今日も朝の内はシトシト…でもすぐに上がり、そのうちお日様まで差してきました。風は少しありましたが…。やっぱり台風は逸れて、強風波浪注意報なんてどこにも見当たりません。まあ、海にまで行ってないのではっきりは分りませんが。
今日は柿を捥ぎました。ついでに一つ残っていた石榴も捥ぎました。以前ブログに載せた大きな石榴は、割れたところに毎日雨が降り込んで、残念ですが腐ってしまいました。もう一つ小さいのがあって、口を開いていましたので採り、食べたことがないという娘に食べさせました。この実離れの感じと甘酸っぱい味、写真で見ただけでは分りませんよね。やっぱり〝百聞は一見にしかず〟です。この感じもう忘れないでしょ!と娘に言うと、納得していました。俳句はやはり外に出て、実物を〝見て、触れて、嗅いで、味わってみて…〟知るということが、大切なんです。だから吟行に行くべし…ですよ。
ところで、この「石榴」(ざくろ)は実のことで、秋の季語。花の場合は「石榴の花」「花柘榴」といい、夏の季語です。原産はペルシア地方で、日本には平安時代に薬用目的として、シルクロードを伝って入ってきたもの。
実柘榴の涙の粒に似しを食む 馬場移公子
この句は『馬酔木季語集』に収録。馬場移公子(ばばいくこ)さんも馬酔木の大先輩です。次に彼女の紹介をWikipediaより抜粋しましょう。
明治32年(1899)~平成6年(1994)。享年95歳。本名新井マサ子、秩父生まれ。実家は蚕種屋。旧制秩父高等女学校(現秩父高等学校)卒。1940年結婚。1944年、夫の戦死により実家に戻り、養蚕をして暮らした。1946年、金子兜太の父、金子伊昔紅の指導を受け「馬酔木」に投句、水原秋桜子に師事。馬醉木賞を受賞。「馬酔木」を代表する女性俳人として活躍した。代表句「いなびかり生涯峡を出ず住むか」など。秩父のひそやかな暮らしのなかで独特の孤独感のある句を作った。1985年『峡の雲』により第25回俳人協会賞受賞。
私は、この石榴の実を収穫して、何度か石榴酒を作りました。この実を一粒一粒剥がすとき、まるでルビーのように美しくて、とても楽しい作業でした。移公子さんは実柘榴を「涙の粒」と詠まれていますが、確かにあの甘酸っぱさは失恋の味かも…。
しかし、秋櫻子先生の全句集中には「石榴の花」はありましたが、実は一句もないんですよ。どうしてなんでしょう。もしかしてあの鬼子母神伝説から「人間の肉の味」がするという俗説を知り、それが嫌だったのでしょうか。また、昔私が読んだ本、『華岡青洲の妻』だったと思うのですが、(映画にもなりました)その中に乳がんを手術するところで、胸を切り開いて「ザクロのような」という表現が確かあったような気がします。(?) それ以後、私もザクロを見ると、患部の肉のような…という場面が浮んでしまうんです。だから、秋櫻子先生も産婦人科の医師だったのですから、そういう手術の場面には何度も出くわしていて、あのザクロを見るのも嫌だったのではと…思ってしまいました。私の考えすぎかもね。読んだら忘れて下さい!