6月25日の未明のことだったという。
曽於市大隅町にある「投谷(なげたに)八幡宮」で火災が発生し、拝殿・本殿が全焼してしまった。
投谷八幡宮は旧恒吉郷の旧郷社であり、実に和銅元年(708年)に創建されたという由緒を持つ神社だ(出典『三国名勝図会』)。
世に珍しい配置の建造物で、表通りに立つ鳥居から始まる参道は下り坂であり、かなりの距離を歩いた低地の平坦部に建立されている。
この写真は曽於市観光協会発行の『幸運の財大吉神社巡り』という小冊子からの転写である。石の鳥居の向こうの朱色の拝殿とその奥の本殿、それに摂社の四所宮などが焼けたという。
もう10年くらい前になると思うが、大隅地区の名所旧跡や川筋を歩いていたころに一度参拝している。
この写真は明るく撮れているが、自分が参拝した時は夕方近かったせいもあるかもしれない、薄暗さが印象に残っている。
珍しい神社という印象のまま、その後は訪ねたことはなかったが、惜しいことであった。
上述の曽於市観光協会発行の小冊子の説明によると、この神社は大隅国一宮である鹿児島神宮の「別宮」ということである。
別宮というのは鹿児島神宮の旧領(御神領)に建立された神社であり、鹿児島神宮の身代り的な神社ということで、東では鹿児島市内の荒田、南では垂水市内、北では栗野町など鹿児島神宮の東西南北にまたがる範囲にそれぞれ営まれた。この投谷八幡は東の境界ということらしい。
いずれにしても旧国時代以来の由緒を持つ神社で、県指定の文化財などもいくつか所有しているという。無事であれば良いが。
再建には神社建築の分野のいわゆる「宮大工」のような人たちの手が必要になるが、まずは資金だろう。
氏子はもとより、崇敬者の寄付を仰ぐことになる。
知人の別の神社の宮司さんに聞いた話では、火災保険に入っていればよいが、ということだったが、どうなることか。
コロナ禍のご時勢、海外旅行を取りやめたため懐具合の良い人も多かろう。あてにできないものか・・・。
曽於市大隅町にある「投谷(なげたに)八幡宮」で火災が発生し、拝殿・本殿が全焼してしまった。
投谷八幡宮は旧恒吉郷の旧郷社であり、実に和銅元年(708年)に創建されたという由緒を持つ神社だ(出典『三国名勝図会』)。
世に珍しい配置の建造物で、表通りに立つ鳥居から始まる参道は下り坂であり、かなりの距離を歩いた低地の平坦部に建立されている。
この写真は曽於市観光協会発行の『幸運の財大吉神社巡り』という小冊子からの転写である。石の鳥居の向こうの朱色の拝殿とその奥の本殿、それに摂社の四所宮などが焼けたという。
もう10年くらい前になると思うが、大隅地区の名所旧跡や川筋を歩いていたころに一度参拝している。
この写真は明るく撮れているが、自分が参拝した時は夕方近かったせいもあるかもしれない、薄暗さが印象に残っている。
珍しい神社という印象のまま、その後は訪ねたことはなかったが、惜しいことであった。
上述の曽於市観光協会発行の小冊子の説明によると、この神社は大隅国一宮である鹿児島神宮の「別宮」ということである。
別宮というのは鹿児島神宮の旧領(御神領)に建立された神社であり、鹿児島神宮の身代り的な神社ということで、東では鹿児島市内の荒田、南では垂水市内、北では栗野町など鹿児島神宮の東西南北にまたがる範囲にそれぞれ営まれた。この投谷八幡は東の境界ということらしい。
いずれにしても旧国時代以来の由緒を持つ神社で、県指定の文化財などもいくつか所有しているという。無事であれば良いが。
再建には神社建築の分野のいわゆる「宮大工」のような人たちの手が必要になるが、まずは資金だろう。
氏子はもとより、崇敬者の寄付を仰ぐことになる。
知人の別の神社の宮司さんに聞いた話では、火災保険に入っていればよいが、ということだったが、どうなることか。
コロナ禍のご時勢、海外旅行を取りやめたため懐具合の良い人も多かろう。あてにできないものか・・・。