鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

どうしたウメ(ウメの異変)

2024-12-29 22:01:50 | 日記
先週の土曜日のことだった。

午後家に帰ると愛犬ウメの様子がおかしい。

いつも横になっている芝生の一角に立ち尽くし、困ったような姿である。

傍には食べた物を吐き出したあとがあり、さらに2か所に白っぽい吐しゃ物があった。

ウメはその一つに向かって鼻先で砂を掛ける仕草を繰り返していた。

――何か変なものを食べたんだな。

そう思い辺りを見回すと、ウメの近くの東側の花壇の土が掘り返されたように荒れていたのに気付いた。

――土の中の何か堆肥の未熟な物でも食べたに違いない。

そう思い、ウメを叱るのではなく頭をなぜてやり、花壇に裏庭から持って来たおもとの鉢を並べ、それに寒さ除けの不織布をかぶせた。

翌朝22日の朝は氷点下に冷え込み、庭に出るとウメはなかなか出てこようとしなかったが、引っ張り出して家の中に入れた。

愛猫のモモがトイレに使う砂箱のある部屋にシートを敷いてやると、そこに何とか落ち着いたが、水をやっても飲もうとせずしばらく様子を見ることにした。

モモが部屋に入ると尻尾を振ったりしていたが、どうも頭の向きがおかしい。向かって左側に傾いているのだ。

12歳半のウメ。

向かって左側、ウメからすれば右側に頭が傾いている。それが何らかの病なのか分からないが、とにかく家に上げた日曜日以降は少しの水以外は口にしようとしない。

腐敗したもの食べたことから来る胃の不調なのか、それとも人間でいう「脳梗塞」の一種なのか予断を許さないところだ。

しばらくは様子を見て行きたいと思っている。


「異常な高温」(気象庁の見解)

2024-12-26 15:48:29 | 日本の時事風景
気象庁は今年11月までの平均気温が平年を1.64℃上回ったと発表した。そして、これは「異常な高温だ」という見解を表明した。

何しろ直近の10年を見ても、平年との差が2016年が+0.58℃であり、その後のこの6年を見ると2019年以降は毎年+0.6℃を上回るようになり、2023年には+1℃を越え、とうとう今年は+1.64℃になった。

世界的にはヨーロッパの産業革命以降は平均気温が次第に高くなったと言われているが、その平均気温の上昇は200年で+2.5℃になったという。だが今回の気象庁のデータでは、わずか10年足らずでさらに+1.6℃になったというわけだ。

末恐ろしいというべきで、今年の10月末にスペインでとんでもない大雨が降り、東部のバレンシア地方では150人の死者がでたという報道があった。

スペインはヨーロッパの中では南部に位置し、温暖で比較的雨が多いのではという印象があるが、地中海気候のモデルのようなところで、夏は乾燥し冬に向けてやや雨が降る地域である。

そこに秋の終わりに降った雨の量がただならなかったようで、テレビの中継で町の中に川からあふれた出た水が洪水となって大量の自動車が押し流されていたのを見たときの驚きは大きかった。

地中海気候の特徴は「少雨」であり、それに合わせてオリーブやバレンシアオレンジなどの柑橘類が特産だったのだが、時代は徐々に変わっていくのかもしれない。

とにかくこれまでの温帯が暖温帯になり、暖温帯が亜熱帯になり、亜熱帯が熱帯に変わって行くのだろう。

植生が変わり、動物の生態系も変わっていくのが時代の趨勢になった。

これを一大事のように絶叫するのは分かるが、自分としては寒冷化するよりましだと思う。

そもそもヨーロッパの寒冷が今日につながっている高度工業文明を生み、その勢いが世界を席巻してアジア・アフリカへの侵略を生み、植民地の拡大が貧富の差と人種差別を生んで来た。

そういった差別されて来た国々が自治を獲得し、自主的に工業化を選択して国造りを推し進める気運になってきたわけで、1960年以降の世界は西欧による植民地分割闘争を克服してようやく人種による差別が最小限のものとなったのだ。

むしろこれからも問題になるのは(もう問題になりつつあるが)、巨大資本による新たな侵略だろう。これは名立たる欧米資本もだが、中国の巨大な国家資本も侵略性を備えているから厄介だ。

日本はそのような侵略性の資本(国家資本)主義ではないから、世界的に見ると中立性が高い。

米国(ドル)とも違い、中国(チャイナマネー)とも違う日本の協調的な資本主義はこれからの世界にとって、ますます重要視されるだろう。そうでなくては困る。

霜と灰と(2024.12.23)

2024-12-23 10:21:08 | おおすみの風景
今朝の7時に玄関先の寒暖計はちょうど0℃。

庭に出ると案の定、霜が降りていた。今年4回目の降霜だ。多分、最低気温はマイナス2℃にはなっていたろう。
(※夕方の地元のテレビ番組で発表されたところによると、鹿屋市の最低気温は-3.8℃だった。我が家からかなり北のやや標高の高い所に観測所はある。)

オタフク南天の色づいた葉の頂上辺りは真っ白である。

自動車のフロントガラスも凍っていたが庭の蛇口からホースを伸ばして水を掛けてやると難なく落ちたから、そうガチガチの結氷ではなかった。

庭先から東の方向を眺めると、上がったばかりの日にうっすらと照らされて、畑の野菜に霜が降りているのが分かる。

この野菜は何というのか、たぶん家畜用の飼料になるのだろう。

菜園の野菜にも霜は降っているが、もう寒さに強いアブラナ科のダイコン・ハクサイ・ブロッコリー・チンゲン菜などにとっては「カエルの面に小便」のようなものだ。

ただ、9時少し前に、大通りに面した場所にあるゴミステーションにゴミ出し(月曜日は資源物)と思って外へ出てみると、何と桜島の灰が降っていた。

車の上にも満遍なく降っており、1時間前に氷を解かすためにやった水かけをもう一度やる羽目になった。

ネットで調べると、この桜島の降灰は今朝7時10分と約20分後の2回の爆発的噴火によるもので、このところ卓越しているやや強い北西の風に乗って大隅地方に向かったものと判明。

2回目のは桜島の上空3000mの高さにまで噴煙を上げており、この灰交じりの噴煙がこっちにまで飛んで来たようだ。

降灰で困るのが、ハクサイの芯に入り込むやつだが、ハクサイはもう芯を包み込む形になっているから、内部に入り込むことはまずないので良かった。


ただ、あと5,6日で初収穫となりそうなブロッコリーのボール状の花芯の上にも少し積もっていた。

大きな葉にも点々と灰が見える。まるで害虫のアブラムシが付いたかのようだが、これは桜島の灰の粒々だから心配はいらない。

灰で傷むことはないと思うが、念のため今日早取りしてみよう。

例年、秋から冬にかけて北西の風に乗って桜島の灰が何度かは降るのだが、去年今年と少なくて助かったと思っていた矢先の降灰。

110年前(1914年)の1月12日に起きた桜島大噴火では流れ出た溶岩で大隅半島と桜島が地続きになったが、その時も大隅半島側には多量の火山灰が降り、鹿屋市輝北町(旧曽於郡市成村・百引村)では屋根に降り積もった火山灰の重みで家がつぶれたり、傾いたほどだったという。

同じような大噴火が今後起きないという保証はないが、現在の活火山観測体制の充実ぶりを考えると、早め早めの対策が可能だろうとは思う。しかし現実に起きてしまったらライフラインへの影響は目を覆いたくなるほど甚大になるに違いない。

父の55回忌(2024.12.22)

2024-12-22 21:29:54 | 日記
今日12月22日は父の55回目の忌日。

昭和45(1970)年のこの日に満63歳で亡くなった。

自分はその時、20歳。残された家族は母55歳、姉29歳、兄24歳、弟19歳、自分を含めて5人だった。

死因は胃癌で、文京区お茶の水の「三楽病院」に入院して胃の手術を受けようとしたが、開腹したら肝臓に転移しており、もう手術の効なしとしてそのまま閉じられた。

それは6月のことだったが、その後6ヶ月入院して12月のこの日に生涯を閉じた。

我慢強い患者で、弱音を吐いたのを見たことがなかった。この頑固さは父の性格でもあった。

父は明治40(1907)年の生まれ、生地は鹿児島県の奄美大島である。名瀬市内の奥まった平田町に生家があり、旧制中学校「大島中学」(5年制)を卒業するとすぐに代用教員になったと聞いている。

代用教員を1年か2年かして辞め、今度は鹿児島本土に渡り、正式な教員免許を取るべく師範学校の2部(夜間制)に学び、2年して大島に帰り、尋常小学校の教師になった。

ところが大島での教員では飽き足らず、上京して東京府の教員になった。はっきりした年代は分からないのだが、おそらく22,3才の頃だったと思われるから1929(昭和4)年か1930年であったようだ。

赴任した北区赤羽の学校で教員をしていた母と知り合い結婚したのが昭和14(1939)年で、共稼ぎをしつつ16(1941)年に長女の姉が生まれている。

長子の姉が生まれたのはまさに太平洋戦争が始まった年で、教員である父も母も今日でいうところの「エッセンシャルワーカー」というわけで、母などは「疎開」によって群馬県の伊香保に行かされたと言っていたが、その一方で父は戦時中に組織された「青年学校」の教員にシフトして、戦局が逼迫して来ても徴兵は免れている。

名瀬の父の生家に住んでいた伯父(父の兄で長男)は当時林業試験場に勤めていたようだが、赤紙で招集され中国大陸に渡って戦闘に従事したと言っていた。

父は結局応召することなく終戦を迎えた。これは当時としては珍しい存在だったかもしれない。とにかく戦時中も途切れることなく教員生活を送ったのであった。

そして戦後は昭和21年に兄が生まれ、25年に私が生まれ、26年には末子の弟が生まれ、家族は6人になった。

学徒動員によって師範学校の学生たちも招集されてかなりの犠牲者を出しており、終戦後は教員不足の状態であったから、母は我々3人の男兄弟を生んだ後もずっと教員としての勤務を続けていた。

父と母は次男次女のカップルであったので育児の手を祖父母に借りるわけにはいかず、人(住み込みの女中)を雇って家事育児を回していた。

昭和26年時点で子どもたちが4人になっても、その態勢は変わらなかった。

昭和16年生まれの姉に限って言えば、すぐ下の弟(私にとっては兄)の生まれが21年で姉は当時5歳になっていたからかなり手が離れ、そう負担にならず何とかやりくりして育児ができたのだが、兄の4年後の25年に私が生まれ、翌26年に弟が生まれると、そうは言っていられなくなった。

続けざまに生まれた3兄弟は特に母の手を必要としており、専業主婦の母であっても誰かの手(女中)を借りないと難しい育児だったが、ついに母は教職を離れることなく教員生活を続行した。

教員生活は当時としては珍しく男女平等の世界であった。給与も男女の差はなくただ最終学歴が短大か4年制かで開きがあるのだが、その後は勤務年数によってどちらも比例的に上がっていった。

この給与体系の実質的な平等が母にとっては居心地が良かったのか、母は「産前産後6週間」という出産時の休職をきちんと守って復職し、結局我々兄弟への寄り添い時間は大幅に限られてしまった。

これについて母だけを責めるのは酷だろう。父が母を離職させなかった可能性もある。おそらく父方、母方両生家からの援助が期待されなかったので、二人のダブルインカム(二重収入)に依存するほかなかったのかもしれない。

それは分からぬでもないが、戦後の東京であればもちろん教職もだが、あらゆる業態で人手が必要だった時代である、母が教職を離れて専業主婦になったとしても育児の合間、時に応じてパートなりを探せばいくらでもあったと思うのだ。

この流れの中で最大の過ちは、弟が中2に時(1965年)に起こした「長欠」(今で言う登校拒否)に対する両親の対応である。

この時が母の引退(離職)のタイミングだったのだ。ところが母は弟に寄り添わないまま教員を続け、結果として弟を精神障害にしてしまった。高校には行ったが2度の転校を繰り返し、やっと卒業はしたがすでに精神を病んでいた。(※その後、入退院を繰り返し32歳で他界した。)

父の話に戻るが、父は戦後は一時的に新制高校の教員になったあとは中学校の教頭になり、2年後の44歳の時に中学校の校長になった。そして5校の校長を経て60歳で退職し、退職の3年後に63歳で他界した。

ある意味で名校長だったらしく、他界と同時に政府から勲6等を受勲している。

家では明治時代の頑固おやじという側面が強く、これと決めたら梃でもという風であった(姉はよく父のことを封建的だと言っていた)。

また4兄弟のいずれも父の生地である奄美大島に連れて行ってもらったことはなかった。

それどころか父の口から奄美の家族、祖父・祖母の名前さえ聞いたことがなかったのだ。まことに不可解という他ない。祖父母の名は父が他界してから戸籍を大島から取り寄せて初めて知ることになったのだった。

我が家の鴨居には西郷隆盛の肖像画で額に入れたのを掲げてあったが、その理由について父から聞かされたことはなく、ただ「西郷さんの肖像画だ」とくらいにしか言われていなかったうえ、兄弟もそれ以上問いただすこともなかった。

ただ父が鹿児島出身であり、その郷土の偉人だからそうなんだろうという憶測に留まっていた。父が有無を言わせない雰囲気を感じさせる性格だったからだろうか。

またその額の掛かっている反対側の鴨居には国木田独歩の「山林に自由存す」という詩の表装されたのが横長の額に入れられて掛かっていた。

この詩の内容は子供心にもわかったが、なぜそこにかけられているのかについて、やはり問いただすことはなかった。

私も、自分の為すことに対して詳しくその理由を言うことはあまりしない方であるが、これは父譲りなのかもしれない。



高千穂の峰を遠望(2024.12.19)

2024-12-19 14:51:22 | おおすみの風景
12月9日の初霜以来、ちょうど10日続く朝の氷点下圏(零度前後)のために空気がぐんと冷やされ、土から立ち上がる湿気も乾燥した北西の風によって吹き払われて来た。

だから乾燥注意報が発令されて久しい。

こんな時に見られるのが、我が家のほぼ真北に位置する「高千穂の峰」のシルエットだ。

よく晴れて冷え込んだ早朝なら見えることのある高千穂の峰だが、そういう日に限って日中は気温が上昇して地面から陽炎のような蒸気が立つので見えなくなる。

ところが最近は空気が乾燥している上、日中の気温も10℃位しか上がらないので、地面から立ちの昇る陽炎のような蒸気がごく少なくなり、昼過ぎでもくっきりと高千穂の峰が見える。

そう急傾斜ではないが、中心のとんがり屋根ですぐそれと分かる高千穂の峰。我が家から直線距離にしてちょうど60キロだ。

霧島連山の東の最高峰で1594mもあり、言わずと知れた天孫降臨の山。

ただ同じ宮崎県の北部にある高千穂町の山に降臨したという説もある。

だが、明治維新政府で初代の内務卿だった大久保利通が鹿児島県出身だったため、天孫初代のニニギノ尊が下ったという高千穂の峰を、鹿児島県に近い霧島に比定したと言われる。

天孫の墓所についても、ニニギは薩摩川内の可愛山上に、次のホホデミは溝辺町の高屋山上に、その次のウガヤフキアエズは吾平町の鵜戸野の吾平山上に、という風にすべて旧薩摩藩領内に決定している。

政治的な偏向と言われても仕方がないだろうが、そもそも皇孫とはいえ「天から」降りてくるものだろうか?

倭語で漢語の「天(テン)」は「あめ」とも「あま」とも言うが、「あめ」は「雨」として最も普通に使われている。雨は気象用語であり、降雨にメカニズムから考えれば科学用語でもある。

天孫はもちろん雨ではないから、倭語としては「あま」のほうを重視すべきだ。

「天照大神」は「あまてらすおおみかみ」であり、「高天原」は「たか(あ)まがはら」、「天津日継」は「あまつひつぎ」というように天孫関係の用語ではすべて「あま」と読まれている。

ところが「あま」は海を舞台とした用語にも使われているから厄介だ。

「海士」「海女」はどちらも「あま」と読むし、中古の用語「海部」は「あまべ」である。尼僧も「あま・あまさん」だ。

薩摩半島の西南の方では「ニニギノミコトは海からやって来た」と言う所があるくらいだ。

「天地剖半説」では「澄んだものは天となり、濁ったものは地となる」(古事記)というが、では海はどうなんだろう?