鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

鹿沼在来そばで年越し

2023-12-31 21:35:41 | 日記

今日は大晦日、午前中に室内用の脚立に乗って天井に近い壁に染み付いた汚れを落とし、庭の落ち葉を片付けたあと、隣町の銭湯に入りに行った。

あらかじめ銭湯に問い合わせておいたのだが、今日は午後6時で終了するとのことであった。

着いたのが午後1時半で、いつもならガラガラの時間だが、今日はさすがに帰省客だろういつも目にしないような家族連れがたくさん入りに来ていた。

帰宅後は家の中の片づけと、神仏檀の清掃を済ませ、夕方からテレビを観ながら早い晩酌を始めた。

最近のNHKの紅白歌合戦はかつてと趣が違い、あからさまに男組と女組とに分けて競うという形式は採らず、いつの間にか始まっているという感じだ。

それに加え「韓流歌手グループ」の出演の多いことには驚かされる。

おそらく例のジャニーズ系の歌手及びグループが「干された」からだろう。致し方あるまい。

 

いつもは紅白歌合戦が後半に入った頃に食する「年越しそば」だが、今年は早い時間帯に横浜在住の友人が送ってくれた毛色の違ったそばを食べた。

その名は「鹿沼在来そば」である。鹿沼は栃木県の一都市だが、こちらでも園芸関係では著名な土「鹿沼土」の産地でもある。

そばの箱の中にしおりがあり、それによると鹿沼そばは農林水産省が認めた「地理的表示産品」(GI産品)だそうで、鹿沼産のそばは江戸時代からの地場そばで、他産地のより小粒ででんぷん含有量が多く、甘みと歯切れの良さが持ち味だという。

実際食べてみると麺は細切りで汁との相性が良い。また、そば本来の香りが高い。

蕎麦は荒地でも栽培可能な救荒食の面があり、高地でも低地でも実る優れものだ。

かつてはそばに含まれるルチンという成分が高血圧によいと言われたことがあったが、この頃は余り聞くことがない。

そば好きに高血圧はいないということも聞かないが、そばは腹持ちが良いので間食も少なめで良いから肥満対策にはなるのかもしれない。

行く年くる年ももうすぐだ。よいお年を!

 

 


驚き桃の木「ママ合唱団」

2023-12-28 22:19:54 | 母性

今夜のテレビ番組で「オールスター合唱バトル」(読売テレビ)を観た。

アスリートを含む芸能人の各分野から20名くらいの合唱団を構成し、5名の審査員の採点で優勝者を決めようという番組だが、合唱団は7つあり、総勢140名の出演者からなる大きなイベントであった。

各合唱団が自分たちで選んだ2曲を唄って争うのだが、歌そのものよりも合唱に特有の構成の良さが勝敗を分けた。

結論から言うと、優勝は同点で二組あった。一つは「演歌合唱団」、もう一つは「歌うま芸人合唱団」だ。

演歌合唱団はプロ集団だから当然と言えば言えるが、歌うま芸人の方は演出が良かったため高得点が出たようだ。

後の五つは「最強ボーカリスト」「ものまね芸人」「歌うまアスリート」「アイドル」そして「ママ」という顔ぶれで、最強ボーカリストはあの秋川雅史を団長とするボーカルのプロ集団、歌うまアスリートは全日本級のアスリートが勢揃いし、アイドルはAKBなどの出身者たちだった。

中で変わっているのが「ママ合唱団」だ。団長は大食いタレントのギャル曽根で、要するに子持ちの芸能人が集められて結成されていた。元歌手も何人か入っていた。

この合唱団、私は番組の言わば「フェイク」だと思っていたのだが、あに計らんや一曲目に500万点中495点という高得点を叩き出したのだ。一曲目のトップは「演歌合唱団」だったが、その差はわずかだった。驚いたのがプロ集団の「最強ボーカリスト合唱団」を上回ったことだ。

ママ合唱団が一曲目に選んだ曲はmisiaの「アイノカタチ」という曲で、これは実によかった。自分もだが、会場で聴いている出場者たちの何人もが涙を堪え切れずにいた。

カラオケではほとんど聴かない曲だが、彼女ら母親たちの口から「大好きだよ」と唄われると、彼女たちの子どもへの愛情あふれる言葉に聞こえ、ジンとくるものがあった。

合唱の持つ「歌の力」は大きい。個人間の垣根を越えて一体感が皆を包み込む。歌うまアスリートの誰かが「自分は個人競技だから今度の合唱に加わってとても良い経験になった」と感想を漏らしていたが、その通りだろう。

特にこの「ママ合唱団」の「アイノカタチ」の一曲は驚き桃の木だ。もちろんmisia本人単独の歌も素晴らしいのだろうが、この際は合唱団の方が心への訴求力がより強かったと思われる。母性の為す技かもしれない。

冗談めくが、この合唱団の歌を争いの絶えない所に送って聴かせてやりたいものだ。

 


柴又旅情(2023.12.23)

2023-12-25 20:50:19 | 日記

敬愛する「寅さん」の故郷へ久しぶりに行ってみた。20代の頃に訊ねて以来だから、久しぶりどころの話ではない。50年近く経っている。

寅さん映画は山田洋次監督が、最初は小津安二郎の「東京物語」のような映画を作りたいとの思惑から始まったのだが、ひょんなことから渥美清主演の「負けてたまるか」という3回か4回完結のドラマ作るをことになったことに端を発している。

負けてたまるか」は主人公が奄美に行ってハブに咬まれて死んでしまうことで幕切れとなったのだが、視聴者から「何で主人公を殺してしまうのか」と抗議が多くなり、製作元の松竹からの依頼で渥美清主演の映画を作ることになった。

そして始まったのが昭和44年の第一作だった。その時の「マドンナ」は生まれ在所の帝釈天の住職の娘で、住職は笠智衆、娘役は光本幸子が配された。

こ゚の第一作は極めて大事で、寅次郎という人物がなぜテキヤに近い諸国放浪の旅を繰り返すようになったかが分かるようになっている。

寅さんが奈良にテキヤ稼業に出ていると、偶然にも帝釈天の住職と娘が同じ奈良にやって来ていた。

昵懇の間ながら、娘は寅次郎の顔見知りではあるにしても「マドンナ」というにはレベルが違い過ぎていたのだが、実は寅さんの生みの母親が京都でラブホテルを経営しているので寅さんが会いに行くのを後押しして付いて来てくれたのだった。

生みの母役はミヤコ蝶々という関西では超の付く売れっ子役者だ。やはり名優である。

「うちがちょっとか金回りが良くなったら、あんたのようなのが金の無心に現れるんや」

こうふてぶてしく言い放つ実の母に、カーッと来た寅次郎は「あんたなんか親でも何でもない!」と即座に踵を返してしまう。

これで親子の縁はぷっつりと切れ、以後の寅さんはお馴染みの「フーテンの寅」となり、諸国放浪のテキヤ稼業に精を出す(?)ことになる。

この寅さんキャラの設定には長谷川伸の「瞼の母」が被っている。瞼の母では番場の忠太郎が5歳の時に母が家を飛び出し、行方知れずとなったので、母を慕う忠太郎は15歳から諸国放浪の旅に出る。

20年ほどして母が江戸の大川端に「水熊」という店を構えていることを知って訪ねるが、母のお浜は寅さんの母のようなことを言い、かつ「母を訪ねて来るのなら、どうしてやくざではない姿で来てくれなかったのか」と詰問した。

カーッとなった忠太郎は「訪ねて来るんじゃなかった。誰がやくざにしたんでぃ。本当の母は瞼の中にいるからこれからは瞼の母に会えばよい、あばよ」と店を出て行ってしまう。

この下りは寅さんと実の母との別れとシンクロしている。

山田洋次監督も瞼の母を高く買っていたに違いなく、この生母との別れが前提で初めて寅さんシリーズが48話も続くことになった。

京成電鉄の柴又駅前には寅さんの銅像が立つ。そばにいた町案内のボランティアの話では、一般人の浄財を募って造られたそうだ。等身大の寅さんだという。

寅さん像から5メートルくらい離れたところには、やはり等身大の妹さくらの像が立つ。

さくらは寅さんの腹違いの妹だが、寅さんにとってさくらはまるで母親のようで、さくらが「とらや」いるからこそ放浪ができると言ってもいい。

その「とらや」に入って名物の草だんごを食した。本当のもち米を使ったヨモギだんごで、粘り気は半端ではなく美味かった。

向かいの壁には男はつらいよの第一作から12作くらいまでの懐かしいポスターが貼られている。

その後は柴又帝釈天通りを帝釈天に向かい、さらに帝釈天と江戸川との間にある「寅さん記念館」と「山田洋次ミュージアム」を見学したが、男はつらいよの全作品のポスターと映画で撮影されたとらやと裏のタコ社長の朝日印刷所の模型があり、懐かしさが倍増された。

柴又駅は京成電鉄金町線にあるのだが、京成電鉄成田線に「新柴又駅」が新設されていたので帰りはそこを利用し、途中の押上スカイツリー駅で降りて、スカイツリーに登った。結構な人出で、ここを含めて浅草界隈を訪れる外国人旅行客の多いのには驚く他ない。


防衛省はアメリカ国防省の日本支部か?

2023-12-21 19:52:41 | 日本の時事風景

昨日と一昨日、同じ記事が新聞2面の片隅に載った。

「PAC3を米国に輸出」という記事だ。

PAC3はアメリカ由来の地対空ミサイルで、ウクライナでも大いに使われている。

日本ではアメリカ本国のライセンスを得て製造している(製造を始めている)。

このミサイルをアメリカの国防省の要請にこたえて、日本から輸出しようというものだ。

日本には武器輸出三原則というのがあって、殺傷能力を持つ完成品は輸出の対象ではなかったのだが、今回はアメリカの要請に応じる形で改正されるそうだ。

おそらくウクライナへの移出ということになるのだろう。

ところがウクライナ支援に関してアメリカでは共和党の反発が強く、ウクライナへの支援予算を年内には出せない(議会の承認が下りない)ことになり、このPAC3の移出を含む予算が確保できない見通しとなった。

その総額は48億ドル(約6900億円)だそうだが、同じ日の新聞に日本がGセブン財務省のオンライン会議でウクライナ支援に45億ドル(約6500億円)を出す用意があるとあった。

この日本の巨額の支援額は、年内に用意できなくなったアメリカの支援額に近似しているではないか。

これはアメリカが準備しようとしたウクライナ支援が延び延びになってしまうことに対して、アメリカからの要請があったのか、あるいは日本のアメリカへの「忖度」なのだろうか。

PAC3のアメリカへの輸出もその一環なのか、あるいはこのところの円安ドル高でアメリカは自国内で製造するよりも円安の日本で造らせた方が安くつくという算段なのか。おそらくどっちもだろうが、いよいよ日本は精密な武器弾薬が「安く手に入る」国となって行くような気がする。

かつて中国が安い値段で製造した雑貨などが世界を席巻したようにはなるまいが、武器弾薬となるとおぞましい限りだ。


太安万侶の出自とイザナミ神話

2023-12-21 16:09:09 | 記紀点描

日本最古の文献である古事記と日本書紀。

古事記の完成(選上)は712年(和銅5年)の1月18日だと選者「太安万侶」が古事記の上表文に記載している。

これに対して日本書紀の方は誰が選進したのか、書紀の中には書かれていない。だが、『続日本紀』に誰がいつ選進したかが記載されている。それによると、養老4年(720年)の5月の条に、

<一品舎人親王、勅を奉り、日本紀を修しき。ここに至りて功成りて奏上す。紀30巻、系図一巻。>

とあり、天武天皇の皇子である舎人親王が中心になって編纂されたことが分かる。

ところで古事記と日本書紀は同じように日本建国及び天皇制の歴史を描いているのだが、なぜわずか8年差というほぼ同じ年代に相次いで編纂選上されたのか、首を傾げるところである。

もっとも古事記は元明天皇(女帝)に奏上され、日本書紀は次代の元正天皇(女帝)に奏上されたという違いはあるのだが、日本建国史に2冊は要らないのに――という疑問は誰しも感じるところだ。

そこで「古事記は実は偽書である」という歴史界で根強い「古事記偽書説」が唱えられた。古事記の編纂について日本書紀の後継の書『続日本紀』には見られないからなお一層偽書説が幅を利かせていた。

ところが奈良市の近郊山中の茶畑の開墾中に突然墓室が現れ、中から太安万侶の銅製の墓誌が遺骨とともに見つかったのであった。1979(昭和54年)のことであった。

これで古事記偽書説は太安万侶の実在確認とともに立ち消えとなった。

太安万侶の出自については古事記の「神武天皇記」の分注に見えている「意富臣(おほのおみ)」が有力である。

「意富臣」は神武天皇の大和王朝確立後にイスケヨリヒメとの間に生まれた3皇子のうち二番目の「神八井耳(カムヤイミミ)命」の後裔氏族で、意富臣の他に18氏族が挙げられている。

因みに長子の「日子八井(ヒコヤイ命)」の後裔は茨田連と手島連と少なく、三男の「神沼河耳命(カムヌマカワミミ命)」が神武の後継となり第2代の綏靖天皇となった。

太安万侶が「意富臣」の後裔であるとすると、太安万侶は南九州から東遷した古日向系氏族であることになる。

この太安万侶が古事記編纂に当たり頼りにしたのは稗田阿礼(ひえだのあれ)という当時28歳の舎人であった。

稗田阿礼も太安万侶同様、得体のしれない人物とされていた。しかし太安万侶と古事記が偽物ではないと判明した以上、稗田阿礼も実在したとみてよい。

当時の舎人は実は主に南九州から参上していたのだ。その論拠は『続日本紀』(和銅3年1月27日条)に見えるように「薩摩からは舎人を、日向からは采女を献上せよ」という命令である。

稗田阿礼が実在したのはもちろん古事記編纂の前で、和銅3年は710年であるから稗田阿礼はそれ以前に薩摩から参上していたのだろう。

稗田阿礼が優秀だったため、その後「舎人なら薩摩から」という習慣になったのではないだろうか。

この2人が文献をあさり、時には神懸かりになりながら編纂したのが元正天皇に献上した古事記(ふることぶみ)であった。

実際、神話の部分を見ると、南九州出身ならではの記述が散見される。

特に指摘したいのが、イザナミとイザナギが交合する場面で、交合を「ミトノマグハヒ」(美斗能麻具波比)というところである。「マグハヒ」は交合そのものだが、「ミト」の解釈が諸本では「場所」などとなっているが、それは違う。「ミト」は「夫婦(メオト)」の南九州語である。

要するにイザナギ・イザナミは「夫婦の契りを結ぼう」と言ったのである。

またイザナミは大量の神々を生んだ果てに火の神「カグツチ」を生んで他界するのだが、このカグツチは火山の溶岩(マグマ)そのものであり、イザナミという大地の母を殺してしまう。活火山の本場とも言うべき南九州の原風景そのものである。

またイザナミは死後に黄泉の国に行くが、イザナギが会いたさに堪えず訪れると、イザナミはすでに「蛆が付いて身が溶けていた」ので恐ろしくなって地上に戻ろうとしたイザナギは、追ってくる黄泉の軍団を何とかかわし、最後に黄泉との境界に千引の石(ちびきのいわ)を置いて塞いだ。

この「千引き石」こそが南九州特有の「地下式横穴」と言われる古墳で「遺体を安置する穴(墓室)」とその入り口(羨道)に必ずおいて塞いだ「閉塞石」そのものである。

このように南九州に特徴的な地質や考古的描写をいくつも持ち合わせている古事記神話は、記述した者が南九州からの到来者であったとしたら、筋が通りそうだ。