鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

安倍首相が歴代最長を超える

2020-08-28 09:17:27 | 日本の時事風景
安倍晋三首相が明治以降の議会制度の中で就任した歴代首相中、就任期間2799日で歴代最長になった。

明治以降に総理大臣になったのは60名余りで、代数では98代目。戦後75年では56代の総理大臣を輩出してきたが、戦前戦後を通じて最も長い。

戦後に限れば、大叔父の佐藤栄作首相の2798日が最長だったが8月24日付でこの記録を破った。

佐藤首相は母方の祖父だった岸信介首相の実弟で、両兄弟は出来がよく共に東京帝国大学から官僚の道に進んだ。

祖父の岸信介は満州帝国の官僚を経て戦時の東条英機内閣に商工大臣として入閣しているので、「太平洋戦争を引き起こした一味」の一人として東京裁判では「戦犯」に挙げられている。

安倍首相は祖父の戦犯云々については何も言っていないが、岸信介が首相の時の「日米安保改定」(1960年)で、それまでの米軍駐留がほとんど「占領軍」(治外法権が適用されていた)に近かったのを、改めさせた—―という功績を語ったことがある。

しかし「日米地位協定」とセットで考えると、駐留米軍は今でも十分に治外法権的である。大局から見るとそれほどの功績とは思えない。

それに比べると大叔父の佐藤首相の方は、「非核三原則」「沖縄返還」という2大功績がある。

非核三原則は核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」というものだが、これが評価され、日本人で初めてノーベル平和賞を貰っている。ただし「持ち込ませず」はアメリカとの密約があり、なし崩しになってしまっているのだが―。

それでも唯一の原爆被爆国である日本が、その落とし主であるアメリカへ「お返しに核攻撃してやる」と今の北朝鮮のようにはならず、よく隠忍自重して「敵愾心も核も決して持たないぞ」と宣言したことが、国際的に(つまりノーベル賞選定委員会に)大きな評価を得たのは確かで、今日につながる「平和大国日本」の一里程であったと思う。

ただ「非核三原則」はその頃中国が核実験に成功して核保有国になったので、危機感を覚えた佐藤首相がアメリカに対して「核の傘」(オタクの核で守ってくださいよ)に依存できたればこそであった。アメリカとしても日本が核保有に動いてもらっては困るので、ウィンウインの関係だったわけである(また、これがあるから安倍首相は今でも核兵器禁止条約に消極的なのだ)。

自分としてはそれよりも「沖縄施政権返還」の方を佐藤首相の大きな功績だったと思っている。「核抜きせず」は残念だが、何よりも「軍政」が万事に優先されていた沖縄が本土並みの固有文化と教育に復帰したのがよかった。(本土並みになったと言っても米軍の駐留は引き継がれた。米軍基地問題は日米安保ある限り続く。)

さて、翻って安倍首相のこれまでの功績は何か。

「異次元の金融緩和」という鳴り物入りのアベノミクスは、結局せっかくばらまかれた金は何とかファンドや高所得者のタンス預金に消えて市中には出回らず、それによる物価の上昇は起こらず、経済の活性化には寄与しなかったし、地方創生の掛け声も肝心の地方には行き届かず、かえって「東京一極集中」に拍車をかけたような塩梅である。

今度の「新型コロナウイルス禍」でも、今年度中の東京オリンピックの開催にこだわって対策が後手後手に回り、官邸と小池都知事との微妙な駆け引きのために東京都政と国政にちぐはぐさが目立ってしまった。

「GO TO トラベル」でも第二次感染のピークに向かおうとしている最中に「東京発着を除外してゴー」というおめでたい東京外しをしたが、大くの識者が言う「まだ早過ぎる、もう少し感染の状況を見極めてから。そもそも8月からではなかったのか?」を無視した結果が今のような収拾のつかない感染状況を迎えている。

前にも言ったが、あの緊急事態宣言では思い切って「東京のロックダウン」まで踏み込めばよかったのだ。結局、政府の中枢も東京にあるのでそれは見送ったのだろうが、あと一歩のところだったのに残念である。

今や安倍政権はレイムダックだ。新型コロナ禍が収まらなければ、次の首相が誰でも同じような難局が待つだろうが・・・。

自分として安倍首相に期待したのが外交であった。

あの泡沫候補と言われていたアメリカのトランプが大統領になるや、外務官僚を叱咤し、世界で真っ先に自らトランプタワー詣でをして娘のイバンカに感激されたのは記憶に新しいが、たしかにあの積極性はこれまでの首相にはなかったものだ。

趣味が同じゴルフということもあって、その後も各サミットなどでは「シンゾー・ドナルド」と言い合う仲になったが、肝心の外交懸案である「北朝鮮拉致家族問題」はトランプに先を越されて指をくわえたままだ。

一度は金正恩が「日本の首相はなぜ(トランプのように)直接会いに来ないんだ?」という疑問(叱咤)を投げかけてきたこともあったが、それには答えずじまいで、結局は金正恩に匙を投げられている。(核がらみなので、例の「核の傘」論法により、アメリカに忖度して静観するしかなかったのだろう。情けなや!)

もう一つ特筆に値するのが対ロシア外交である。安倍首相はおそらく世界でも突出してロシアのプーチンに会っている。サミットや国際会議での会談を含めて30回は下らないはずだ。しかも一度は地元山口県に会見の場を設けて招待しているほどである。

1956年の日ソ共同宣言を踏まえた上で領土問題を解決し、さらに平和条約を締結したいのが安倍首相の意向であるが、向こうには「日米安保がある限り無理だ。もし返還した北方領土に米軍基地を置かれたら元も子もない」という根本命題がある。

「日米の強固な関係をより一層深め」とはアメリカのトランプや高官と会見した時のおそらく外務省サイドの決まり文句だが、これをことごとに繰り返して止まない安倍首相は、プーチンからはもう見透かされている。上述の金正恩からも、そして中国共産党政府からも。

悲しいかな、これが現状である。

戦後の岸信介ー佐藤栄作ー安倍晋三と続く「長州家族閥」は戦後の政治史で大きな足跡を残し、また残しつつあるが、前の二者はいずれも「日米安保」そのものに深く関わった。しかし安倍晋三首相は日米安保を既定の動かざる「不易」のものとして、当然視している。

安倍さんには憲法9条の改定より「ポスト日米安保」つまり日米軍事同盟を廃した後に9条をどうするか(国防軍を明記するか)、またそれを踏まえた上で、東アジアの平和について思いを巡らしてもらいたかったが、もう無理だろうか。

池の睡蓮

2020-08-25 11:37:52 | 日記
6月の下旬に、漏水ばかりしていた庭の「心の字池」を調べたら底に長い亀裂が入っているのが分かり、水だけで固まるというモルタル袋を購入して修繕したところ、この2か月経っても水漏れは確認できなくなった。

そこで1か月前に、池とは別の軒下で長い間、底穴を塞いだかなり大き目のプランターに入れておいた睡蓮や水草を池に移しておいたが、3日ほど前に水中から茎を伸ばしてきた睡蓮の蕾が二つあるのに気付いた。

そして昨日その一つが空中に高々と咲いた。

ところが最近の日照りでやや水位が下がっていたので、もう少し水があった方がよかろうと考え、庭の散水用の蛇口につないだ長いホースで水をちょろちょろと入れてやったのだが、5分か6分かのつもりが、うっかり30分も入れっぱなしだった。

慌てて蛇口を止め、池に行ってみると、水は溢れてはいなかったが、一輪の満開の睡蓮は見事に水没していた。そしてやがて花を閉じてしまった(水中花!にはならなかった)。

今日の早朝、起きしなに見に行くと、何と水面すれすれにかの一輪が顔を出しているではないか。
昨日の時点では水深5~6㎝に水没していたのだが、一晩で茎を成長させて伸ばしたのか、それとも茎自体が曲がっていてこういう場合に曲がりを解消して茎を伸ばしたのか、いずれにしても植物にも結構な「環境適応能力」が備わっているのだ。

睡蓮(ロータス)は古代エジプトでは「太陽の象徴」だそうだから、生命力には神秘で強いものがあるに違いない。

ハスと違って、切り込みのある艶やかな葉も見ごたえがあり、涼しげに感じられる。

縄文の森(上野原遺跡)

2020-08-24 09:49:58 | おおすみの風景
国分に用事のあったついでに、途中にある「縄文の森(上野原遺跡資料館)」を見学した。

2年ぶりくらいだが、今年70歳になったので今回から無料で入館ができた。ありがたいことである。いくつになっても知的好奇心はあるつもりなので、これからは霧島方面に用事があったら必ず立ち寄りたいところだ。

というのも、ここ上野原遺跡発掘品の超目玉は7500年前の「縄文の壺」が出たことで、その本物が見られることである。
縄文時代に日本列島では壺は作られず、弥生時代になって米などの穀物生産が日常的になってから作られ始めたというのが定説であった。

しかしそれを見事に覆したたのが上野原での発掘だった。約25年前のことである。その後上野原の東7キロほどの山中で、東回り九州高速道路の工事中に同じ時代の遺跡「城が尾遺跡」でも壺型土器が三つも出て来たので、縄文早期に既にこのあたりでは壺を作っていたことが証明された。

また、そのことで宮崎県でもかって同じような形式の壺型の土器が出ていながら「弥生時代のもの?」として展示されていたのが、晴れて「縄文の壺」の仲間入りをしたようだ。

とにかく南九州ではとんでもなく古い時代に壺が作られていたのだが、残念ながら暦年較正年代法によると7300年前に噴出した直系20キロもある「鬼界カルデラ」の火砕流により、南九州地域はほぼ壊滅したようで、壺作りは後続せず、途絶えてしまった。

また同じ縄文早期(10000年前~7500年前)に属する土器で南九州独特なのが縄文ではなく「貝殻文」の土器で、平底の円筒形と角筒形の二種類の薄手の土器群である。
手前に並んだ6つが上野原で発掘された貝殻文土器(レプリカ)で、後ろは写真である。

わたしはいつもこのコーナーに来ると溜息をつく。「1万年前の芸術作品群じゃないか」――と。

7300年前の鬼界カルデラ大噴火によって上野原系の文化が滅びたあとも、500年から1000年ほどのブランクがありながら、縄文前期・中期・後期・晩期・弥生時代とほぼ連続して南九州では人為的な営みは続くが、どの時代の土器も、この10000年前の貝殻文土器の芸術性は持ち合わせていない。

しいて言えば熊本県の人吉地方に栄えた弥生時代の中で生まれた優美な「長頸壺」か、時代はもっと下がるが須恵器の土器群だろうか。ただし文様は無いか単純至極なものである。

11000年前に上野原遺跡の目と鼻の先の桜島が大噴火を起こし、その時も南九州の南半分はやられたが、そのほとぼりが冷めてから、つまり10000年前から住み始め、カルデラ噴火のあった7300年前まで南九州に住んでいた人々とはいったいどのような人たちだったのか。

「高天原にいたという神々」に極めて近い存在だったのかも知れない。

また、7300年前のカルデラ噴火によって南九州の人々すべてが滅んだわけではなく、熊本県域に近かったり、宮崎県域の向こう側に住んでいた人々が逃げることは可能だったはずである。

全国、特に信越、東北方面に伝わる「火炎土器」があるが、あれを見ていると大噴火を表現しているのではないかという錯覚を起こしてしまう。

列島全土に散らばり、かつまた丸木舟で海外へ、という妄想も起きるほど進んだ人々であったかも知れない。

邪馬台国問題 第2回(「史話の会」8月例会)

2020-08-20 09:56:56 | 邪馬台国関連
史話の会の8月例会は東地区学習センターで、8月16日(日)の午後1時半から開催された。テーマは「邪馬台国問題」で、今回が第2回であった。

先月の第1回でも触れたように、邪馬台国の所在地はどこか、及び邪馬台国のその後が「大和王権」につながるのかどうか、100年以上の論争があり、邪馬台国研究というより「問題」とした方がその状況をとらえていると思われる。

さて、今月からは私の著書である『邪馬台国真論』(2003年刊)をベースに「問題」を解明していく。

まずこの本の「はじめに」に記した「どうしても書いておかなくてはならない」という執筆の理由をを三つ説明した。「はじめに」の中にその三つを掲げたが、要点だけ抜き出すと次のようである。

1、魏志倭人伝に記載されている「朝鮮半島中部の帯方郡から倭の女王国、すなわち邪馬台国までの行程(距離と方角)記事」について、研究者の余りにも恣意的な解釈を正しておきたいこと。

 特にどう考えても不可解なのが「伊都国=糸島」説で、末盧国の唐津市からは東北なのに倭人伝記載の「東南陸行」を無理やり当てはめてしまい、「著者の陳寿は倭国の地理に疎いから、東北を東南と勘違いした」という論法で押し切った。

 これを援用すると伊都国からの行程記事で「南」とあるのはすべて「東」と読み替えられるので、東へ東へと瀬戸内海を通って畿内大和に到り、邪馬台国畿内説が唱えられるようになった。

 しかし「伊都国=糸島」説なら、壱岐国から直接「水行(航海)」して到着すればよく、何もわざわざ唐津で船を捨て、魏の皇帝からの大事な下賜品(銅鏡100枚などかなり膨大であった)を唐津から糸島への海沿いの危険な崖道を歩く必要はないのだ。

 畿内説は「南=東」説でしか成り立たないので論外だが、九州説の研究者もほとんどは同じ「伊都国=糸島」説なのである。しかし途中で「南はやはり南だ」と元に戻しているのは一貫性がなく解釈に整合性が得られていないゆえに、邪馬台国の所在地が狭い九州の中で20~30か所もあるという活況(?)を呈しており、畿内説者からは苦笑を頂戴するありさまである。

 もっとも畿内説は、方角から言っても距離から見ても、邪馬台国は九州島内にしか求められないので考えるに値しないのであるが・・・。

(※「伊都国」について私見では「イツ国」と読み、「武力に秀でた国」と解釈する。唐津の末盧国からは素直に東南への道を取らせ、佐賀県厳木町から多久市・小城市を候補地としている。)

2、「魏志韓伝」も倭人伝同様に解釈(解読)しておきたかったこと。初めて魏志韓伝を読んだ時、半島南部の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)に「入れ墨をした者が多くいる」という点に注目し、これを海人系(航海系)の倭人ではないかと思い至り、朝鮮半島南部(の倭人)と九州島の倭人との濃厚な関係を解明したかったこと。

3、邪馬台国はその南の狗奴国(おおむね今日の熊本県域に所在)によって併呑されて滅び、大和王権とは繋がらないこと、及び南九州(古日向)には「投馬国」があり、神武東征とは記紀で神武の皇子とされている「投馬国王タギシミミ」の東征に他ならないこと。また100年ほど遅れて北部九州からの東征があり、その主体は崇神天皇(ミマキイリヒコイソニヱ)だったこと。

以上の3点について、この本のそれぞれ「第1部」「第2部」「第3部」に分けて詳細に論じている。

今日の第2回の前半では、この3点について板書しながら略説した。

後半はいよいよ「魏志倭人伝」本文の解読に入った。

拙著では魏志倭人伝本文を読み下しではなく、漢文のまま載せてあるが、返り点はついているので皆は何とか読めそうである。

この本では69行にわたっているのだが、今日は12行を読解した。以下に読み下し文を書くが、旧漢字は新字に改め、数字は算用数字にしてある。また、適宜に改行した。

【三国志・魏書・烏丸鮮卑東夷伝「倭人」】

〈倭人は帯方の東南大海中に在り。山島によりて国邑を為す。旧(もと)百余国、漢の時に朝見せし者あり。今、使訳の通ずる所、三十国。
 郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓国をへて、南し、東しながら、その北岸・狗邪韓国に到る。(その道程は)7000余里なり。
 はじめて一海を渡ること1000余里、対馬国に到る。その大官を卑狗(ひこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)という。居る所は絶島にして、方(面積)400余里。土地は山険しく、深林多し。道路は禽鹿の径の如し。1000余戸あり。良田は無く、海の物を食べて自活す。船に乗って南北に市糴(シテキ)す。
 また南へ一海を渡ること1000余里、(この海を)名付けて「瀚海(カンカイ=広い海)」という。一大(壱岐)国に至る。官は卑狗、副は卑奴母離という。方は300余里。竹木叢林多し。3000ばかりの家あり。差(やや)田地あり。田を耕すもなお食するに足らず、また南北に市糴(シテキ)す。
 また一海を渡ること1000余里、末盧国に至る。4000余戸あり。山海に濱して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕る。(海・川の)水の深浅となく、皆沈没して之を取る。
 東南へ陸行500里にして伊都国に到る。官は爾支(ぬし)、副は泄謨觚(せぼこ)・柄渠觚(ひここ)という。1000余戸あり。世に王あり。皆、女王国に統属す。郡使の往来、常に駐(とど)まる所なり。
 東南、奴国に至る、100里。官は兕馬觚(しまこ)、副は卑奴母離。2万余戸あり。
 東行、不彌国に至る、100里。官は多模(たも)、副は卑奴母離。2000余家あり。
 南至る投馬国、水行20日。官は彌彌(みみ)、副は彌彌那利(みみなり)。5万余戸なるべし。
 南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月。〉

以上までが第2回の解読部分であった。

現在のソウルの西海岸に所在した帯方郡に属する港から水行(航海)して、海岸を左手に見ながらの「沿岸航法」で南下して行くと朝鮮海峡に到り、それを東へ東へと走って「狗邪韓国」に到達する。

狗邪韓国はれっきとした倭人の国で、今日の金海市(金官伽耶)だろうとされる。ここから朝鮮海峡を南へ渡る。1000里で対馬国に到達する。

さらに一海を渡り、今度は壱岐国(一大国は一支国の誤り)に着く。ここは対馬国より人口が多く、田んぼも作っているがすべてには行き渡らず、海産物を食し、対馬人同様、船で南北に交易するという。

今もそうだが対馬も壱岐も米の自給は不可能な土地柄であり、海産物や観光で生活を立てている。

さてまた一海(玄界灘)を渡ると末盧国。現在の唐津市である。意外にも壱岐国と同じ4000戸程度だが、当時の唐津には松浦川河口の三角州は発達しておらず、今のような市街地は存在しなかった。それで海沿いの傾斜地に点々と居住するほかなかったのだろう。しかも道路は「行くに前人を見ず」というように照葉樹林の深い森のうっそうと茂る中を通るしかなかった。

問題の「伊都国」はここ末盧国から「東南陸行500里」にある。

伊都国を糸島市としたい研究者はこの「東南」を「東北」に読み替える(あるいは東南を無視する)。しかし糸島市なら壱岐から船で直行すればよいのである。なぜ壱岐から同じくらいの距離にある唐津にわざわざ水行してそこで船を捨て、「行くに前人を見ず」というような難路を糸島まで歩かなければならないのだろうか。

私はこれまでこの部分の合理的な説明を聞いたことがない。伊都国が糸島市でないことは明らかだろう。糸島を伊都国と比定したことで畿内説が「南は東の誤りだ」として大手を振ってしまったことは、倭人伝解釈上の最大の誤謬(災厄)であった。

唐津から東南に行く道が無いのならまだしも、松浦川沿いの道があるではないか。この道を郡使たちは歩いたのである。「行くに前人を見ず」というのは谷川沿いの道が細く険しい上に、木々がうっそうと茂った中を曲がりくねりながら歩いた様をよく描写している。

松浦川沿いの山中にある厳木(きうらぎ)町が伊都国(イツ国)の可能性が高い、と今はそう考えている。「厳木」は「イツキ」とも読める。「伊都(イツ)の城(キ)」ではないか。戸数が1000戸と少ないのも当てはまる。

伊都国から東南に100里で、奴国。ここは戸数2万戸とけた違いに多いが、遠浅の海となだらかな山に恵まれた多久市と小城市あたりなら可能だろう。

さらに東へ100里行った所が不彌国で、今の大和町界隈だろうか。佐賀市はまだ海中か海岸すれすれの居住不能な土地だったと思われる。

次は「南へ至る、投馬国、水行20日」とあるので、投馬国は不彌国の南で、不彌国から船で20日の行程にある、と考えられそうだが、私はこの「南へ」は「帯方郡から南へ」と考えるのである。
 この解釈は次の「南へ至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」の「南へ」と同じと考えているので、先に「南へ至る、邪馬台国・・・」の方を解読しておく。

今回の倭人伝読解には間に合わなかったのだが、実は帯方郡から邪馬台国への行程がもう一箇所記されていた。それはこの「南へ至る、邪馬台国・・・」の記事よりまだ7行先の次の記事である。

〈郡より女王国に至る、万二千余里。〉

この一文は、郡使が邪馬台国に到達してから、邪馬台国の官制を紹介し、さらに女王国に属する30の国々を羅列し、最後に女王国と敵対する狗奴国を取り上げた段落の一番最後に挿入されているのだが、まさしく帯方郡から女王国までの距離は12000里(余は省略する。以下同様)だと言っているのである。

そこで帯方郡からの行程に登場した二地域間の距離表記を加算してみると、帯方郡・狗邪韓国間(A)が7000里、狗邪韓国・対馬間(B)が1000里、対馬・壱岐間(C)が1000里、壱岐・末盧国(唐津)間が1000里なので合計は10000里となる。そうすると12000里-10000里=2000里が末盧国と女王国間の距離ということになり、ここからも畿内説は成り立たないことが分かる。

この12000里だが、ちゃんとした正確な距離ではないことは、いま指摘した狗邪韓国から末盧国までの三地点間をすべて1000里で表記していることから判明する。まず海の上では距離は測れないことで「里」という距離表記はそもそもおかしい。そして何よりも各地点間の実際の距離は同じ1000里で表すには違いが大きすぎる。(A):(B):(C)は9:6:4くらいの差があり、特に(A):(C)などは2倍以上の差である。これらを同じ距離表記で表す理由は何であろうか。

この海峡を渡る三地点間が同じ1000里表記なのは、要する日数が同じということを意味しているのだ。ではこの1000里は何日を要するのか。それは一日である。海峡を渡る途中で寝るわけにはいかないのだ。したがって水行1000里というのは「一日行程」と解ける。

これを当てはめると、狗邪韓国から末盧国までに要する日数は3日となる。さらに帯方郡から狗邪韓国までの水行は7000里であったから要する日数は7日。この7日と3日で10日。

一方、先に見たように「南へ至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」であったが、この中の「水行10日」が、まさに「帯方郡から狗邪韓国を経由して末盧国までの水行10000里」すなわち「必要日数の10日」に該当する。

よって、「南へ至る、邪馬台国・・・」の「南へ」は「帯方郡から南へ」ということと同値だと分かる。したがって帯方郡から末盧国までの水行10日を除く「陸行1月」が末盧国から邪馬台国までの必要日数ということになる。つまり末盧国に上陸したら、あとは歩いて行き着く所に邪馬台国があるということである。

これで二重に畿内説は成り立たないことが言えるわけで、邪馬台国は九州島の内部に求める他ないのである。(※私見では九州説のうち「八女市」説であるが、これについては次の回の時に詳述する。)

後回しになったが、投馬国はどこか。

これにも今の「帯方郡から南へ水行20日」を採用し、末盧国までが水行10日であったから、さらに末盧国から水行10日のところが投馬国に比定される。唐津から東回りでも西回りでもさらに水行10日というと、西回りなら薩摩半島あたり、東回りなら日向から大隅半島が該当しよう。

宮崎県の西都市の一部に妻という地名があるので、このあたり一帯を投馬国に比定する人が多いが、投馬国は5万戸という稀に見る大国で、そのあたりだけでは到底入りきらない。南九州全体を投馬国と考えないと無理である。

よって私見では投馬国は南九州(古日向)全域に比定する。

(邪馬台国問題 第2回 終わり)



 

全国戦没者追悼式2020

2020-08-17 11:02:08 | 専守防衛力を有する永世中立国
今年もやって来た真夏の追悼式典。

戦陣であるいは戦火の下で亡くなった戦没者の数は310万人とされている。

この310万という数字に原爆投下の後遺症によって数か月後、数年後に亡くなった人たちも含まれているのだろうか、いささか少ない気がする。

とにかく太平洋戦争では多くの民間人が犠牲になった。通常の戦争観で言えば、米軍の民間人殺害は原子爆弾によるものであれ、機銃掃射によるものであれ、立派な「戦争犯罪」である。

この点についてあの「国際極東軍事法廷」通称の「東京裁判」では、連合国側のそのような戦争犯罪は全く不問に付された。

東京裁判は直前に開廷されていた「ニュルンベルク国際軍事法廷(ニュルンベルク裁判)」に倣って連合軍占領下で行われた戦勝国が戦敗国を断罪する「見せしめ裁判」の類であった。

東京裁判ではニュルンベルクと同じ「通常の戦争犯罪」「平和に対する罪」「人道に対する罪」が被告人起訴の根拠となったが、後者の「平和に対する罪」「人道に対する罪」はいわゆる「事後法」(後付け法)であって、起訴する法的な根拠ではなかった。

このあたりのことが詳しく、しかも東京裁判に招かれた11人の判事それぞれの個性を通して描かれたドキュメンタリー風ドラマ「東京裁判」(NHK他)を観る機会を得た。(※このドラマはNHKと海外数局の共同制作で、2016年12月に放映されたものの再放送である。)

11人の判事の日本側A級戦犯28人の被告に対する判決では、3人の判事が少数意見の「被告人全員無罪」か「共同謀議は成り立たないので、7名への死刑判決は不当」というもので、3人の中のインド人判事パール博士の「無罪論」は知る人ぞ知る有名な判決だ。

あとはフランス人判事ベルナールとオランダ人判事レーリンクが「死刑は不当」組だが、後者のレーリンク判事について、ドラマではほぼ主役的な扱いで描いていた。

彼が11人の中では最も若く、しかも音楽(バイオリン)家でもあり、日本に来てあの『ビルマの竪琴』の作者でドイツ文学者の竹山道雄の知己を得たことと、かなりの量のメモを残していたことによるのだろう。

この3人以外では英米系の4名(アメリカ・イギリス・カナダ・ニュージーランド)は当然死刑推進派で、中華民国の判事も熱烈な反日、またフィリピンからの判事もアメリカの植民地(被侵略地)であったにもかかわらず、日本軍が侵略したことに対してだけ鬱憤をぶちまけていた。

ソ連の判事は多数意見に従っていたが、「天皇を起訴するのは反対だ」との立場だったのは意外に思われた。(※可能性としてはシベリアに強制連行して重労働をさせた日本人兵士たちが従順によく従って働いたのは、天皇の軍隊としての規律と誇りがあったためだと、気付いたか。)

裁判長はこれまたイギリス連邦の大国オーストラリア出身のウェッブで、オーストラリアは「天皇を裁判にかけろ」という強硬派であった。このことを知っていてマッカーサーが選任したのは、裁判の始まった1946年5月3日の時点ではまだマッカーサーには天皇を訴追しようという腹があったのかもしれない。

ところが裁判が始まってわずか1か月後の6月には、訴追担当の首席検事キーナンが早々と「天皇は訴追せず」の声明を発表しているのである。これはどうしたわけなのか。裁判長ウェッブの余りにも強い天皇戦犯論に対して待ったをかけたのかもしれない。

同じ1946年の1月26日に「人間宣言」を発表し、日本各地を巡幸し始めた天皇が、各地で民衆から熱烈な歓迎を受けこそすれ、決して天皇を否定・拒否するような場面が見られなかったことに、マッカーサーが「これは絶対に訴追できない。訴追したら民衆が連合軍に歯向かう事態になる」と考えを変えたのだろうか。

東京裁判は連合国側の「敵国日本潰し・弱体化」のための2年半(1946年5月3日~1948年11月12日)にわたる「見せしめ裁判」であり、最高司令官の意向の多くを反映したものだった。結審した同じ11月3日に「日本国憲法」が発布されたのも同じ経緯であったこと言うまでもない。