鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

歴史の中の日本の「国号」(2)

2025-02-28 09:19:35 | 古代史逍遥
   【日本は「やまと」?】

(1)では現在にも通じる日本という国号が内外(自他)ともに成立したのは、およそ670年の頃であったとした。

この670年というのは『日本書紀』よると、天智天皇の9年であるが、天智天皇(中大兄皇子)は661年に母である斉明天皇が筑前朝倉宮で薨去したあとも九州に留まり、百済への救援隊を指揮していたが、663年3月に上毛野君稚子らを将軍として27000の軍隊を対新羅戦に送り、さらに庵原君に1万の舟戦員を400余りの舟で白村江河口に向かわせたのだが、いずれも大敗を喫している。

その後、666年にかけて唐使が次々に訪れて日本の降伏を促し、確定している。

このような状況の中で天智天皇が天皇位にあったとは考えられず、日本書紀の記述は天智天皇としての事績を連綿と書くのだが、どうも信じられないのである。

669年には股肱之臣のである中臣鎌足に対して「大織冠」を授け、同時に「藤原氏」を賜姓している。

天智天皇の遺児である大友皇子はいったんは太政大臣に就任するが、天智天皇の弟(太皇弟)であるのちの天武天皇との間で戦い(壬申の乱=672年)が起き、勝利した天武が次代を継承している。

このような混乱した時代相を見ると、日本が「倭国」から「日本」へと国号を変えたと言っても内外に確固たる国号として宣言されたものではなかった。

『日本書紀』も「にほんしょき」と読む以上に「やまとふみののり」などと「日本」とかいてこれを「やまと」と読むのが通例だった。

『古事記』では「倭」も「大倭」もともに「やまと」と読ませており、まるで国号は「やまと」であるかのようである。

今日の奈良県に当たる大和国が、670年の頃も列島倭人の中心地(首都)であったのだから、日本の国号を「大和国」にすれば筋が通るのではなかったか。

沖縄の人は今日でも本土の日本人を「ヤマトンチュ」(大和の衆)と呼ぶ場合があり、「やまと」を列島全体の「国号」にしてもおかしくはない。

 【「やまと」は邪馬台国から来ている】

この「やまと」という呼び名は、邪馬台国畿内説論者が邪馬台国が畿内にあるとする一つの大きな論拠であるが、確かに「邪馬台国」を漢字に従って発音すれば「やまたいこく」であり、中の連字「たい」をつづめれば「と」となり、従って「やまとこく」となりそうである。

しかし『隋書』によれば、

<倭国は百済、新羅の東南に在り。水陸3千里、大海の中において山島に拠っている。魏の時、訳を中国に通ずるもの30余国、皆自ら王と称す。夷人にして
里数を知らず、ただ(距離を)計るに日を以てす。その国境は東西5月行、南北は3月行にして、各々海に至る。その地勢は東高くして西は下り、耶靡堆に都す。すなわち魏志のいわゆる「耶馬臺」なる者なり。>とある。

(抄訳)魏王朝の時代に女王卑弥呼の国「邪馬台国」に臣属する30か国があり、皆王を自称していた。東夷の野蛮人なので距離に関して「里」を使わず「日数」で表していた。(中略)地勢的には東側が高く、西に向かって低くなている。「耶靡堆(やまつい)」に都している。これを魏志では「耶馬臺(台)」と書いている。

抄訳の最後の部分は注目すべきで、魏志倭人伝では「邪馬台国」と書いているのをこの『隋書』の一節では、「耶靡堆(やまつい)」としてある所だ。

私は邪馬台国とは中国側の史料に載せる際に、倭人が「あまつひつぎの国」と言ったのを語頭に「や」を冠して書き下ろしたのだろうと考えている。

つまり倭人が国名を尋ねられて「あまつひつぎのひめみこの国」と答えたのだろうと考えるのだ。

ローマ字化すれば「amatu-hi-tugi-no-himekiko-no-kuni」で、後半の「ひめみこ」は当然ながら女王ヒミコのことだが、これを省略すると「amatu-hi-tugi-no-kuni」となる。

これを漢字化して史料にする際に頭に「ya(や)」を付け、「yamatu-hi-tugi-no-kuni」とし、卑語による漢字音化で「やまつい(の国)」すなわち『隋書』が表しているよ「耶靡堆(やまつい)」こそが倭人本来の自称が「あまつひ」だったことを示唆している。

「あまつひ」とは倭漢字では「天津日」と書き、この「天津日」は倭人の神(天上)観念を表すのに最も多く使われている言葉で、特に神話においてはこれなくして語れないほど重要な倭語である。

要するに魏の時代に列島に訪れた使者が九州にあった倭人の言葉で「天津日継の国」と言ったのを漢字で「邪馬台国」と書き表したがゆえに漢音を習い覚えた倭人が「やまたいこく」と読み、それが却って通称的に使われて定着してしまったのだろう。

今日、日本のことを日本人自身が「ジャパン」と多用するのと似たようなことではないだろうか。

 【「やまと(大和)」が国号にならなかったワケ】

670年当時の大和地域が列島の中心であれば、国号自体が「大和国」になってもおかしくないのだが、上で述べて来たように「やまと」は「邪馬台国」から来ており、しかも元が「あまつひつぎの国」という倭語だったのが中国の史料上で「邪馬台国」と変えられ、しかも使われている漢字が「卑字」だったとあれば、漢字を学んで来た倭人にとっては採用できない国号であったろう。

また倭音の「やまと」に対して「大和」という漢字が当てられているのも不可解と言えば不可解である。

この「大和」の元字は「大倭」であるのだが、この「大倭」というのは邪馬台国と同じく倭人伝に登場する「大倭をして監せしむ」(倭人連合によって監督・監視させる)から来ており、「大倭」は「大いなる倭人国家(倭人連合)」で、卑弥呼の「邪馬台国30か国連盟」を監視監督していた北部九州の倭人連合のことである。

この「大倭」がのちに畿内大和に進出して崇神王権を樹立したがゆえに、畿内は「大倭国」となり、のちに「倭」を嫌って「和」に改めている。

しかし「大倭国」が「大和国」に変えられても、日本の国号は「大和」にはならなかった。やはり中国の史料上の通称名では自尊心が許さなかったに違いない。

「日本」の倭語「ひのもと」は九州のどこかで生まれた国号だが、古事記の国生み神話では九州の4つの国はすべて「日」を国名に持っているのが注目に値する。

白日別(しらひわけ)・・・筑紫国
豊日別(とよひわけ)・・・豊国
建日向日豊久士比泥別・・・肥国
(たけひにむかい、ひゆたかなる、くしひのねわけ)
建日別(たけひわけ)・・・熊曽国

このうち3番目の肥国の古名が論議を呼ぶところだが、私はカッコ内の読みに従っている。「くしひ」は「奇し日」であり、「大王」という意味であろう。

私としては肥国か熊曽国に「日本」国号の淵源があると見ているのだが、具体的な地域の特定には至っていない。




歴史の中の日本の「国号」(1)

2025-02-25 10:38:19 | 古代史逍遥
 【日本からジャパンへ】

JR、JA、Jポップス、Jリーグ・・・と何でも「J」流行りだが、このJは無論「ジャパン」の略字である。

戦前は「英語の禁止」政策もあって街中に英語や英文字が見られることはなかったが、戦後は勝者である連合国総司令部の占領政策で、その時には到る所に英語の看板が見られた。

しかし1951年9月にサンフランシスコ平和条約が締結されて占領軍がいなくなると、もとの日本語の看板だけになった。(※沖縄では1972年の施政権返還まで英語に表記が普通であった。)

この「J」の氾濫はもちろん占領当時と違って、日本人が自ら表記したものであるが、そもそも日本が英語圏では「ジャパン」と呼ばれるその淵源は、中世の中国元王朝の時代にイタリアのベネティアからやって来たマルコポーロの残した『東方見聞録』に書かれた「ジパング」であったのは周知のことである。

その中で日本のことは「黄金の国」という紹介もなされていて、この点で当時の欧米人には印象深い国として記憶された。

当時の元王朝の首都「大都」の人々は「日本」を「リーベン(ri-beng)」と呼んでおり、それをマルコポーロたちには「ジュ・パン」と聞き取られ、欧米で普及して行った際に転訛されて今日の「ジャパン」となったようだ。

今日の正式な国号は「日本国(にほんこく)」だが、国際的に、また現代的には「JAPAN」の方がより普及している。


 【倭国から日本へ】

日本という国号が生まれる前は「倭国」だったのだが、これに代わって「日本国」が内外共に認知されるようになったのは、意外と古い。

西暦720年に完成を見た『日本書紀』が漢字として公式に使われた「日本」だが、じつは日本はその50年ほど前には使用されていたようである。

中国の官選史書で日本(倭人・倭国)のことを載せた史書は、古くは『後漢書』があり、有名な『魏志倭人伝(三国志・魏書・東夷伝倭人条)』などがあるが、『旧唐書』に「倭国」及び「日本国」とが並列して紹介されているのが参考になる。

この『旧唐書』にはまず「倭国」の項があり、すぐ後に『日本国」が記されている。

それぞれの記事から唐王朝の年号によって西暦が分かる部分を上げると次のようである。

・倭国・・・(貞観)22年に至り、また新羅に付して奉表し、以て起居を通ず。

・日本国・・・長安3年、その大臣・朝臣真人来たりて方物を貢ず。

前者の貞観22年は西暦648年、後者の長安3年は703年。以上からのちの日本が最後に「倭国」という呼称で史書に載るのは648年のことであった。これで上限が定まることになる。

後者の「日本国」呼称は703年であり、『旧唐書』より約100年後に編纂された『新唐書』に見える、

<(倭人が)倭の名をにくみ、日本を号とす。使者自ら言えるは、「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と。或いはいう「日本すなわち小国、倭を併わすところとなり、ゆえにその号を冒す」と。使者は情を以てせず、故にこれを疑へり>

という記事は咸享元年に載せられたもので、咸享元年は西暦670年であるからこの年が倭国から日本国への転換の年としてよいだろう。

ただ、最後の『新唐書』には不可解な記事がある。<或いはいう「日本すなわち小国、倭を併すところとなり、ゆえにその号を冒す」>という箇所である。

これは「日本という国号の国があったが小国であり、その国が「倭」を併合したので倭という国号がなくなった」という意味であるが、私はこの小国「日本(ひのもと)」は九州に誕生し、九州にあった倭国を併合したものと考える。

その契機は、九州内の倭国が百済を救援に半島に派兵して大敗北を喫して壊滅し、その間隙を縫って同じ九州内に「日本(ひのもと)」が誕生し、やがて畿内の倭国も日本という国号を選んだのだろう。

九州に誕生した「日本(ひのもと)」とは今日の「熊本」に該当している。『隋書』に<阿蘇山有り>と記載された所である。「熊」とは「火の盛んなさま」を意味し、「火」はまた「日」のことでもあるからだ。




「飛鳥」を「あすか」と呼ぶワケ

2025-01-20 17:15:31 | 古代史逍遥
先日の1月8日付ブログ「昨日・今日・明日」では、昨日は「きのふ」、今日は「けふ」というように歴史的仮名遣いでは「ふ」が共通で、「ふ」は「経(ふ)」の意味から来るのだろう――とした。

しかしそうなると、昨日はたしかに時間が「経て」いるので、「ふ(経)」が該当するが、今日はまさに今の時点なのだから「ふ(経)」だと矛盾するので、お手上げだという風に書いた。

ところが難しい論議になるが、「今」というのは「今この瞬間」ならたしかに「今」だが、時間(この瞬間)はすぐに経って行き、あっという間に過ぎて行くと考えれば、「直ちに経て行く」のだから「今日」という一日も「過ぎつつある時間の集合」ということになる。

したがってこの観点から見ると今日が「けふ」と「ふ(経)」が使われてもあながち間違いとは言えないのではないだろうか。

まあしかしこの論議は屁理屈と言われても仕方がないかもしれない。

その一方で「明日」だが、「あす・あした」には「明ける」の「あ」が使われており、「あくるひ」から「あす・あした」に転訛して行った可能性は高いように思われる。

ところで万葉集で「明日」はほぼ「飛鳥(とぶとり)の明日香」という使い方がなされている。「飛鳥(とぶとり)」は「明日香(地方)」の枕詞であり、ここから「飛鳥(とぶとり)」は「あすか」と同訓であるとしてよい。

類推すると「明日香」の「明日」が「あす」と読まれ、また同時に「飛鳥」が万葉集編纂時(760年代)のはるか昔から、おそらく文字通り「飛鳥時代」(ほぼ西暦600年代)から「あすか」と呼ばれて来たのは間違いないだろう。

「飛鳥」も「明日香」も「あすか」という訓なのは以上で明らかになったが、そもそも「あすか」とはどういう意味なのだろうか?

「あすか」という和語には漢字で表される「飛ぶ鳥」の意味も「明日香る」の意味もない。強いて言えば「明日香」の方が「あすか」と読ませるのに役立っており、これはこれで意義がある。

しかしそれはあくまでも訓読みに関して役に立っているに過ぎず、肝心の和語の「あすか」の意味まで表してはいない。

最も「あすか」の意義に近いと思われる解釈は「あ・すか」と分けて「あ洲処」という漢字を当てはめた解釈だろうか。

「洲(す)」とは川の浅瀬で、水の流れに抵抗して水面に現れた砂州であるという。そして「か」は「在処(ありか)」の「か」で「処(ところ・場所)」と考え、両方併せて「すか」は「砂州の所」であり、飛鳥地方の成り立ちが飛鳥川による「砂州状の場所」だったからとしている(仮に「砂州説」としておく)。

また砂州説では「あ」は接頭語であると解釈している。「あ」が接頭語というのには首をひねるが、どうも便宜的過ぎて腑に落ちない。

私の解釈は「あすか」を丸ごと解釈するもので、「あ」は漢字の「安」で、安全の「安」、安らかの「安」という意味。

次の「す」は「住む」の「住」、そして最後の「か」は上の砂州説でも触れたように「ところ・場所」と考えている。

総合して解釈すると「あすか」とは「安全に住むことのできる場所」ということになる。

飛鳥地方の北西に隣接する藤原京は持統天皇時代に唐王朝の長安を模して造営された倭人(日本人)による純粋な人工都市であるが、それ以前にあった飛鳥の場合、倭人のみならず朝鮮半島や大陸から渡来し、あるいは招聘した様々な人々が居着いた場所である。

倭人はもとよりそのような様々な出自の人々が混然一体となって安んじて住んだところが飛鳥(明日香=安住処)だった。

「あすか(飛鳥)」の和語(和訓)の意味はそこに求められると思う。


鬼ノ城西門の「楯型文様」

2024-03-29 16:12:21 | 古代史逍遥

先日書いた<鬼ノ城が最強の城に>ではNHKの日本各地に残っている城でもっともインパクトのある城を、城に関しては一家言のある芸能人をゲストに迎えて決めるという番組で、今回紹介された四つの城の内から選んだら、岡山県の総社市にある「鬼ノ城(きのじょう)」という一風変わった城が選ばれた。

この城の基本情報は「663年に百済を救援しようとして向かった倭国の船団が白村江の海戦でほぼ壊滅したあと、列島に亡命した百済人の力を借りて戦勝国である唐や新羅からの遠征を防ごうと列島各地に防御用の朝鮮式山城を何か所か築いた中の一つだろう」――というものだ。

岡山県総社市にある標高400mの「鬼ノ山」の頂上部に周囲2.8キロという広大な石積みの囲いが築かれ、その中に城と思しき施設があったとされている。

たしかに日本型の城塞とは趣を異にしており、朝鮮伝来の強固な山城には違いない。

テレビではその中の「西門」がクローズアップされていたが、復元された西門の上部を見て私は驚きを禁じ得なかった。

というのは西門の上の板状の文様の中に、我々には親しい「隼人の楯」に似た逆S字の文様が見えていたのだ。

逆S字文様は「僻邪(魔除け)」の意味があり、どうやら平城京の創建当時から使われていたようだ。

平城京の跡地を発掘調査していた時に、井戸跡から何枚かの「隼人の楯」が見つかり、このことにより延喜式の中に登場する「隼人司」の管轄で「僻邪」の役割で隼人たちが駆り出されたことが分かる。

そのことと、この鬼ノ城の西門の逆S字状のデザインとは関係があるのかという疑問が起きたのだった。

そこでまず鬼ノ城ビジターセンターに問い合わせたところ、「たしかに隼人の楯を参考にしています。それと、岡山市の操山古墳群のうち金蔵山古墳から見つかった盾形の埴輪にも逆S字型の文様が見つかっていて、両方を参考にしたデザインと聞いています」との返事。

そこで古墳と言えば埋蔵文化センターの管轄だろうとネットで電話番号を調べ、当該施設に連絡を入れた。

そうしたら「金蔵山古墳出土の物は倉敷考古館に展示があります」とのことで、今度は倉敷考古館に連絡を入れたところ、「金蔵山古墳の報告書の中に盾形埴輪の図形(スケッチ)があるので、それをファックスで送ります」と送ってもらうことができた。

これが金蔵山古墳の「逆S字文様」の描かれた盾形埴輪の復元スケッチである。

線が複雑でよく分からないが、この楯の大きさは幅が60㎝、縦が120㎝の埴輪としてはかなり大型だ。

そこで意味のある線刻を赤の細字用マジックでなぞり、さらに線刻の中身全体を同じマジックで彩色してみた。

この楯には彩色した右側の縦の群と、左側の縦の群とがセットで、右と左では対偶対称(左右も上下も反対になっている状態)であることに気付かされる。

また右側のマジックで線をなぞったこの文様は逆S字型ではない。「ええっ」と思わされるが、よく見ると真ん中の線は交わっていない。

隼人の楯では真ん中の部分は分離せずにダブっているのだ。

真ん中の赤と黒の部分は決して分離しておらず、一体化している。

また金蔵山古墳のは円形を描いていない。複雑な曲線の集合体である。この複雑な文様こそ「僻邪」の意味を持つのに違いない。

さらに隼人の楯では上下の鋸歯文は内向きだが、金蔵山のは外向きである。

隼人の楯の文様は余りに洗練され過ぎていると思われる。

だが、金蔵山出土の盾形文様の埴輪が造られたのが4世紀の終末から5世紀の初めとされており、そうなると平城宮の井戸跡から出土した隼人の楯は8世紀の奈良時代であるから、金蔵山出土の盾形文様より3世紀も後のことになる。

とすれば両者はそれぞれ独立してデザインされたとするより、金蔵山の盾形文様の方が隼人の楯の文様の起源ということになる可能性が強い。

古代岡山は吉備と呼ばれたが、この吉備と南九州にルーツを持つ隼人との関係がまたもやクローズアップされることになったと言ってよい。

しかしながら、まず4世紀にかくも複雑極まりない「僻邪の文様」をデザインした古墳時代人には一目置きたいと思う。

 


鬼ノ城が「最強の城」に

2024-03-16 09:19:00 | 古代史逍遥

昨夜のNHK「最強の城スペシャル」では4つ挙げられた名城のうち、ゲスト4人の話し合いの結果、岡山県総社市にある「鬼ノ城」が選ばれた。

この番組の司会者は鹿児島県出身の恵俊彰で、ゲスト出演者のひとり高橋英樹は芸能界では知る人ぞ知る城マニアだ。また今回は出ていなかったが、落語家の春風亭昇太も同様で、いつも番組では城巡りの蘊蓄を語っている。

今回取り上げられたのは、千葉県にある大多喜城、赤穂浪士の故城・赤穂城、鹿児島島津氏の鶴丸城、そしてこの鬼ノ城だった。

大多喜城は現在地元の高校の敷地に掛かっており、その分価値が減るように思われるが、いすみ鉄道路線との相性がよく、インスタ映えのする人気の城である。

赤穂城は水城と言ってよく、掘割にそそり立つ石垣の屈曲が見事で、私などはこの城を第一に挙げた。

鹿児島市の黎明館に藩主館のあった鶴丸城はもともと天守閣がない城として有名で、後背に聳える城山と一体化して防御が考えられており、近世の城というよりも中世の山城を彷彿とさせている。

そして今回ゲスト4名から「最強の城」の栄冠を勝ち得た岡山県総社市の「鬼ノ城」。

これを地元では「きのじょう」と呼ぶらしいが、鬼城(きじょう)山という標高約400mの頂上一帯が城の敷地で、その周りを土塁が延々と囲っている(ゲストの上方に映し出されているのは鬼ノ城の西門)。

土塁の幅は7m、高さも7mほどあり、土を突き固めた版築工法で造られている。その距離は2.8キロというから半端ではない。そこにこれほどの土をどうやって運び上げ、崩さないように土壁に仕上げたのかがよく分からないようだ。

また築造について、日本書紀などの古史料には記載がないため、そもそも何の目的で誰が築いたのかが不明である。

大方の推測は次のようである。

あの白村江の海戦で倭の水軍が壊滅し、救援に行ったはずの百済は完全に滅び、その王族はじめ多くの百済人が日本列島に渡って来た。

彼らの中には石を多用した山城(いわゆる朝鮮式山城)を築く技術に習熟した者が多く、倭王権(大和朝廷)は敵対した唐と新羅の連合軍がいつか攻めて来るのを予想し、百済人亡命者を使って防御用の堅固な城を築かせた。

対馬の金田城、九州の太宰府にある水城、長門の城(城の名は不明)、四国屋島城、畿内の高安城などが主な朝鮮式山城だが、この岡山県総社市の鬼ノ城もその一つではないかと考えられているようだ。

たしかに土塁とはいえ、こんな高い山頂部(麓からの比高は300m近くある)に高さ7mもの壁を周囲2.8キロにわたって築き上げる技術は、魏志倭人伝(韓伝)時代の3世紀以降、国家間(三韓・高句麗・大陸王朝間)の争いが絶え間なかった半島人の獲得したものだろう。

番組ではこの城跡からの眺めの内に、総社市はもとより岡山平野から遠く瀬戸内海までが視野の内に入っているとして、半島からの進攻への監視所的な城でもあるような捉え方をしていた。

ところで上の番組内で映された「西門」をよく見ると、その上部にあたかも居酒屋のメニューのような楯状の板があり、そこに書かれたデザインがあるものにそっくりなことに気付かされた。

全部で15枚の板があるが、真ん中から左右対称に掲げられた中で、それぞれ片側には一つ置きにクエスチョンマークに似た「鉤(かぎ)型」が見える。しかもその上下には三角形のギザギザがあるではないか。

これは俗に言う「隼人の盾」そっくりなのだ。

一体これはどうしたことだろうか?

番組ではそんな指摘はなかったので、インターネットで総社市の観光案内を調べてみたが、やはり言及はない。

鬼ノ城が日本100名城であり、最強の城であることに異論はないが、ひとつ謎が増えてしまった。

 

(追記)

隼人の楯について>

昭和38年(1963)に奈良の平城京跡地の井戸底から出土した「隼人の楯」。長さ5尺(約150㎝)、幅1尺8寸(約54㎝)、厚さ1寸(約3㎝)を測る。

延喜式の隼人の楯に関する記述通りの寸法のまま発掘された。ただし、鮮やかな色は復元されたもの。

隼人の司に従い、元日式や即位式、また国外からの使者に対する儀礼の場に居並び、魔除け的な役割を担った隼人たちが所持していた。

真ん中に描かれているのは「鉤(かぎ)型」と呼ばれ、赤・白・黒三色でうず巻き文様が上下対称に描かれている。たての上と下に見える三角形の波文様とともに「魔除け」の意味を持つとされている。

鬼ノ城の西門の上に掲げられた10数枚の板状の物のうち特にこの隼人の楯に似た板は、実は「楯」をモデルにした「魔除け」で、門からの敵の侵入を防ぐためのものだったのかもしれない。