南九州の考古学上の発見資料とそれに関する見解でここ15年ほどで大きく変わってきたことがある。
それは朝鮮半島との交流である。
20年位前までは、南九州における朝鮮半島系のたとえば馬具などが発見されるとすぐに考古学者は「これは畿内の王権から賜与されたもので、畿内王権と在地豪族の密接な関係を示している」「畿内王権の支配が当地まで完全に及んできた」などと、「はじめに畿内王権ありき」的な、言うなれば「上から目線」の解釈が主であった。
それだけ南九州は文化が遅れており半島系の馬具や質の良い須恵器などが見つかるはずもなく、もし見つかったとしたらそれは中央からのお墨付きを象徴する威信財だろう――というのが常識だった。
また、前方後円墳はこれも畿内王権がまず始めた墓制であり、地方にあるのは畿内王権が「配布した」(築造許可を与えた)ものである――というのも同じく常識であった。
ところがこの常識を覆したのが宮崎県(及び鹿児島県)すなわち「古日向」の古墳である。
前方後円墳について言えば、その成り立ちは、円形周溝墓→帆立て貝式古墳→柄鏡(えかがみ)式古墳→前方後円墳という時系列によることが分かっており、円形周溝墓は鹿児島県志布志市松山町に15基ほどの墓群が見つかっており、また帆立て貝式は西都原古墳群の盟主的存在である「男狭穂塚」がまさにそれであり、柄鏡式古墳は同じ西都原古墳群の81号墳など数基がそれである。
畿内大和地方では円形周溝墓そのものの発見例はきわめてまれだが、柄鏡式は「日向型」という形容で前方後円墳以前の様式として数基が認識されている。
そして例の「箸墓古墳」だが、畿内に邪馬台国があったとしたい学者たちはこれを女王・卑弥呼の墓としたいがために、「大和では卑弥呼の死んだ3世紀半ば(実年代は西暦247年)にすでに定型的な周濠をめぐらした前方後円墳を築造していた。それがまさに卑弥呼の墓である箸墓に他ならない」とこじつけている。
日本列島で最初の定型的な巨大高塚古墳を築いた王権は日本の中心であった畿内、なかんずく大和地方にその初源がなければならない――とする「大和中心主義」(最近の言葉で言うと、大和ファースト主義)が実情を見ようとしなくなっているのは嘆かわしい。箸墓古墳の実態からすれば約100年ほども年代は下がるはずだ。
また宮崎県の最西部のえびの市では島内地下式横穴墓群が発見され、地下式なのに巨大前方後円墳の副葬品に劣らない大量の武具・馬具・刀剣・鉄鏃などが副葬されており、地下式系古墳の概念を変え、同時に前方後円墳との関係を再考するものとして大ニュースになった。
現在までに島内地区では約200基の地下式が確認されているが、痕跡があるという数基の高塚墳以外すべてが地下式横穴墓であるという。これは同じ宮崎県(古日向)でありながら、西都原古墳群をはじめとして県内の東側では「高塚古墳」が圧倒的に多い状況と全く対照的であり、ここをどう解釈するかも興味ある視点だ。
今それは置いておくが、発見された豪華な副葬品の中でも「馬具」一式については、20年前なら「朝鮮半島の製品だが、畿内王権とのかかわり強い在地の豪族が、畿内王権への貢献に対する賞与として下賜された物だろう」と一件落着だったろうが、ここ10~15年前からは「朝鮮半島から直接、当地の豪族が手に入れたのではないか」と思考の風向きが変わってきた。
また在地豪族の海外との交流というと、南九州の豪族は南西諸島やそこを通じての大陸との「南方交易」が主で、半島との交流は畿内王権とのかかわりの中で間接的な交易を行っていたに過ぎない――というのが15年前までの見解であった。
つまり南九州と朝鮮半島とのかかわりは畿内王権を介在させた間接的なものでしかなかったというのである。これが誤りであることは島内地下式横穴古墳群が証明したといってもよい(※東側の高塚古墳群の中から発掘された馬具などもおそらくは在地豪族が半島から直接手に入れたに違いない)。
実はこのことを文献上でうかがえる史料がある。それは2~3世紀の倭人や朝鮮半島のことが記されている「魏志韓伝」である。
もちろん韓伝に「倭人に対して、馬具一式を与えた」とか「倭人が馬具と鉄器を求めてきた」などと書かれているわけではない。しかし倭人がいかに深く朝鮮半島の南部三国(馬韓・弁韓・辰韓)とかかわっていたかがかなり詳しく描かれている。
これについての詳細は拙著『邪馬台国真論』で「魏志韓伝」を読み解きながら考察してあるので、ここでは触れないが、ただ、「馬韓」の条に見える「天君」と「蘇塗」という習俗について確かめようと、「日本と朝鮮の海山をめぐる古代祭祀」とのテーマ展示を開催しているという情報を得て、11月24日(土)に西都市の西都原考古博物館に出かけてきた。片側6人ずつが漕ぐ古代船の埴輪。朝鮮半島までを往来した古日向の水人(航海民)の活躍を象徴している。
西都原古墳群の一角にある西都原考古博物館は、入館料が無料ながら「動態的展示」とでもいうべきビデオとCGを多用した実に濃密な演出をしていて、見る者を惹き込み飽きさせない博物館である。
残念ながら特に馬韓の「天君(テンクンまたはあめぎみ)」「蘇塗(ソト)」に関する遺跡などの展示はなかったが、折よく展示室に出てきた学芸員氏に、著書『邪馬台国真論』の「韓伝を読む」の中の「天君」「蘇塗」のページを示しながら、倭人とのかかわりを述べたあと、著書を寄贈してきた。
また、古墳の形状について、上に触れたように「同じ古日向なのに、東側は畿内型の高塚古墳地帯であるのに、西のえびの・小林市方面は地下式ばかり。かっては、西側はいわゆる隼人に代表される遅れた部族だったので高塚を築く許可が下りず、また、能力もなく、在地性の強い地下式を選択せざるを得なかったという考え方が支配的だった」と述べ、「むしろ積極的に地下式を選んだのではないか? その理由は基本的には、見つけられないようにするため。つまり高塚ではよく見られる盗掘や墓あばきをさせないようにするため。朝鮮半島で直接手に入れた馬具や鉄器や須恵器などを死後のために副葬して(隠匿して)おきたいのが大きな理由ではないか」
以上のような見解を述べたら、学芸員氏は次のような事例を挙げた。
西都原古墳群から南、宮崎市の西にある「生目古墳群」の5号(?)墳では、まず地下式横穴墓が掘られて古墳の主が埋葬された後、上に円墳が築かれた。そしてその頂上部には1世代あとの竪穴が掘られて副葬品も見つかっている。これだと地下式の上にわざわざ盛り土をして高塚を造っているわけで、墓があばかれないように地下式にした意味がなくなっている――と。
なるほど、それは知らなかった。
地下式横穴墓の上にわざわざ円墳を築くとはどういうことだろう? 他にもいくつかそのような事例があることは何かの本で知ってはいたが、さらにその円墳の頂上に竪穴を造って新たに埋葬(追葬?)するとは、一体何を意味するのか。
最初、地下式の上に高塚を築くのは盗掘用の「ダミー」かと一瞬思ったが、しかしその高塚にも人が葬られたとなると・・・、よく分からなくなった。これだから古代は面白い。