記紀点描㊱で取り上げた「仏教の事始め」は、百済から到来した仏像(釈迦仏・弥勒仏)、仏具、経典、寺大工、画工などを入手した大臣蘇我馬子が、我が家に仏殿を建てたことからである。敏達天皇の13年(584年)の事であった。
このことが物部氏との確執(崇仏論争)となり、ついに2年後には馬子軍が物部守屋大連を倒し、仏教が大和に定着していくことになった。
話は少し前後するが、百済から弥勒仏が送られて来た年の前年(583年)、敏達天皇は父の欽明天皇の遺言に等しい「任那の再興」策を立てるに当たり、百済に「達率(タッソツ)」という高官として仕えている「日羅(にちら)」という倭人を招いたのであった。
この日羅という倭人は、火(熊本)の葦北国造であった「刑部靫負部(ぎょうぶ・ゆげい)阿利斯登(ありしと)」の子で百済で生まれ、百済に仕え、臣下としては最高の位である達率(タッソツ)にまで上り詰めていた。
父の阿利斯登は宣化天皇の時代(在位536~539年)に大伴金村大連によって百済に派遣されており、向こうで生まれたのが日羅であった。
ところでこの父の名だが、前半分の「刑部靫負」は役職名で、国造になる前に朝廷で軍務に就いていたことを表している。面白いのは後半の阿利斯登(ありしと)である。
10代崇神天皇の最末期(西暦300年頃)に半島からやって来たのが蘇那葛叱智(ソナカシッチ)、別名「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」だった。別名の方が具体的であり、前半の「都怒我」は任那の地名である。そして後半の「阿羅斯等(アラシト)」。これは日羅の父の「阿利斯登(ありしと)」と「羅」と「利」の一字違いなのだ。
アラシトとアリシトはほぼ同じ意味かと思われるのだが、その意味は統治者として「○○を在らしめる」ということではないだろうか。天皇の和風諡号に多く見られる「足(タラシ)彦」の「タラシ」(足らす・満足させる)にも通う意味かと思われる。半島南部の言語と倭国(主として九州島)の言語には共通性が多々見られるが、その一つとして考えておきたい。
さて日羅は百済で高官になっており、当然、百済語を使っていたと思われる。敏達天皇が派遣した吉備海部直羽島という吉備臣の豪族は百済らに到着して日羅の屋敷を訪問するのだが、その時に不可解な出来事があった。
日羅屋敷を訪問すると下女が出て来て「韓語(からさえずり)」で「どうぞ私の後についてお入りください」といたというのである。
下女がしゃべったのは韓語で、具体的に言えば「百済語」である。ところが使者の羽島と日羅の会談は「通訳」を介していない、つまり倭語で行われたようなのだ。
日羅は父が存命中に倭語を習ったであろうから、通訳を介せずとも倭語が話せたとは考えられる。だが下女の「百済語」が不審である。なぜ倭語を使わなかったのか。
任那(旧弁韓)は倭人による国家であったから倭語が普通語であった。したがって任那と一卵性双生児のようだった辰韓(新羅)も倭語がほぼ普通語として使われていた(弁韓と辰韓は雑居していた――と魏志倭人伝は記している)。
百済でも倭語は通用していたことは、今しがた指摘したように、向こうで生まれ育った日羅と敏達天皇が派遣した羽島との間に通訳(曰佐=おさ)を介さずに交渉を進めたことで分かる。
そこへもってきて「韓語(からさえずり)」を下女はしゃべった。これは倭語センターであった「任那」が西暦562年(欽明天皇23年)に新羅によって滅ぼされたことに端を発しているのだろう。
つまり任那が滅ぶことにより、倭語から独立して新羅語、百済語という倭語から見れば「方言」が発生し、定着しつつあったということを意味しているのだ。
大陸を通して仏教文化が半島に浸透して来たことも大きく作用したに違いない。倭語も仏教経典の読誦や学習を通して、日常の中に「漢語・漢字」が取り入れられ、変化していったのと同じである。
さて日羅の献策は「むやみに半島に軍隊を送るのはやめ、まずは3年間人民を養うこと。たくさんの船を造り、要港に浮かべ、半島からの使者たちに見せて怖れを抱かしめること。百済王を招来すること。」などであった。(※当時の百済王は27代威徳王=在位554~598年)
しかし日羅の献策もむなしく、日羅はその年の暮れに、「難波館」という外交施設において百済から付き添ってきた重臣たちの手によって暗殺されてしまう。
朝廷では下手人の徳爾(トクニ)らを火の葦北国人に預けたが、悉く殺されたという。また日羅の遺骸を難波から引き取り、葦北のしかるべき地に埋葬している。
なお、日羅を「日羅上人」と表記する歴史資料があるが、書紀の敏達天皇紀に日羅が僧籍を得ていたという記述はない。
鹿児島の幕末近くの歴史書『三国名勝図会』の谷山郷の記録に「如意山清泉寺」の項があり、その開基は「百済の日羅」とし、「年紀詳らかならず」と書くが、日羅は僧侶ではないのだからこれは有り得ない。
徳爾たちは日羅を殺害しようとするが、
<時に、日羅、身の光、火焔の如きものあり。これによりて徳爾ら、恐れて殺さず。ついに12月の晦(つごもり=みそか)に、光失う候(とき)に殺しつ。日羅、さらに蘇生して曰く「これは我が使者奴の為せる所なり。新羅にはあらず」といふ。>
と、身から強いオーラが出ていたため殺しきれず、ようやくそれが衰えた12月末日に殺害に及んでいる。しかもその時に日羅は蘇生して「百済から一緒に来た連中の仕業で、新羅とは関係がない」と言ったという奇跡が、日羅を「修行を積んだ高僧」に仕立てたのだと思われる。
このことが物部氏との確執(崇仏論争)となり、ついに2年後には馬子軍が物部守屋大連を倒し、仏教が大和に定着していくことになった。
話は少し前後するが、百済から弥勒仏が送られて来た年の前年(583年)、敏達天皇は父の欽明天皇の遺言に等しい「任那の再興」策を立てるに当たり、百済に「達率(タッソツ)」という高官として仕えている「日羅(にちら)」という倭人を招いたのであった。
この日羅という倭人は、火(熊本)の葦北国造であった「刑部靫負部(ぎょうぶ・ゆげい)阿利斯登(ありしと)」の子で百済で生まれ、百済に仕え、臣下としては最高の位である達率(タッソツ)にまで上り詰めていた。
父の阿利斯登は宣化天皇の時代(在位536~539年)に大伴金村大連によって百済に派遣されており、向こうで生まれたのが日羅であった。
ところでこの父の名だが、前半分の「刑部靫負」は役職名で、国造になる前に朝廷で軍務に就いていたことを表している。面白いのは後半の阿利斯登(ありしと)である。
10代崇神天皇の最末期(西暦300年頃)に半島からやって来たのが蘇那葛叱智(ソナカシッチ)、別名「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」だった。別名の方が具体的であり、前半の「都怒我」は任那の地名である。そして後半の「阿羅斯等(アラシト)」。これは日羅の父の「阿利斯登(ありしと)」と「羅」と「利」の一字違いなのだ。
アラシトとアリシトはほぼ同じ意味かと思われるのだが、その意味は統治者として「○○を在らしめる」ということではないだろうか。天皇の和風諡号に多く見られる「足(タラシ)彦」の「タラシ」(足らす・満足させる)にも通う意味かと思われる。半島南部の言語と倭国(主として九州島)の言語には共通性が多々見られるが、その一つとして考えておきたい。
さて日羅は百済で高官になっており、当然、百済語を使っていたと思われる。敏達天皇が派遣した吉備海部直羽島という吉備臣の豪族は百済らに到着して日羅の屋敷を訪問するのだが、その時に不可解な出来事があった。
日羅屋敷を訪問すると下女が出て来て「韓語(からさえずり)」で「どうぞ私の後についてお入りください」といたというのである。
下女がしゃべったのは韓語で、具体的に言えば「百済語」である。ところが使者の羽島と日羅の会談は「通訳」を介していない、つまり倭語で行われたようなのだ。
日羅は父が存命中に倭語を習ったであろうから、通訳を介せずとも倭語が話せたとは考えられる。だが下女の「百済語」が不審である。なぜ倭語を使わなかったのか。
任那(旧弁韓)は倭人による国家であったから倭語が普通語であった。したがって任那と一卵性双生児のようだった辰韓(新羅)も倭語がほぼ普通語として使われていた(弁韓と辰韓は雑居していた――と魏志倭人伝は記している)。
百済でも倭語は通用していたことは、今しがた指摘したように、向こうで生まれ育った日羅と敏達天皇が派遣した羽島との間に通訳(曰佐=おさ)を介さずに交渉を進めたことで分かる。
そこへもってきて「韓語(からさえずり)」を下女はしゃべった。これは倭語センターであった「任那」が西暦562年(欽明天皇23年)に新羅によって滅ぼされたことに端を発しているのだろう。
つまり任那が滅ぶことにより、倭語から独立して新羅語、百済語という倭語から見れば「方言」が発生し、定着しつつあったということを意味しているのだ。
大陸を通して仏教文化が半島に浸透して来たことも大きく作用したに違いない。倭語も仏教経典の読誦や学習を通して、日常の中に「漢語・漢字」が取り入れられ、変化していったのと同じである。
さて日羅の献策は「むやみに半島に軍隊を送るのはやめ、まずは3年間人民を養うこと。たくさんの船を造り、要港に浮かべ、半島からの使者たちに見せて怖れを抱かしめること。百済王を招来すること。」などであった。(※当時の百済王は27代威徳王=在位554~598年)
しかし日羅の献策もむなしく、日羅はその年の暮れに、「難波館」という外交施設において百済から付き添ってきた重臣たちの手によって暗殺されてしまう。
朝廷では下手人の徳爾(トクニ)らを火の葦北国人に預けたが、悉く殺されたという。また日羅の遺骸を難波から引き取り、葦北のしかるべき地に埋葬している。
なお、日羅を「日羅上人」と表記する歴史資料があるが、書紀の敏達天皇紀に日羅が僧籍を得ていたという記述はない。
鹿児島の幕末近くの歴史書『三国名勝図会』の谷山郷の記録に「如意山清泉寺」の項があり、その開基は「百済の日羅」とし、「年紀詳らかならず」と書くが、日羅は僧侶ではないのだからこれは有り得ない。
徳爾たちは日羅を殺害しようとするが、
<時に、日羅、身の光、火焔の如きものあり。これによりて徳爾ら、恐れて殺さず。ついに12月の晦(つごもり=みそか)に、光失う候(とき)に殺しつ。日羅、さらに蘇生して曰く「これは我が使者奴の為せる所なり。新羅にはあらず」といふ。>
と、身から強いオーラが出ていたため殺しきれず、ようやくそれが衰えた12月末日に殺害に及んでいる。しかもその時に日羅は蘇生して「百済から一緒に来た連中の仕業で、新羅とは関係がない」と言ったという奇跡が、日羅を「修行を積んだ高僧」に仕立てたのだと思われる。