鴨着く島

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倭人は「わじん」か「ゐじん」か

2024-12-05 19:34:31 | 邪馬台国関連
倭人とは通称の『魏志倭人伝』に登場する今日の大方の日本人の先祖に対する3世紀頃の名称である。

ただし、日本の文献では倭人という名称は現れない。

その名称が載ったのは前出の『魏志倭人伝』で、この文書は大陸の魏王朝時代に日本列島の九州島に所在した「邪馬台国」との交流によって得られた倭人の当時のかなり詳細な知見を基にして書かれている。

書いたのは魏を滅ぼした晋王朝に仕えた史官「陳寿」という人で、陳寿自身は列島に来たこともなく、あまつさえ朝鮮半島を訪れたこともなかった。

しかし陳寿の筆力は絶大で、魏の植民地になった半島の帯方郡治を通じて魏の明帝に朝賀謁見した邪馬台国のナシメ・トシゴリ・イショウキ・ワキヤクなどの倭人からの話や、逆に帯方郡から列島に渡った魏の官吏梯儁(テイシュン)・張政(チョウセイ)などの倭国における見聞を基にして倭国の地理や歴史・風土・風俗を縦横に記している。

また当時の九州島では邪馬台国とその南に位置する狗奴国との間で紛争が起きかけており、救いを魏に求めた女王ヒミコが慌ただしく魏へ使者を送り、その見返りに「黄幢」(錦の御旗)が授けられ、張政という武官が渡来して争いを鎮め、ヒミコが自死するという238年から247年までの10年間のドキュメタリーな状況を生々しく描いているのも特筆に値する。

ここでは倭人の女王国がどこにあったかについての論考は抜きにして私の邪馬台国説は「福岡県筑後地方の八女市を中心とする一帯が女王卑弥呼の本拠地である」と結論だけ言っておく。

(※また邪馬台国の南にあって北進しようとしていた狗奴国は、菊池川以南の今日の熊本県域であり、ヒミコ亡き後に立った宗女トヨの治世中に侵略を果たしたと見る。)

さて倭人を「わじん」と読むか「ゐじん」と読むかだが、中国の史書で「倭人」の初出は『論衡』(後漢の王充=27年~97年=の著書)である。

『論衡』の第8、第13、第18、第58にそれぞれ「倭人」が登場する。第58が最も具体的に年代が分かるので次に挙げる。

<第58 恢国篇・・・成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。>

成王は周王朝の2代目で紀元前約1000年頃の人であるから、それほどの昔から倭人の存在は大陸において知られていた。

越常とは「越」のことで、大陸南部の大国であり、周王朝に対しては臣下の礼をとって朝賀に雉(白雉)を持参し、同様に倭人は暢草(薬草の一種)を献じたというのだ。

この倭人についてはもう一つ大陸との関係を示唆する史料がある。

それは『翰苑』という大陸では散逸してしまい、わずかに日本の太宰府天満宮に所蔵されていたという史書で、陳寿と同時代に書かれながら廃書となった『魏略』から引用した次の一文である。

<(帯方郡より)女王国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を點ず。その旧語を聞くに、自ら「太白の後」という。昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身し、以て蛟竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>

<(意訳)邪馬台国へは帯方郡から1万2千余里。風習として男子はみな顔に入れ墨を施している。言い伝えによると、彼らは「太白の後裔」だそうだ。
 そう言えばかつて夏王朝の小康(始祖王・禹の6代目)の子が長江左岸の会稽という所へ領地を与えられて下った時に、髪を切り身に入れ墨を施したというではないか。
 倭人たちも同じ様に入れ墨をしているが、海に入った時にサメなどから身を守るためなのだ。>

倭人の言い伝えでは彼らは「太白の後裔」という。太白とは長江下流の国・呉を建国した人物である。倭人の言い伝えではその後裔という以上、倭人は呉の末裔ということになる。

だが倭人は「呉の太白のすえ」といってはおらず、「呉」が抜けている。ということは呉の成り立ちから考えると、古公亶父という人物の3人の男子のうち長男の太白と次男の虞仲が南方に行って呉を建てている。(※末っ子の季歴は周王朝の始祖となっている。)

しかし呉を実際に開いて始祖となったのは次男の虞仲の方で、長男の太白は後継者を得ずに死没している。だからもし倭人が呉王朝の末裔であるならば「呉の虞仲のすえ」と言わなくてはならないのだ。

では「太白の後」とはどう考えるべきか。倭人は実は「われわれは呉を開いた太白とは起源が同じだ」と言いたいのではないか。

そもそも太白・虞仲・季歴の3兄弟の父の「古公亶父」という人物の由来がよく分からないのだが、この人の出自は夏でも殷でもなく黄帝(有熊氏)という神話時代の王族につながるようである。

『論衡』にしろ『翰苑』にしろ倭人の居住地については、日本列島というより、長江の下流域に居住していたように読みとれる。

この点について、中国人ジャーナリストの次のような見解がある。

<『倭人と倭人文化の謎』国務院発展研究センター 張 雲方
1、『論衡』の成王に薬草を献じたという倭人が日本列島の倭人とは考えにくく、長江流域に住んでいた倭人だろう。
2、新石器時代(日本の縄文時代)の倭人は長江最上流の雲南省で水稲栽培を始め、その後長江下流域に勢力を伸ばし、「長江文明」を生んだ。
3、長江下流域から北上した倭人は山東半島にも小国家群をつくった。徐・淮・莒・莱などである。
4、山東半島の倭人は「東夷」とされ、徐福の出身は徐国で、彼は東海を渡って日本列島に到った可能性がある。>

この論考によると、倭人は長江に居住していたという。

私はこの説を完全に肯定はしないのだが、倭人が越人とともに周王朝の初期から朝貢していた史実から考えると、一概に否定すべきではないと思う。

そう考えると、大陸における倭人の居住域は長江流域であり、まさに呉や楚の国々の領域に当たっている。すなわち漢字を呉音で読む地域である。

中国大陸の長江流域に居住していた倭人は漢字を知っており、読むにあたってはやはり呉音を使っていた可能性が大である。

したがって「倭人」を「ゐじん」とは読まず、「わじん」と読んでいた可能性の方が高いと思われる。





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