鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

石破内閣の支持率は32%

2024-10-31 15:03:33 | 日本の時事風景
9月27日に自民党総裁に選出され、10月1日に国会で開かれた衆議院本会議において総理大臣に選ばれた石破茂氏は、10月9日に衆議院を解散し、15日に衆議院議員選挙を10月27日に行うと公示した。

ちょうどまさにその1か月前に政権与党自民党の総裁になったばかりで、政権を掌握するとすぐに「伝家の宝刀」と呼ばれる衆議院議員の解散に打って出たわけである。

拙速の感は国民の誰しもあったに違いない。

石破氏が総裁選の最中に言っていたのは、総裁になり総理大臣になったら少なくとも国会で予算委員会を開いて野党との十分な論議を経てから解散をしたい――というのだったが、そのことは全く反古にされた。

自民党内で支持基盤の少ない石破氏にしてみれば、

――国民世論の「石破氏への期待感」の熱いうちに総選挙を行えば自民党はそれなりの支持を得て、その結果現有の勢力を確保できる。そうすれば石破氏の党内での支持が広がるだろう。

という思惑があったのだが、選挙結果は「自公過半数割れ」の惨敗となった。

鹿児島県では4選挙区のうち安泰だったのは大隅地区を中心とする第4区で、ここは今度自民党の幹事長になった森山裕氏の絶対保守区である。

第1区は立憲民主党の川内氏に敗れ(自民候補は比例復活)、第2区は無所属の三反園氏に及ばず(自民候補は比例復活)、そして第3区は農林水産大臣に就任したばかりの小里氏が立憲民主党の野間氏に敗れた。

驚くべきは第3区の小里氏で、比例九州での復活もかなわず、議員の職を失った。10月1日の新内閣で農林水産大臣になったばかりだったのだ。

保守王国と言われれる鹿児島で自民党の議員が選挙区で半数をとれなかったのは、1955年の自民党結党(初代総裁は鳩山一郎)以来初めてのことだという。

今回の自民党及び政権与党公明党の惨敗は、昨年来の議員事務所のパーティ券等剰余金の収支報告書への不記載いわゆる「裏金問題」が大きくのしかかったのだが、これに加えて非公認議員の所属する自民党支部への「公認料」2000万円支出が明らかになって有権者の批判票が他党に回ったことにある。

「公認料」はどの支部にも配られるらしいが、非公認議員が支部長である場合、今度の選挙では差し控えるのが筋だったろう。

しかしこれがメディアで露出され、金権批判が増幅された。「火に油を注ぐ」とはこのことだ。

総選挙後の国会は与野党の勢力が逆転し、自民党は大きく躍進した国民民主党や維新の会に秋波を送っているが、どうなることか。

今朝の新聞によると石破首相への支持率は就任当初は50%を少し上回っていたのだが、32%になったという。

与党内野党という評価を得ていた石破氏が自民党改革をやってくれるのではないか――という国民の期待感は裏切られてしまった。

せめて公約の柱の一つ「防災庁」を提示し、超党派的な議論にかけて創設してくれまいか。天災大国日本に是非とも必要だ。



「生目」の意味から見た生目古墳の被葬者

2024-10-27 19:01:50 | 古日向の謎
 跡江貝塚について

宮崎市中心部から北西に直線にして6キロほどの所にある「生目古墳群」だが、本来の地名からすれば「跡江古墳群」というのが正解だ。

生目村に統合される前の跡江村はかつては大淀川河口域にあり、日向灘の入り江がその村域だった。その一部に「跡江貝塚」があり、今は大淀川の流れに近い右岸にその名をかすかに残している。

この貝塚の下層から縄文時代前期の「曽畑式土器」が多数見つかったが、実はこの形式の土器が何と南米エクアドルのバルディビア遺跡で発掘された土器と瓜二つということで注目を集めたことがあったようだ。

1961年にアマチュア研究家の日高という人がここで奇妙な文様の土器を発見し、その後大分県の別府大学が発掘調査し当時は「県指定の遺跡」となった。

しかし県では調査後は記録に留めただけで、遺跡は宅地開発によってほぼ消えてしまったという。

発見者の日高氏の記録によると貝塚内のアカホヤ層(鬼界カルデラ由来で7400年前)の下に多種類の文様を持つ土器片が見つかっており、土器の底はどれも平底だったそうである。

鬼界カルデラの噴出物(アカホヤ)の下から発見されたと言えば、国分の上野原遺跡が代表的な遺跡だが、まさに上野原遺跡から発掘された土器類は平底だった。

上野原遺跡ではそのアカホヤの噴出堆積によって縄文早期の文化が壊滅したのだが、跡江貝塚人は噴出堆積を逃れて這う這うの体で海に出たのだろうか。

計画的な船団による移住なのか、慌てて単船で海に出て暴風や荒波に遭って南米に辿り着いたのか、知る由もないが、とにかく宮崎の海岸部と南米エクアドルの海岸部とに、何らかの繋がりを感じざるを得ない。

 生目の意味から考える生目古墳の被葬者

今回は跡江貝塚のそのような話はさて置いて、テーマは「生目」という意味から探る生目古墳群の被葬者の姿」であった。

私はかつて5年前まで大隅地区の「大隅史談会」に属しており、『大隅』誌に最後の論考を寄せた中に「生目考」があった。

今回はそれを下敷きにして、その後に考えたことを述べてみたい(引用文には若干の改変がある)。

《私は次のことを想定している。それは崇神・垂仁王統(糸島王家=大倭)の東征と密接な関係がある。

 二世紀の半ば頃に、南九州の投馬国から畿内大和へ「東征」(実は避難的な移住)があり、その主導者は神武天皇の子とされいる「タギシミミ」であったことはすでに論じたが、この投馬国が樹立した橿原王朝を一世紀余りのちに打倒したのがいま述べた崇神・垂仁王権すなわち北部九州倭人連合の「大倭」であった。

 その時の南九州投馬国系王統最後の代が、崇神天皇記・紀に登場する「タケハニヤス・アタヒメ」で、勝者である崇神から見れば、まさに叛乱(叛逆)の主人公でなければならなかった。

 また垂仁天皇記・紀には「サホヒコ・サホヒメ」のこれまた天皇への謀反の記事が載せられ、やはり二人とも殺害されるのだが、これら両記事に通底するのは前王朝(橿原王朝)の残存勢力の大きさである。

 前者のタケハニヤスにしろアタヒメにしろ、南九州の匂いがプンプンする。当然と言えば当然で、彼らは南九州(投馬国)由来の王統の末裔だからである。

 この崇神による橿原王朝打倒は当然のことながら南九州にも伝えられ、「いざ鎌倉」ならぬ「いざ大和へ」と南九州(投馬国)軍団はいきり立ったはずである。

 この時、崇神側からはすでに南九州に軍団を派遣し、南九州の動静を監視しつつ、武力を誇示して南九州軍団を抑制したに違いない。

 この時の監視団の長官のひとりは、垂仁天皇時代にサホヒコ・サホヒメの謀反を制圧した将軍「八綱田」ではないかと思われる。というのも八綱田は鎮定後に垂仁天皇からその軍功を賞されて「倭日向武日向彦八綱田」という名を賜与されているからである。

 この長い名を分析すると次のようになる。

1、倭日向(やまとひにむかい)・・・「倭日」とは畿内大和のこと。そこに軍勢を率いて向かったという意味。

2、武日向(たけひにむかい)・・・「武日」とは南九州のこと。古事記の国生み神話では「建日別、別名は熊曽国」とある。南九州に軍勢を率いて向かったという意味。

3、彦(ヒコ)・・・男子の敬称。

4、八綱田(ヤツナダ)・・・これが本名。

 以上を総合的に解釈すると、この将軍・八綱田という人は、大和で戦ったり、南九州で戦ったり、言わば八面六臂の活躍をした武人であることが分かる。

 こういった武人が崇神・垂仁の「糸島王権=大倭=東征後の纏向王権」への反対勢力を抑えるために、打倒した旧王朝である南九州投馬国由来の南九州に派遣されて監視活動を行ったので、その地に「生目」と名が付けられたのではないだろうか。

 宮崎市の生目地区は一見孤立していながら、日向灘につながる大淀川水運による物資輸送・兵員輸送に不自由な場所ではなく、特に南への備えにはほどよい山岳地帯があり、長期にわたる監視(生目)活動には好適な環境にあったと考えられるのである。》(『大隅60号』P80~81)

「生目」(イキメ)は3世紀の半ばに邪馬台国の一等官の「伊支馬」としてあらわれているが、その時の「イキマ」は北部九州倭人連合(糸島王権=大倭)からの監視団の長官であったが、この地の「生目」は糸島王権が大和への東征を果たしのちに、抵抗勢力となった橿原王権への監視活動による「生目」であったから、時代としては3世紀末から4世紀初めの頃である。

私は南九州投馬国からの畿内への「東征」(事実上は移住)はあったとし、その時代は後漢書に見える「桓・霊の間、倭国乱れ、相功伐すること暦年」とある145年から187年の時代だったとし、投馬国による橿原王朝の樹立はおおむね180年の頃ではないかと考えている。

その約100年後の280年代に北部九州倭人連合こと「糸島王権=大倭」が半島の逼迫によって北部九州から畿内へ王権を移動させた。これを私は「崇神東征」(第二次東征)と呼ぶのだが、当然のこと大和では旧王朝の橿原王朝とぶつかることになった。

その具体的な交戦こそ「タケハニヤス・アタヒメの反乱」であり、「サホヒコ・サホヒメの謀反」であった。

前者は先に触れたように、反乱者の名前からして南九州ゆかりの者による叛乱で、間違いなく前王朝に対する新王朝(崇神王権=纏向王朝)の追討劇であり、場所は記紀に詳しく描かれているように畿内であることは間違いない。

時代は崇神・垂仁の親子による東征の頃であるから、およそ280~290年代のことと思われる。

ではもう一つの「サホヒコ・サホヒメ」の叛乱(謀反)の場所と時代はいつだろうか。

サホヒメは垂仁天皇の皇后になった人であるから、崇神王権が大和に纏向王朝を確立したあと、かなり時が経ってからのように思われるのだが、天皇に即位後はたしかに皇后であるが、皇后になる前には垂仁(イクメイリヒコ)の妻に過ぎなかった。

したがって、サホヒメが垂仁の妻になった場所と時期は、崇神東征後の畿内大和でのことではない可能性も考えなければならない。

垂仁(イクメイリヒコ)がサホヒメを妻にしたのは、まだ北部九州に糸島王権(大倭)として九州島内で勢力を極めていた時代のことかもしれないのである。

そう考えると、垂仁こと若き日のイクメイリヒコが「イクメ=生目」として南九州に八綱田とともに監視団の長として赴任していた際に、南九州勢力の首長の娘を娶り、いわゆる「政略結婚」的な平和維持に腐心したのではないか。

その時代は4世紀初頭の頃ではなかったか。

そしてその地こそ「生目」であった。しかし兄のサホヒコによって平和の均衡が破れた。それが「サホヒコ・サホヒメ」の叛乱となった。

サホヒコの軍勢が「稲城」を作って防戦したという記事を読むと、当時の南九州の戦法がのちの文献で「稲積城」などと出てくるのと被るのである。

そしてこれは全くの語呂合わせに聞こえそうだが、例の西都原古墳群の最奥に位置する場所に、南九州では盟主的な二つの前方後円墳「男狭穂(ヲサホ)塚」と「女狭穂(メサホ)塚」が近接して築かれているが、この対になった巨大古墳がもしかしたらサホヒコ・サホヒメの墓所ではないか、と思い至るのである。

男狭穂(ヲサホ)塚と女狭穂(メサホ)塚の築造年代が5世紀と言われているのは知っているが、実は発掘調査をしない限り本当に確実なことは言えないようである。そこを逆手にとって――というわけではないが、想像を膨らませることは許されてよいだろう。

また生目古墳の被葬者は、サホヒコ・サホヒメの叛乱を鎮定した「倭日向武日向彦八綱田」(大和で戦い、南九州でも戦った勇者・八綱田)本人か、もしくはその前後の4世紀代に生目に赴任して南九州を監視していた崇神王権の武将(将軍)であったと考えて大過ないと思う。











生目神社と生目古墳群

2024-10-25 09:55:22 | 古日向の謎
宮崎市生目にある生目古墳群も生目神社もかつてそれぞれ別個に訪れてはいるのだが、今回は同時に行ってみた。

付近を流れる一級河川大淀川が宮崎市街地に入る直前に少し北側に膨らみ、今度は上流から見て右回りに南に向きを変えてほぼ河口付近まで南流するその流れに囲まれた地域にあり、そこはかつての生目村であった。

その生目村の「生目(いきめ)」という地名の語源は生目神社のようだ。

生目神社を参拝した際に貰った「生目神社御由緒」によると、かつては生目八幡宮と言われたことがあり、明治維新以降は生目神社と改称された――とあり、さらにこの神社のことは『宇佐大鑑』によれば天喜時代(1053~1058年)のこととして八幡社の存在が見え、棟札には宝徳2年(1450年)5月に遷宮祭があったことが記されているという。

文書の上だけでもすでに約1000年前には創建されていたことが分かり、この神社(当時は生目八幡社)の「生目」から当地の広い範囲が生目の地名となったようである。

生目神社のある所は生目地区でも比較的高い丘の上にあり、神社の南側は「生目台」と呼ばれる住宅団地で、道路で分断されているが東側には「大塚台」という住宅団地がある。全体として丘陵地帯と言える。

そのシンボル的な中心が生目神社だ。国道10号線を宮崎方面に向かうと「浮田」という立体交差点があり、それを降りて道路一本を抜けて直進し、右折すれば神社のある丘陵の下に出る。

案内表示に従い、うっそうとした社叢の縁を撒くように上がると鳥居下の駐車場に至る。

階段の上の「一の鳥居」までの高さは4mほどだろうか。さほどの高低差ではないが、一般的な鳥居の位置としては高い方だ。

鳥居を上がると直線の長い参道で、50mではきかないかもしれない。

舗装はされているので歩きやすいが、真夏の日差しの強い時期だと照り返しに悩むだろう。

参拝者の駐車場は左奥の赤いポストの見える家の手前にあった。5,6台は停められそうである。

右手の見事な塀と植栽のある家は宮司さん宅で、表札には「高妻」とあり、「こうづま」とお呼びするのだろう。

二の鳥居の奥の拝殿は立派な造りで、由緒を偲ぶに十分だ。

さてこの不思議な「生目」という名称だが、先の由緒書きによると、説が3つあるという。

1、藤原景清が日向に下向した際にこの地に幽閉された。没後に景清の「活けるがごとき霊眼」を奉斎したため。

2、当地は昔から眼病患者を良くする霊験があり、庶人がその御神徳を尊んで「生目の神」としてあがめたため。

3、景行天皇の父に当たる「活目(イクメ)入彦五十狭茅尊」(垂仁天皇)を奉斎したお宮であるから。

このうち、1と2は「生目」の漢字からの当て推量に過ぎない。「志布志市」の「志布志」を「村人が志(こころざし)の布を天智天皇に捧げる志(こころざし)があった」ことから地名が生まれたという説があるが、これと似ている。

私は3の説が近いと思う。ただ、この説では古書から引用をしただけで歴史的な背景は全く考慮されていないのが残念である。(※私の考えは別稿で書いて行くことにする。)

さて生目神社から、元来た道を戻り、今度は「浮田」交差点を突き抜けて行く。県道9号線である。これを1.5キロほど行くと跡江交差点で、ここを左折して500m足らず、右手の田んぼの向こうにこれから行く「遊古館」の建物と後背の丘陵が見える

(※この丘陵に生目古墳群があるので、この丘陵を「生目丘陵」と呼びたいところだが、ここは古来、跡江村に属しており、「跡江丘陵」が正確な呼び方である。跡江は跡江貝塚で有名で、縄文時代は丘陵の近くまでが海域であった。)

遊古館の開館は8時半と思っていたのだが9時からということで、駐車場に車を入れてから、先に丘陵上の「生目古墳群史跡公園」を見ることにした。

上るとすぐに平坦地が広がり、そこからは南北1キロ余り、東西0.5キロほどの台地の辺縁にポツンぽつんとある古墳を訪ねることになる。
史跡公園の案内図を眺めていると、何だか緑色の犬か何かに見えて来た。

頭に当たる所から、1号墳、2号墳・・・と号数の順番を決めて行ったようだ。

購入した解説書によると前方後円墳が3基あり、犬の頭のにあるのが全長130mの1号墳、胸にあるのが全長137mの3号墳、お尻にあるのが全長101mの22号墳で、園内にある前方後円墳8基のうち3基も100mを超える全長後円墳が見られるのは九州では随一だという。

しかも101mの22号墳が4世紀後半、130mの1号墳も4世紀後半、3号墳(137m)に至っては4世紀半ばの造成で、古墳前期の4世紀代だけに限れば、生目古墳群は当時九州最大規模の前方後円墳地帯であった。

生目古墳群中最大の3号墳の後円部。直径は77mあるとか。近くで写したので全体は入りきらない。山頂部の高さは比高で12mほど。

同じ九州宮崎の西都原にある男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳はともに176mと九州最大だが、時代は古墳時代中期なので約1世紀後の物。また大隅地区にある唐仁大塚古墳(148m)・横瀬古墳(140m)なども九州では屈指の大きさだが、どちらも5世紀代である。

残念なことに生目古墳群は昭和18年に国指定の史跡になっており、後円部墳丘の頂上を発掘することはできないそうである。

22号墳の頂上部をレーダー探索機で調査したところ、長方形の物が埋まっているとまでは観測できたのだが、それ以上の調査はできないという。

隔靴掻痒とはこのような状態をいうのだろう。発掘屋(考古研究者)が発掘できないとは気の毒千万。

この古墳群の被葬者たちはどんな人たちなのか、特に4世紀半ばに築造されたとされる当時の九州では最大の大型前方後円墳「3号墳」の被葬者は誰なのか、謎は深まるばかりだ。

大水害の予兆?

2024-10-22 11:28:37 | おおすみの風景
昨日の午後2時半の頃、テレビで緊急大雨情報が出されたのでよく見ると、そこは大隅半島の肝付町だった。

ここ鹿屋市の南部に位置する我が家辺りでも、当時、弱い雨が降っていたのだが、その情報には驚きだった。

何と午後2時10分までの一時間雨量が「120ミリ」だったのである。

たしかに昨日から東風が強く、それは太平洋から北上して来た高気圧の西側の縁から吹き出す東風で、それに乗って太平洋上の高い温度かつ湿った空気が大隅半島の東側(太平洋側)に突き当り、線状降水帯を形成したものに違いない。

それにしても台風がらみでもない限りこんな120ミリという激雨は経験したことがない。

2か月前の台風10号の時には、中心が九州にあるのに思いもよらない遠方の東北地方で南からの強風に乗って線状降水帯が発生し、甚大な雨量を観測したばかりだが、今度のは台風でも何でもない普通の高気圧の移動中の現象だった。

昔ならこの高気圧は「すがすがしい秋晴れ」をもたらす配置にあるのだが、何しろ太平洋を流れる黒潮の水温が高過ぎる。太平洋側に日本列島がすっぽり入ってしまうような広域で異常に水温が高い。

昭和13年の10月15日、今からもう86年も前の話だが、秋台風が今度線状降水帯が発生した肝付町の太平洋岸(旧内之浦町)に接近し、大雨をもたらしている。

雨は内之浦・高山・吾平で特に強く降り、山津波が発生し、広瀬川・高山川・姶良川はすべて氾濫し、川筋にある田はことごとく泥流のなすがままだった。

この水害による大飢饉などの発生はなかったようだが、実は隠れた大きな被害があった。

それは国鉄大隅線である。

当時の大隅線は志布志から大崎・東串良・串良・高山・吾平・鹿屋の主要駅を通って錦江湾沿いにある港町・古江まで、約45キロの単線の鉄路であった。その当時はまだ国鉄「古江線」と言っていた。

古江線が国有化されたのは昭和10(1935)年。

その当時、志布志から東串良までの線路幅は1067ミリの狭軌だったのだが、串良から古江までは762ミリの軽便鉄道仕様だったので、東串良で列車の交代が行われるという不便な路線であった。

そこで3年後の13(1938)年の10月に古江駅から東串良駅までの線路幅を762ミリから1067ミリに変えるという「改軌」が行われた。その竣工は10日であった。

ところがその5日後の10月15日に、先に述べた台風が大隅半島に甚大な水害をもたらしたのである。

改軌したばかりの新しい鉄路は至る所で寸断され、特に洪水が起きた河川に架かる橋は無残にも橋桁だけを残して流れ去ってしまった。

しかし九州の国鉄各地の管理署からの応援隊が集まり、まさに日に夜を継いでの復旧工事が行われ、何とか生き延びた。

もしこの時までに国有化されていなかったら、つまり私営鉄道のままであったら間違いなく倒産し廃線となっていたに違いない。

国鉄大隅線の廃線は1987(昭和62)年であったから、大水害後ほぼ半世紀は動いていたが、時あたかもモータリゼーション時代に突入し、まさに「水(時代の趨勢)に流された」ことになる。

垂水から国分(霧島市)まで1972(昭和47)年に延伸されて「国鉄大隅線」となったのだが、赤字路線(地方特定交通線)として国鉄民営化の直前に廃止となった。

志布志駅から国分駅まで33駅、98キロの国鉄大隅線は、全線開通したのも束の間、わずか15年で廃線となり、大隅半島から鉄路が消えたのであった。


「上野原縄文の森」で研修

2024-10-19 11:07:48 | おおすみの風景
10月18日、鹿屋市のリナシティで開かれている市民講座『考古学と郷土史』を受けている講座生ほか12名で霧島市国分の上野原縄文の森を訪れ、講師の前の縄文の森園長であった堂込さんに、施設案内と研修を兼ねて指導していただいた。

この10月からリニューアルオープンしたばかりである。

そのリニューアルの目玉は「上野原に居住していた人々の年代が、かねてより1100年早まった」というものだ。

上野原縄文の森は、上野原遺跡の発掘によって南九州の早期縄文時代の様相が明らかになり、また住居跡の調査研究により開園当時は「9500年前の住居跡が継続して見つかり、その数は52軒」という古さも古い上に、軒数も驚くべき数だということでセンセーションを巻き起こした。
このクリアファイルは開園10周年(2012年)に見物した時、購入したと思うのだが、ファイルの上部には白抜きで「9500年前の時間旅行」とタイトルが入っている。

今年は開園22周年だが、10周年の時点では明らかに、上野原縄文人は9500年前の人たち――という認識だったのだが、ここへきて1100年も時代がさかのぼることになり、何と「10600年前の人たち」と1万年を超える太古に生きた人々ということになった。

講師の堂込前園長はリニューアルした展示を中心に解説していただいた。奄美諸島の縄文時代や縄文時代から続く弥生時代の展示の中で、旧大根占町の南部の海岸段丘で蹉跌の採取中に発見された「山ノ口遺跡」のコーナーは注目に値した。
秀麗極まりない「山之口式土器」の中に、なんと取っ手の付いた大型のカップがある。思わずこれでビールを飲んだら・・・と快哉かつ驚きであった。

その下にある二つの軽石製の岩偶も面白い。かつて写真で見たことがあったが想像よりはるかに大きい。何に使われたか不明とされているが、子孫繁栄のシンボルのようだ。
とにかくすごいのが、高さ5mほどもある土器群の展示だ。最も古い向こうからこちらまで96個体あり、年代も13000年前から3000年前の物まで、1万年にわたる縄文土器群が南九州ではほぼ途切れることなく発掘されている。

中でも向こうの柱から3番目と4番目の間に置いてある8000年前の「壺型土器」だが、首の部分から下はまるで人間の肩が張り出したような形で、底部は平底である。

どうしてそんな形に作ったのだろうかと首を傾げ、同時に、よくバラバラにならずに発見されたものだと感心するほかなかった。

土器群を一通り見て回った後、県内最新の発掘調査状況を展示する一室で解説を受けたあと、少し休憩をとり、休憩後は外のフィールドにある住居群を訪れた。

住居跡の床面に桜島由来の黄色味を帯びた火山噴出物(軽石)が見られたことから、その噴出年代は10600年前なので居住年代も以前の9500年前から1100年繰り下げられた。

フィールドの手前には「地層観察館」、奥の方に「住居跡」の床面を展示する施設があり、当時の縄文人(上野原人)が生活していた匂いのような物が感じられた。

これと似たのが福岡県の春日市に「奴国の丘」とかいう施設があったのを思い出したが、あちらは弥生時代、こちらは1万年以上前だから比較のしようがないが・・・。