早いもので五月も今日で終りです。六月の声を聞くと、なんだかもう一年の半分が終るような気がしてきて、何かに追い立てられるようでつい気が滅入ってしまいます。
でも、今日はちょっと涼しい…というよりちょどいい気温で、さっぱりしていました。こういう日が続いてくれると嬉しいんですけどね。
ところで先日、添削して欲しいという句稿の中に次のような句がありました。
幽かなる阿蘇の寝釈迦へ手を合はす
この句は、九州中央部、熊本県にある有名な阿蘇山を詠んだものだとすぐに分かりますね。阿蘇山は、活火山で外輪山と数個の中央火口丘から成り、外輪山は南北25km、東西18kmに及び(屈斜路湖に次いで日本では第2位)面積380km2の広大なカルデラ地形(鍋型)を形成する日本百名山の一つです。
阿蘇山のカルデラ内部には、根子岳、高岳、中岳、杵島岳、烏帽子岳の五峰があり、それを阿蘇五岳(あそごがく)と呼んでいます。その五岳を北側の方から見ると、釈迦が寝ている姿(涅槃像)に似ていると言われていて、特に名物の雲海から五岳が浮かんでいる姿が好まれています。
それはさておき、作者にもしかしたらと思って〝この句の季語は?〟と聞きますと、〝寝釈迦ですよ!〟と。〝やっぱり、そうなのね。それはダメですよ〟というと、〝どうしてですか?ちゃんと歳時記にありますよ〟と、納得できない様子。これは決して初心者の話ではないんですよ。
ある程度俳句をやっている人でもこういうことが時々あります。歳時記に載っていれば何でも季語になるというふうに思い込んでいることが。季語とはそういうものではありません。言葉だけで表わすものでなく、実際にそのものが見えてこないと…。即ち一句の中で季語としての本当の働きをしていなければ季語にならないと、私は思うのです。
例えば、「紫陽花(あじさい)色のショール」などと言えば、「紫陽花色」はそのような色であって花そのものが咲いているわけではありませんので、季語にはなりませんよね。「ショール」が季語で冬なんです。また、最近よく、絵手紙の〇〇…というような句を見かけます。その絵の内容が茄子(なす)であったりトマトや南瓜(かぼちゃ)など、また、いろいろな花などもあります。確かにそれらを見て描いたとすれば、季節が感じられて季語性はあると思いますが、やはり季語として認めるには弱いでしょう。例えば〈〇〇を絵手紙に描き…〉というように、そのものが目前にあるようにはっきりと詠めば季語として使えるでしょうが、そうするとどうしても説明臭くなってしまいますものね。
このように、季語の本意を満たしていないものは季語にはならないということ。ならば、先程の句の「寝釈迦」とは、涅槃(ねはん)像のことで、釈迦入滅の姿を絵画や彫刻として造ったものです。釈尊入滅の日といわれる旧暦二月十五日(新暦の三月十五日前後に行う所も)に行う法要の「涅槃会」(ねはんえ)の時に、各寺院ではこの涅槃図や寝釈迦を掲げてその遺徳を偲ぶので、傍題として春の季語になっているのです。
だから、前出の句には遺徳を偲ぶ涅槃像、即ち寝釈迦はどこにもなくて、ただ寝釈迦のような格好をした阿蘇山を見て詠んだということ。もちろん気持ちの何処かには仏様を拝む気持ちはあると思いますが、それは一年中そのように見えるものですからね。もし涅槃の時に行って阿蘇山へ手を合わしたという内容だったら、言わなくても必然的に寝釈迦は山に見えてくるはずです。だから俳句を詠む時は、皆さんよ~く考えて季語を選びましょう。
写真は、〝都草(みやこぐさ)〟で、初夏の季語。マメ科の多年草で、道端などに普通に見られる野草です。