鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

霜と灰と(2024.12.23)

2024-12-23 10:21:08 | おおすみの風景
今朝の7時に玄関先の寒暖計はちょうど0℃。

庭に出ると案の定、霜が降りていた。今年4回目の降霜だ。多分、最低気温はマイナス2℃にはなっていたろう。
(※夕方の地元のテレビ番組で発表されたところによると、鹿屋市の最低気温は-3.8℃だった。我が家からかなり北のやや標高の高い所に観測所はある。)

オタフク南天の色づいた葉の頂上辺りは真っ白である。

自動車のフロントガラスも凍っていたが庭の蛇口からホースを伸ばして水を掛けてやると難なく落ちたから、そうガチガチの結氷ではなかった。

庭先から東の方向を眺めると、上がったばかりの日にうっすらと照らされて、畑の野菜に霜が降りているのが分かる。

この野菜は何というのか、たぶん家畜用の飼料になるのだろう。

菜園の野菜にも霜は降っているが、もう寒さに強いアブラナ科のダイコン・ハクサイ・ブロッコリー・チンゲン菜などにとっては「カエルの面に小便」のようなものだ。

ただ、9時少し前に、大通りに面した場所にあるゴミステーションにゴミ出し(月曜日は資源物)と思って外へ出てみると、何と桜島の灰が降っていた。

車の上にも満遍なく降っており、1時間前に氷を解かすためにやった水かけをもう一度やる羽目になった。

ネットで調べると、この桜島の降灰は今朝7時10分と約20分後の2回の爆発的噴火によるもので、このところ卓越しているやや強い北西の風に乗って大隅地方に向かったものと判明。

2回目のは桜島の上空3000mの高さにまで噴煙を上げており、この灰交じりの噴煙がこっちにまで飛んで来たようだ。

降灰で困るのが、ハクサイの芯に入り込むやつだが、ハクサイはもう芯を包み込む形になっているから、内部に入り込むことはまずないので良かった。


ただ、あと5,6日で初収穫となりそうなブロッコリーのボール状の花芯の上にも少し積もっていた。

大きな葉にも点々と灰が見える。まるで害虫のアブラムシが付いたかのようだが、これは桜島の灰の粒々だから心配はいらない。

灰で傷むことはないと思うが、念のため今日早取りしてみよう。

例年、秋から冬にかけて北西の風に乗って桜島の灰が何度かは降るのだが、去年今年と少なくて助かったと思っていた矢先の降灰。

110年前(1914年)の1月12日に起きた桜島大噴火では流れ出た溶岩で大隅半島と桜島が地続きになったが、その時も大隅半島側には多量の火山灰が降り、鹿屋市輝北町(旧曽於郡市成村・百引村)では屋根に降り積もった火山灰の重みで家がつぶれたり、傾いたほどだったという。

同じような大噴火が今後起きないという保証はないが、現在の活火山観測体制の充実ぶりを考えると、早め早めの対策が可能だろうとは思う。しかし現実に起きてしまったらライフラインへの影響は目を覆いたくなるほど甚大になるに違いない。

父の55回忌(2024.12.22)

2024-12-22 21:29:54 | おおすみの風景
今日12月22日は父の55回目の忌日。

昭和45(1970)年のこの日に満63歳で亡くなった。

自分はその時、20歳。残された家族は母55歳、姉29歳、兄24歳、弟19歳、自分を含めて5人だった。

死因は胃癌で、文京区お茶の水の「三楽病院」に入院して胃の手術を受けようとしたが、開腹したら肝臓に転移しており、もう手術の効なしとしてそのまま閉じられた。

それは6月のことだったが、その後6ヶ月入院して12月のこの日に生涯を閉じた。

我慢強い患者で、弱音を吐いたのを見たことがなかった。この頑固さは父の性格でもあった。

父は明治40(1907)年の生まれ、生地は鹿児島県の奄美大島である。名瀬市内の奥まった平田町に生家があり、旧制中学校「大島中学」(5年制)を卒業するとすぐに代用教員になったと聞いている。

代用教員を1年か2年かして辞め、今度は鹿児島本土に渡り、正式な教員免許を取るべく師範学校の2部(夜間制)に学び、2年して大島に帰り、尋常小学校の教師になった。

ところが大島での教員では飽き足らず、上京して東京府の教員になった。はっきりした年代は分からないのだが、おそらく22,3才の頃だったと思われるから1929(昭和4)年か1930年であったようだ。

赴任した北区赤羽の学校で教員をしていた母と知り合い結婚したのが昭和14(1939)年で、共稼ぎをしつつ16(1941)年に長女の姉が生まれている。

長子の姉が生まれたのはまさに太平洋戦争が始まった年で、教員である父も母も今日でいうところの「エッセンシャルワーカー」というわけで、母などは「疎開」によって群馬県の伊香保に行かされたと言っていたが、その一方で父は戦時中に組織された「青年学校」の教員にシフトして、戦局が逼迫して来ても徴兵は免れている。

名瀬の父の生家に住んでいた伯父(父の兄で長男)は当時林業試験場に勤めていたようだが、赤紙で招集され中国大陸に渡って戦闘に従事したと言っていた。

父は結局応召することなく終戦を迎えた。これは当時としては珍しい存在だったかもしれない。とにかく戦時中も途切れることなく教員生活を送ったのであった。

そして戦後は昭和21年に兄が生まれ、25年に私が生まれ、26年には末子の弟が生まれ、家族は6人になった。

学徒動員によって師範学校の学生たちも招集されてかなりの犠牲者を出しており、終戦後は教員不足の状態であったから、母は我々3人の男兄弟を生んだ後もずっと教員としての勤務を続けていた。

父と母は次男次女のカップルであったので育児の手を祖父母に借りるわけにはいかず、人(住み込みの女中)を雇って家事育児を回していた。

昭和26年時点で子どもたちが4人になっても、その態勢は変わらなかった。

昭和16年生まれの姉に限って言えば、すぐ下の弟(私にとっては兄)の生まれが21年で姉は当時5歳になっていたからかなり手が離れ、そう負担にならず何とかやりくりして育児ができたのだが、兄の4年後の25年に私が生まれ、翌26年に弟が生まれると、そうは言っていられなくなった。

続けざまに生まれた3兄弟は特に母の手を必要としており、専業主婦の母であっても誰かの手(女中)を借りないと難しい育児だったが、ついに母は教職を離れることなく教員生活を続行した。

教員生活は当時としては珍しく男女平等の世界であった。給与も男女の差はなくただ最終学歴が短大か4年制かで開きがあるのだが、その後は勤務年数によってどちらも比例的に上がっていった。

この給与体系の実質的な平等が母にとっては居心地が良かったのか、母は「産前産後6週間」という出産時の休職をきちんと守って復職し、結局我々兄弟への寄り添い時間は大幅に限られてしまった。

これについて母だけを責めるのは酷だろう。父が母を離職させなかった可能性もある。おそらく父方、母方両生家からの援助が期待されなかったので、二人のダブルインカム(二重収入)に依存するほかなかったのかもしれない。

それは分からぬでもないが、戦後の東京であればもちろん教職もだが、あらゆる業態で人手が必要だった時代である、母が教職を離れて専業主婦になったとしても育児の合間、時に応じてパートなりを探せばいくらでもあったと思うのだ。

この流れの中で最大の過ちは、弟が中2に時(1965年)に起こした「長欠」(今で言う登校拒否)に対する両親の対応である。

この時が母の引退(離職)のタイミングだったのだ。ところが母は弟に寄り添わないまま教員を続け、結果として弟を精神障害にしてしまった。高校には行ったが2度の転校を繰り返し、やっと卒業はしたがすでに精神を病んでいた。(※その後、入退院を繰り返し32歳で他界した。)

父の話に戻るが、父は戦後は一時的に新制高校の教員になったあとは中学校の教頭になり、2年後の44歳の時に中学校の校長になった。そして5校の校長を経て60歳で退職し、退職の3年後に63歳で他界した。

ある意味で名校長だったらしく、他界と同時に政府から勲6等を受勲している。

家では明治時代の頑固おやじという側面が強く、これと決めたら梃でもという風であった(姉はよく父のことを封建的だと言っていた)。

また4兄弟のいずれも父の生地である奄美大島に連れて行ってもらったことはなかった。

それどころか父の口から奄美の家族、祖父・祖母の名前さえ聞いたことがなかったのだ。まことに不可解という他ない。祖父母の名は父が他界してから戸籍を大島から取り寄せて初めて知ることになったのだった。

我が家の鴨居には西郷隆盛の肖像画で額に入れたのを掲げてあったが、その理由について父から聞かされたことはなく、ただ「西郷さんの肖像画だ」とくらいにしか言われていなかったうえ、兄弟もそれ以上問いただすこともなかった。

ただ父が鹿児島出身であり、その郷土の偉人だからそうなんだろうという憶測に留まっていた。父が有無を言わせない雰囲気を感じさせる性格だったからだろうか。

またその額の掛かっている反対側の鴨居には国木田独歩の「山林に自由存す」という詩の表装されたのが横長の額に入れられて掛かっていた。

この詩の内容は子供心にもわかったが、なぜそこにかけられているのかについて、やはり問いただすことはなかった。

私も、自分の為すことに対して詳しくその理由を言うことはあまりしない方であるが、これは父譲りなのかもしれない。



高千穂の峰を遠望(2024.12.19)

2024-12-19 14:51:22 | おおすみの風景
12月9日の初霜以来、ちょうど10日続く朝の氷点下圏(零度前後)のために空気がぐんと冷やされ、土から立ち上がる湿気も乾燥した北西の風によって吹き払われて来た。

だから乾燥注意報が発令されて久しい。

こんな時に見られるのが、我が家のほぼ真北に位置する「高千穂の峰」のシルエットだ。

よく晴れて冷え込んだ早朝なら見えることのある高千穂の峰だが、そういう日に限って日中は気温が上昇して地面から陽炎のような蒸気が立つので見えなくなる。

ところが最近は空気が乾燥している上、日中の気温も10℃位しか上がらないので、地面から立ちの昇る陽炎のような蒸気がごく少なくなり、昼過ぎでもくっきりと高千穂の峰が見える。

そう急傾斜ではないが、中心のとんがり屋根ですぐそれと分かる高千穂の峰。我が家から直線距離にしてちょうど60キロだ。

霧島連山の東の最高峰で1594mもあり、言わずと知れた天孫降臨の山。

ただ同じ宮崎県の北部にある高千穂町の山に降臨したという説もある。

だが、明治維新政府で初代の内務卿だった大久保利通が鹿児島県出身だったため、天孫初代のニニギノ尊が下ったという高千穂の峰を、鹿児島県に近い霧島に比定したと言われる。

天孫の墓所についても、ニニギは薩摩川内の可愛山上に、次のホホデミは溝辺町の高屋山上に、その次のウガヤフキアエズは吾平町の鵜戸野の吾平山上に、という風にすべて旧薩摩藩領内に決定している。

政治的な偏向と言われても仕方がないだろうが、そもそも皇孫とはいえ「天から」降りてくるものだろうか?

倭語で漢語の「天(テン)」は「あめ」とも「あま」とも言うが、「あめ」は「雨」として最も普通に使われている。雨は気象用語であり、降雨にメカニズムから考えれば科学用語でもある。

天孫はもちろん雨ではないから、倭語としては「あま」のほうを重視すべきだ。

「天照大神」は「あまてらすおおみかみ」であり、「高天原」は「たか(あ)まがはら」、「天津日継」は「あまつひつぎ」というように天孫関係の用語ではすべて「あま」と読まれている。

ところが「あま」は海を舞台とした用語にも使われているから厄介だ。

「海士」「海女」はどちらも「あま」と読むし、中古の用語「海部」は「あまべ」である。尼僧も「あま・あまさん」だ。

薩摩半島の西南の方では「ニニギノミコトは海からやって来た」と言う所があるくらいだ。

「天地剖半説」では「澄んだものは天となり、濁ったものは地となる」(古事記)というが、では海はどうなんだろう?


ダイコンの収穫(2024.12.18)

2024-12-18 10:57:50 | おおすみの風景
朝食後居間で新聞を読んでいたら、南の窓越しに見える畑でオレンジ色のトラクターが西から東に動いているのに気付いた。しかも後ろのロータリーの部分でたくさんの葉が揺れている。

よく見るとその葉っぱは連続して動いていて、そのまま下に落ちて行っているようだ。

ダイコンの収穫に違いない。
デジカメを持って家を出、50mほど先の畑に行ってみた。

ちょうど向こう(東)へ折り返したばかりで、ふた畝目の抜き取りにかかっていた。

普通なら耕運用のロータリー(回転刃)が装着される部分に、ダイコン抜き取り専用のアタッチメントが着けられている。

ダイコンは向かって右手から掘り起こしつつ抜き取られる仕組みで、抜かれたダイコンは今度はアタッチメントを右から左へ「空中移動」し、左手の畑面に落とされて行く。

抜き取りに人手はまったく不用である。

この機械は近年さらに高齢化した農家の助っ人で、1本の重さ1キロ足らずとはいえ、抜き取る際に腰をかがめなければならなかった高齢農家の救世主というべきだろう。

何しろ広い畑である。聞くところによると1反当たりの栽培本数は1万本だそうだから大変だ。この畑は3反はある。

もっとも抜き取ったあとのダイコンの葉っぱを切り落とす作業は人手によらなければならない。それでも見事な大根を眼にしながらの作業は嬉しさもあり、楽しいのではないか。

近年はサツマイモにしろ、ジャガイモにしろ根菜類の機械掘りが普及し、農家の体力的な負担は大きく軽減している。

実際に目にしたことはないが、ゴボウの掘り取りやニンジンなどにも機械掘りがあるという。

機械化には金がかかるから、どうも、という人もいるが、機械は借りればよく、ダイコンの掘り取りに使うこの機械の借り賃は知らないが、田んぼで活躍する収獲機械コンバインが1反当たり1万5~6千円だから、それよりは若干安いと思われる。

畑作にしろ米作にしろ、露地物は収穫は年に一回だから、よほどの面積を栽培しない限り、機械を保有する必要はないのが常識である。

こちらは我が家のダイコンの畝。まだ暑かった十月の初めに蒔いたのだが、ここ2週間ほど続く寒波のおかげで身が締まって来たようだ。

今日は何本か抜いてみよう。あの機械だったらこの畝のダイコン全部をほんの数秒でさっと綺麗に抜くだろうが・・・。

吾平山陵の紅葉

2024-12-10 10:01:36 | おおすみの風景
大隅地区で紅葉の名所はそれほど多くないが、山間の清流流れる吾平山陵(天孫3代目のウガヤフキアエズノミコトの陵墓)に行くと深まる秋の色が感じられる。

昨日今日と二日続けて霜が降りたのだが、我が家の庭のモミジは葉の先端だけが少し赤くなった程度である。

そこで今朝出掛けてみたところ、やはりそれなりに紅葉が始まっていた。

吾平山陵の入り口には案内所があるが、その前面にある苔の生えた広場のモミジは半分ほど色づいていた。

あと3日も冷え込みが続けばきれいな紅葉が見られるに違いない。

宮内庁書陵部管轄の吾平山陵に入っていくと、2番目の橋の下を流れる清流の川岸周辺には数本のモミジが見られる。

川にせり出しているのは自然生の山モミジだろうか。こんなのはむしろ春の新緑の頃の方が水面に映って清々しい感じがする。


吾平山陵のモミジで最も美しいのは3番目の橋のたもとに生えているモミジだろう。

湾曲して流れる清流の先の崖は柱状節理という天然の崖で、これはこれで見事だが、一本のモミジがなお一層風情を添えている。

また河岸の火山噴出物由来の白い軽石の集まりも独特の味わいがある。

吾平山陵には入り口の橋を入れて3つの橋あり、どの橋も欄干は花崗岩を加工した重厚な造りで、足元も玉砂利を固めていて滑らないようになっている。

昭和47年に現上皇ご夫妻が親拝されて以来、御親拝は途絶えているが、御親拝の際はもちろん、毎年派遣される宮内庁職員による代拝の時にも、また一般参賀者にもこの配慮は必要だ。

吾平山陵(あいらさんりょう)とわれわれは普通に呼んでいるが、正確には「吾平山上陵(アイラヤマノウエノミササギ)」である。

だが面白いことに道路標識では「吾平山上陵」と表示されているにもかかわらず、ローマ字では「Aira-Sanryou」と、「上(jou)」の音がない場合が多い。

そもそも吾平山上陵は、「山上」にあるわけでもないのになぜそう呼ばれているのだろうか――が問われよう。

皇室の祖先である天孫第1代のニニギノミコトの陵墓は薩摩川内市の「可愛(エノ)山上陵」であり、2代目のホホデミノミコトの陵墓は霧島市溝辺町にある「高屋(タカヤ)山上陵」で、どちらも実際の山の上に比定されている。

ところがこちらの吾平山上陵は山上とは言いながら、「洞窟陵」なのだ。「高い山の上にある洞窟」ならまだしも、伊勢神宮の五十鈴川になぞらえられる姶良川の源流に近いとは言え、なだらかな流れの川の向こうに見える洞窟なのである。

この疑問については幕末の国学者・後醍院真柱という人が「山上という表現はこの地が姶良郷からかなりの距離の山間部にあるからそう名付けられたのだろう」という見解を出しており、明治以降も大筋でこれが認められている。

私の考えはそれとは違い、ウガヤフキアエズノミコトの子どもに当たるいわゆる「神武天皇(皇子時代はトヨミケヌ命)」が東征を果たす頃は大規模な火山活動など俗にいう天変地異が多発し、南九州を後にせざるを得なかった。

つまり父親の陵墓を山上に築くことができず、災害に強い洞窟の中に葬る必要性に迫られたからではないか、と考えている。

ところが日本書紀ではウガヤフキアエズの陵墓について「久しくましまして、西の洲の宮にかむあがりましぬ。よりて吾平山上の陵にはふりまつる。」(本文)とあり、この表現から「吾平山上陵」という名称が確定した。

初代の二ニギの陵墓が「可愛山上陵」であり、2代目のホホデミの陵墓が「高屋山上陵」であるから、その「山上陵」という名称を並称する意味合いもあったに違いない。

しかし現実には山の上の陵墓ではなく、洞窟陵だったのである。

この吾平山上陵が洞窟陵である理由については、私の見解以外にも言及されてしかるべきかと思う。