昨夜はとても冷え込んでいたような気がしましたが、気温を見ればまだまだ…零下にはなっていなかったのですから…
昨日(5日付)の讀賣新聞の「編集手帳」に、〝……差別的な表現だとして、今はほぼ消えた裏日本にこだわり、濱谷は3年を費やし歩く。半島の突端、崖にへばりつき、烈風と雪、かみつくような波に襲われる集落、〈白魔の底にのめり込んでしまいそうな雲〉が吹きまくる村、積雪した磯で海苔採りに励む女たち…。数十年前の日本に確かにあった日常の数々である。…〟とありました。これは写真家、濱谷浩の『裏日本』(1957年)収録の一枚の写真を思い出してのコラムニストのことば。ついでに、〝秋田で初めて見た冬の裏日本の印象を画家の岡本太郎が紀行に記している。〈凄まじく、峻厳〉。けれど、人々にはそれを超える逞しさと明るさがあるとも。変わらない風景もある。〟とも書かれていました。
私が読者登録をしているブロガーさんたちにも、秋田の方や北海道の方々がおられます。その記事を見せて頂くたびに、〝わあ、スゴイ!〟とか〝わあ、キレイ!〟とか…。でもそんなこと言ってられない現実があるんですよね。ましてや、〝楽しそう!〟なんてもってのほかかも。被災された方々がニュースなどのインタビューに、〝…こんなにヒドい目に会っても、ここを離れることができない…〟とよく言っているのを聞きますが、それがやはり〝ふるさと〟というものでしょうか。〝ふるさと〟とは、単なる土地ではないのです…そこは父母の…、祖先たちの…、仲間たちの…、そして、自分の家族たちの汗や涙がしみ込んでいるところなんですもの。また、どこであろうとも、〝住めば都〟とは、昔からいうことばですからね。
ところで、ちょっと遅くなりましたが、元日の〝初詣〟の三社参り…初めてのところばかりでしたが、なかなか!という神社もありましたので、ご紹介しますね。
まず神石高原ホテルから一番近い神社は?と検索すると、何件か出ましたが、その中からとても神々しそうな名前の「甘南備(かんなび)神社」を選びました。ナビを頼りに車を走らせていると、途中に違う神社の幟が…。では、ここにも寄ってと行ったのが、「賀茂神社」。といっても、「郷社」となっていましたから、その郷村の産土神のようなところなんでしょう。元旦といっても混雑するほどではなくすぐに済みました。でも、境内に目立った大きな石が…〝天然記念碑〟と書いてありましたので何なのか聞いてみますと、この岩が神主の烏帽子の格好をしていてとても大きく珍しいものだから天然記念物に指定され、その記念の碑だと。
次に見えたのは、「吉備津神社」の標識…あれ?〝あの鳴釜神事のある吉備津神社なの?あれは岡山じゃなかった?〟と思ったのですが、寄って行こうにも車の列が全く進まず…これはいけんと、引き返して、本来の目的「甘南備神社」へ。後から調べてみると、ここは「備後一宮吉備津神社」で、岡山の「備中国一宮」の吉備津神社を勧請した神社だったんです。でも一宮ですから備中では初詣の一番多いところだったんでしょうね。
では、本命の「甘南備神社」はというと、ここは本当に由緒ある神社のようでした。しかし、見れば高いところにあって、ずっと階段が…。これはおばあちゃんには無理!…いや私にもと…迷っていましたら、息子がナビに参道があるというのでスタート。ところが、なんと怖ろしいような崖の細い道ではありませんか。おばあちゃんは〝もう行かんでいいから…やめんさい〟と、言うのを押し切って進むと、何とか本殿の横にたどり着きました。離合は全く出来ないのですから…本当に怖かった!
この神社は、和銅元年(七〇八)、備後国に悪疫流行の際、時の国司佐伯宿祢麻呂が平素崇敬の出雲国美保の大神を三室山に勧請し、御祈祷申し上げた処、悪疫退散し、それを喜び 大国主神と少彦名神を合せ祀ったところ。以来、霊験 顕著にして、天平宝字四年(七六〇)の悪疫流行の際には国司甘南備真人伊香が大神 に祈請し霊験あり、従五位上に叙せられたという。本殿は創建以来 度々改築され、現在のものは宝永三年(一七〇六)の造営。大正十三年に拝殿 再建、その後社殿の整備が進み、昭和三十三年には御鎮座千二百五十年大祭記念事業 として宝物館、三室会館を新築したと。なお、永禄元年(一五五八)の旱魃の時にも霊 験があり、毛利元就は田一町余を寄進したが、福島正則により没収されたということです。
確かに「御鎮座千二百五十年大祭記念」の碑がありました。帰りは〝登ってくる車がありませんように〟と祈りながら無事そこを後にしました。これで一応二社はお参りしたので、もう宇部に戻って琴崎八幡宮に行けばいいわよねと、帰るつもりだったんですよ。
ところが、高速道のインターを探して行く途中、また、また「御調八幡宮」という標識が…。〝ここ、尾道に来たときに通ったことがあるわ。たしかこう書いて「みつき」と読むので覚えてる〟というと、ではまだ昼ご飯には早いので寄って行こうかということに。駐車場も広いし、ここならおばあちゃんもいいかも…でも、やっぱり階段が…。それで私たちだけでお参りしました。
何も期待せずに来た神社でしたが、ナント、ナント、ここは一見の価値ありの立派な由緒ある神社でした。
この備後の国総鎮護でもある御調八幡宮は、三原市の竜王山を水源とする八幡川(やはたがわ)が流れる仏通寺・御調八幡宮県立自然公園に属しています。
この八幡宮のある広島県三原市は、小早川隆景の開いた城下町三原として有名ですが、古代より栄えた場所でもありました。その証拠に古代の遺跡等も多く発掘されていますし、小早川隆景の時代よりさらに昔、天平時代に古代史を揺るがした「道鏡事件」という政変があって、それに関係したことがあったのです。実は神護景雲3(769)年、臣下の身で帝位を望んだ道鏡の野心を、宇佐八幡宮の神託を得て退けた和気清麻呂公が直諌の罪により大隅国へ流されたとき、姉法均尼(和気広虫姫)は備後国に配流されこの地に流謫(るたく)の身を留め、斉戒沐浴、円鏡を御神体として、宇佐八幡大神を勧請して清麻呂の雪寃を祈願したことが創祀であると社伝に残されているそうです。(古代史に興味のある方は詳しく調べられるととても面白いですよ。私もヘエ~ッと思いましたから。)
また、ここは古くから「西の吉野」とも言われ、桜の名所としても知られていて、境内には戦国武将ゆかりの桜もあったのです。 特に豊臣秀吉が、朝鮮出兵に際し三原城に滞在したことがあり、その際参拝して手植えをしたと伝えられる桜の切株(第2次世界大戦時に枯死)がそれ。現在楼門横の説明の立札があるあたりに、株を残すのみでしたが。写真撮り忘れました。
参拝が済んだ後、もてなしの桜湯をいただきました。キレイでしょ! また、横にある絵馬堂の中には古い絵馬が所狭しと…。狛犬もさすが貫禄がありました。
また、秋は紅葉の名所でもあるらしくて、ざっと見回しただけでもそれぞれの見頃の頃はどんなにか美しいだろうと想像出来ました。特に桜は枝垂れ桜がたくさんあって…。機会があればその時期に是非来てみたいものです。