先日書いた<鬼ノ城が最強の城に>ではNHKの日本各地に残っている城でもっともインパクトのある城を、城に関しては一家言のある芸能人をゲストに迎えて決めるという番組で、今回紹介された四つの城の内から選んだら、岡山県の総社市にある「鬼ノ城(きのじょう)」という一風変わった城が選ばれた。
この城の基本情報は「663年に百済を救援しようとして向かった倭国の船団が白村江の海戦でほぼ壊滅したあと、列島に亡命した百済人の力を借りて戦勝国である唐や新羅からの遠征を防ごうと列島各地に防御用の朝鮮式山城を何か所か築いた中の一つだろう」――というものだ。
岡山県総社市にある標高400mの「鬼ノ山」の頂上部に周囲2.8キロという広大な石積みの囲いが築かれ、その中に城と思しき施設があったとされている。
たしかに日本型の城塞とは趣を異にしており、朝鮮伝来の強固な山城には違いない。
テレビではその中の「西門」がクローズアップされていたが、復元された西門の上部を見て私は驚きを禁じ得なかった。
というのは西門の上の板状の文様の中に、我々には親しい「隼人の楯」に似た逆S字の文様が見えていたのだ。
逆S字文様は「僻邪(魔除け)」の意味があり、どうやら平城京の創建当時から使われていたようだ。
平城京の跡地を発掘調査していた時に、井戸跡から何枚かの「隼人の楯」が見つかり、このことにより延喜式の中に登場する「隼人司」の管轄で「僻邪」の役割で隼人たちが駆り出されたことが分かる。
そのことと、この鬼ノ城の西門の逆S字状のデザインとは関係があるのかという疑問が起きたのだった。
そこでまず鬼ノ城ビジターセンターに問い合わせたところ、「たしかに隼人の楯を参考にしています。それと、岡山市の操山古墳群のうち金蔵山古墳から見つかった盾形の埴輪にも逆S字型の文様が見つかっていて、両方を参考にしたデザインと聞いています」との返事。
そこで古墳と言えば埋蔵文化センターの管轄だろうとネットで電話番号を調べ、当該施設に連絡を入れた。
そうしたら「金蔵山古墳出土の物は倉敷考古館に展示があります」とのことで、今度は倉敷考古館に連絡を入れたところ、「金蔵山古墳の報告書の中に盾形埴輪の図形(スケッチ)があるので、それをファックスで送ります」と送ってもらうことができた。
これが金蔵山古墳の「逆S字文様」の描かれた盾形埴輪の復元スケッチである。
線が複雑でよく分からないが、この楯の大きさは幅が60㎝、縦が120㎝の埴輪としてはかなり大型だ。
そこで意味のある線刻を赤の細字用マジックでなぞり、さらに線刻の中身全体を同じマジックで彩色してみた。
この楯には彩色した右側の縦の群と、左側の縦の群とがセットで、右と左では対偶対称(左右も上下も反対になっている状態)であることに気付かされる。
また右側のマジックで線をなぞったこの文様は逆S字型ではない。「ええっ」と思わされるが、よく見ると真ん中の線は交わっていない。
隼人の楯では真ん中の部分は分離せずにダブっているのだ。
真ん中の赤と黒の部分は決して分離しておらず、一体化している。
また金蔵山古墳のは円形を描いていない。複雑な曲線の集合体である。この複雑な文様こそ「僻邪」の意味を持つのに違いない。
さらに隼人の楯では上下の鋸歯文は内向きだが、金蔵山のは外向きである。
隼人の楯の文様は余りに洗練され過ぎていると思われる。
だが、金蔵山出土の盾形文様の埴輪が造られたのが4世紀の終末から5世紀の初めとされており、そうなると平城宮の井戸跡から出土した隼人の楯は8世紀の奈良時代であるから、金蔵山出土の盾形文様より3世紀も後のことになる。
とすれば両者はそれぞれ独立してデザインされたとするより、金蔵山の盾形文様の方が隼人の楯の文様の起源ということになる可能性が強い。
古代岡山は吉備と呼ばれたが、この吉備と南九州にルーツを持つ隼人との関係がまたもやクローズアップされることになったと言ってよい。
しかしながら、まず4世紀にかくも複雑極まりない「僻邪の文様」をデザインした古墳時代人には一目置きたいと思う。