7、8年前に行ったきりで訪れていなかった肝付町の「塚崎の大楠」が残念な姿になっていた。
塚崎の大楠は昭和15年に塚崎古墳群とともに国の指定となったのだが、今日行ってみると高さ5mくらいの所から出ていた直径1m余り、長さは10mは下らない太い枝が本体の幹の所からぽっきりと折れていた。
国指定の天然記念物が損傷したのであれば新聞やテレビで報道されたはずだが、自分は気付かなかった。
今見ている場所は空き地で、おそらくこの大楠がよく見えるように開いた土地だろうが、以前からあったクスの周りを取り囲む歩道の一部を折れた枝が直撃しており、歩道は通行不可能になっている。
多分去年の7月下旬に襲来した台風の影響だと思うが、それにしても見事に落ちたものだ。折れた枝の根元の幹にはぽっかりと穴が開いている。
このクスは説明看板によると樹齢は1300年で、高さは25m、胴回り14mである。
生えている場所が円墳の上で、円墳が築造された時期に植えられたのか、あるいは何十年か何百年か後に自生したのか不明だが、塚崎古墳群に属する円墳は国指定の史跡、このクスは国指定の天然記念物。
二つの国指定の記念物が同じ場所に存在しているのは、おそらく他にないのではないか。
見る限り大楠の樹勢は盛んではあるものの、今度の落枝が大楠の今後にどう影響を及ぼすか心配だ。
(※大隅半島部では2月10日の安楽山宮神社の春祭りの時に見た「山宮神社の大楠」に次ぐか匹敵するような見事なクスだが、山宮神社の大楠が高名な神社の境内にあって様々な保護を加えられているのに比べてやや見劣りがする。)
ところで大楠が乗っているこの円墳(塚崎1号墳)は「大塚神社」として祭られている。
大塚神社と言えば、一昨日見に行った唐仁大塚古墳もまた「大塚神社」の境内地にあった。
地元の伝承で、塚崎のこの1号墳の被葬者は唐仁大塚古墳の被葬者の母であるそうだ。
南九州最大の唐仁大塚古墳の主は当然当地の首長であり、それも規模と陪冢の多さからして武内宿祢を当ててみたいと思う。
武内宿祢が南九州に縁があると見る理由は、まず第一にその名である。「武」は南九州の歴史的な汎称で、国生み神話の九州島の四か国のうち「武(建)日別」(クマソ国)を出自としていることを表すからだ。
もう一つの理由。武内宿祢は神功皇后の股肱の臣であり、北部九州の宇美で生まれた応神天皇(ホムタワケ)を連れ、瀬戸内海経由で難波には向かわず、はるか南海(九州南部)を経由して黒潮ルートで紀伊半島に行っている。その記事は次のようである。
<(皇后は)忍坂王、師(いくさ)を起こして(難波に)待てりと聞こしめし、武内宿祢に命じて、皇子(ホムタワケ)を懐きて、横しまに南海より出でて紀伊の水門に泊まらしめり>(神功皇后摂政前紀)
――難波にホムタワケ皇子を認めまいとする忍坂王が武装して待機しているのを回避するために、神功皇后は武内宿祢に幼い皇子を預けた。武内宿祢は皇子を懐いて南海(九州南部)を回り、太平洋経由で紀伊半島に到達した――。
この記事は武内宿祢が水運を掌握し、かつ九州南部の海域に通暁していたことを暗示している。
武内宿祢は南九州(古日向)の首長であったと考えておかしくはないのである。
武内宿祢は長寿であったとされ、景行天皇時代から仁徳天皇の時代まで生きていた(仁徳紀50年条)。仁徳天皇の死は古事記によると「丁卯の年」であり、これは西暦427年が該当し、武内宿祢はそれ以前のそう遠くない年代、410年頃の死と考えられる。
これは唐仁大塚古墳の築造年代とされる4世紀末から5世紀前葉というのに適うのではないだろうか。
またそう考えると、唐仁大塚の被葬者の母に当たるとされる塚崎1号墳の主は「山下影日売」となるのだが、この説やいかに。
(追記)武内宿祢の出自と勢力圏
古事記では――第8代孝元天皇の皇子「ヒコフツオシノマコト命」がウズヒコの妹・山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って生んだ――とする。(孝元天皇記)
日本書紀では――景行天皇の3年に天皇が紀伊国で天神地祇を祭ろうとしたが、占いに不吉と出たので止め、代わりに「屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシヲタケオゴコロ命)」を派遣して祭祀させた。武雄心命は「阿備(あび)の柏原(かしはら)」に9年住んだ。その時にウジヒコの娘・影媛(カゲヒメ)を娶り、武内宿祢が生まれた――とする。(景行天皇紀3年春条)
古事記・書紀に共通する名は武内宿祢とその母カゲヒメの2点であるが、父の名については全く違う。古事記では孝元天皇の皇子の児(孫)に当たるとするが、書紀の武雄心命についてはその点が不明。
だが書紀ではどこで生まれたかが書かれている。そこは「阿備の柏原」である。
この地名について紀伊半島では見当たらないとされるが、大隅半島には神武天皇の后になった「阿比良(あひら=吾平)日売」の出自を示す古地名の「阿比(あひ・あび)」があり、また「柏原」という地名もある。
「あひ・あび」は「あひ」が「あひる(家鴨)」のもととなったように「鴨」を意味している。また「あぢ」(あじかも=味鴨)にも転訛し、大阪の「安治川」などの地名の由来となっている。
よって武内宿祢が生まれたとされる「阿備の柏原」は「冬鳥の鴨の蝟集する柏原」となり、これが「鴨着く島」である大隅半島の肝属川河口部に所在したと考えておかしくはない。
――神武皇后の時代に大活躍をした武内宿祢は、次の応神天皇時代に腹違いの兄ウマシウチノスクネによって「武内宿祢は筑紫(九州)を分断し、さらに半島の三韓を味方につけて天下を取ろうとしている」と讒言された。
武内宿祢は殺されかかったが壱岐の真根子という人物が身代わりになって助かった。南海を経由して紀の川の河口に着き、応神天皇のもとに帰った武内は、ウマシウチノスクネを「探湯(くがたち)」によって退けたーーという(応神天皇9年条)。
この記事は武内宿祢が「天下を狙っている」と讒言されるほどの大勢力であったことを示し、また九州から畿内に至るのに以前嬰児だった応神天皇を船便で紀伊半島へ「南海を経由して」行ったのとまったく同じコースを使っていることにも気付くべきである。
武内宿祢は4世紀前半から5世紀初頭にかけて南九州の航海王とも言うべき存在であり、大勢力を従えていたと考えて大過ないと思われる。