日本最古の文献である古事記と日本書紀。
古事記の完成(選上)は712年(和銅5年)の1月18日だと選者「太安万侶」が古事記の上表文に記載している。
これに対して日本書紀の方は誰が選進したのか、書紀の中には書かれていない。だが、『続日本紀』に誰がいつ選進したかが記載されている。それによると、養老4年(720年)の5月の条に、
<一品舎人親王、勅を奉り、日本紀を修しき。ここに至りて功成りて奏上す。紀30巻、系図一巻。>
とあり、天武天皇の皇子である舎人親王が中心になって編纂されたことが分かる。
ところで古事記と日本書紀は同じように日本建国及び天皇制の歴史を描いているのだが、なぜわずか8年差というほぼ同じ年代に相次いで編纂選上されたのか、首を傾げるところである。
もっとも古事記は元明天皇(女帝)に奏上され、日本書紀は次代の元正天皇(女帝)に奏上されたという違いはあるのだが、日本建国史に2冊は要らないのに――という疑問は誰しも感じるところだ。
そこで「古事記は実は偽書である」という歴史界で根強い「古事記偽書説」が唱えられた。古事記の編纂について日本書紀の後継の書『続日本紀』には見られないからなお一層偽書説が幅を利かせていた。
ところが奈良市の近郊山中の茶畑の開墾中に突然墓室が現れ、中から太安万侶の銅製の墓誌が遺骨とともに見つかったのであった。1979(昭和54年)のことであった。
これで古事記偽書説は太安万侶の実在確認とともに立ち消えとなった。
太安万侶の出自については古事記の「神武天皇記」の分注に見えている「意富臣(おほのおみ)」が有力である。
「意富臣」は神武天皇の大和王朝確立後にイスケヨリヒメとの間に生まれた3皇子のうち二番目の「神八井耳(カムヤイミミ)命」の後裔氏族で、意富臣の他に18氏族が挙げられている。
因みに長子の「日子八井(ヒコヤイ命)」の後裔は茨田連と手島連と少なく、三男の「神沼河耳命(カムヌマカワミミ命)」が神武の後継となり第2代の綏靖天皇となった。
太安万侶が「意富臣」の後裔であるとすると、太安万侶は南九州から東遷した古日向系氏族であることになる。
この太安万侶が古事記編纂に当たり頼りにしたのは稗田阿礼(ひえだのあれ)という当時28歳の舎人であった。
稗田阿礼も太安万侶同様、得体のしれない人物とされていた。しかし太安万侶と古事記が偽物ではないと判明した以上、稗田阿礼も実在したとみてよい。
当時の舎人は実は主に南九州から参上していたのだ。その論拠は『続日本紀』(和銅3年1月27日条)に見えるように「薩摩からは舎人を、日向からは采女を献上せよ」という命令である。
稗田阿礼が実在したのはもちろん古事記編纂の前で、和銅3年は710年であるから稗田阿礼はそれ以前に薩摩から参上していたのだろう。
稗田阿礼が優秀だったため、その後「舎人なら薩摩から」という習慣になったのではないだろうか。
この2人が文献をあさり、時には神懸かりになりながら編纂したのが元正天皇に献上した古事記(ふることぶみ)であった。
実際、神話の部分を見ると、南九州出身ならではの記述が散見される。
特に指摘したいのが、イザナミとイザナギが交合する場面で、交合を「ミトノマグハヒ」(美斗能麻具波比)というところである。「マグハヒ」は交合そのものだが、「ミト」の解釈が諸本では「場所」などとなっているが、それは違う。「ミト」は「夫婦(メオト)」の南九州語である。
要するにイザナギ・イザナミは「夫婦の契りを結ぼう」と言ったのである。
またイザナミは大量の神々を生んだ果てに火の神「カグツチ」を生んで他界するのだが、このカグツチは火山の溶岩(マグマ)そのものであり、イザナミという大地の母を殺してしまう。活火山の本場とも言うべき南九州の原風景そのものである。
またイザナミは死後に黄泉の国に行くが、イザナギが会いたさに堪えず訪れると、イザナミはすでに「蛆が付いて身が溶けていた」ので恐ろしくなって地上に戻ろうとしたイザナギは、追ってくる黄泉の軍団を何とかかわし、最後に黄泉との境界に千引の石(ちびきのいわ)を置いて塞いだ。
この「千引き石」こそが南九州特有の「地下式横穴」と言われる古墳で「遺体を安置する穴(墓室)」とその入り口(羨道)に必ずおいて塞いだ「閉塞石」そのものである。
このように南九州に特徴的な地質や考古的描写をいくつも持ち合わせている古事記神話は、記述した者が南九州からの到来者であったとしたら、筋が通りそうだ。