邪馬台国を巡る比定地の問題では、伊都国の比定地を糸島市としたことで九州論者も畿内論者もとも「原文改変」に陥り、論争は収拾がつかなくなってしまった。
伊都国を唐津に流れ込む松浦川沿いのどこか(私見では厳木町)に比定できれば、倭人伝原文をいじくりまわす愚を犯さずに済んだはずなのに、残念なことである。
ともかく畿内論はあり得ない。邪馬台国は九州島内に勃興し、継続し、そしてㇳヨの時代に狗奴国の侵攻を受けて滅亡した。
この九州邪馬台国が滅ばずに「東遷した」とする考え方もあるが、私はそれを採らない。
「東遷」し、それが「大和王権」につながったとして「邪馬台国九州説」と「天孫降臨説話」の折衷案的な「卑弥呼=アマテラス大神」論を展開している安本美典説は大いに参考にはなるが、歴代天皇の平均在位10年説によって卑弥呼がアマテラス大神そのものだとすると、後継の台与は何にあたるのか(天孫降臨神話ではアメノオシホミミかニニギノミコトか)。また卑弥呼に敵対した狗奴国王ヒコミコはスサノヲなのか。また父祖のイザナギは、イザナミは、と看過できない疑問に逢着してしまう。
それより倭人伝において邪馬台国の直前に、
【南至投馬国、水行20日。官曰彌彌(ミミ)、副曰彌彌那利(ミミナリ)。可五万余戸。】
「南に至る投馬国。水行で20日(の所要日数)。投馬国には官がおり、その名を「みみ」という。また副官もいて、その名を「みみなり」という。およそ5万戸を数える。」
とある「投馬国」を考察し、比定地を明らかにすれば、天孫降臨神話および神武東征説話つながる発見があるのだ。
さて、通説では投馬国はその直前に描かれている「不彌国」につながる形で、「不彌国から南へ水行20日の地にある」と解釈する。
しかしながら、多くの論者が不彌国の比定地としている北部九州の福岡県「宇美町」からは、「南へ水行」は不可能であり、多くの論者が頭を悩ませ、相当無理なひねりにひねった改変的な解釈に終始している。
中には「遠賀川を上流に向かって南下する。流れに逆らって行くので20日はかかる。」など、噴飯物の解釈も見受けられる箇所だ。(岸に沿って陸行すれば4、5日で済むだろうに・・・)
九州説の場合、投馬国は宮崎県の「妻地方」だろうとまずは語呂合わせ的に想定するので、こういった無理な解釈になる。
ここでこの投馬国への行程記事を、その次の邪馬台国への行程記事と見比べてみれば、実は「南至る、投馬国、水行20日」と「南至る、邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」とはそれまでの末盧国から伊都国・奴国・不彌国への「陸行〇〇里」とは異質の書き方、すなわち距離表記ではないことに気づかされる。
③で証明したように、女王国のこの行程記事の「水行10日」は帯方郡から末盧国(唐津)までの行程であった。そして唐津で船を捨てて今度は陸行で東南に伊都国への道をたどり、佐賀平野を横断して筑後川を渡り、そこからは南下して八女女王国への行程が「陸行1月」なのであった。
投馬国への行程記事も同様に考えればよく、「水行20日」は帯方郡から投馬国への航路の所要日数である。水行20日のうち10日は郡から末盧国(唐津)までで費やされるから、残りの10日は唐津から九州の西岸または東岸経由で南下し、投馬国のどこかの要港までの所要日数である。
ただ、唐津から南への航路はなく、九州島北岸を西回りならまずは西へ、東回りならまずは東へ数日を要したあと、南下に転じて船を進めることになる。その数日の西への航路または東への航路は投馬国への「水行20日」の記事の中では省いたとみていいのではなかろうか。
あるいは、投馬国への航路は壱岐国から末盧国(唐津)に寄港せずに、いきなり九州西岸なり東岸なりへ向かうコースがあったのかもしれない。
いずれにしても九州島の北から南へ10日の航路でたどり着くのは、鹿児島県から宮崎県一帯のどこかの海岸であろう。つまり古日向域である。
すなわち投馬国とは古日向一帯に他ならない。
宮崎県の「妻(つま)」地方は西都原市域だが、ここだけが投馬国ではない。なにしろ戸数は5万戸を数えるのである。5万戸といえば邪馬台国及びその傘下21か国(長崎半島・熊本北部・筑後川南岸)の戸数が7万戸であったことを考えれば、その次に多い戸数である。西都原地方だけの狭い地域ではありえない。
※韓伝を見ても、馬韓は戸数10万戸、弁韓と辰韓併せて4~5万戸。投馬国は後者に匹敵する戸数だが、弁韓と辰韓を併せた土地の広さは、優に九州島の半分を超える広さである。また馬韓の広さはほぼ九州島に匹敵する。
投馬国を古日向に比定する理由はまだある。
それは投馬国の「官はミミという。副官はミミナリという」とある箇所である。
陳寿は「彌彌(みみ)」を投馬国の「官」としたが、投馬国は女王国の傘下の国ではないのでこの「官」という表現はおかしい。投馬国は先に触れた「周旋5千里」の範囲以外のはるか南の国であり、したがって私はこの「官」を「王」と解釈する。そして「副官」として「彌彌那利(みみなり)」を記しているが、この副官は「王の妻」と解釈する。
こう考えると、天孫降臨神話で古日向に天下ったニニギノミコトの父が「アメノオシホミミ」であり、神武東征説話で神武の子に「タギシミミ」「キスミミ」がおり、東征後の橿原王朝樹立後に生まれた皇子に「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ(綏靖天皇)」がいるという「ミミ」名のオンパレード事象が理解されるようになる。
これを、「古日向から東征した神武が大和に王朝を樹立したという造作説話をもっともらしく見せるためにそう名付けたに過ぎない」などと考えるのはむしろ滑稽である。なぜなら古日向に投馬国があってその投馬国の「ミミ」王が東征したという史実を知っているが故の強弁だからである。
次の「古日向論(3)神武東征説話と古日向」で詳しく論じるのだが、倭人伝の「投馬国」とは帯方郡から南へ航路20日の所要日数の所に存在する古日向のことであり、その王「〇〇ミミ」が古日向を後にして畿内方面に東遷を果たしたことは史実と考えてよい。