鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

葉ボタンに霜

2019-12-28 10:38:58 | おおすみの風景
今朝ようやく氷点下(-1℃)となり強めの霜が降りた。

氷点下になったのは12月の上旬ころに一回あったが、あの時はやや強い霜(霜の強さは気温にもよるが土の水分量にもよるから、畑の白っぽさで判断するしかない)で、その後の高温でモンシロチョウの生存が可能になったため、青虫が復活した。

今朝、葉ボタンを見てみると、葉の縁取りがかなり凍っていた。ついていた青虫をつまんでみると硬直していたので、彼らには相当なダメージになったろう。
天気予報では30日から寒くなり、大晦日から元旦にかけて再び氷点下になるらしい。これで「青虫よさらば」となるだろう。やれやれ・・・。

数日前から垣根にしているヒトツバ(高野槙の一種)の剪定やら、庭に伸び放題の木々の整枝・剪定などで忙しい。

なにしろ端正な五葉松が庭の中心部に鎮座したので、それに合わせないと五葉松も他の樹々も生きてこない。

これまで茂る放題でロクに手を入れてこなかったものだから、大変だ。

だが、二三本を大幅にカットしてみて非常にすっきりするし、第一、庭の雰囲気が変わってくる。

遅きに失した感もあるが、にわか庭師になったつもりで年内にできるだけやってみることにしよう。

散り敷く紅葉

2019-12-26 11:06:35 | おおすみの風景
今年の冬はいまのところ完全な暖冬だ。暖冬で厄介なのが害虫である。

なにしろ10月下旬に庭のあちこちに定植した葉ボタンにいまだに青虫がたくさん涌いている。モンシロチョウがつい一週間ほど前まで我が物顔に庭を飛び交い、恋をして(?)妊娠し、結果として卵を青菜に産み付けたのだ。

暖冬と言っても12月に入ってから軽い霜は3回降りているのだが、そのくらいの寒さはなんのそのせっせと卵を産み付けたからたまらない。一昨日などは青虫を取りまくったら50匹以上はいた。

今日も10匹ほどは取った。去年はこの時期に赤・白の芯の部分が豊潤な色になり見栄えがしたのだが、今年のは痩せているうえに葉が虫食いだらけだ。

ああ、もう少し寒くならないのか。一度でいいから強烈な霜が降りて欲しいものだ。そうしたら青虫も絶えるだろうに。

暖かさは紅葉の色づきにも影響し、きれいな赤にはならなかった。せいぜいやや濃いめのオレンジ色というところで、ここ一週間ばかりでほとんどが散った。

東側の小庭には一本紅葉の大木があるが、葉を落とし尽くしてほぼ裸になった。

オレンジ色の紅葉では見ていても余り風情がなかったが、小庭に落ちたもみじ葉とツタの緑とのコントラストはなかなかのものだ。
ツタの覆った小庭にさらにもみじ葉が積もっている。先に積もった葉はオレンジ色から茶色に成りかかっているが、後から落ちてきた葉は日光に恵まれなかったのかオレンジの色素も抜けて黄色いのが多い。黄色葉の紅葉はいかにも儚さげで、これはこれでまた一興かもしれない。

昨日今日と雨模様だが、例年ならいわゆる「クリスマス寒波」の時期で、大隅の山地で1000メートルを超えるような山々には初冠雪が見られる頃なのに、今年は全くその気配がない。

桜島も今の頃かもう少し早い時期に荒々しい山襞を隠すように雪を被ったりするのだが、今年はそれも聞かない。

100年後にもあるのか米軍基地?

2019-12-23 11:45:23 | 専守防衛力を有する永世中立国
インターネットで調べると沖縄の新聞が読める・・・というか電子媒体によるニュースの速報のようなものだが、それによるとこの一年で辺野古海岸埋め立ての進捗率は米軍辺野古新基地全体の埋め立て量のわずか1.1パーセントだそうだ。

この分で行くと、辺野古新基地を埋め立てるだけであと90年かかることになる。埋め立て終わっても滑走路等の基地整備に数年はかかるだろうから、100年という超長期の建設ということになる。

そうなると気の毒なのは普天間基地周辺の住民である。もともと辺野古基地の新設は「世界一危険な」普天間基地の代替なのであるから、完成までのあと100年近くも普天間基地が使われることを意味するわけで、これでは沖縄県民も怒り心頭だろう。

そもそもあと100年も先に米軍が必要なのかーーの議論が起こるはずである。

大雑把に米軍の存在に賛成する階層は二つあり、「東アジアは政治的に非常に不安定であり、米軍の存在があってこそ日本の平和は保障されている」――と考える保守層、もう一つは「米軍が駐留することで日本が再び軍事大国にならないで済んでいる。自国軍は最小限でよい」ーーと占領時代の米国の考えに近い革新層がある。

結果的にはどちらも日米安保(米軍駐留)を容認している。

こういう人たちに聞きたいのは日米安保がある以上米軍の駐留はあるわけだが、あと100年も駐留させておくのかどうかということである。

トランプ大統領があけすけに言うように「日米安保は片務的すぎる。米国が攻撃されても日本は助けてくれない。こんな条約はおかしい」のである。だから駐留経費をもっと出さないと米軍は引き上げるぞ――とは彼の喉元まで出かかっている言葉だ。

このようにしてアメリカは言い値で駐留経費の上乗せをしつつ、同時に多彩な先端武器群を売りつけるだろう。過去もそのようにしてきた。

いま日米安保が問われている。

辺野古基地の問題を眺めていると、日本は軍事的にはほぼアメリカの属国だということが明確になる。そして外交も。

安倍さんが総理になった際に「自分の代で終わらせる」と真っ先に公言した北朝鮮の拉致問題もトランプ―金正恩会談とその後のぎくしゃくでうやむやになったままだ。そこには独自の外交というものがない。北方領土問題も同じで、プーチンは率直に「日米安保がある以上平和条約締結は無理」と言っている。

要するに日米安保を抱えたままの外交に日本の独自性は無く、他国からは米国の傀儡政権視されているから、日本の真意が伝わらないままなのである。安倍さんには「戦後」を本当に終わらせてくれる人物という期待が少しはあったのだが、もう期待できないのだろうか。

総理の首が吹っ飛んでも成し遂げて欲しいのが「安保廃棄」であり、そのうえで我が国を専守防衛力を保持した永世中立国宣言をするのが最善だろう。

ポツダム宣言(全13項)の第12項には次のように書かれている(文中のカッコは引用者による)。

12、日本国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件(第1項から11項まで。武装解除や領土の範囲などの条件)が達成された場合に、占領軍は撤退すべきである(占領軍とは今日で言う国連多国籍軍のことだが、ほぼ米軍だった)。

1951年のサンフランシスコ講和会議で日本の国際復帰・自立が認められ、英米の占領軍(多国籍軍)は引き上げていったが、同時に結んだ日米安保(旧安保)によって米軍のみの駐留が続けられ、さらに1960年の日米安保(新安保)により米国の世界戦略(冷戦)に組み込まれることになった。

1987年にソ連邦が崩壊し、1989年には東西ドイツが統一を果たして自由諸国が勝利し、デタントは格段に進んだにもかかわらず、日米安保が変えられなかったのは不可解だ。

その時点で安保を解消し日本が独自の協調外交に出ていれば、今日のような東アジアの不安定はなかったのに、残念なことである。

今からでも決して遅くはない。日米安保廃棄。永世中立国宣言。(辺野古基地はその時、米軍から自衛隊に引き継がれるか、もしくは基地建設そのものがストップになる)

「憲法9条に自衛隊を明記します」なんて小手先なことをやっていないで、世界の中の日本という立ち位置を確固とするためにも上の二点をぜひ俎上に載せてくれよ、安倍さん。

世界はそれを待っている。

五葉松の移植

2019-12-18 09:14:29 | 日記
宮崎県の三股町に住む従姉が引越しをするというので加勢に行ったら、「今度の住まいは団地で庭などないからこれを持って行っていい」というので、従姉が40年位前に東京在住の時に求めたという五葉松を我が家へ移植した。多分45年は経っている五葉松。求めた時は鉢植えでそれを東京から宮崎へ来るまで維持し、三股に移った時に広い庭のある借家なので地面に下したという。現在の樹高は160センチくらい、末広がりに仕立てた下枝部分の幅(直径)は130センチくらいで見栄えがする。

軽トラックを借りて宮崎から我が家まで70キロの移動だった。自分たちは結婚後に8回ほども引越しをしているが、こんな大きな植木の引っ越しは初めてである。

今度引っ越しをした従姉は昭和10年生まれの84歳。連れ合いは洋書の取次書店を営んでいたが、もう92歳と高齢で、子供がいなかったので書店も閉業になっていた。

今まで借りていた家は二世代住宅だったようで6DKもあり、商売用の書棚やらスチール机などがあちこちに置かれていた。ほとんどは引っ越しの際にそのまま処分に出したので少なくなったとはいえ2LDKの町営団地では置き場に窮するほどの荷物があった。

引っ越し業者は二トントラック2台、4人のチームで、朝9時半ころから大物の家具を積み込み小物の箱モノを多数詰め合わせ、昼直前には積み終え、すぐに5キロ離れた団地へ走り、幸い部屋は1階だったので降ろすのはわずか1時間で済んでしまった。

団地の築年数はわからなかったが、内部は完全なバリアフリーで、入り口のドアは開き戸ではなくスライド式で、開け放つと幅は優に1メートルはあり、大物の家具を入れるのにほとんど苦労はなかった。業者も助かったろう。

こんな高齢夫婦が引越しをするのも今回が最後だろう。最期の住処、終の棲み家だ。夫婦そろってカトリック信者なので、「教会の地下に合同墓地があり、死んだらあそこだよ」と屈託がない。

「子供がいたらよかったと思うけれど、体が不自由になり施設にでも入るときに、いるとかえって子供同士でどちらが後を見るかでもめることがあると聞くし、死んだら死んだで遺産や墓のことで喧嘩になるとも聞くからね・・・」

従姉は数年前に心臓で入院したことがあり、若干の不安はあるが見たところすこぶる元気を回復している。連れ合いは加齢による身体機能の衰えはあるが、たばこも吸うし、口も達者で衰えていない。

何とか穏やかな余生を送って欲しいものだ。

五葉松は立派に育てて行きますよ。

鬼火焚きの準備

2019-12-15 12:02:44 | おおすみの風景
所属する池園町内会では新年の1月4日の夜に鬼火焚きを行うが、今日はその準備(矢倉組み)があった。

集まった人たち17,8人で朝8時から近くの山林に生えている孟宗竹を30本ばかり田んぼに集め、すでに準備してあった古材やらスギの枝などで高さ12メートルばかりの矢倉を組んだ。

芯になる部分に古い木製の電柱を支柱として最も太い孟宗竹を一本すっくと立て、それを四方から杭とロープで止める。

今度は四周から孟宗竹を立てかけるようにしてちょっとやそっとの風でも倒れないようにした後、笠状になった内部に燃えやすい杉の葉や古材などを詰め込んでいく。

少し汗をかいたが、2時間半くらいで先端までの高さ12メートル、下端部の周囲20メートルほどの矢倉が完成した。

鬼火焚きは普通は1月7日に行われる「厄払い」の行事であるが、ここではまだ冬休みの時期のほうが子供たちの参加も得られようかと前倒しで行うようだ。

同じ大隅でも錦江町田代などでは鬼火焚きではなく「節替え(せっがい)」という名で2月の節分の夜にやっている。

「節」とは「節分」の節で、こちらは鬼払い(追儺)と同じだが、鬼火焚きにしても「災厄=鬼」を払うという点では同じ内容だ。

火を焚く行事では串間市などに「柱松(はしたまつ)」があるが、向こうは松、こちらは孟宗竹の違いだけだと思われる。

実際の行事まであと三週間、その間強風で倒れないかと心配もあるが、その分乾燥が進み当日はよく燃え上がるだろう。