跡江貝塚について
宮崎市中心部から北西に直線にして6キロほどの所にある「生目古墳群」だが、本来の地名からすれば「跡江古墳群」というのが正解だ。
生目村に統合される前の跡江村はかつては大淀川河口域にあり、日向灘の入り江がその村域だった。その一部に「跡江貝塚」があり、今は大淀川の流れに近い右岸にその名をかすかに残している。
この貝塚の下層から縄文時代前期の「曽畑式土器」が多数見つかったが、実はこの形式の土器が何と南米エクアドルのバルディビア遺跡で発掘された土器と瓜二つということで注目を集めたことがあったようだ。
1961年にアマチュア研究家の日高という人がここで奇妙な文様の土器を発見し、その後大分県の別府大学が発掘調査し当時は「県指定の遺跡」となった。
しかし県では調査後は記録に留めただけで、遺跡は宅地開発によってほぼ消えてしまったという。
発見者の日高氏の記録によると貝塚内のアカホヤ層(鬼界カルデラ由来で7400年前)の下に多種類の文様を持つ土器片が見つかっており、土器の底はどれも平底だったそうである。
鬼界カルデラの噴出物(アカホヤ)の下から発見されたと言えば、国分の上野原遺跡が代表的な遺跡だが、まさに上野原遺跡から発掘された土器類は平底だった。
上野原遺跡ではそのアカホヤの噴出堆積によって縄文早期の文化が壊滅したのだが、跡江貝塚人は噴出堆積を逃れて這う這うの体で海に出たのだろうか。
計画的な船団による移住なのか、慌てて単船で海に出て暴風や荒波に遭って南米に辿り着いたのか、知る由もないが、とにかく宮崎の海岸部と南米エクアドルの海岸部とに、何らかの繋がりを感じざるを得ない。
生目の意味から考える生目古墳の被葬者
今回は跡江貝塚のそのような話はさて置いて、テーマは「生目」という意味から探る生目古墳群の被葬者の姿」であった。
私はかつて5年前まで大隅地区の「大隅史談会」に属しており、『大隅』誌に最後の論考を寄せた中に「生目考」があった。
今回はそれを下敷きにして、その後に考えたことを述べてみたい(引用文には若干の改変がある)。
《私は次のことを想定している。それは崇神・垂仁王統(糸島王家=大倭)の東征と密接な関係がある。
二世紀の半ば頃に、南九州の投馬国から畿内大和へ「東征」(実は避難的な移住)があり、その主導者は神武天皇の子とされいる「タギシミミ」であったことはすでに論じたが、この投馬国が樹立した橿原王朝を一世紀余りのちに打倒したのがいま述べた崇神・垂仁王権すなわち北部九州倭人連合の「大倭」であった。
その時の南九州投馬国系王統最後の代が、崇神天皇記・紀に登場する「タケハニヤス・アタヒメ」で、勝者である崇神から見れば、まさに叛乱(叛逆)の主人公でなければならなかった。
また垂仁天皇記・紀には「サホヒコ・サホヒメ」のこれまた天皇への謀反の記事が載せられ、やはり二人とも殺害されるのだが、これら両記事に通底するのは前王朝(橿原王朝)の残存勢力の大きさである。
前者のタケハニヤスにしろアタヒメにしろ、南九州の匂いがプンプンする。当然と言えば当然で、彼らは南九州(投馬国)由来の王統の末裔だからである。
この崇神による橿原王朝打倒は当然のことながら南九州にも伝えられ、「いざ鎌倉」ならぬ「いざ大和へ」と南九州(投馬国)軍団はいきり立ったはずである。
この時、崇神側からはすでに南九州に軍団を派遣し、南九州の動静を監視しつつ、武力を誇示して南九州軍団を抑制したに違いない。
この時の監視団の長官のひとりは、垂仁天皇時代にサホヒコ・サホヒメの謀反を制圧した将軍「八綱田」ではないかと思われる。というのも八綱田は鎮定後に垂仁天皇からその軍功を賞されて「倭日向武日向彦八綱田」という名を賜与されているからである。
この長い名を分析すると次のようになる。
1、倭日向(やまとひにむかい)・・・「倭日」とは畿内大和のこと。そこに軍勢を率いて向かったという意味。
2、武日向(たけひにむかい)・・・「武日」とは南九州のこと。古事記の国生み神話では「建日別、別名は熊曽国」とある。南九州に軍勢を率いて向かったという意味。
3、彦(ヒコ)・・・男子の敬称。
4、八綱田(ヤツナダ)・・・これが本名。
以上を総合的に解釈すると、この将軍・八綱田という人は、大和で戦ったり、南九州で戦ったり、言わば八面六臂の活躍をした武人であることが分かる。
こういった武人が崇神・垂仁の「糸島王権=大倭=東征後の纏向王権」への反対勢力を抑えるために、打倒した旧王朝である南九州投馬国由来の南九州に派遣されて監視活動を行ったので、その地に「生目」と名が付けられたのではないだろうか。
宮崎市の生目地区は一見孤立していながら、日向灘につながる大淀川水運による物資輸送・兵員輸送に不自由な場所ではなく、特に南への備えにはほどよい山岳地帯があり、長期にわたる監視(生目)活動には好適な環境にあったと考えられるのである。》(『大隅60号』P80~81)
「生目」(イキメ)は3世紀の半ばに邪馬台国の一等官の「伊支馬」としてあらわれているが、その時の「イキマ」は北部九州倭人連合(糸島王権=大倭)からの監視団の長官であったが、この地の「生目」は糸島王権が大和への東征を果たしのちに、抵抗勢力となった橿原王権への監視活動による「生目」であったから、時代としては3世紀末から4世紀初めの頃である。
私は南九州投馬国からの畿内への「東征」(事実上は移住)はあったとし、その時代は後漢書に見える「桓・霊の間、倭国乱れ、相功伐すること暦年」とある145年から187年の時代だったとし、投馬国による橿原王朝の樹立はおおむね180年の頃ではないかと考えている。
その約100年後の280年代に北部九州倭人連合こと「糸島王権=大倭」が半島の逼迫によって北部九州から畿内へ王権を移動させた。これを私は「崇神東征」(第二次東征)と呼ぶのだが、当然のこと大和では旧王朝の橿原王朝とぶつかることになった。
その具体的な交戦こそ「タケハニヤス・アタヒメの反乱」であり、「サホヒコ・サホヒメの謀反」であった。
前者は先に触れたように、反乱者の名前からして南九州ゆかりの者による叛乱で、間違いなく前王朝に対する新王朝(崇神王権=纏向王朝)の追討劇であり、場所は記紀に詳しく描かれているように畿内であることは間違いない。
時代は崇神・垂仁の親子による東征の頃であるから、およそ280~290年代のことと思われる。
ではもう一つの「サホヒコ・サホヒメ」の叛乱(謀反)の場所と時代はいつだろうか。
サホヒメは垂仁天皇の皇后になった人であるから、崇神王権が大和に纏向王朝を確立したあと、かなり時が経ってからのように思われるのだが、天皇に即位後はたしかに皇后であるが、皇后になる前には垂仁(イクメイリヒコ)の妻に過ぎなかった。
したがって、サホヒメが垂仁の妻になった場所と時期は、崇神東征後の畿内大和でのことではない可能性も考えなければならない。
垂仁(イクメイリヒコ)がサホヒメを妻にしたのは、まだ北部九州に糸島王権(大倭)として九州島内で勢力を極めていた時代のことかもしれないのである。
そう考えると、垂仁こと若き日のイクメイリヒコが「イクメ=生目」として南九州に八綱田とともに監視団の長として赴任していた際に、南九州勢力の首長の娘を娶り、いわゆる「政略結婚」的な平和維持に腐心したのではないか。
その時代は4世紀初頭の頃ではなかったか。
そしてその地こそ「生目」であった。しかし兄のサホヒコによって平和の均衡が破れた。それが「サホヒコ・サホヒメ」の叛乱となった。
サホヒコの軍勢が「稲城」を作って防戦したという記事を読むと、当時の南九州の戦法がのちの文献で「稲積城」などと出てくるのと被るのである。
そしてこれは全くの語呂合わせに聞こえそうだが、例の西都原古墳群の最奥に位置する場所に、南九州では盟主的な二つの前方後円墳「男狭穂(ヲサホ)塚」と「女狭穂(メサホ)塚」が近接して築かれているが、この対になった巨大古墳がもしかしたらサホヒコ・サホヒメの墓所ではないか、と思い至るのである。
男狭穂(ヲサホ)塚と女狭穂(メサホ)塚の築造年代が5世紀と言われているのは知っているが、実は発掘調査をしない限り本当に確実なことは言えないようである。そこを逆手にとって――というわけではないが、想像を膨らませることは許されてよいだろう。
また生目古墳の被葬者は、サホヒコ・サホヒメの叛乱を鎮定した「倭日向武日向彦八綱田」(大和で戦い、南九州でも戦った勇者・八綱田)本人か、もしくはその前後の4世紀代に生目に赴任して南九州を監視していた崇神王権の武将(将軍)であったと考えて大過ないと思う。