鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

倭人は「わじん」か「ゐじん」か

2024-12-05 19:34:31 | 邪馬台国関連
倭人とは通称の『魏志倭人伝』に登場する今日の大方の日本人の先祖に対する3世紀頃の名称である。

ただし、日本の文献では倭人という名称は現れない。

その名称が載ったのは前出の『魏志倭人伝』で、この文書は大陸の魏王朝時代に日本列島の九州島に所在した「邪馬台国」との交流によって得られた倭人の当時のかなり詳細な知見を基にして書かれている。

書いたのは魏を滅ぼした晋王朝に仕えた史官「陳寿」という人で、陳寿自身は列島に来たこともなく、あまつさえ朝鮮半島を訪れたこともなかった。

しかし陳寿の筆力は絶大で、魏の植民地になった半島の帯方郡治を通じて魏の明帝に朝賀謁見した邪馬台国のナシメ・トシゴリ・イショウキ・ワキヤクなどの倭人からの話や、逆に帯方郡から列島に渡った魏の官吏梯儁(テイシュン)・張政(チョウセイ)などの倭国における見聞を基にして倭国の地理や歴史・風土・風俗を縦横に記している。

また当時の九州島では邪馬台国とその南に位置する狗奴国との間で紛争が起きかけており、救いを魏に求めた女王ヒミコが慌ただしく魏へ使者を送り、その見返りに「黄幢」(錦の御旗)が授けられ、張政という武官が渡来して争いを鎮め、ヒミコが自死するという238年から247年までの10年間のドキュメタリーな状況を生々しく描いているのも特筆に値する。

ここでは倭人の女王国がどこにあったかについての論考は抜きにして私の邪馬台国説は「福岡県筑後地方の八女市を中心とする一帯が女王卑弥呼の本拠地である」と結論だけ言っておく。

(※また邪馬台国の南にあって北進しようとしていた狗奴国は、菊池川以南の今日の熊本県域であり、ヒミコ亡き後に立った宗女トヨの治世中に侵略を果たしたと見る。)

さて倭人を「わじん」と読むか「ゐじん」と読むかだが、中国の史書で「倭人」の初出は『論衡』(後漢の王充=27年~97年=の著書)である。

『論衡』の第8、第13、第18、第58にそれぞれ「倭人」が登場する。第58が最も具体的に年代が分かるので次に挙げる。

<第58 恢国篇・・・成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。>

成王は周王朝の2代目で紀元前約1000年頃の人であるから、それほどの昔から倭人の存在は大陸において知られていた。

越常とは「越」のことで、大陸南部の大国であり、周王朝に対しては臣下の礼をとって朝賀に雉(白雉)を持参し、同様に倭人は暢草(薬草の一種)を献じたというのだ。

この倭人についてはもう一つ大陸との関係を示唆する史料がある。

それは『翰苑』という大陸では散逸してしまい、わずかに日本の太宰府天満宮に所蔵されていたという史書で、陳寿と同時代に書かれながら廃書となった『魏略』から引用した次の一文である。

<(帯方郡より)女王国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を點ず。その旧語を聞くに、自ら「太白の後」という。昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、以て蛟竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>

<(意訳)邪馬台国へは帯方郡から1万2千余里。風習として男子はみな顔に入れ墨を施している。言い伝えによると、彼らは「太白の後裔」だそうだ。
 そう言えばかつて夏王朝の小康(始祖王・禹の6代目)の子が長江左岸の会稽という所へ領地を与えられて下った時に、髪を切り身に入れ墨を施したというではないか。
 倭人たちも同じ様に入れ墨をしているが、海に入った時にサメなどから身を守るためなのだ。>

倭人の言い伝えでは彼らは「太白の後裔」という。太白とは長江下流の国・呉を建国した人物である。倭人の言い伝えではその後裔という以上、倭人は呉の末裔ということになる。

だが倭人は「呉の太白のすえ」といってはおらず、「呉」が抜けている。ということは呉の成り立ちから考えると、古公亶父という人物の3人の男子のうち長男の太白と次男の虞仲が南方に行って呉を建てている。(※末っ子の季歴は周王朝の始祖となっている。)

しかし呉を実際に開いて始祖となったのは次男の虞仲の方で、長男の太白は後継者を得ずに死没している。だからもし倭人が呉王朝の末裔であるならば「呉の虞仲のすえ」と言わなくてはならないのだ。

では「太白の後」とはどう考えるべきか。倭人は実は「われわれは呉を開いた太白とは起源が同じだ」と言いたいのではないか。

そもそも太白・虞仲・季歴の3兄弟の父の「古公亶父」という人物の由来がよく分からないのだが、この人の出自は夏でも殷でもなく黄帝(有熊氏)という神話時代の王族につながるようである。

『論衡』にしろ『翰苑』にしろ倭人の居住地については、日本列島というより、長江の下流域に居住していたように読みとれる。

この点について、中国人ジャーナリストの次のような見解がある。

<『倭人と倭人文化の謎』国務院発展研究センター 張 雲方
1、『論衡』の成王に薬草を献じたという倭人が日本列島の倭人とは考えにくく、長江流域に住んでいた倭人だろう。
2、新石器時代(日本の縄文時代)の倭人は長江最上流の雲南省で水稲栽培を始め、その後長江下流域に勢力を伸ばし、「長江文明」を生んだ。
3、長江下流域から北上した倭人は山東半島にも小国家群をつくった。徐・淮・莒・莱などである。
4、山東半島の倭人は「東夷」とされ、徐福の出身は徐国で、彼は東海を渡って日本列島に到った可能性がある。>

この論考によると、倭人は長江に居住していたという。

私はこの説を完全に肯定はしないのだが、倭人が越人とともに周王朝の初期から朝貢していた史実から考えると、一概に否定すべきではないと思う。

そう考えると、大陸における倭人の居住域は長江流域であり、まさに呉や楚の国々の領域に当たっている。すなわち漢字を呉音で読む地域である。

中国大陸の長江流域に居住していた倭人は漢字を知っており、読むにあたってはやはり呉音を使っていた可能性が大である。

したがって「倭人」を「ゐじん」とは読まず、「わじん」と読んでいた可能性の方が高いと思われる。





岩戸山古墳の「別区」について

2024-11-27 20:21:51 | 邪馬台国関連
八女市の八女丘陵に展開する古墳群約300基の盟主が同市吉田の岩戸山古墳で、北部九州では最大の、墳丘の長さが135mもある前方後円墳である。

八女は6世紀初めに筑紫の君磐井が本拠地としており、八女古墳群の大方は筑紫君(古事記では筑紫国造)勢力の墳墓だと考えられている。

だが私は、肝心の盟主墓である岩戸山古墳に筑紫君磐井が葬られている可能性はないと結論付けた。

磐井は半島情勢をめぐって当時のヤマト王権の継体天皇の意向に背き、新羅に肩入れして対立し、ついに物部アラカビの率いるヤマト王府軍の侵攻を許し、磐井は書紀によれば戦死、古事記によれば物部アラカビと大伴金村両大連の追討によって殺されたとある。

また「筑後風土記逸文」では九州山地を越えて現在の中津市に逃れ、そこからさらに南の険しい山岳地帯に入って行方知れずになった――とある。

いずれにしても磐井はヤマト王権への反逆者となったわけで、反逆の首謀者がいくら「生前墓」(筑後風土記の記述による)を造ってあったとしてもそこに無事に埋葬されるはずはないのである。

埋葬されないどころか、6万という王府軍の兵士にかかればその「生前墓」は全部破壊されておかしくない事態ではないか。

私は前回のブログで、筑後風土記のいう磐井の造ったという「生前墓」とは岩戸山古墳の「前方部」だけで、それ以前からあった後円部に付け足したに過ぎないと考えてみた。

その後円部こそが八女邪馬台国の女王だった卑弥呼の眠る墳墓で、おそらくその頂上部には最高神天照大神に因んだ「オオヒルメムチ」などという倭語で名付けられた印、あるいは口承があり、さすがのヤマト王府軍も手にかけるのを畏れたのだろう。

その代わり、風土記がいうように王府軍は古墳の周囲に置かれた「石人・石馬」といわれる石造物を叩き壊そうとしている。

ところでこの岩戸山古墳で奇妙なのは後円部の北東にある40m四方の「別区」である。
この岩戸山古墳の俯瞰写真で後円部は東向きだが、その後円部の北東(右上)側に後円部に付属するような一辺が40m余りのグラウンド状の「別区」が広がっている。後で述べる「吉田大神宮」は後円部を挟んで別区の真反対側に鎮座しており、叢林の中に屋根らしきものが見える。

風土記によればこの別区は「衙頭(ガトウ=まつりごとどころ)」と呼ばれ、その中に「解部(ときべ)」という石人が悠然と立ち、その前には裸の「偸人(ぬすびと)」が伏せている。そのそばには石の猪が4体置かれ、それが盗んだものだという。

悠然と立つ石人が盗っ人を裁いている様子を表しているに違いないが、それにしては裁判の場(法廷)が40m四方とはいくらなんでも広過ぎる。

この別区について諸説ある中で、祭祀の場ではなかったかという考えがあり、私もそう考える。

「解部」という裁判官の仕事も政(まつりごと=祭事)の一端であるのだが、この別区が後円部に直結するような位置にあることを考えると、この別区、そもそもは後円部の被葬者を祭る盛大な儀式の場として使われたのではないだろうか。

後円部に埋葬されているのが邪馬台国女王の卑弥呼であれば、直径60m~70mの後円部の大きさに対して一辺が40m余りの別区は、被葬者卑弥呼への祭祀の場として広過ぎるということはないだろう。

また後世(いつかは不明だが)後円部の墳頂に「伊勢神社」が建てられたのもオオヒルメたる卑弥呼に相応しいし、その伊勢神社が100年前に後円部から後円部の麓に移され、その神社の名は何と「吉田大神宮」(主祭神はオオヒルメムチ)という。

この神社は吉田と言う地名を冠しているのだが、それならば「吉田神社」になるはずで、「大神宮」とは突拍子もない命名だ。「吉田のおおかみのみや」と読むのだろうか。

もし「大神宮(だいじんぐう)」と読むとすれば、伊勢神宮・鹿島神宮・熱田神宮などの大社に並ぶ名称だが、一介の地方の小社に許される名称ではない。

だがもし後円部が卑弥呼の墳墓であるとすれば、あながちそれは否定されないだろう。岩戸山古墳の後円部を卑弥呼の墓と考える私にはむしろふさわしいとさえ思えるのだ。



卑弥呼の墓はここだ!

2024-11-21 19:39:24 | 邪馬台国関連
 岩戸山古墳を探訪

畿内大和に邪馬台国があり、247年に死んだ女王卑弥呼の墳墓は纏向古墳群を代表する「箸墓古墳」である――と考えるのが邪馬台国畿内説のダメ押しの感があるが、そもそも畿内説は成り立たないのでそれは不可である。

では、九州説ではどこに卑弥呼の墓があるとするのか?

畿内説を支持する研究者の多くはそう考えるに違いない。九州説の論者で卑弥呼の墓を特定したというのはほとんど聞いたことがないのだ。

私は2003年に『邪馬台国真論』を書き、福岡県の八女市郡域に邪馬台国があったと結論付けたのだが、実はその時点で卑弥呼の墓については結論を避けていた。

八女市にはかつて2回訪れていて、1回目は有名な「岩戸山古墳」を見物し、そのあと卑弥呼の墓をそれとなく探しつつ「童男山古墳群」などを見て回った。

その時は岩戸山古墳は前方後円墳であるから卑弥呼の死後に「径100余歩」という円墳が築かれたという倭人伝の記述に合わないので、論外とした。

また童男山古墳群は墳丘の小ささには不釣り合いな横穴式石室がサイドから入れるようになっていて、これも卑弥呼の時代にはあり得ないとして論外だった。

ところが8年か9年前に大隅地区の大崎町と言う所で地元の古墳群についてのシンポジウムがあって聴きに行った時、考古学マニアとして有名な俳優・苅谷俊介がパネリストとして招かれており、彼の口から「邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼の墓は箸墓です。ただ、卑弥呼の墓は最初は円墳でしたが、前方部は後から付けたしたんですよ」と聞いて唖然としたのを覚えている。

そんなことがあるもんか――と瞬間、私は心中吐き捨てるよう言っていた。

箸墓が「初期の定型的な前方後円墳であり、その大きさも初期最大の古墳」と「定型的な」という形容が付く以上、前方部を後から付け足したとすれば矛盾もいいところではないか。

ところがその後5年ほどして、卑弥呼の墓の所在を再考した時に浮かんだのはこの「前方部付けたし説」であった。

折しもその頃、2回目に八女を訪れた時、岩戸山古墳の資料館が新しくなっており、資料館の中から壮大な岩戸山古墳がすぐそこに見え、資料館から後円部に登る道さえできていた。

後円部に登ると、墳頂には石囲いがあり、その中の中心には花崗岩でできた石柱が立てられていた。

刻字を読むとかつてこの場所には伊勢神社という社があったという。それが大正15年に移設され、今は墳丘の下にへばりつくように創建された「吉田大神宮」という神社になっているそうだ(西日本新聞によると今年創建100周年を祝う行事があった)。

後円部を下りて前方部に向かうのだが、その傾斜は先ほど資料館側から登って来た傾斜と変わらず大きいものだった。

下りきるとそこからは前方部なのだが、まるで小高い丘の尾根筋のように平らであった。行き着いた前方部の墳頂には小さな社が建ち、そこから左手に下りの石段があり、前方部のふもとまで降りることができた。

そこから左手へ50mほどで吉田大神宮の鳥居に到るのだが、神社に参ることはせずに資料館に引き返した。

 岩戸山古墳について従来説への疑問

さて、日本書紀によると、継体天皇の時代に半島国家の新羅が任那への圧迫を強め、いくつかの国境地帯の地方が侵攻され始めたというので、継体天皇が物部アラカビに命じて6万の大軍を差し向けようとした時、それを察した新羅が当時筑紫の君であった磐井に賄賂を贈ってヤマト王府軍を抑えるよう画策した一件が発生した。

そのことでヤマト王府軍対磐井の戦いが勃発する。継体天皇の21年、西暦527年のことであった。継体紀によると、翌年の11月には筑紫国御井郡(現在の三井郡)で物部アラカビ自らが磐井を討ち取ったという。

この「磐井の乱」については『筑後風土記(逸文)』にも詳しく載っているが、こちらの記事では「磐井は討ち取られることなく逃げて豊前国の上膳県(かみつみけのあがた)に到り、さらに南の山岳地帯に入って終わった」とあり、死んだには違いないが継体紀とは描写に大きな違いがある。

そしてここが大事なのだが、筑後風土記にはさらに「筑紫君磐井は暴虐でヤマト王権の意向に従わず、生きている時にあらかじめこの墳墓を造っていた」と土地の古老の証言まで載せている。

「岩戸山古墳の被葬者は筑紫君磐井である」と多くの解説がなされているが、その論拠が下線の部分である。

だが磐井が被葬者であるとすると、いったいどうやって彼の遺体をこの墓に埋葬したのだろうか。

継体紀では戦死、筑後風土記では行方不明になりどこかの山中で終わって(死んで)いるのだ。

戦死なら賊軍の大将であるから八つ裂きにされてあちこちに埋められるし、どこか分からない山中で死んだのなら、遺体の回収のしようがない。仮に遺体(の一部)が見つかったにせよ、ヤマト王府軍が待機している八女に持って来て「生前墓」に埋葬するのは不可能であろう。

以上から、岩戸山古墳に磐井が埋葬されていると考えるのは不可解である。それに、反逆者磐井が生前に造ったのであるならば、ヤマト王権軍によって破壊されそうなものだ。

 岩戸山古墳の後円部こそが卑弥呼の墓だ

そこでもう一度岩戸山古墳の姿を振り返ると、後円部の頂にはかつて(大正15年まで)「伊勢神社」があったということに思い至る。

伊勢神社であるから、無論、祭神は天照大神である(創建100年を迎えた吉田大神宮の祭神でもある)。

ここで私は次のように考えてみた。

――後円部にヤマト王府が尊崇する伊勢の大神つまり天照大神が祭られていたからこそ、ヤマト王府軍は古墳を破壊することなく引き上げたのではないか。

そして、後円部には天照大神に匹敵するほどの人物が眠っている。だからこそ伊勢神社と名付け、ヤマト王府軍による破壊を回避したのではないか。

その人物こそが女王卑弥呼だ――と。

 前方部だけが磐井の築いた「生前墓」

そうなると前方部は何故あるのか?

ここで持ち出すのが先に述べた「前方部付けたし説」である。

磐井の出自を私はかつての狗奴国と考えており、狗奴国はほぼ現在の熊本県域であった。卑弥呼が247年に死に、後継者の台与の時に侵攻して八女邪馬台国を支配して以来、磐井まで250年ほどは続いたと考えている。

この磐井はもちろん岩戸山古墳(当時は円墳)が卑弥呼の墓だと知っていた。そして筑紫君(古事記では筑紫国造)として北は粕屋の三宅を掌握するほどになっていた。

ほぼ大王と言ってよいくらいの一大勢力であり、これはかつての邪馬台国に匹敵する。

そこで磐井は卑弥呼の眠る円墳に付け足すように前方部を築き、自分が死んだらそこに埋葬され、後円部の卑弥呼と霊的に結ばれるよう願ったのではないか。

「天円地方」という考え方も磐井の脳裏にあったのかもしれない。「天」は卑弥呼、「地」は自分である。

しかし現実にはそうならなかった。ヤマト王府への反逆者になってしまったから、そこに埋葬されることはなかったのである。

倭人伝によると、後円部が卑弥呼の眠る円墳だとしたら「径100余歩」に一致しないと思われよう。一般的に「一歩」は漢尺では人の歩く2歩分、つまり約150センチとされ、そうすると100余歩は150mにもなる。

だが岩戸山古墳後円部の現有の直径は60mほどで、仮に経年による縮小でかつてはもう一回り大きかったとしても70m程度である。

これでは倭人伝の100歩の半分でしかない。しかしこう考えられないだろうか。この墓を造ったのは倭人であり、倭人は「一歩」を今日の我々でも使っている1歩、すなわち片足分の1歩を「一歩」として後円部の直径を測って帯方郡からの使者に伝えたのではないか。

魏人にすれば50歩だが、倭人は倭人の測り方で100歩と報告したのだろう。それならば60mから70mと言う距離に適うのである。

 まとめ

岩戸山古墳の被葬者は筑紫君磐井ではない。

後円部は元は倭人観念の100歩(60~70m)の円墳であり、そこには邪馬台国女王卑弥呼が眠っている。

筑後風土記が言うように磐井が生前に造った生前墓(寿陵)ではあるが、磐井は後円部に卑弥呼が埋葬されるのを知っていて、自分は前方部を付けたし、死後はそこに埋葬されるのを願った。

継体天皇の22年、王府軍と戦うことになり、磐井は戦死、または行方不明になっており、いくら生前墓と言えども磐井が埋葬されることはなかった。

岩戸山古墳が王府軍によって破壊されなかったのは、おそらく後円部に天照大神に匹敵するような人物が埋葬されていることを知り、手を付けずに残したのだろう。

その代わり、磐井が好んで墳墓に並べた石人石馬などの造作物は王府軍によって破壊された(完全破壊ではない)。




卑弥呼の墓?

2024-11-20 14:38:21 | 邪馬台国関連
前述の纏向デジタルミュージアムのサイトでは、纏向古墳群の盟主的古墳「箸墓古墳」を卑弥呼の墓と決定したい様子が見て取れるが、そもそも邪馬台国が大和のこの地に展開する国ではあり得ないからその見解は否定せざるを得ない。

墓を管轄する宮内庁ではこの古墳の名を「大市墓」とし、書紀の崇神紀に見える有名な「三輪山伝説」に登場するヒロイン「倭迹迹日百襲姫命(やまと・と・と・ひももそ・ひめ)」の墳墓に指定している。

これは崇神天皇の代にあった三輪山の主と皇女の神話伝承をそのまま踏襲しているのだが、戦後は神話などは歴史学の上からは否定され、それに代わって考古学がこうした神話時代の「迷妄」に対して大きな武器となり、遺構と遺物によって科学的に解明しなければ、という認識が一般化した。

ところがその路線には大きな壁があり、上のような「宮内庁の管轄」に加えて「国の指定」という規制が考古学的に必要な発掘をさせないでいる。

大和の纏向地方に邪馬台国があり、箸墓を卑弥呼の墓と考えたい研究者は隔靴掻痒のじれったい思いでいるに違いない。その思いがより一層、箸墓を卑弥呼の墓だ、と叫ばせるのだろうが、卑弥呼の墓に関しては倭人伝という文献にあるだけなのだ。

まずはその部分を見て行かなくてはならない。

卑弥呼は南にある宿敵「狗奴国」が北進して来るのを抑えようと、魏王朝に救援を求めている。西暦238年に最初の朝貢をした際は、そのような点は微塵も感じさせないような「外交」だったが、正始元年(240)に魏王朝からの多量の返礼品と詔書・印綬が届けられたことが狗奴国を刺激したようである。

「親魏倭王」という称号を貰った卑弥呼に対し、狗奴国の男王は危機感さえ抱き、侵攻を開始したのかもしれない。

その結果、邪馬台国では正始4(243)年、2度目の朝貢を行い、その中で狗奴国が邪馬台国を襲おうとしている旨を伝え、その2年後の245年、魏王朝は黄幢(錦の御旗)を使者の大夫・難升米に授けることにした。

実際に黄幢(錦の御旗)を、魏の皇帝からの詔書とともに邪馬台国にもたらしたのは、帯方郡の官吏、塞曹掾史・張政たちであったが、それはさらに2年後の247年のことであった。そして同じ年のうちに卑弥呼は亡くなっている。

その部分は次の通り(読み下し文にしている)。

<その(正始)8年(247年)、太守・王頎、官に到る。倭女王・卑弥呼は狗奴国男王・卑弥弓呼ともとより和せざれば、倭の載斯烏越らを遣わして郡に詣でしめ、相攻撃する状を説けり。塞曹掾史・張政らを遣わし、因りて詔書・黄幢をもたらしむ。難升米に授け、檄文をつくって告諭せり。卑弥呼は自死し、大いに墓を造れり。その直径は100歩余り、殉葬の奴婢は100人余りなり。>

帯方郡の長官として王頎が到着すると、女王から遣わされていた「倭の載斯烏越(人物名。サイシウエか)」と言う人物が邪馬台国と狗奴国が戦争状態になったことを伝えた。邪馬台国女王と狗奴国の男王とはかねてから不和であったというのだ。

そこで塞曹掾史・張政と言う官吏を邪馬台国に遣わし、皇帝からの詔書と黄幢(錦の御旗)を持って行かせたが、卑弥呼は詔書と黄幢を自分自らではなく大夫・難升米に受け取らせた。塞曹掾史・張政がはげしく告諭すると、卑弥呼は自死した。

「卑弥呼以て死す」の解釈だが、「以て」は「直ちに・間もなく」の意味だから、張政が姿を見せずに祈祷だけをし、皇帝からの詔書を受け取るのは人任せにした卑弥呼に対して、張政は怒りさえ覚えたのだろう。

「祈るだけで戦いに勝つなんてことは有り得ない。もっと人民の前に姿を見せて戦士を励ましなさい。」というような趣旨のことも伝えたのではないか。

その結果、卑弥呼は死を選んだのだろう。

彼女が死ぬと、人民は大いに墓を造った。その直径は100歩余り、殉葬の奴婢は100人余りだった。

卑弥呼の死の真相は明確ではないが、とにかく247年のうちには死に、国内は後継者をめぐって争いが起こり、千人余りが死んでしまったが、かつての卑弥呼のように13歳の一族の少女が王に立てられて収まったという。

卑弥呼の死による邪馬台国内の争乱に、狗奴国はどうしていたのかが気になるが、おそらく魏王朝からの使者たちと黄幢の前に、侵攻の手を止めたのだろう。

さて、この時に造られた卑弥呼の墓だが、直径は100歩余りということと殉死者がいたという情報だけである。「径百余歩」だから円墳だろうということは分かる。

期間はどれくらいかかったのか、全く不明であるが、おそらく帯方郡からの使者たちが帰るまでには完成していたに違いない。

私は彼らが到来した247年の翌年、つまり248年のうちには帯方郡に帰ったと考えており、そうすると1年以内には完成しているはずで、纏向の箸墓の直径が150mもあるのを造るのは無理である。

もとより箸墓古墳は「前方後円墳」であるから、円墳である卑弥呼の墓に適うことはない。

情報は限られているが、以上の点から箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは有り得ない。



纏向デジタルミュージアム

2024-11-19 03:11:56 | 邪馬台国関連
《纏向デジタルミュージアム》(himiko.or.jp)というサイトは読みやすく、奈良県桜井市の纏向遺跡を中心とする考古資料の宝庫から卑弥呼の国、つまり「邪馬台国」を探ろうという試みがなされている。

このサイトを運営するのは「やまと文化フォーラム」という名の一般社団法人で、その中の<邪馬台国物語の会>である。

<邪馬台国物語の会>の運営者(責任者)については不明だが、おそらく奈良県の著名な考古学者を顧問に迎え、「卑弥呼の墓イコール箸墓古墳」を論点の中心に据えて一般人向けに邪馬台国畿内説を訴えようとする組織だと思われる。

纏向遺跡が3世紀当時の一大都市だったことは考古資料で明らかで、確かに卑弥呼の時代の倭国の様相を伝えるものには違いない。

しかし、そもそも「倭人伝」(正確には「三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」だが、ここでは「倭人伝」で通すことにする)の行程記事によれば、朝鮮半島中部にあった魏の植民地帯方郡から船出して九州島北部の末盧国(唐津市)までで邪馬台国への全行程1万2千里のうちの1万里を費やしており、上陸後に九州北部を陸行しさらに船出して畿内に至るのに残りの「2千里」では到底不可能な話である。

この残りの「2千里」は陸行のみの2千里であり、したがって邪馬台国の所在地が九州島を出ることはなく、畿内説は完全に破綻している。

また九州説でも、末盧国から「東南陸行500里」というのを「東北陸行500里」の糸島市に比定しているケースが多いが、これも歪曲である。

そしてもう一つ投馬国の位置と邪馬台国の位置だが、まず「南至る投馬国、水行20日」を「不彌国の南」と続けて読んでしまっているが、この投馬国への「南」とは不彌国からの南ではなく、帯方郡治の南である。

次に投馬国の官・副官・戸数を記載したあとに続く「南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行一月」だが、これも投馬国の記述に続くのではなく、帯方郡治からの南なのである。

視点を変えると投馬国が帯方郡治から水行20日というのは距離表記をすれば「2万里」であり、これは帯方郡治から末盧国(唐津市)までの1万里(帯方郡治から狗邪韓国間7千里+朝鮮海峡間の3千里)の2倍の所にあることを意味しており、唐津からさらに水行1万里(日数表記では10日)の場所は南九州が該当する。

南九州を私は「古日向」としており、これは和銅6(713)年に宮崎県域の日向国と鹿児島県域の大隅国・薩摩国の三国に分離する前の日向、つまり現在の鹿児島県と宮崎県とを併せた広大な国であり、倭人伝に戸数が5万戸もあったとしてあるのもむべなるかなである。

さらに邪馬台国だが、この国の位置も帯方郡から南へ1万2千里の距離にあり、日数表記では水行10日(距離表記では唐津までの1万里)で九州島に上陸したあとは「陸行一月」(距離表記では2千里)の所にある。

唐津(末盧国)からは「東南陸行500里」で「伊都国」に到るとあり、方角の記載を正確にたどれば、松浦川の上流に向かう他ない。そこには「厳木(きゆらぎ)」という町があり、これを「いつき」と読めば、「伊都国」の「いつ」に適う。戸数千戸というのも唐津市の末盧国が4千戸であるから領域的にも整合する。

この時点で、末盧国にの東南にある伊都国を「いとこく」と読み、かつ唐津の東北に位置する糸島市に比定するのは誤りということが分かる。

九州説を唱える研究者の多くも「伊都国」を糸島としており、誤りを認めようとしない上、先に述べたように投馬国も邪馬台国も行程的に不彌国からの「棒読み(連続読み)」をしているので、不彌国以降の行程論に四苦八苦している。

とにかく、不彌国以降の投馬国にせよ、邪馬台国にせよ、「帯方郡治から南へ水行20日のところが投馬国」であり、「帯方郡治から南へ水行10日、陸行一月のところが邪馬台国」であることに目覚めないと、畿内説は無論のこと九州説にしても永遠に邪馬台国に辿り着けない。

この「邪馬台国物語の会」の論者は、どうやら行程論については頬かむりしており、箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定し邪馬台国こそが「ヤマト(大和)」の初源であり、卑弥呼の王権がそのままヤマト王権に発展したという説を採用している。

邪馬台国の位置を論じるのに倭人伝の「行程(水行・陸行の日数及び距離表記)」を無視しては始まらない。行程論からは邪馬台国が畿内にあるというのは全く無理だ、ということを薄々は気付いており、そのために行程論を無視しているのかもしれない。

(※私はむろん邪馬台国九州説で、その位置は末盧国(唐津市)から東南陸行500里の伊都国(いつこく)を厳木町に比定し、その距離の4倍に当たる2千里の所に邪馬台国があることから福岡県八女市郡域に比定している。詳細は『邪馬台国真論』(2003年)という著書にあるのだが、今は絶版になっている。)

さて纏向遺跡を残した勢力がヤマト王権の嚆矢であり、邪馬台国の後裔ではないとすると、いったいその王権の由来は何か?

私は纏向に王権を開いたのは「大倭」(倭人伝では、大倭をして監せしむ、とある)であり、その本拠地はそれこそまさに糸島であったと考えている。

ただし、「仲哀天皇紀」及び「筑前風土記(逸文)」に書かれているように、糸島はもと「伊蘇(イソ)国」であり、そこを支配する豪族は「五十迹手(いそとて。手は人の意味。)といった。

第10代崇神天皇にしろ11代垂仁にしろ、どちらも和風諡号には「五十(いそ)」が使われている。

崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦・五十瓊殖(イソニヱ)」である。前半の「みま」とは「すめみま」の「みま」で大王、「き」は城であるから「大王の城に入った彦」となる。

また五十は書紀のルビでは「い」としか読ませないのだが、「いそ」でなければ上記の「伊蘇(いそ)」に整合しない。書紀が「いそ」と読ませないのは、五十迹手が言ったように「我が祖先は辰韓の意呂山に降臨した」、つまり韓半島からやって来たのが、五十(いそ)王権すなわち崇神・垂仁王権であることを伏せたいからだろう。

古事記に至っては和風諡号の後半は「印恵」(イニヱ)と「五十」すら伏せている。

記紀のどちらも、白村江の海戦で唐軍に大敗し、あまつさえ九州太宰府が筑紫都督府として唐軍の占領下に置かれた経験から、半島にあった倭人の支配領域はなかったことにし、日本の天皇による統治は太古の昔から日本列島だけに自生してきたたものであることをことさらに強調している。

そうしないと唐や新羅から付け込まれかねないのだ。「お前の国はかつて朝鮮半島を支配していた国が移動して大王になったことがあるだろう。ならば、半島を今支配している唐・新羅の我々が支配者になってよいわけだ」などと・・・。

さて、纏向遺跡を中心とする一大都市の崇神・垂仁王権こそは、倭人伝に言う「大倭」で、その本拠地は糸島から始まって北部九州に拡大された。

この状況を捉えたのが崇神の和風諡号のうちの「五十瓊殖」(イソニヱ)で、この意味は「五十(いそ=後世の糸島)において、瓊を殖やした」であり、瓊とは玉と同義で「王権・権力」であるから、糸島こと「五十(いそ)」の地をベースにして北部九州に一大勢力を築いたことを表している。「大倭」とはこの一大勢力のことである。

この「大倭」が、半島情勢の緊迫(魏の大将軍・司馬懿が半島を席巻し、挙句の果てには魏王朝を一族が乗っ取るという風雲)により、半島を越えて九州島に押し寄せて来る可能性ありと見て、安全地帯である瀬戸内海の向こうの畿内への移動、すなわち「東征」を敢行した。

この東征に要した期間は書紀によると3年であり、これを神武東征としているが、実はこの東征は「崇神東征」とすべきなのである。

では古日向からの神武東征はなかったのかと言えば、あったのである。古日向すなわち投馬国による「神武東征」は、武力によるものではなく端的に言えば「移住的東遷」である。

こちらは古事記によると、筑紫に1年、安芸国に7年、吉備国8年というように長期滞在しているが、16年後にようやく畿内に入り、さらに数年を費やして大和に最初の王権を築いた(橿原王朝)。

大隅半島では弥生時代の後期の遺構・遺物が前期・中期に比べて極端に少ないが、その時代、南九州人が住み難くなったからだろう。その理由は明確ではないが、おそらく火山噴火、大規模な台風の襲来、疫病の蔓延などが原因と思われる。

この「移住的東遷」を「東征」と言うのは言葉がきついが、何にしてもその結果として最初のヤマト王権(橿原王朝)が始まった。私はこれを第一次ヤマト王権とし、崇神主導の「大倭」によって北部九州からわずか3年という短期間で大和入りして樹立された崇神王権を第二次ヤマト王権と呼んでいる。

南九州古日向人による第一次ヤマト王権は弥生時代後期の1世紀から2世紀の間、西暦で言えば140年から180年代(倭国の乱の時代=後漢の桓帝と霊帝の間)であり、崇神の「大倭」が大和入りしたのは3世紀後半だろうと考えている。

具体的に言えば、卑弥呼の死(247年)後に邪馬台国女王に立った台与が266年に魏に代わって王朝をひらいた司馬氏の晋王朝への朝貢をしているが、この朝貢は新しい王朝への貢献であると同時に、かつて卑弥呼がそうしたように南の一大勢力狗奴国の侵略に手を焼いていたからだろう。

そう考えると266年が崇神「大倭」による大和への東征の開始と見てよいと思われる。狗奴国は「大倭」勢力が北部九州から東征して行ったすきに乗じて邪馬台国を襲ったのだ

(※この狗奴国の八女邪馬台国侵略の結果、女王の台与は豊前方面へ落ち延びたと思われる。宇佐神宮に祭られる「比女の神」とは台与のことであろう。また八女邪馬台国は狗奴国に支配され、その後裔が筑紫君磐井であったと考えている。)

要するに西暦266年の頃、崇神の「大倭」は東征にかかり、3年後には大和入りして纏向に定住し、南の御所市を中心とする第一次ヤマト王権(橿原王朝)と対峙した。

第10代の崇神王権が大和自生でないことは、大和の大国魂(おおくにみたま)という大和守護の神を娘のヌナキイリヒメが祭ることができなかったことで明らかだろう。書紀が記すように神武天皇から始まって10代も大和に王権を築いているならば、大和の土地神を祀れないわけがないではないか。

この北部九州からやって来た「大倭」こと崇神王権はやがて御所市の南九州由来の投馬国王権(橿原王朝)と争うようになった。

「タケハニヤス・アタヒメの叛乱」(崇神紀)と「サホヒコ・サホヒメの叛乱」(垂仁紀)の二つの大きな反乱はその証左である。

結局どちらの叛乱も鎮圧され、崇神王権の勝利となった。南九州(古日向)由来の勢力は主に北に逃れ、鴨川沿いか源流の丹波にまで行き着いている。下鴨神社に祭られる「カモタケツヌミ」なども古日向からの移住者であった。

さて箸墓は卑弥呼の墓か? その可能性はゼロと言う他ない。

邪馬台国は畿内大和にはなく、九州島の中にあったからである。
(※私はつとに福岡県八女市郡域を宛てているが、九州説は文字通り百花繚乱で、こちらも収拾がつかない状況である。もう一度行程論を究めて欲しいものだ。)

被葬者が女性なら崇神天皇の大叔母に当たるヤマトトトヒモモソヒメか、天照大神を長い間祭りきったトヨスキイリヒメのどちらかだろう。けっして卑弥呼その人ではない。

(追 記)
このサイトには親切にも倭人伝本文が掲載されているのだが、倭人伝の誤まった解釈が見られた。それは次の箇所である(読み下しにしてある)。

<(台与が新たに女王になった所から・・・)また卑弥呼の宗女台与、年十三なるを王として立てり。国中は遂に定まる。政ら檄を以て台与に告諭せり。台与、倭の大夫卒善中郎・掖邪狗ら20人を遣わし、政らの還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女の生口30人を献じ、白珠5千・孔青大句珠2枚・異文雑錦20匹を貢ず。>

サイトでこの部分を訳してある箇所では、「女王の台与が266年に魏に代わって晋が王朝をひらいた時に、正始8年(247年)に邪馬台国に派遣されて狗奴国対策用の軍旗「黄幢」と魏の皇帝の「詔書」を持参した塞曹掾史の張政ら(人数は不明)を送りがてら朝貢した。張政らは邪馬台国に20年ばかり滞在してい。」と解釈しているが、これは誤りで、張政がやって来た年(247年)には黄幢と詔書の絶大な効果により、狗奴国との戦いは止んだので魏の皇帝へのお礼かたがた張政らを送り届けた――というのが正しい。

ただし魏への朝貢の年が247年というのは無理だろう。なぜなら247年には卑弥呼が死んでおり、その直後の邪馬台国は王位をめぐって大いに荒れ、台与が王位に就くまでに千人もの死者が出たというのであるから、どう早く見ても翌248年以降だろう。しかしいずれにせよ、女王に就任後20年も経ってから朝貢したというのは有り得ない。