邪馬台国を取り上げた「倭人伝」が記載されているのは、中国の正史『三国志』の中の「魏書・巻30・烏丸(ウガン)鮮卑(センピ)東夷伝」である。
AD220年に後漢が滅亡したあとの大陸は魏と呉と蜀の3ヶ国に分裂し、蜀が263年に、魏が265年に滅んだあと15年後には呉も滅び、280年に晋王朝よって統一されるまでの60年間が『三国志』の範疇である。
三国の中でも魏王朝は、東夷と呼ばれた朝鮮半島から九州島までの倭人の情報をかなり詳しく把握しており、晋王朝の史官であった陳寿(チンジュ)は魏王朝にもたらされた倭人系種族のあらましを今日に残してくれた。
陳寿は東夷に七種族ありとしてそれぞれの種族について当時としてはかなり詳しく書き残している。
その七種族とは北から「夫余(フヨ)」「高句麗」「東沃沮(ヒガシヨクソ)」「挹婁(ユウロウ)」「濊(ワイ)」「韓(カン)」「倭人」である。
これら七種族を私は倭人系種族として怪しまないのであるが、これから「倭人伝」以外の六種族について箇条書き的に取り上げたいと思う。
①【夫余(フヨ)】
・玄菟(ゲント)郡から東へ千里にある(ほぼ南満州を指す。シェンヤン・フ―シュンを含む一帯)。
・広さは2千里四方。(※一辺を歩くと20日かかる行程。)
・戸数は8万戸で、半島以北の倭人系種族の中では最大である。
・東夷の諸国の中では最も平原が多い。
・「君主あり」と言うが、具体的な王名はない。
・官に馬加・牛加・猪加・狗加・大使者・使者の7ランクがある。
・漢代に漢王朝に朝貢し、玉壁などを賜与されていた。ただ、印には「濊王之印」とあり、また国内に「濊城」と名付けられた城があり、夫余王はもともとは濊国に居たようだ。
・白衣を尊ぶ。
・跪き、手を地面について物を述べる。
・古老は「昔、ここへ亡命して来た」と言う。
【評】
夫余の古老が言い伝えている「我々は昔、この地に亡命して来た」という伝承と、「濊王之印」の存在と「濊城」と名付けられた城があることとは完全に整合しており、夫余には濊からの亡命者が多かったことが分かる。白衣を尊ぶことも濊と共通している(後述)。
②【高句麗(コウクリ)】
・遼東の東千里にある。鴨緑江中流から上流の山岳地帯に属する2千里四方が領域である。
・戸数は3万戸。
・大山と深い谷が多く、良田はない。
・「王あり」と記すが、王名はない。
・官に相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・相衣・先人の9ランクがある。
・後漢の光武帝8年(AD32年)の時に初めて「高句麗王」を名乗って朝貢した。
・遼東を独立国にしようとした公孫氏と組み、たびたび楽浪郡治に反抗したが、魏の明帝の景初2年(238年)に公孫氏が司馬懿将軍に討たれると、魏王朝に帰順した。
・五族(五部)がある(涓奴・絶奴・順奴・灌奴・桂婁の各部)。
・伝承では夫余の別種だという。
・10月に天を祭り、「東盟」(トウメイ)という大会を開く。
・国の東に洞窟があり、そこに「隧神(ズイシン)」がいるとする。
【評】
高句麗の支配領域は今日の北朝鮮の北半分、鴨緑江流域の山岳地帯である。「良田がない」のは当然だろう。
後漢の始めの頃には高句麗王を名乗る支配者がいたが、三国時代に魏の司馬懿将軍の攻略により王族を中心に北方の夫余に走ったと思われる。そのことが伝承の言う「高句麗は夫余の別種だ」つまり同国人ではないが夫余の別派であるという認識と一致する。
その夫余だが、そこには「濊王之印」と「濊城」とがあったとあり、そうなると夫余の南にありその別種だという高句麗も、北朝鮮南部の大国「濊」との関係は当然あったはずである。(※濊については後述)
面白いのが「東盟」であり、国の東にある洞窟にいるという「隧神」である。
前者は「東方に向かって誓いを立てる」と言う意味で、これは日の出に向かって祈ることと解釈される。今日の「初日の出」(東方拝)を思わせる。
後者の「隧神」だが、「隧(ズイ)」とはそもそも穴とかトンネルの意味なので直訳すれば「洞窟にいる神」となる。そうなるとこの隧神は、スサノヲの残虐に堪えられなくなった天照大神が「岩屋(洞窟)」に籠ってしまった姿が連想される。
「東盟」にせよ「隧神」にせよ太陽神への崇拝が原点のように思われ、倭人の風習に近い。
③【東沃沮(ヒガシヨクソ)】
・高句麗の東で、東海(日本海)に面している(現在の北朝鮮咸鏡南道の一帯である)。
・戸数は5千戸。
・大君主なし
・邑ごとに長帥(村長)がいる。
・秦王朝の末期の混乱期(BC200年頃)に、燕から亡命して来た衛満(エイマン)が朝鮮王を自称した時、東沃沮はこれに属していた。
・しかし漢の武帝が衛満の孫の右渠(ウキョ)を誅殺し、半島部に四郡が置かれた際(BC108年)、沃沮は北方の玄菟郡に帰属した。のちの後漢時代、初めは濊に属していたが、やがて高句麗に臣属した。(※【評】は④と合評する。)
④【挹婁(ユウロウ)】
・東沃沮のさらに北方の海岸沿いにある。
・戸数の記載なし。
・大君長なし。
・邑ごとに大人がいる。
・もと夫余に属していたが、黄初年間(220年~226年)に叛乱を起こした。夫余は鎮圧しようとするが毒矢と山岳に拠るゲリラ戦のため手こずっている。夫余人に似ている。
・寒さがはげしいため穴居生活をしているが、操船が上手であり、時に近隣を襲うことがある。
【合評】
東沃沮と挹婁は朝鮮半島の北東部に連なり、共に日本海に面している。どちらも戸数は少なく、君主と呼ぶような者はいない。後者の挹婁で特記すべきは「操船が上手」ということだろう。内陸国家の農牧畜主体の夫余が支配しようとしたが、生業の違いが袂を分かったようである。
⑤【濊(ワイ)】
・高句麗の東、挹婁の南、辰韓の北、東は海に面する(今日の北朝鮮域から東沃沮と楽浪郡域を除外した領域である)。
・戸数は2万戸
・大君長は無し。
・漢王朝が朝鮮・満州に四郡を置いた(BC108年)ことで、楽浪郡が設置され、今日の北朝鮮の中心領域を占めていた国の西半分を奪われ、上に見る領域に縮小された。
・魏による半島統治の頃(AD230年代)には、官として「侯邑君(コウユウクン)」と「三老」があった。
・殷王朝末期(BC1000年頃)に亡命して来た殷の王族の「箕子(キシ)」の王統が続いたが、40数代目の準(ジュン)王の時、燕からやって来た衛満によって王権が奪われ、準王は南の韓に逃れた。
・魏王朝の楽浪郡治下では大人が「不耐濊王」という称号を与えられた。楽浪郡への租税負担と兵役奉仕により、魏王朝からは「良民」の待遇を受けていた。
・山川に入会制度のようなものがあり、みだりに入ることはできない。
・疾病で人が死ぬと、その家を取り壊して建て直す。
・10月に天を祭り、昼夜にわたって歌舞飲食する。
・虎を神として祭る。
・厳しい刑罰が定められていて、人を殺せば死を以て償う。
・同姓の者は結婚できない。
【評】
朝鮮半島の倭人系種族の中心はこの濊(ワイ)であったようだ。夫余の項で見たように、夫余には「濊王之印」と「濊城」と名付けられた城があった。
「濊王之印」は濊に王がいた時代、つまり衛満によって国が乗っ取られたBC200年の頃にさかのぼる時代までに作成されたか、あるいは秦王朝もしくはそれ以前の周王朝から配布されたものなのか判断はできないが、いずれにしても朝鮮半島に君臨していたのは「濊王」であった証拠と言える。
その貴重な王の印が夫余の国庫にあったと夫余伝は記すが、その王印が夫余にもたらされたのは燕の衛満が侵略し準王が追放された時(BC194年)か、前漢王朝による朝鮮半島四郡分割統治の時(BC108年)だろう。
どちらかは判明しないが、どちらの侵攻にせよ当時の濊人の相当数が高句麗を越えて夫余に亡命移動した結果、230年代には夫余の戸数が8万という濊(2万戸)と高句麗(3万戸)を併せてもなお3万戸も多い驚くべき人口を抱えるに至ったに違いない。
「濊(ワイ)」という種族名(国名)だが、奇書とされる『山海経(センガイキョウ)』の「海内経」の中に次のような記述がある。
<東海のうち、北海の隅に国がある。名は朝鮮天毒。この国の人は水に住む。偎(ワイ)人、愛(アイ)人がいる。>
山海経は著者も由来も不明の書だが、専門家の小川啄治(湯川秀樹の父)によれば、戦国期以前に洛陽で作成された物だろうという見解である。紀元前403年に始まった戦国期より古いとなると紀元前500年頃になるが、地理的に荒唐無稽と言われるのもうなずける古さである。
朝鮮半島を意味する「朝鮮天毒」という貶めたような記述にまず驚かされるが、「朝鮮」とは「朝の鮮やかな土地」という意味であり、日の出に近い大陸から見ればはるか東の地域にふさわしい命名である。ただ「天毒」については大陸の中心以外は「蕃夷」だとする中華思想のなせる命名だろう。
特記すべきはその東の半島に住む「偎(ワイ)人」と「愛(アイ)人」である。このうち「ワイ」は「濊」そのもので、半島に住んでいるのは「ワイとかアイ」とかいう人々だと言っているのだ。
さらに言えば半島から海を隔てた列島の住人は「ワ(倭)」であった。そこに濃密な関係性を見ない方がおかしいだろう。
要するに半島における倭人系種族の中心は「濊(ワイ)」人であったとして大過ないと思うのである。
※(1)の部、終わり。