったことはすでに論じたが、この投馬国が樹立した橿原王朝を一世紀余りのちに打倒したのがいま述べた崇神・垂仁王権すなわち北部九州倭人連合の「大倭」であった。

 その時の南九州投馬国系王統最後の代が、崇神天皇記・紀に登場する「タケハニヤス・アタヒメ」で、勝者である崇神から見れば、まさに叛乱(叛逆)の主人公でなければならなかった。

 また垂仁天皇記・紀には「サホヒコ・サホヒメ」のこれまた天皇への謀反の記事が載せられ、やはり二人とも殺害されるのだが、これら両記事に通底するのは前王朝(橿原王朝)の残存勢力の大きさである。

 前者のタケハニヤスにしろアタヒメにしろ、南九州の匂いがプンプンする。当然と言えば当然で、彼らは南九州(投馬国)由来の王統の末裔だからである。

 この崇神による橿原王朝打倒は当然のことながら南九州にも伝えられ、「いざ鎌倉」ならぬ「いざ大和へ」と南九州(投馬国)軍団はいきり立ったはずである。

 この時、崇神側からはすでに南九州に軍団を派遣し、南九州の動静を監視しつつ、武力を誇示して南九州軍団を抑制したに違いない。

 この時の監視団の長官のひとりは、垂仁天皇時代にサホヒコ・サホヒメの謀反を制圧した将軍「八綱田」ではないかと思われる。というのも八綱田は鎮定後に垂仁天皇からその軍功を賞されて「倭日向武日向彦八綱田」という名を賜与されているからである。

 この長い名を分析すると次のようになる。

1、倭日向(やまとひにむかい)・・・「倭日」とは畿内大和のこと。そこに軍勢を率いて向かったという意味。

2、武日向(たけひにむかい)・・・「武日」とは南九州のこと。古事記の国生み神話では「建日別、別名は熊曽国」とある。南九州に軍勢を率いて向かったという意味。

3、彦(ヒコ)・・・男子の敬称。

4、八綱田(ヤツナダ)・・・これが本名。

 以上を総合的に解釈すると、この将軍・八綱田という人は、大和で戦ったり、南九州で戦ったり、言わば八面六臂の活躍をした武人であることが分かる。

 こういった武人が崇神・垂仁の「糸島王権=大倭=東征後の纏向王権」への反対勢力を抑えるために、打倒した旧王朝である南九州投馬国由来の南九州に派遣されて監視活動を行ったので、その地に「生目」と名が付けられたのではないだろうか。

 宮崎市の生目地区は一見孤立していながら、日向灘につながる大淀川水運による物資輸送・兵員輸送に不自由な場所ではなく、特に南への備えにはほどよい山岳地帯があり、長期にわたる監視(生目)活動には好適な環境にあったと考えられるのである。》(『大隅60号』P80~81)

「生目」(イキメ)は3世紀の半ばに邪馬台国の一等官の「伊支馬」としてあらわれているが、その時の「イキマ」は北部九州倭人連合(糸島王権=大倭)からの監視団の長官であったが、この地の「生目」は糸島王権が大和への東征を果たしのちに、抵抗勢力となった橿原王権への監視活動による「生目」であったから、時代としては3世紀末から4世紀初めの頃である。

私は南九州投馬国からの畿内への「東征」(事実上は移住)はあったとし、その時代は後漢書に見える「桓・霊の間、倭国乱れ、相功伐すること暦年」とある145年から187年の時代だったとし、投馬国による橿原王朝の樹立はおおむね180年の頃ではないかと考えている。

その約100年後の280年代に北部九州倭人連合こと「糸島王権=大倭」が半島の逼迫によって北部九州から畿内へ王権を移動させた。これを私は「崇神東征」(第二次東征)と呼ぶのだが、当然のこと大和では旧王朝の橿原王朝とぶつかることになった。

その具体的な交戦こそ「タケハニヤス・アタヒメの反乱」であり、「サホヒコ・サホヒメの謀反」であった。

前者は先に触れたように、反乱者の名前からして南九州ゆかりの者による叛乱で、間違いなく前王朝に対する新王朝(崇神王権=纏向王朝)の追討劇であり、場所は記紀に詳しく描かれているように畿内であることは間違いない。

時代は崇神・垂仁の親子による東征の頃であるから、およそ280~290年代のことと思われる。

ではもう一つの「サホヒコ・サホヒメ」の叛乱(謀反)の場所と時代はいつだろうか。

サホヒメは垂仁天皇の皇后になった人であるから、崇神王権が大和に纏向王朝を確立したあと、かなり時が経ってからのように思われるのだが、天皇に即位後はたしかに皇后であるが、皇后になる前には垂仁(イクメイリヒコ)の妻に過ぎなかった。

したがって、サホヒメが垂仁の妻になった場所と時期は、崇神東征後の畿内大和でのことではない可能性も考えなければならない。

垂仁(イクメイリヒコ)がサホヒメを妻にしたのは、まだ北部九州に糸島王権(大倭)として九州島内で勢力を極めていた時代のことかもしれないのである。

そう考えると、垂仁こと若き日のイクメイリヒコが「イクメ=生目」として南九州に八綱田とともに監視団の長として赴任していた際に、南九州勢力の首長の娘を娶り、いわゆる「政略結婚」的な平和維持に腐心したのではないか。

その時代は4世紀初頭の頃ではなかったか。

そしてその地こそ「生目」であった。しかし兄のサホヒコによって平和の均衡が破れた。それが「サホヒコ・サホヒメ」の叛乱となった。

サホヒコの軍勢が「稲城」を作って防戦したという記事を読むと、当時の南九州の戦法がのちの文献で「稲積城」などと出てくるのと被るのである。

そしてこれは全くの語呂合わせに聞こえそうだが、例の西都原古墳群の最奥に位置する場所に、南九州では盟主的な二つの前方後円墳「男狭穂(ヲサホ)塚」と「女狭穂(メサホ)塚」が近接して築かれているが、この対になった巨大古墳がもしかしたらサホヒコ・サホヒメの墓所ではないか、と思い至るのである。

男狭穂(ヲサホ)塚と女狭穂(メサホ)塚の築造年代が5世紀と言われているのは知っているが、実は発掘調査をしない限り本当に確実なことは言えないようである。そこを逆手にとって――というわけではないが、想像を膨らませることは許されてよいだろう。

また生目古墳の被葬者は、サホヒコ・サホヒメの叛乱を鎮定した「倭日向武日向彦八綱田」(大和で戦い、南九州でも戦った勇者・八綱田)本人か、もしくはその前後の4世紀代に生目に赴任して南九州を監視していた崇神王権の武将(将軍)であったと考えて大過ないと思う。











生目神社と生目古墳群

2024-10-25 09:55:22 | 古日向の謎
宮崎市生目にある生目古墳群も生目神社もかつてそれぞれ別個に訪れてはいるのだが、今回は同時に行ってみた。

付近を流れる一級河川大淀川が宮崎市街地に入る直前に少し北側に膨らみ、今度は上流から見て右回りに南に向きを変えてほぼ河口付近まで南流するその流れに囲まれた地域にあり、そこはかつての生目村であった。

その生目村の「生目(いきめ)」という地名の語源は生目神社のようだ。

生目神社を参拝した際に貰った「生目神社御由緒」によると、かつては生目八幡宮と言われたことがあり、明治維新以降は生目神社と改称された――とあり、さらにこの神社のことは『宇佐大鑑』によれば天喜時代(1053~1058年)のこととして八幡社の存在が見え、棟札には宝徳2年(1450年)5月に遷宮祭があったことが記されているという。

文書の上だけでもすでに約1000年前には創建されていたことが分かり、この神社(当時は生目八幡社)の「生目」から当地の広い範囲が生目の地名となったようである。

生目神社のある所は生目地区でも比較的高い丘の上にあり、神社の南側は「生目台」と呼ばれる住宅団地で、道路で分断されているが東側には「大塚台」という住宅団地がある。全体として丘陵地帯と言える。

そのシンボル的な中心が生目神社だ。国道10号線を宮崎方面に向かうと「浮田」という立体交差点があり、それを降りて道路一本を抜けて直進し、右折すれば神社のある丘陵の下に出る。

案内表示に従い、うっそうとした社叢の縁を撒くように上がると鳥居下の駐車場に至る。

階段の上の「一の鳥居」までの高さは4mほどだろうか。さほどの高低差ではないが、一般的な鳥居の位置としては高い方だ。

鳥居を上がると直線の長い参道で、50mではきかないかもしれない。

舗装はされているので歩きやすいが、真夏の日差しの強い時期だと照り返しに悩むだろう。

参拝者の駐車場は左奥の赤いポストの見える家の手前にあった。5,6台は停められそうである。

右手の見事な塀と植栽のある家は宮司さん宅で、表札には「高妻」とあり、「こうづま」とお呼びするのだろう。

二の鳥居の奥の拝殿は立派な造りで、由緒を偲ぶに十分だ。

さてこの不思議な「生目」という名称だが、先の由緒書きによると、説が3つあるという。

1、藤原景清が日向に下向した際にこの地に幽閉された。没後に景清の「活けるがごとき霊眼」を奉斎したため。

2、当地は昔から眼病患者を良くする霊験があり、庶人がその御神徳を尊んで「生目の神」としてあがめたため。

3、景行天皇の父に当たる「活目(イクメ)入彦五十狭茅尊」(垂仁天皇)を奉斎したお宮であるから。

このうち、1と2は「生目」の漢字からの当て推量に過ぎない。「志布志市」の「志布志」を「村人が志(こころざし)の布を天智天皇に捧げる志(こころざし)があった」ことから地名が生まれたという説があるが、これと似ている。

私は3の説が近いと思う。ただ、この説では古書から引用をしただけで歴史的な背景は全く考慮されていないのが残念である。(※私の考えは別稿で書いて行くことにする。)

さて生目神社から、元来た道を戻り、今度は「浮田」交差点を突き抜けて行く。県道9号線である。これを1.5キロほど行くと跡江交差点で、ここを左折して500m足らず、右手の田んぼの向こうにこれから行く「遊古館」の建物と後背の丘陵が見える

(※この丘陵に生目古墳群があるので、この丘陵を「生目丘陵」と呼びたいところだが、ここは古来、跡江村に属しており、「跡江丘陵」が正確な呼び方である。跡江は跡江貝塚で有名で、縄文時代は丘陵の近くまでが海域であった。)

遊古館の開館は8時半と思っていたのだが9時からということで、駐車場に車を入れてから、先に丘陵上の「生目古墳群史跡公園」を見ることにした。

上るとすぐに平坦地が広がり、そこからは南北1キロ余り、東西0.5キロほどの台地の辺縁にポツンぽつんとある古墳を訪ねることになる。
史跡公園の案内図を眺めていると、何だか緑色の犬か何かに見えて来た。

頭に当たる所から、1号墳、2号墳・・・と号数の順番を決めて行ったようだ。

購入した解説書によると前方後円墳が3基あり、犬の頭のにあるのが全長130mの1号墳、胸にあるのが全長137mの3号墳、お尻にあるのが全長101mの22号墳で、園内にある前方後円墳8基のうち3基も100mを超える全長後円墳が見られるのは九州では随一だという。

しかも101mの22号墳が4世紀後半、130mの1号墳も4世紀後半、3号墳(137m)に至っては4世紀半ばの造成で、古墳前期の4世紀代だけに限れば、生目古墳群は当時九州最大規模の前方後円墳地帯であった。

生目古墳群中最大の3号墳の後円部。直径は77mあるとか。近くで写したので全体は入りきらない。山頂部の高さは比高で12mほど。

同じ九州宮崎の西都原にある男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳はともに176mと九州最大だが、時代は古墳時代中期なので約1世紀後の物。また大隅地区にある唐仁大塚古墳(148m)・横瀬古墳(140m)なども九州では屈指の大きさだが、どちらも5世紀代である。

残念なことに生目古墳群は昭和18年に国指定の史跡になっており、後円部墳丘の頂上を発掘することはできないそうである。

22号墳の頂上部をレーダー探索機で調査したところ、長方形の物が埋まっているとまでは観測できたのだが、それ以上の調査はできないという。

隔靴掻痒とはこのような状態をいうのだろう。発掘屋(考古研究者)が発掘できないとは気の毒千万。

この古墳群の被葬者たちはどんな人たちなのか、特に4世紀半ばに築造されたとされる当時の九州では最大の大型前方後円墳「3号墳」の被葬者は誰なのか、謎は深まるばかりだ。

都城と志布志を散策(2024.09.07)

2024-09-08 08:35:47 | 古日向の謎
午前中に娘の家の芝刈りに汗を流したあと、昼前に都城まで行くことにした。

夕方7時に町内会の役員会があるのだが、鹿屋市の笠之原から東九州自動車道に入り、志布志経由で今度は都城志布志道路に路線変えし、ほぼ信号なしで都城の南部入口まで行くことができるようになったので、往復するだけなら2時間くらいで行って来られる。

これら自動車専用道路が無かった5,6年前までは、60キロ余りの道のりを一般国道で行くしかなく、片道だけでも優に1時間半はかかっていた。

まず目指したのは都城歴史資料館で、この場所には歴代の都城島津氏族「北郷(ほんごう)氏」の居城があった。
天守閣を模した都城歴史資料館。北郷氏の居城の本丸がここにあり、「都島」と呼ばれた台地の上に中尾城・破城・池ノ上城・取添城・西城・南城など10を数える城があった。

都城盆地は大昔は約3万年前の姶良カルデラの噴出物で川がせき止められた湖だったのだが、数万年かかって北への排水溝が生まれ、流れ流れて宮崎市を還流して太平洋に注ぐようになった。大淀川である。

この大淀川の源流は鹿児島県曽於市の南之郷の山中にあり、この源流が同市末吉町を通って都城に入り、歴史資料館のある旧北郷氏居城の高台にぶつかり、そこでさらにいくつかの河川が合わさって本格的な大淀川になる。

北郷氏居城は「都島城」とも呼ばれていたらしく、資料館(本丸)とは谷を隔てた「西城」と呼ばれた所には「狭野神社」が建立されているが、境内に立つ案内板によると、「この高台は神武天皇こと狭野(さの)の尊の旧居であり、ここを拠点にして栄えたあと東征に出発した」とある。

その頃はすでに都城盆地からは水が引いていたのだろうけれど、やはり盆地の入口を塞ぐような位置にある高台は都城一帯を治めるには好適な場所だったに違いない。

資料館の展示物は旧石器時代から明治大正そして昭和の戦跡まで幅が広いが、私の目に留まったのは木造の骨組みが珍しい2回の回廊にあった縄文時代の「壺型土器」だ。
高さ30センチ、幅20センチほどのさほど大きなものではないが、端正に作られている。注ぎ口の深い横溝と、肩のあたりまでに見られる流水紋(?)が印象的だ。発見したのは「志和池(志和地)小学校」の生徒だったという。

ふた昔いや三昔前だったら、縄文の壺ではなく弥生時代の壺とされていたはずだが、鹿児島県国分の上野原遺跡で「縄文の壺」が確定されたので、まごうことなく8000年前のものと判定された。

土器は昔から女性の手で作られたとされるが、優美な形は確かにそう思わせる。これで温かい飲み物でも沸かしたのだろうか。用途はいまいち分からない。

資料館を辞してからまだ時間があったので、「神柱宮」を参拝した。

この神社は島津庄の前身を開拓し、摂政藤原頼通に寄進した太宰府の大監だった平季基(すえもと)が建立した都城市梅北益貫の「黒尾神社」が、明治6年になって現在地に移転したお宮である。

黒尾神社のある梅北は、平季基が最初に田地を拓いたところで、大淀川の支流梅北川の沖積地であり、ここを拠点に下流に当たる盆地にまで荘園を広げたようだ。当時の都城は「無主の地」だったそうだが、詳しいいきさつは分かっていない。(※かつて湖だったため、姶良カルデラによるシラス火山灰や霧島火山の降灰が度重なったにせよ、土壌としては悪くなかったと思うのだが・・・)

明治6年に新しく建立されたのが「神柱宮」だ。当時の県令は薩摩藩出身の桂久武であった。

高さ25mというコンクリート造りでは日本一の大鳥居をくぐるとそこは広い公園になっており、奥に進んだところに石段と小ぶりな鳥居が見え、上がった鳥居の先は広い境内である。
本殿に祭られているのは天照大神と豊受大神がメインで、この二柱は島津庄開拓者平季基が最初に梅北の地において伊勢神宮から分霊したと伝えられている。

しかもその年月日まで分かっているのだ。万寿3年(1026年)9月9日だそうである。とすると再来年の9月9日(旧暦)がこの神社の前身である黒尾神社はちょうど建立1000年の節目だ。

1000年前に建立された際の奉斎者の名が分かり、年月日も判明しているという神社は日本全国で10万社はあろうかという中でもそう多くないはずだ。

その最初の奉斎者である平季基を祀る末社「基柱神社」が、本殿の右手に並んでいる。なぜか菅原天神を相殿にしているのだが、季基だけでは参拝客も少なかろうと学問・受験で圧倒的に人気のある道真公を招霊したのだろうか。

そのせいか、拝殿の外壁には多数の絵馬が掛けられており、「学問の神様」人気を裏付けていた。

また手水舎の上を覆い尽くさんばかりのイチョウの巨木は、昭和天皇がまだ皇太子の時代にこちらを参拝された時(大正8年=1918年)にお手植えされたものだった。

3時過ぎに帰路に就いたが、時間があったので志布志で自動車道を降り、埋蔵文化財センターの展示室を訪れたところ、そこにも8000年前の「縄文の壺型土器」があった。

夏井という江戸時代には番所があり、今は海水浴場にもなっている所のやや高台で発見された物という。都城歴史資料館の小学生が発見したという壺型土器と比べ形は瓜二つだが、一回り小型であった。

いずれにせよ、南九州では縄文の壺型土器が見つかるのは広範囲であり、どれをとっても早期に属しており、年代で言えば8000年から9000年前に相当している。

それがあの7400年前の「鬼界カルデラの大噴火」によって亡失してしまった。大噴火後に壺型土器は継続していない。

縄文早期に南九州に暮らしていた人たちの高い文化はいったいどこに消えたのだろうか? それとも離散して形を変えてしまったのか?

志布志市埋蔵文化センターの案内人は「歴史ガイド」というボランティアの高齢の女性だったが、志布志城の話を聞いたあと、「福山氏庭園」というのが最近整備されたと聞いて行ってみた。

もう5時まで10分ほどしかなく急いで行ってみると、場所は志布志小学校の隣りといってよかった。しかもここには「若宮神社」というのがあり、山宮神社に祭られている天智天皇の娘・持統天皇が祭神だというので3回くらい来たことがあった。
しかしそのお宮たるや、何ともみすぼらしい姿である。

父君の天智天皇の「安楽山宮神社」が1200年の楠を前景に立派なお社を構えているのに比べるとまさに月とスッポンの差がある。

今度の台風10号の襲来に備えたのか、拝殿の上の角に2本の太い丸太が斜めに突っかい棒になっているのも見苦しい。

福山氏庭園の入り口がまだ空いていたので、母屋にいた歴史ガイドの女性に遅く見学に来たことを詫びつつも、若宮神社について苦言を呈してしまったが、もとより小言を言うために来たわけではないことを分かってもらえただろうか。

時間的にもっと早く来ればよかったと思った。また近いうちに来てみよう。


縄文ミュージアムと国分郷土館

2024-08-15 10:29:41 | 古日向の謎
 縄文ミュージアム

霧島市には国分郷土館(旧国分市)、隼人史跡館、隼人歴史資料館(旧隼人町)があり、隼人の歴史に関しては多くの伝承とともに見過ごせない所である。

昨日は猛暑の中だったが、以前から見たいと思っていたホテル京セラ内にある「縄文ミュージアム」と兼ねて行ってみた。

東九州道の国分インターで降り、国道10号線を隼人町方面に数キロ走り、霧島温泉郷への道をとって約2キロ、大きな円筒形のホテルが聳え建つ。

本館と別館を繫ぐ渡り廊下、というには長さが30mはあり、幅も高さも4mはあろうかという規模の一直線の施設の片側を縄文遺跡の展示に当てている。

ホテルの宿泊者や利用者でなくても無料で見られるのは有難い。

ただ展示は常設なのだろうか、鹿児島の縄文と言えば同じ国分市の上野原遺跡出土の早期の遺物を中心に展示してあるのかと思っていたのだが、他の縄文時代、特に2021年に世界文化遺産となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」の展示がクローズアップされていたのは意外だった。

これは青森県の「是川石器時代遺跡」で、是川遺跡と言えば「朱の漆を使った器物」が出土したことで有名だ。

面白いのが、ガラスケース内の左端に見える二本の「楽器」で、角状の先端に糸らしきものを取り付けて弾いて音を出す琴の一種らしい。

北海道・北東北の縄文遺跡群の登録された遺跡の総数は、北海道が6つ、青森県が8つ、岩手県が1つ、秋田県が2つの合計17遺跡が対象となっており、このミュージアムでは是川遺跡の他に、同じ青森県の「三内丸山遺跡」と秋田県の「大湯環状列石(祭祀)遺跡」とが展示されていた。

その他にも各地の縄文遺跡が取り上げられていたが、地元霧島市の上野原遺跡の物を除くと、残りの縄文遺跡の出土地はほぼ中部(長野・石川)より東の物ばかりであった。

たしかに縄文時代と言えば東日本に多くの遺跡があり、発掘もされていて出土品の形象も多種多様なので「縄文時代は何といっても関東と東北だ」というイメージが定着しており、西日本の縄文時代は軽く扱われる傾向にある。

しかしこの霧島市上野原で発掘された縄文早期の土器群は「縄文というより貝文土器である」と発掘者の誰かが言っていたように、中期以降の「縄目文様」とは一線を画している。

しかも約10000年前後と古い。縄文中期より3000年以上も前に南九州では特有の土器(壺型を含む)を創造しており、東日本の縄文文化とは一味も二味も違った形象である。

古さでは青森県の「大平(おおだい)丸山遺跡」の土器が16000年前だそうだが、この16000年前と縄文中期の6000年前との隔たりは実に1万年である。この1万年の間、東日本では人々はどうしていたのだろうか?

また鹿児島では上野原遺跡が10500年くらい前から始まり、7500年前の鬼界カルデラの大噴火によって壊滅したとされるが、その一部は海に逃れるかして生き延びたと思われるし、上野原遺跡の始まる前の11500年に起きたという桜島大噴火(現在の桜島の基礎が噴出した)の前に南九州に暮らしていた人々の痕跡は、この桜島火山灰によって埋もれてしまったのかもしれない。

南島の種子島からは約3万年前の生活遺跡が発掘されているので、鹿児島本土でも同様の時代の遺物が桜島火山灰層の下に眠っているかもしれない。

 国分郷土館

ホテル京セラからほぼ東方向へ5キロほどで国分高校に至るが、ここは島津家の16代当主義久が領有していた「舞鶴城」の跡地で、昔をしのぶ門構えの前を通り過ぎ、そのまま前方の丘に登っていくと最上部にあるのが「城山公園」で、観覧車のある遊園地となっている。

国分郷土館は遊園地より一段下にある。一階建てだが、鉄筋コンクリート造りのがっしりした建物である。

中に入ると靴を脱いでスリッパになるが、入ってすぐ右手が「資料室」で、長い廊下の向こうが「民俗資料室」である。

資料室に入ってしばらくすると館長(もしくは管理人)らしき人から案内を受け、見て回ったが、ここには出土の土器の類はなく、中心は国府(大隅国府)関連であった。

国府の跡地とされる国分市立向花(むげ)小学校の建設中か改築中かに発見された「三環頭太刀」が目玉であった。

この類の太刀は半島由来ということで、この太刀を手元に置いていた(墓に副葬した)のは国府の主、つまり大隅国司だろうと考えられている。半島由来のこの太刀はまず大和王権の府庫に入り、国司に任命された者に賜与されたのだろう。

逆にこの太刀の発掘によって、向花小学校界隈に国府が存在したというのが証明された面もあった。

展示室の中には何と「調所広郷」が使用していた太刀と脇差(小太刀)があったのには驚いた。

説明によると、調所家は古くからの現鹿児島神宮の社家の一流で、戦国期に島津氏によって圧迫されて逃れたのだそうだ。鹿児島神宮への寄進領は当時島津氏に次ぐ2500町もあり、その意味では島津氏の敵でもあった。

調所広郷は島津26代重豪に見出されて茶坊主から出世を果たし、孫の斉興時代には家老職まで上り詰め、放漫財政だった鹿児島藩の財政立て直しに成功するのだが、幕府によってご禁制の唐物輸入の咎めを受け自害している。

その一方で五大石橋などの建設も行っており、単なる倹約家ではなかった。一説によると斉興と開明藩主斉彬との間の確執に翻弄されたのだという。

民俗資料室では何といっても、止上(とがみ)神社の王面と神王面の展示が一大特色である。

止上(とがみ)神社の創建ははっきりしないが、もともとは現地の隼人がはるか後ろに聳える「尾群(おむれ)山」が神の宿る山として崇拝されていたのだが、のちに社殿が建てられたのだという。

止上神社の現在の祭神は鹿児島神宮と同じ「ヒコホホデミ、トヨタマヒメ」という、皇室の祖先だが、現地隼人は単純に山の神だったのかもしれない。

奈良時代の初めに起きたいわゆる「隼人の反乱」(719年~720年)で朝廷軍に敗れた現地隼人はそれ以降、「祟りを為すから」と、厳しい表情の王面と神王面を象徴とした神幸祭が行われるようになったという。
鼻が高く、目力を極限にまで表現した「神王面」。隼人の怨霊を制圧するためだろうか。

宇佐神宮では隼人の怨霊をニナに移して海に逃すという儀式を行っており、これが「ホゼ祭」(「浜下り」)の起源だという。

その他珍しいところでは「青葉の笛」の伝承がある。

天智天皇が南九州を巡錫していた時に、国分の北東から流れ出る郡田川の上流で珍しい竹の一種「ダイミョウ竹(コサン竹)」を進呈されたが、節と節の間が長いので笛にしたところ良い音色が出た。そこで天皇が都に帰った後も青葉竹を奉納するようになったというのだ。

天智天皇は間違いなく九州には到来している。

しかし母の斉明天皇が朝倉宮で亡くなり、半島の百済が滅亡し、それどころか救援に行った数万隻という軍船が壊滅したので、唐新羅から追われる身となった。

その時点では九州から引き揚げたに違いなく、もし南九州にやって来たとすれば、朝倉宮という対新羅戦の大本営に着いて間もない頃だろう。南部九州に新羅戦への健児を求めて来たのではないだろうか。

いずれにしても国分の長い歴史が垣間見える伝承である。



本庄の剣柄稲荷神社(宮崎県国富町)

2024-07-28 11:33:45 | 古日向の謎
昨日はカンカン照りの中宮崎県は東諸県郡国富町に鎮座する「剣柄(剣の塚)稲荷神社」を訪れた。

目的は宮崎県串間市で文政年間に石棺から発見された玉璧や鉄製品など大量の遺物に関してである。

この石棺がどこで発見されたかをめぐって郷土史家はじめ考古学者などが調査を進めて来たのだが、今もなお不明のままである。

ところが、遺物30品目と言われる中で、最も貴重とされる周王朝時代に諸侯に下賜された玉璧が幕末の探検家松浦武四郎の手に渡った際に、この神社の宮司の先祖で宮永真琴という人が次のような献詩を残したという。

『珠(たま)は獲たり、北陵(ほくりょう)山上の月』

「珠」は「玉璧」の玉と同じであり、この詩の意味は「北にある陵(みささぎ)の上に月が出たかのように丸い形の玉璧という珍宝を得ることができた」

ということで、この詩を松浦武四郎が「王の山」から見つけ出した串間市今町(西方)の佐吉という農夫から譲り受けたのを聴いたであろう宮永真琴が、感激をもって松浦武四郎に贈ったと思われる。

宮永真琴は社務所で聞けば奥さんの先祖。今から200年前の人で、書を能くした人物であったらしく、今でも真筆はたくさんあるという。

ここ本庄に現在も鎮座する稲荷神社からは串間市まで直線にして100キロほどもあり、当時としてはなかなか往来も難しかっただろうに、かの著名な探検家松浦武四郎が串間にやって来たのと、玉璧という珍宝が好事家の手に渡るというので、わざわざ足を運んだのであろうか。

その時に作った詩の一節は宮永真琴が佐吉から石棺の発見現場を聞いていたかような内容である。

「宮永様、我が家の田畑のある場所からは北に聳える小高い山を昔から王の山と言っておりましたが、その丘の頂上付近から偉い人の石棺が見つかりまして、開けてみたら何とまあ、こんな宝物や鉄剣なんかが出たんですわ」

発見者の佐吉はこんなことを宮永真琴に伝えたのではないか。それがあの献詩に結び付く。

200年前と言えば、本庄(国富町)は天領、商人の多い町だったそうで、南を流れる大淀川中流の本庄川を使う船運で大阪への物資の往来と人の往来は頻繁だったらしい。

おそらく宮永真琴など知識人はそれ相応の教養を身につけており、漢詩漢文などお手の物だったのだろう。

ただ残念なのは、「北陵」の位置がはっきりしないことだ。もう一つ地名あるいは地形などが織り込まれていれば場所の特定ができたに違いないと思うのだが・・・。

※私はかつてこの場所について考察しているが、宮永真琴の「北陵」とは王の山という俗称(地元の愛称)で呼ばれていたところそのものだと思っており、そこは「穂佐ヶ原」地区の北側に横たわる丘陵の一角だろうと比定した。

剣柄(けんのつか)稲荷神社(鳥居下の旧道から30段ほどの石段の上に鎮座する。本庄稲荷神社が通称のようである。)

古墳「剣の塚38号墳」の上にあるので「剣柄」が神社名に冠せられている。古墳群が昭和14年に国の指定になるはるか以前から鎮座しているので、指定後も移設されたりはせずそのままである。

一説によると景行天皇の12年に創建されたと言い、天皇のいわゆる「クマソ親征」に関わるとしているようだ。

景行天皇の時代云々はどうか知らないが、境内の右手に聳えたつ樹齢1000年はあるというクスノキを見ても、由来の相当古い神社であることは分かる。

社務所で聴いたお話と御由緒書によると、稲荷の神である倉稲魂(うかのみたま)他2神は102代後花園天皇の永享2年(1430年)に合祀されたのだそうで、それ以前の御祭神こそが本来の崇敬の神である。

そのご祭神は諸説あるが、イナヒノミコト・タマヨリヒメ・カムヤマトイワレヒコの三柱であったという。

ただイナヒノミコトは神武天皇の兄に当たり、古事記によれば渡海して半島に渡っているから、これは当たらないかもしれない。

ただこの神社が建つ場所は「剣の塚」という古墳の上であるから、諸説ある中で景行天皇がクマソ親征の時、日向に駐留した際に娶ったとされる「御刀媛」(みはかしひめ)が可能性として浮かんで来る。

刀を「はかし」と言うのは「佩刀」の意味から来ていると思われる。「佩刀」の「佩」は「はく(はかすははくの尊敬語)」ことすなわち「身に帯びる」だから意味上よく合致している。

その姫が刀を身につけるほどの気丈夫だったのか、その刀の霊力を身につけた巫女だったのか想像するほかないが、この姫の亡骸を葬ったのが剣の塚だったのかもしれないと考えるとロマンがある。

剣の塚稲荷神社の駐車場からは大淀川支流の本庄川が開析した広い沖積田が一望できる。比高にして20mほどだろうか、神社の建つ現在地はこの綾川が削り残した丘陵で、標高約50m。

10mほど下に展開する居住地(河岸段丘)こそが稲作時代に人々が住んだところで、神社の建つ丘陵上はこの人々の墳墓の地(本庄古墳群)だったのだろう。今はこの古墳群の中に人々が住んでいるが江戸時代以前は下場の河岸段丘地帯こそが集落だったと思われる。

(追記)
神社の境内には摂社「国造(こくぞう)神社」があり、ここには景行天皇の子豊国別皇子(母は御刀媛)と、その子の老男(おいを)命を祀っている。

老男は日向国造(コクゾウ、くにのみやつこ)の初代と言い、このような国造を祀る神社は、九州では熊本以外にないという。

景行天皇の親征云々は別にしても、豊国別皇子にせよ、老男命にせよ日向国司以前の古いタイプの国の統治者の母系が御刀媛から出ていることは注目に値する。