10月26日に東京都にお住いの嶺井正也さんという方から標記の「大隅の鴻儒・九華と足利学校」という大隅史談会会誌『大隅』の第一号に掲載された論考のコピーを送っていただいた。
この論考は大隅史談会の初代会長・永井彦熊先生が書かれたもので、大隅出身の「九華」(きゅうか=これは僧侶で言えば出家名だが、儒者なので若干意義は違うけれどもペンネームというべきか)という人物が当時の学問所として最高峰の「足利学校」の校長になり、それも門弟3千人というほど学識に優れた人であったそうである。
嶺井さんからは最初私のところにお問い合わせがあり、『大隅』第一号に永井先生の論考があるがこちらでは手に入らないとお答えしたら、何と鹿児島県立図書館に聞いたら第一号がありますとなり、コピーを分けてくださったのであった。
嶺井さんには読んでから返事を差し上げようと思い、読んではみたものの難解この上なく、九華の学問(儒学と易学)はもとより解説を施して下さっているはずの永井先生の論考そのものに悪戦苦闘することになってしまい、お礼の返信もままならぬまま3週間が過ぎてしまった。
論考の中でもっとも知りたいのは九華の出自で、大隅出身とあるにしてもいったいどこのどの家柄の出自なのかが、まずは知りたいところである。
以下に書き連ねたことは実は嶺井正也さんのブログにコメントとして書き込もうとしたもので、何回やってもブログのコメントに繋がらないので、嶺井さんも見に来て下さっているという当ブログ「鴨着く島」に掲載してみました。
まず九華の出自に関して永井先生は「九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。」
としています。伊集院姓だったようだが、そうではないかもしれないーーとやや矛盾した見解を示していますが、伊集院氏だという根拠は出されていません。論考の中に「足利学校由来記」とか「足利学校由略記」のような文献が挙げてあり、そこにそう記載されていたのかもしれません。
一応私は「火の無いところに煙は立たず」と思い、伊集院氏の出自だとして考えてみることにしました。ここからはあくまでもそれを前提とした愚考です。
伊集院氏は島津氏初代忠久の嫡孫忠時の傍流から始まり、そのまた子の世代が伊集院を所領したことから伊集院姓を名乗り、五代目の忠国という人物が傑物で男子二人が出家して当時屈指の高僧(禅宗)になっています。
ところが7代目の伊集院頼久が島津家9代目の相続問題にあたって、叔父で福昌寺住持だった石屋真梁の子を本家9代目に据えようとして悶着を起こします。これは島津久豊の早い対応で久豊側に軍配が上がりひとまずは和解します。
伊集院氏8代目を継いだ煕久(ひろひさ)がまた悶着を唱え、今度は殺害事件を起こしたのでとうとう追放(というより逃走)の憂き目に遭います。この時、伊集院嫡流は断絶します。これが1450年頃です。
嫡流(本家)は無くなりますが、傍流は何とか生き残ります。もっとも、嫡流に近い傍流などは咎を受けて領地没収などを食らい、姻戚(特に母方)などを頼ってあちこちに分散したものと思われます。
この流れは大隅半島にも及んだのではないでしょうか。やはり母方が大隅の豪族であればそこを頼りにするのがもっとも安泰を得られる落ち方でしょう。
そして九華ですが、この人が大隅の伊集院氏の出自とあれば、以上のような経緯で大隅にやって来た伊集院氏の一族の生まれだと思います。父か祖父かはわかりませんが、1450年頃に落ちてきた当時は伊集院氏を名乗れず、当初は母方の姓を名乗り、1~2代のちに傍流の伊集院氏が島津家の家臣として目覚ましい働きをするようになるとやっと伊集院氏を名乗れるようになったのだと思います。
5代目の伊集院忠国の傍流の中に「久」を冠した通り名の家系があり、もしかしたら九華の「九」は「久」の音読み「キュウ」の当て字かもしれません。
先に触れましたが、この伊集院忠国の男子のうち二人までが禅宗の高僧となりそれぞれ「広済寺」「妙円寺」という薩摩で屈指の大寺の開祖になっています。福昌寺というのちに薩摩藩最高の格式を有するようになった大寺の住持に傍流の出の石屋真梁がおり、この人のもとで学僧1500名が学んだなどと、『鹿児島県の歴史』(旧版・原口虎雄著・山川出版社)には書いてあります。
以上の伊集院氏出自の高僧たちはまだ8代目煕久の反乱の前だったのでその名を留めていますが、九華が学問に励んだ頃はまだ伊集院氏は島津にとっては「賊徒」であり、薩摩半島に渡って当時すでに高名だった桂庵玄樹学派の朱子学などを学ぶのが最良の道だったのでしょうが、出自のことがネックになり不可能だったか、あるいは九華自身が嫌って、足利学校に足を運ぶことになったのではないでしょうか。
伊集院氏は1500年代後半期には復活して島津家の家老職を担い、戦国末期の忠棟などという人物は天下の秀吉に取り入って、都城8万石を貰うという「快挙」を挙げ、このことがまた悶着となり、結局、忠棟とその子忠真は「叛徒」として誅伐され、再び本流は滅びてしまいます。
このこともまた伊集院氏の出自である九華が薩摩に高名を得なかった理由かもしれません。「敗者」「賊徒」は時代の陰に隠れてしまうのが世の常ということでしょう。
大隅出身の永井彦熊先生は若い頃、東京での修学ののちに一時栃木県の高校に勤務していたことがあったと聞いた(読んだ?)ことがあります。
その時代に足利学校を訪れた時、足利学校由緒記などの展示物を見て「ああ、7世の九華は大隅の出身だったのか」と驚嘆し、また欣喜されたに違いありません。
嶺井正也さんはウィキペディアによると大学の先生ということですが、同じような感慨を得られたのではないでしょうか。「埋もれた大学者・九華」をいつか『大隅』誌に載せていただくとありがたいです。私は現在大隅史談会を離れておりますが、先生のような地元出身の方がこういった歴史の掘り起こしをされたら、地元も目覚める(!)のではないかと思います。/strong>
この論考は大隅史談会の初代会長・永井彦熊先生が書かれたもので、大隅出身の「九華」(きゅうか=これは僧侶で言えば出家名だが、儒者なので若干意義は違うけれどもペンネームというべきか)という人物が当時の学問所として最高峰の「足利学校」の校長になり、それも門弟3千人というほど学識に優れた人であったそうである。
嶺井さんからは最初私のところにお問い合わせがあり、『大隅』第一号に永井先生の論考があるがこちらでは手に入らないとお答えしたら、何と鹿児島県立図書館に聞いたら第一号がありますとなり、コピーを分けてくださったのであった。
嶺井さんには読んでから返事を差し上げようと思い、読んではみたものの難解この上なく、九華の学問(儒学と易学)はもとより解説を施して下さっているはずの永井先生の論考そのものに悪戦苦闘することになってしまい、お礼の返信もままならぬまま3週間が過ぎてしまった。
論考の中でもっとも知りたいのは九華の出自で、大隅出身とあるにしてもいったいどこのどの家柄の出自なのかが、まずは知りたいところである。
以下に書き連ねたことは実は嶺井正也さんのブログにコメントとして書き込もうとしたもので、何回やってもブログのコメントに繋がらないので、嶺井さんも見に来て下さっているという当ブログ「鴨着く島」に掲載してみました。
まず九華の出自に関して永井先生は「九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。」
としています。伊集院姓だったようだが、そうではないかもしれないーーとやや矛盾した見解を示していますが、伊集院氏だという根拠は出されていません。論考の中に「足利学校由来記」とか「足利学校由略記」のような文献が挙げてあり、そこにそう記載されていたのかもしれません。
一応私は「火の無いところに煙は立たず」と思い、伊集院氏の出自だとして考えてみることにしました。ここからはあくまでもそれを前提とした愚考です。
伊集院氏は島津氏初代忠久の嫡孫忠時の傍流から始まり、そのまた子の世代が伊集院を所領したことから伊集院姓を名乗り、五代目の忠国という人物が傑物で男子二人が出家して当時屈指の高僧(禅宗)になっています。
ところが7代目の伊集院頼久が島津家9代目の相続問題にあたって、叔父で福昌寺住持だった石屋真梁の子を本家9代目に据えようとして悶着を起こします。これは島津久豊の早い対応で久豊側に軍配が上がりひとまずは和解します。
伊集院氏8代目を継いだ煕久(ひろひさ)がまた悶着を唱え、今度は殺害事件を起こしたのでとうとう追放(というより逃走)の憂き目に遭います。この時、伊集院嫡流は断絶します。これが1450年頃です。
嫡流(本家)は無くなりますが、傍流は何とか生き残ります。もっとも、嫡流に近い傍流などは咎を受けて領地没収などを食らい、姻戚(特に母方)などを頼ってあちこちに分散したものと思われます。
この流れは大隅半島にも及んだのではないでしょうか。やはり母方が大隅の豪族であればそこを頼りにするのがもっとも安泰を得られる落ち方でしょう。
そして九華ですが、この人が大隅の伊集院氏の出自とあれば、以上のような経緯で大隅にやって来た伊集院氏の一族の生まれだと思います。父か祖父かはわかりませんが、1450年頃に落ちてきた当時は伊集院氏を名乗れず、当初は母方の姓を名乗り、1~2代のちに傍流の伊集院氏が島津家の家臣として目覚ましい働きをするようになるとやっと伊集院氏を名乗れるようになったのだと思います。
5代目の伊集院忠国の傍流の中に「久」を冠した通り名の家系があり、もしかしたら九華の「九」は「久」の音読み「キュウ」の当て字かもしれません。
先に触れましたが、この伊集院忠国の男子のうち二人までが禅宗の高僧となりそれぞれ「広済寺」「妙円寺」という薩摩で屈指の大寺の開祖になっています。福昌寺というのちに薩摩藩最高の格式を有するようになった大寺の住持に傍流の出の石屋真梁がおり、この人のもとで学僧1500名が学んだなどと、『鹿児島県の歴史』(旧版・原口虎雄著・山川出版社)には書いてあります。
以上の伊集院氏出自の高僧たちはまだ8代目煕久の反乱の前だったのでその名を留めていますが、九華が学問に励んだ頃はまだ伊集院氏は島津にとっては「賊徒」であり、薩摩半島に渡って当時すでに高名だった桂庵玄樹学派の朱子学などを学ぶのが最良の道だったのでしょうが、出自のことがネックになり不可能だったか、あるいは九華自身が嫌って、足利学校に足を運ぶことになったのではないでしょうか。
伊集院氏は1500年代後半期には復活して島津家の家老職を担い、戦国末期の忠棟などという人物は天下の秀吉に取り入って、都城8万石を貰うという「快挙」を挙げ、このことがまた悶着となり、結局、忠棟とその子忠真は「叛徒」として誅伐され、再び本流は滅びてしまいます。
このこともまた伊集院氏の出自である九華が薩摩に高名を得なかった理由かもしれません。「敗者」「賊徒」は時代の陰に隠れてしまうのが世の常ということでしょう。
大隅出身の永井彦熊先生は若い頃、東京での修学ののちに一時栃木県の高校に勤務していたことがあったと聞いた(読んだ?)ことがあります。
その時代に足利学校を訪れた時、足利学校由緒記などの展示物を見て「ああ、7世の九華は大隅の出身だったのか」と驚嘆し、また欣喜されたに違いありません。
嶺井正也さんはウィキペディアによると大学の先生ということですが、同じような感慨を得られたのではないでしょうか。「埋もれた大学者・九華」をいつか『大隅』誌に載せていただくとありがたいです。私は現在大隅史談会を離れておりますが、先生のような地元出身の方がこういった歴史の掘り起こしをされたら、地元も目覚める(!)のではないかと思います。/strong>