《纏向デジタルミュージアム》(himiko.or.jp)というサイトは読みやすく、奈良県桜井市の纏向遺跡を中心とする考古資料の宝庫から卑弥呼の国、つまり「邪馬台国」を探ろうという試みがなされている。
このサイトを運営するのは「やまと文化フォーラム」という名の一般社団法人で、その中の<邪馬台国物語の会>である。
<邪馬台国物語の会>の運営者(責任者)については不明だが、おそらく奈良県の著名な考古学者を顧問に迎え、「卑弥呼の墓イコール箸墓古墳」を論点の中心に据えて一般人向けに邪馬台国畿内説を訴えようとする組織だと思われる。
纏向遺跡が3世紀当時の一大都市だったことは考古資料で明らかで、確かに卑弥呼の時代の倭国の様相を伝えるものには違いない。
しかし、そもそも「倭人伝」(正確には「三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」だが、ここでは「倭人伝」で通すことにする)の行程記事によれば、朝鮮半島中部にあった魏の植民地帯方郡から船出して九州島北部の末盧国(唐津市)までで邪馬台国への全行程1万2千里のうちの1万里を費やしており、上陸後に九州北部を陸行しさらに船出して畿内に至るのに残りの「2千里」では到底不可能な話である。
この残りの「2千里」は陸行のみの2千里であり、したがって邪馬台国の所在地が九州島を出ることはなく、畿内説は完全に破綻している。
また九州説でも、末盧国から「東南陸行500里」というのを「東北陸行500里」の糸島市に比定しているケースが多いが、これも歪曲である。
そしてもう一つ投馬国の位置と邪馬台国の位置だが、まず「南至る投馬国、水行20日」を「不彌国の南」と続けて読んでしまっているが、この投馬国への「南」とは不彌国からの南ではなく、帯方郡治の南である。
次に投馬国の官・副官・戸数を記載したあとに続く「南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行一月」だが、これも投馬国の記述に続くのではなく、帯方郡治からの南なのである。
視点を変えると投馬国が帯方郡治から水行20日というのは距離表記をすれば「2万里」であり、これは帯方郡治から末盧国(唐津市)までの1万里(帯方郡治から狗邪韓国間7千里+朝鮮海峡間の3千里)の2倍の所にあることを意味しており、唐津からさらに水行1万里(日数表記では10日)の場所は南九州が該当する。
南九州を私は「古日向」としており、これは和銅6(713)年に宮崎県域の日向国と鹿児島県域の大隅国・薩摩国の三国に分離する前の日向、つまり現在の鹿児島県と宮崎県とを併せた広大な国であり、倭人伝に戸数が5万戸もあったとしてあるのもむべなるかなである。
さらに邪馬台国だが、この国の位置も帯方郡から南へ1万2千里の距離にあり、日数表記では水行10日(距離表記では唐津までの1万里)で九州島に上陸したあとは「陸行一月」(距離表記では2千里)の所にある。
唐津(末盧国)からは「東南陸行500里」で「伊都国」に到るとあり、方角の記載を正確にたどれば、松浦川の上流に向かう他ない。そこには「厳木(きゆらぎ)」という町があり、これを「いつき」と読めば、「伊都国」の「いつ」に適う。戸数千戸というのも唐津市の末盧国が4千戸であるから領域的にも整合する。
この時点で、末盧国にの東南にある伊都国を「いとこく」と読み、かつ唐津の東北に位置する糸島市に比定するのは誤りということが分かる。
九州説を唱える研究者の多くも「伊都国」を糸島としており、誤りを認めようとしない上、先に述べたように投馬国も邪馬台国も行程的に不彌国からの「棒読み(連続読み)」をしているので、不彌国以降の行程論に四苦八苦している。
とにかく、不彌国以降の投馬国にせよ、邪馬台国にせよ、「帯方郡治から南へ水行20日のところが投馬国」であり、「帯方郡治から南へ水行10日、陸行一月のところが邪馬台国」であることに目覚めないと、畿内説は無論のこと九州説にしても永遠に邪馬台国に辿り着けない。
この「邪馬台国物語の会」の論者は、どうやら行程論については頬かむりしており、箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定し邪馬台国こそが「ヤマト(大和)」の初源であり、卑弥呼の王権がそのままヤマト王権に発展したという説を採用している。
邪馬台国の位置を論じるのに倭人伝の「行程(水行・陸行の日数及び距離表記)」を無視しては始まらない。行程論からは邪馬台国が畿内にあるというのは全く無理だ、ということを薄々は気付いており、そのために行程論を無視しているのかもしれない。
(※私はむろん邪馬台国九州説で、その位置は末盧国(唐津市)から東南陸行500里の伊都国(いつこく)を厳木町に比定し、その距離の4倍に当たる2千里の所に邪馬台国があることから福岡県八女市郡域に比定している。詳細は『邪馬台国真論』(2003年)という著書にあるのだが、今は絶版になっている。)
さて纏向遺跡を残した勢力がヤマト王権の嚆矢であり、邪馬台国の後裔ではないとすると、いったいその王権の由来は何か?
私は纏向に王権を開いたのは「大倭」(倭人伝では、大倭をして監せしむ、とある)であり、その本拠地はそれこそまさに糸島であったと考えている。
ただし、「仲哀天皇紀」及び「筑前風土記(逸文)」に書かれているように、糸島はもと「伊蘇(イソ)国」であり、そこを支配する豪族は「五十迹手(いそとて。手は人の意味。)といった。
第10代崇神天皇にしろ11代垂仁にしろ、どちらも和風諡号には「五十(いそ)」が使われている。
崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦・五十瓊殖(イソニヱ)」である。前半の「みま」とは「すめみま」の「みま」で大王、「き」は城であるから「大王の城に入った彦」となる。
また五十は書紀のルビでは「い」としか読ませないのだが、「いそ」でなければ上記の「伊蘇(いそ)」に整合しない。書紀が「いそ」と読ませないのは、五十迹手が言ったように「我が祖先は辰韓の意呂山に降臨した」、つまり韓半島からやって来たのが、五十(いそ)王権すなわち崇神・垂仁王権であることを伏せたいからだろう。
古事記に至っては和風諡号の後半は「印恵」(イニヱ)と「五十」すら伏せている。
記紀のどちらも、白村江の海戦で唐軍に大敗し、あまつさえ九州太宰府が筑紫都督府として唐軍の占領下に置かれた経験から、半島にあった倭人の支配領域はなかったことにし、日本の天皇による統治は太古の昔から日本列島だけに自生してきたたものであることをことさらに強調している。
そうしないと唐や新羅から付け込まれかねないのだ。「お前の国はかつて朝鮮半島を支配していた国が移動して大王になったことがあるだろう。ならば、半島を今支配している唐・新羅の我々が支配者になってよいわけだ」などと・・・。
さて、纏向遺跡を中心とする一大都市の崇神・垂仁王権こそは、倭人伝に言う「大倭」で、その本拠地は糸島から始まって北部九州に拡大された。
この状況を捉えたのが崇神の和風諡号のうちの「五十瓊殖」(イソニヱ)で、この意味は「五十(いそ=後世の糸島)において、瓊を殖やした」であり、瓊とは玉と同義で「王権・権力」であるから、糸島こと「五十(いそ)」の地をベースにして北部九州に一大勢力を築いたことを表している。「大倭」とはこの一大勢力のことである。
この「大倭」が、半島情勢の緊迫(魏の大将軍・司馬懿が半島を席巻し、挙句の果てには魏王朝を一族が乗っ取るという風雲)により、半島を越えて九州島に押し寄せて来る可能性ありと見て、安全地帯である瀬戸内海の向こうの畿内への移動、すなわち「東征」を敢行した。
この東征に要した期間は書紀によると3年であり、これを神武東征としているが、実はこの東征は「崇神東征」とすべきなのである。
では古日向からの神武東征はなかったのかと言えば、あったのである。古日向すなわち投馬国による「神武東征」は、武力によるものではなく端的に言えば「移住的東遷」である。
こちらは古事記によると、筑紫に1年、安芸国に7年、吉備国8年というように長期滞在しているが、16年後にようやく畿内に入り、さらに数年を費やして大和に最初の王権を築いた(橿原王朝)。
大隅半島では弥生時代の後期の遺構・遺物が前期・中期に比べて極端に少ないが、その時代、南九州人が住み難くなったからだろう。その理由は明確ではないが、おそらく火山噴火、大規模な台風の襲来、疫病の蔓延などが原因と思われる。
この「移住的東遷」を「東征」と言うのは言葉がきついが、何にしてもその結果として最初のヤマト王権(橿原王朝)が始まった。私はこれを第一次ヤマト王権とし、崇神主導の「大倭」によって北部九州からわずか3年という短期間で大和入りして樹立された崇神王権を第二次ヤマト王権と呼んでいる。
南九州古日向人による第一次ヤマト王権は弥生時代後期の1世紀から2世紀の間、西暦で言えば140年から180年代(倭国の乱の時代=後漢の桓帝と霊帝の間)であり、崇神の「大倭」が大和入りしたのは3世紀後半だろうと考えている。
具体的に言えば、卑弥呼の死(247年)後に邪馬台国女王に立った台与が266年に魏に代わって王朝をひらいた司馬氏の晋王朝への朝貢をしているが、この朝貢は新しい王朝への貢献であると同時に、かつて卑弥呼がそうしたように南の一大勢力狗奴国の侵略に手を焼いていたからだろう。
そう考えると266年が崇神「大倭」による大和への東征の開始と見てよいと思われる。狗奴国は「大倭」勢力が北部九州から東征して行ったすきに乗じて邪馬台国を襲ったのだ。
(※この狗奴国の八女邪馬台国侵略の結果、女王の台与は豊前方面へ落ち延びたと思われる。宇佐神宮に祭られる「比女の神」とは台与のことであろう。また八女邪馬台国は狗奴国に支配され、その後裔が筑紫君磐井であったと考えている。)
要するに西暦266年の頃、崇神の「大倭」は東征にかかり、3年後には大和入りして纏向に定住し、南の御所市を中心とする第一次ヤマト王権(橿原王朝)と対峙した。
第10代の崇神王権が大和自生でないことは、大和の大国魂(おおくにみたま)という大和守護の神を娘のヌナキイリヒメが祭ることができなかったことで明らかだろう。書紀が記すように神武天皇から始まって10代も大和に王権を築いているならば、大和の土地神を祀れないわけがないではないか。
この北部九州からやって来た「大倭」こと崇神王権はやがて御所市の南九州由来の投馬国王権(橿原王朝)と争うようになった。
「タケハニヤス・アタヒメの叛乱」(崇神紀)と「サホヒコ・サホヒメの叛乱」(垂仁紀)の二つの大きな反乱はその証左である。
結局どちらの叛乱も鎮圧され、崇神王権の勝利となった。南九州(古日向)由来の勢力は主に北に逃れ、鴨川沿いか源流の丹波にまで行き着いている。下鴨神社に祭られる「カモタケツヌミ」なども古日向からの移住者であった。
さて箸墓は卑弥呼の墓か? その可能性はゼロと言う他ない。
邪馬台国は畿内大和にはなく、九州島の中にあったからである。
(※私はつとに福岡県八女市郡域を宛てているが、九州説は文字通り百花繚乱で、こちらも収拾がつかない状況である。もう一度行程論を究めて欲しいものだ。)
被葬者が女性なら崇神天皇の大叔母に当たるヤマトトトヒモモソヒメか、天照大神を長い間祭りきったトヨスキイリヒメのどちらかだろう。けっして卑弥呼その人ではない。
(追 記)
このサイトには親切にも倭人伝本文が掲載されているのだが、倭人伝の誤まった解釈が見られた。それは次の箇所である(読み下しにしてある)。
<(台与が新たに女王になった所から・・・)また卑弥呼の宗女台与、年十三なるを王として立てり。国中は遂に定まる。政ら檄を以て台与に告諭せり。台与、倭の大夫卒善中郎・掖邪狗ら20人を遣わし、政らの還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女の生口30人を献じ、白珠5千・孔青大句珠2枚・異文雑錦20匹を貢ず。>
サイトでこの部分を訳してある箇所では、「女王の台与が266年に魏に代わって晋が王朝をひらいた時に、正始8年(247年)に邪馬台国に派遣されて狗奴国対策用の軍旗「黄幢」と魏の皇帝の「詔書」を持参した塞曹掾史の張政ら(人数は不明)を送りがてら朝貢した。張政らは邪馬台国に20年ばかり滞在していた。」と解釈しているが、これは誤りで、張政がやって来た年(247年)には黄幢と詔書の絶大な効果により、狗奴国との戦いは止んだので魏の皇帝へのお礼かたがた張政らを送り届けた――というのが正しい。
ただし魏への朝貢の年が247年というのは無理だろう。なぜなら247年には卑弥呼が死んでおり、その直後の邪馬台国は王位をめぐって大いに荒れ、台与が王位に就くまでに千人もの死者が出たというのであるから、どう早く見ても翌248年以降だろう。しかしいずれにせよ、女王に就任後20年も経ってから朝貢したというのは有り得ない。