ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

今日は何の日?気になる日…

2021年04月29日 | 俳句

 久し振りに連続しての雨…でも、大降りではなく、降ったり止んだりですので、緊急事態宣言下のゴールデンウイークの始まりにはちょうどいいかも…

 今日は4月29日(木)、祝日です。以前は、昭和天皇の〝天皇誕生日〟として、次は昭和天皇の崩御にともなって〝みどりの日〟と改称されました。それが更に、平成19年、ゴールデンウイークを充実させるため、祝日に挟まれた5月4日を〝みどりの日〟へと移動。そのため、〝昭和の日〟と改称されたものです。

 国民の祝日に関する法律では、その趣旨を、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としています。

 さて、私の使っている『角川俳句大歳時記』(平成25年刊・角川学芸出版)では、〝天皇誕生日〟は、先の平成天皇の12月23日。その例句に〈天皇誕生日その恋もまた語らるる〉という、皇太子時代の美智子様との微笑ましい恋を彷彿させる林翔先生の句が載っていました。しかし、この季語ももう令和時代となって、2月23日に変わりましたので、季語としてはまだ…だから当然例句もありません。

 ネットで昭和天皇の誕生日を詠んだ俳句を探してみたのですが、殆ど見当たらず…?こうやって季語もどんどん変化して消えていくのがありますからね。

 でも、…ありましたよ!私が何かという時には最大の信頼を寄せて調べる歳時記に。それは『カラー図説 日本大歳時記 座右版』(昭和63年5月18日 第八刷発行・講談社。ちなみに第一刷は昭和56年)です。厚さ7センチ余り、重さ4キロの手応えばっちりの歳時記です。

 これを購入したのは、まだ俳句を始めたばかりの時でしたし、当時の定価で12,000円は安月給に響きますもの。でも…欲しくって、欲しくって…エイ、ヤッと…思い切って買いました。まさかこれが私の後半生を決めるものになる(?)とは、つゆ知らず…

 しかし、昔の広辞苑にしても大辞泉にしてもみんな辞典類は厚くて重かったですね。今では取り出すだけでもしんどいので、つい電子辞書という軽くて便利なものに頼って、殆どお蔵入り状態…。でも、何かの時はこれが役に立ちます。やはりナントいっても、この監修が水原秋櫻子・加藤楸邨・山本健吉という俳句の大御所なんですもの。そりゃあ頼りがいがあるというものでしょう。

 さて、その本の〝天皇誕生日〟の季語のところに、次のような楠本謙吉の句が載っていました。〈陽も翼延べるか天皇誕生日〉…、これは、まさに世界へ羽ばたいて延びていこうとする戦後の日本を、更に天皇を称えた句です。

 いつも季語などで不安になるとこの歳時記で確認して安心していました。その後いろいろな歳時記も買いましたが、結局最後に行き着くところはこの本でしたね。使いすぎて多少ぼろぼろになりましたが、これからも私の座右本として一生大切にしたいと思っています。

 もちろん〝みどりの日〟や〝昭和の日〟などはありません。しかし、その時その時で消えていくものや変化していくものがあったとしても、季語としての本意は変わるはずはありませんから。それをよく考えて、吟味して使っていきたいものです。例えば良く聞く話に、歳時記にあるからとか、今巷で言われていて通用しているのだからというようなことで、安易に季語として使うのは問題ありと思います。特に本だけに頼って学んだ初心者には間違った季語の使い方が結構目につくことがありますもの。皆さんも気をつけましょうね。

 今日の写真は、昭和の名著といっていい『カラー図説 日本大歳時記 座右版』です。

 ついでに、この本が古本としてAmazonで販売されていて、そのレビュー評価の五つ星が19件のうち71%だったと。その中の一つ、Doctorastroboyさんのレビューをご紹介します。勝手に掲載してスミマセン!

 5つ星のうち5.0正しく「座右版」と云える歳時記だ!

Amazonで購入
解説記事の素晴らしさは群を抜いている。
特筆すべきことは、事例として採択されている句である。
類似の歳時記には愚句と見做してもよいものを多数採択しているものが見受けられるが、この歳時記にはそのようなものが無い(部分しか見ていませんが)。季節季節に眺めるだけで精神を豊かにしてくれる正しく「座右版」と銘打つに相応しい。
 
 以前〝無人島に一冊だけ本を持って行けるとしたら、あなたは何の本を?〟というような話が出たことがあったと思うのですが、私だったらこの本かしら?写真も適当に入っているし、春夏秋冬愉しめますものね。
 俳句を始めた頃はこの本さえあれば…ということで、病気の時やイヤなことがあった時など、これを捲って見ているとそのうちみんな忘れられました。そんなアリガタ~イ本なんです。
 コロナの自粛でどこにも出掛けられないこの鬱陶しい時期、皆さまもいかがですか?なんて、本の宣伝になちゃったかしら…その気はないので…、スミマセン!  
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俳句の〝ご縁〟をアリガトウ!

2021年04月27日 | 俳句

 昨日は午後からの句会で二俣瀬へ。途中は厚東川の傍を通って行くのですが、まさに新緑…その柔らかなみどりに疲れた眼が癒やされます。

 Mさん、そちらは楽しいですか?また今朝の夢うつつの中であなたの顔が…そう、2年前に突然旅だったワンゲルのSさんとRさんの顔も一緒に…

 全く知らない者同士なのに3人がニコニコと笑って…とっても幸せそうな表情でした。何となくホッとした気分になれて…よかった!  

 昨日Yさんとあなたのことを電話で話したからかしら。彼女もびっくりして、〝あんなに朗かっだった人が…ショックですよね〟と。また〝私も今年度は文化講座を休もうかと思っていたけど、こんなことがあるなんて…。そう思ったら、やっぱりやれる時にしておかないとと思いました〟と言ってくれたの。きっとあなたの代わりに頑張ってくれるはずよ!だからあなたも…ねッ

 次は先週の木曜日、医大の検診へ行った時のこと。全てが済んで会計に並んでいると、かつて俳句教室にきていたKさんと…辞めてもう2、3年になるかしら、ばったり会って驚きました。なぜかって?というと、余りにも不思議で…

 なぜか当日の朝彼女の夢を見たんです。子供の保護者会に行き、そこで出会って話を…その中身まで覚えていました。こういうのも正夢というんでしょうか。

 以前はいろんなところで出会っていた人なんですが、俳句を辞めてからというものピタッと会わなくなり…なぜか気になっていました。

 ちょっとした立ち話でしたが、やっぱり俳句の話になり…〝どこかもっと気楽にできるところはないですかね…〟と聞くので、きらら俳句教室のことを教えると、とっても興味を示してくれて、是非見学したいと…

 私も急に辞めてしまったのが気にはなっていましたから、またこうやって俳句の縁が繋がるということはとても嬉しいことです。

 更に今年度宇部馬酔木に入会された男性のМさんの話。彼も聞いてみれば主人と会社が同期だったという…また、N先生もよく知っていると。エエッ、こんな縁が繋がっていたんだとビックリですもの。

 何だか見えない糸があちらこちらに繋がっているようで…不思議な新年度のスタートでした。これらもあの世へ行ったМさんが繋いでいってくれたのかも。本当にいろんな方との俳句の〝ご縁〟を下さってアリガトウ!   合掌

 写真は、〝楪(ゆずりは)〟で、季語としては新年です。新しい葉が生長するにつれて古い葉が垂れ下り、やがて新葉にあとを譲るように落ちるので、この名がつき、子孫繁栄の縁起物として新年の飾り物に用いるからなんです。

 我が家の楪には花が咲かないので、全く知らなかったのですが、先日フォー・ユーへ行ったとき、庭に咲いているのを始めて見ました。楪は雌雄異株だったから気が付かなかったんですね。

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ああ、無常!

2021年04月25日 | 俳句

 昨日の午後からはちょっと曇りがちで雨でも降りそうな気配でしたが、今朝はまた快晴になりました。いい天気に文句はないのですが、雨が降らなさすぎも心配…だって気温はどんどん高くなるし、中にはもう夏日のような日もありますから。芽を出してぐんぐん伸びようとしている植物たちには辛いかも…

 人間様だって同じ…コロナ禍で自由に出掛けられない日々を乾燥しすぎじゃね~。たまにはしっとりとした日もほしいですよ。ゼイタクかな!

 昨日は、宇部市男女共同参画センター・フォーユーへ。令和3年度「定期文化講座」の講師連絡会が10時からありました。その時、受講生の名簿を貰ったのですが、見てビックリ!

 名簿の中に二重線で消されている人の名…?欄外を見ると事務所からの添え書きが…、〝Mさんはお亡くなりになられました。ご主人様から連絡があり…〟信じられません!そんなこと…どうして、どうして?

 その後の会議はもう上の空で…Mさんのことだけが頭の中をグルグルと…

 会議が終わってその様子を聞こうと事務所へ行くと、事務のSさんにも分からない…。ただ4月8日には年会費が振り込まれているので、その時までは何もなかったはずだと。ご主人からキャンセルの電話が掛ったのも2、3日前のことらしい。一体何が起ったんでしょうか。

 だって、彼女は昨年入会した新人さんで、コロナの中で一年間勉強して、俳句が少し分かりかけて面白いと…。3月13日の〝万倉〟の吟行会にも参加して、はじめての吟行会でイヤにならなかったかしらと心配していると、〝こんなに楽しいことがあるんですね。俳句を始めて良かった!〟と大喜びされていたんです。また、先生に相談があると言うので何かと思うと、〝きらら教室にも行って勉強したいんですが、いいですか?〟とも。あれから1ヶ月ほどですよ。一体彼女の身に何が起ったんでしょうか。一瞬事故かもと…でもそんなニュースは聞かなかったし…

 あれだけ明るくて前向きだった人が…と思うとショックで、落ち込んでしまいました。どうにもやりきれなくて、迷惑とは思いながらご主人様に電話を掛けてしまいました。お話によると本当に突然のことらしくて…1週間ほど前はとても元気で何も変わらなかったのに、その夜突然の動脈瘤破裂でそのまま…一瞬の出来事だったんですって。

 〝そんなご病気があるようには見えませんでしたが、ご存じなかったのですか?〟〝いや、一年前からあるとは分かっていました。が、瘤というほどの大きさではなく、それでそのまま経過をみると…〟それならどうにかして治療が出来ていたかもしれないのに…クヤシイですね!

 それからは彼女の顔が一日中…いや今日もまだちらつきます。あの笑顔が…

 本当に人の寿命って分からないものです。心からご冥福をお祈り致します。俳句に出会えてあんなに喜んでいらっしゃったんだから、これからはあの世で俳句を愉しんで下さいね。私のお弟子さんや春郎先生もいらっしゃいますから、きっと私の名前を言ったら〝よう来た!よう来た!〟と歓迎してくれるはずですよ。

 何事にも出会いと別れはつきものとは分かっていますが、こんな別れ方は辛いです。でも、センターを出ようとするときにも、急に会員さんが亡くなられてキャンセルが…という話が聞こえてきました。

 こういう高齢者の多いところでは良く聞く話なんですが、でもMさんはまだ70代だったんですから、これから大いに愉しめたはず…残念です。

 皆さん、これからはいつ何が起きるか誰にも分かりませんし、また何が起きても後悔しないように、一日一日を大事に過ごしましょうね。

 今日は暗い話になってしまいましたが、せめてこの美しい花でも見て気分を直して下さい。花はどんな環境になっても一生懸命咲こうとしますもの。

 これは我が家ではなくご近所のお花で…道路傍をこんなに花で飾って、道行く人を慰めてくれています。実はここの家主さん…同じ班なんですが、人間嫌い(何故かは知りません)で、私がここに引っ越す前から家を出てこられたことがないらしく…顔も知りませんでした。班費の集金でもゴミ当番でも一切顔を合わせることもなく…15年以上が過ぎてしまいました。でも去年ぐらいから朝や夕方の水やりなどで時々見かけることはありましたが…ところが、ビックリ!今年度の班長さんになられて、集金や広報の配布などの班のお世話を始めて(?)なさっておられるんです。良かった!お母様が亡くなられて一人暮しになり、それからだという話を聞きましたが…。でも彼女が変わるためにはこれだけの時間が必要だったのだと思います。その間何があっても花は彼女の心を裏切ることなく、変わらずに咲き続けたんでしょうね。世話をすればするほど美しい花を咲かせて…。ほら、けなげな話でしょう。

 だから、皆さん何があっても明るく乗り越えて行きましょうよ。

 

 

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〝きらら俳句教室〟令和3年度がスタートしました!

2021年04月22日 | 俳句

 4月17日の土曜日、昨年から始めました〝きらら俳句教室〟の2年目がスタートしました。昨年お世話して下さったレンジャーのNさんに代わって、今年度は同じく公園スタッフのAさん…女性です。参加者は15名でしたが、昨年度からの方が10人いますので、去年よりは随分気が楽ですね。

 ところが、今まであれほど雨が降らなかったのが、この日はナント雨がザーザーと。こんなことは始めて!それで、Aさんに〝もしかして雨女?〟と聞くと、〝そうかも知れません。私が出ている時はよく雨が降りますから…〟ですって。(笑)

 ということで、第1回目は外に出ずに、教室で自己紹介をしながら俳句の基本を勉強しました。それから後半は、俳句の小手調べに穴埋め俳句などを…

〈○○○○○春を奏でて○○○○○〉の、上五と下五を考えて完成させましょうという言葉遊びです。これは今月私が作って投句したうちの1句なんですが、さて答は?もちろん何が入っても間違いというものではありませんが、俳句として如何に〝見える句〟として仕立て上げるかということでしょうね。

 さて皆さんも一緒に考えて見て下さい。結果は後ほど…

 ここでは、3月20日(土)の〝きらら俳句教室〟第11回目(最終回)の様子を報告しましょう。ウ~ン、覚えているかしら…、このところ頓に〝去る者日々に疎し〟(?)で、終わったはなから何でも忘れてしまいます。困ったもんです。

 もちろん、この日は快晴でした(?)よ。スタートで何を話したかって…お彼岸の話だったのかも…アハハ…よく分かりません。

 その後例の如く外へ出て吟行…。今月の公園で見られる季語としては、植物なら土筆(つくし)・クロキの花、動物なら雲雀(ひばり)・雉(きじ)・燕(つばめ)などという資料を作って下さっていましたので、それを探しにさあ、Let's GO!

 あった!…と、見つけたんですが、ここの土筆のナント細いこと!土が痩せているんでしょうか。他所で見たのはもっと丸々していたのに…。写真は?…スミマセン、撮ってませんでした。その代りの菫(すみれ)でも。

 次は先月見たあの蛙の卵は…と見ると、ほとんどなくなって、みんなオタマジャクシになってうようよと。でも大きいのと小さいのがいますので先月に孵っていたのは成長して大きくなったんですね。でもまだ足が出てるのはいません。そのビオトープの周辺にはクロキがたくさんあって、それが全部花盛り。私もクロキの花は初めて見ましたが、なかなかカワイイ花ですよ。

 クロキは、ハイノキ科ハイノキ属の常緑小高木。和名はリュウキュウコクタン。沖縄の方言でクロキと呼ばれていて、名のとおり幹は黒く覆われています。高さ5、6m、花期は3~4月頃。秋に黒い果実がなり,鳥たちがよく啄みに来ます。特徴は、台風にも強く丈夫で、葉も色変わりしないところに人気があって、沖縄県嘉手納町や鹿児島県与論町の町木になっているそうです。

 その後はいつもの道を通ってセンターへ。戻る途中一本だけ早々と咲いている山桜を見つけて記念撮影をしました。(これは3月20日ですから桜はまだだったんですよ) また、林の中にはこれも一本だけ雪柳が真っ白になっていてひときは映えて見えました。茱萸ももうこんなに色付いて…。でも、写真が、ボケボケでゴメンナサイ!遠かったので拡大しすぎ?

 センターへ戻るとすぐ美味しいお茶の接待を…本当にこのお茶は美味しいんですよ。真心の籠もった…まさにプロの味。感謝、感謝です!

 後半の句会には、やはり土筆の句が多く、他に雲雀、鶯、春風、雪柳、菫、蝌蚪(かと・おたまじゃくしのこと)などが出ていました。

 これで無事令和2年度の俳句教室が終わり挨拶をして解散しようとすると、最後に全員に嬉しいプレゼントがあると。「きらら浜自然観察公園」(山口市阿知須きらら浜509-53)の公式サイトで毎月〝楽しい俳句教室〟のイベント報告を発信して下さっていたものを印刷し、一冊のファイルにして下さったんですよ。ウレシイ!

 この俳句教室は、センターの始めての試みでしたし、私も青写真もなくてどうなることやらと不安の中で引き受けたもの。その船出の初っぱなからコロナのパンチを受け、4月の開講が中止。5月も定期の第3土曜日だったら中止せざるを得なかったのですが、月末には自粛が緩和されて実施できると。それで急遽第4土曜日に延期して開講という次第。そのため年間12回が11回になったんでしたが。

 というわけで、レンジャーのNさんにはレールのないところにレールを引き軌道に乗せていただき、次のAさんへバトンタッチ…本当にいろいろとありがとうございました。

 今年度第1回目が無事スタート…さてどんなハプニングが待っているでしょうか。また、一年間よろしくお願いしますね。楽しみです。穴埋め俳句の結果はまた次に…ではオヤスミナサイ!

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厚東地区への吟行…これで最後です!

2021年04月19日 | 俳句

 今日は全国的に晴れの天気予報で、こちらでも朝から雲一つない青空でした。ラジオ体操へ出掛けてもそんなに寒さは感じなかったのに、戻って部屋にいると何だかひんやりです。昼と夜や日向と日蔭の温度差が大きいからなんでしょう。これではいつまでたっても冬物が仕舞えませんね。

 今日は、「厚東地区への吟行」の最終回です。

 浄名寺から東隆寺の次は、「恒石(つねいし)八幡宮」へ行きました。この参道の入口には〝厚東地区史跡案内図〟の立札が…

 この八幡宮は、厚東氏が創建した最古の神社です。「恒石八幡宮の歴史」というパンフレットによると、厚東氏第2代の厚東武基によって、970年頃(平安時代)に創建されたのではないかということ。歴代の厚東氏当主の中では、特に有名なのが第14代の厚東武実(生年不詳-1348年)で、後の17代厚東義武までの四代が長門守護職の地位にあったのですが、その厚東氏が大内氏に攻められて、霜降山にあった城が落城した日が1358年(延文3年/正平13年)の1月2日。ということで、恒石八幡宮では、お正月の2日までは太鼓を叩くことを止め、厚東氏に哀悼の意を表していると記されています。

 厚東氏時代に建てられた神社の中でも中心的な存在で、厚東地方宗廟として、厚東氏だけでなく、大内氏・毛利氏と三代を通じて信奉されていたので、市指定有形文化財「紙本着色恒石八幡宮縁起絵巻(上下2巻)」をはじめ、厚東・大内・毛利氏時代の古文書・御神座等多数の文化財が所蔵されています。

 また、以前参道に石灯籠がズラリと両側に並んだ写真を見たことがあって、一度行ってみたいと思っていましたので、それはどこに?と捜したのですが…ない!するとIさんが、先生こっち、こっち…と言って、北鳥居の参道へ案内してくれました。ああ、これこれ…。私たちは南の鳥居から本殿の方へ来たから分からなかったんですね。そうするとこちらは裏参道になるのかしら。その両脇には沢山の石灯籠が並んでいて、それを囲む神社林の間からまるで後光が差してくるような感じ。そんな神々しい風景を見ると、とっても荘厳な気分になり…心が洗われるようでした。

 この石灯籠の灯袋を見るとどれも黒く煤けていましたので、きっと何かの催しには蝋燭を灯して行われるのかも…もしそんな時があれば、是非来てみたいもの。下の写真の木は?花が一面にぽろぽろと落ちていました。

 さあ、これで句材は有り余るほどあるから…今から作句しなくっちゃと思っていると、今月幹事のSさんが、最後にもう一ヵ所寄って行きたいところがあると…

 それは、「御撫育用水(ごぶいくようすい)」の〝辰ノ口隧道(たつのくちずいどう)〟だという。

 宇部市の厚南地域は、毛利藩政時代から干拓により新田開発が行われてきた所ですが、水利の便が悪く、これを解消するために灌漑用水路を開削しました。この用水路を「御撫育用水」といい、撫育方の工事により、天明8年(1788年)に着工し、寛政4年(1792年)に御撫育用水溝筋明細図絵に描かれている中野開作までが完成、安政6年(1859年)に妻崎新開作まで全面開通しました。

 これは、撫育方の事業として実施されたものですが、撫育方とは、宝暦検地による増収分の貢租を基に、本部会計とは別個に設立された別途会計機関であり、その資金を基にして新田開発、製塩など、いわゆる毛利三白政策の推進の中核をなした財政担当部局なのです。

 そういうわけで、この用水の開通によって水利が飛躍的に良くなり、地元の人々は感謝をこめて「御撫育用水」と呼び、現在までもその名称が残っているのです。今は使われなくなったのですが、宇部市大字広瀬に残る辰ノ口隧道は、文政4年(1821年)に掘られた御撫育用水の一部で、昭和7年(1932年)まで厚南平野に水を供給する役割を果たしていました。

 その隧道の入口がこの厚東にあるということで行きましたが、見つからず。仕方なく辰ノ口隧道の代わりに県営事業で昭和8年に完工したという〝昭和隧道〟の方を見てきました。

 それから午後の句会場厚南会館へ戻り、そこでお弁当。その後句会を3時間バッチリして、16時30分終了、解散でした。皆さま、お疲れ様でした。オシマイ!

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吟行は厚東氏の本拠地?

2021年04月18日 | 俳句

 昨日は4月の第3土曜日。ということは、午前中の〝きらら俳句教室〟と午後からの宇部馬酔木句会という、ダブル俳句ディーだったんです。普通は第2土曜日にも午後と夜の部の、連続日があるのですが、年度替わりということで4月は休み。久し振りのダブルだったのでちょっとバタバタしましたが、無事終了。ホッ…

 そういえば、3月最後の〝きらら俳句教室〟第11回目の報告もしないままでしたね。他のことにどんどん先を越されて…、とうとう1ヶ月が過ぎてしまったんです。それはまあ置いといて、先日の厚東への吟行報告がまだ途中で残っていますので、このきらら教室のことは次に回して、今日は吟行記の方を書きましょうか。

 さて、宇部市の厚東地区は、市街地が一望できる霜降山(250メートル)があり、そのふもとを厚東川が流れている自然豊かなところです。中世長門の国守護・厚東氏の拠点として発展し、多くの市指定文化財がここに所在しています。
 地区の中央には山陽本線と国道2号が走っており、市内外への交通アクセスにも恵まれていますし、霜降山の麓、厚東川の河畔に、古い歴史を持つ持世寺(じせじ)温泉もあって、その昔、傷を負った武士の療養に使われたという名湯を楽しむこともできるんですよ。

 前回の「千林尼石畳道」から次に向ったのが「浄名寺(じょうみょうじ)」。山門への両側は田圃で…今時珍しく紫雲英(げんげ)が咲いていました。

 この寺は、厚東氏14代武実が元応の頃(1319~1321年)に祈願所として建立し、歴応2年(1339年)に創建したとされています(諸説あり)。厚東氏の墓所は、浄名寺本堂裏の墓地の奥まった所に5基あります、そのうち右側の2基の五輪塔は形が良く整い優れていて、浄名寺由緒書にも、「古墓 但境内ニ五輪石塔四組のつら石塔十組有之 孰も厚東家之御石塔之由申伝候 年号月日法名 円無之候事」と記されています。

 …と説明が書かれていましたが、墓地周辺はちょうど整理されるための工事中で、結局分からずじまいでした。

 今度はそこから歩いて5分ほどにある「東隆寺(とうりゅうじ)」へ。行く途中に東隆寺山門礎石、三界萬霊地蔵菩薩像と道祖神の一種の「塞の神(さいのかみ)」なんでしょう、「幸神」と書かれている石祠がありました。

 また、何かびっしりと実が生っていて、何だろう?と見ると…あら梅の実。もうこんなに大きくなって…とビックリです。

 やがて東隆寺の山門が見えてきて、説明も次の…あら、これでは小さすぎて読めませんね。スミマセン!

 この東隆寺は、延元4年(1339年)厚東武実が南嶺子越禅師を招き開山、厚東氏の菩提所として建立されました。本堂裏山中腹の墓地の一画にも厚東氏の墓所があります。東隆寺由緒書には、「一、開基厚東武実公之墓 境内有之 但五輪之墓・・・申候」と記されています。

 …と、前の浄名寺と同じようなことが書かれていて???とは思いましたが、寺の裏の方へ廻ってみました。時間がなくてここも分かりませんでした。でも、五輪塔と宝篋院塔は南北朝時代の特色を留める優れたもののようで、由緒書に厚東武実の墓と残されているのですからこちらが本家ということなんでしょうか。


 国指定重要文化財2点、県指定文化財5点、市指定文化財6点のほか、多くの文化財が所蔵されているということでも、ここが厚東氏の本拠地であったということが分かります。

 ちなみに、厚東氏とは「厚東氏系図」によると、物部守屋を祖とし、その末裔(まつえい)である武忠が棚井(現・宇部市)に居館したのが始まりといわれる。なお、平安時代の長門守に物部宿弥本与という人物がおり、厚東氏はこの流れをくむと考えられる。初期には厚狭郡東部を支配した在地武士であったが、徐々に勢力を広げていった。

 治承・寿永の乱(源平合戦)において、初めは平氏方として一ノ谷の戦いに加わったが、後に源氏方に転じ、壇ノ浦の戦いでの軍功が認められ、厚東郡主となった。また、文永の役・弘安の役においては、鎌倉幕府の命令によって大内氏とともに出陣した。元弘の変に際しての軍功が認められ、厚東武実は建武元年(1334年)長門守護に補せられ、その嫡子である厚東武村は豊後国企救郡を拝領した。この後、厚東義武までの四代が長門守護職の地位にあった。…(Wikipediaより)

 その後大内氏によって滅ぼされる1358年(正平13・延文3)までは、この地区が厚東氏の本拠地として栄えていたのでした。この浄名寺と東隆寺のあるあたりに厚東氏の館跡で御東館と呼ばれている高台があったそうですが、現在は田畑や宅地となっていて、ただ「史跡 御東館跡」という立札が建っているだけで遺構はないようです。

 その後、厚東氏は歴史の表舞台に登場しなくなり、大内氏の時代を経て、毛利氏の時代へと時代は変わっていきましたが、現代でも、厚東川、厚東大橋、厚東川ダムなど、厚東という名前が付いており、やはり宇部の町は厚東氏ととても関わりの深い土地なのだということを改めて気づかされました。

 東隆寺には全く人気がなく、その代りに猫気がプンプン…見ると木陰に白い猫がジッと私たちを窺っていました。すると、あっちにもこっちにもと猫の目が…。呼んでも決して近づきはしませんが、逃げもしません。一定の距離を置いて…、まるでここの本尊〝延命地蔵〟を守るが如く。結局、黒、茶トラ、キジトラ。三毛2匹の、全部で6匹がいました。

 次は「恒石八幡宮」へ行ったのですが、また長くなりましたので、それはまた次回へ。

 最後にご報告!先日のおばあちゃんの歯は次の日に無事落下したと…笑い事ではありませんよ!大事なことなんで、看護師さんが確認されたんだとか。(笑)やっぱりおばあちゃんはミラクルだからウンにも強い!アハハッ…(^0^)

 ご心配して下さった皆さま本当にありがとうございました。

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おばあちゃんの抜け歯騒動!

2021年04月15日 | 俳句

 この頃めっきり夜がダメになって、俳句でも考えようものならすぐに眠くなって寝てしまうんです。(笑) だったら当然朝は早く目が覚めるはずでしょう。それがいくら寝ても眠くって…。 7時過ぎまで寝てることが多い…〝寝る婆も育つ〟のかな?(^0^)

 でも、今日は珍しく早くに目が覚めて、トイレに起きたのが5時過ぎ…ちょっと寒いので見れば気温が6度と…。それで覚めたんでしょうか。

 朝のラジオ体操へは雨が降らない限り真面目に行っています。今朝も気温は低く風もあったのですが、しっかり快晴でしたので気分よく!第1・第2合わせて10分程度の体操。それでも血液の循環がよくなって、よい一日のスタートがきれますよ。みなさんもいかが!

 さて、今日は珍しく一日中何の予定もなく…さあ、溜まっていることを整理しようと、後片付けから洗濯など家事をひとしきりこなし…これからは私の時間よ!さて何から始めようかと、…

 すると、〝○○病院ですが…〟と電話。エエッ、義母の入院先の担当の先生からです。何事かと聞くと、おばあちゃんが歯を呑み込んだんですって!

 先生の話では、今日気胸の様子を診ようとCTを撮ったところ、食道の狭くなっているところに歯のようなものが映っていた。それで母に聞くと、朝食の時には確かにあったのに今見るとなくなってると。

 あいにく主人は今日陶芸教室でしたから、〝昼過ぎには主人が帰って来ると思いますので、それから…〟と言おうとすると、〝そんな余裕はありませんので、今すぐ来て下さい〟と先生。

 ならと急いで電話をするが繋がらない!じゃあ、教室へひとっ走りと…行ったものの部屋は空っぽ。ひゃあ、どうすんのよ!ふれあいセンターの事務所で聞いても???弱った、弱った!携帯持ってても掛からなかったらお手上げですね。連絡先がないか調べて貰ってたら…やっと繋がりました。良かった!

 二俣瀬の窯焼きに行っていたんですって。そこからすぐに病院へ行って貰いました。でも歯を呑み込んだぐらいで、なぜこんなに?と思うでしょう、みなさんは。

 実は義母はもう20年ほども前から食道アカラシアという難病に罹っていて、広島では何度か入院治療も受けたことがありました。しかし、宇部に来てから早10年が過ぎますが、ヒドくならずにこの前までは元気に過ごしてきましたのに。入院するほどヒドくなったのは宇部では今回が始めてなんです。

 この病気は、症状が酷くなると水も飲めなくなって食べられないどころか薬さえ飲めなくなるので、厄介なんです。食道と胃を繋ぐところが絞まってしまって物を通しませんので、食べてもみな吐いてしまいます。そのために栄養が取れず全身が衰弱していきます。まして100歳では体力がありませんもの。でも、これは年寄りが罹るとは限らないんですよ。若い人でも罹る、原因不明の確かな治療法もないような難病なんです。

 入院して2週間余り。やっと少しずつ食べられるようになって、元気も出てきて個室から4人部屋にも移ったというのに…ここで何かあったらと思うと、心配でたまらないのです。

 というわけで、この歯が食道のくびれに引っかかっていると、やっと少し通るようになっていたのがまた通らなくなって食べられなくなる。ならば内視鏡でその歯を取り出すしかない。ところが下手すると食道を傷つけて出血するかも知れない。更に義母は血液さらさらの薬を飲んでいるので血が止まらなくなる…、そうなったらこの病院ではそれに対処できない。それが出来るところの病院を捜して、処置してもらわないと…。

 更に先生が心配されているのは、抜けたのは差し歯のようなので歯が尖っていて、取らずにそのままで動いたりすると薄い食道壁を傷つけて出血するかも…ということ。まあ、いろいろと先生の説明を聞いていると八方塞がりのようで…だんだん不安が募ります。

 昼過ぎになって、やっと主人から処置をしてくれる病院が見つかったのでそこへ今から行くという電話。何事もなく無事に歯が取り出せますよう…ただ祈るだけ。

 次は4時過ぎに電話。〝どうだった?大丈夫だったの…〟とドキドキしながら聞くと、〝取れんかった…というより内視鏡でいくら捜してもどこにもなかった…〟〝だったらどうなるの?〟〝それでもう一度CT撮ってみると、大腸の中まで歯が進んでいたから、後は便と一緒に出るのを待つだけなんだ〟と。〝わあ、良かったね!〟と、喜んでいると、今度は病院まで車を持ってきてくれと言う。どうして?と聞くと、自分の車がバッテリーが上がってエンジンが掛からないんだって。ナントいうこと!

 また、また、病院までひとっ走り…といっても、2、30分は掛るところなんですよ。でも、しばらく会えなかったおばあちゃんに会えたのでよかった!

 〝おばあちゃん、面会も差し入れも出来なくてゴメンね。もう頼れるのは自分だけだから、おばあちゃんの底力見せてよね〟と手を握ると、〝分かった、ガンバルよ!〟と言って、握り返す手の力はまだまだ…大丈夫!さすがミラクルおばあちゃんです。

 以前大分の私の母が入院していたとき、帰り際に必ず手を出して思いっきり握ってみてと頼むと、力一杯握り返してくれました。その温もりと手力でまだまだ母は大丈夫だと確信して家へ帰ってきていました。それをふっと思い出してしまいました。

 おばあちゃんだってこのコロナなんかがなかったらと思うと、…クヤシイ!でも、きっと以前のように元気になって戻ってきてくれると…信じています。

 今日はナント出たり入ったりして…結局何にも出来ないまま一日が終わりました。これで、今回の抜け歯騒動も一件落着!読んで下さった方もお疲れさまでした。

 写真は、我が家の〝木瓜(ぼけ)の花〟。真っ赤すぎるので、もう少し上品なのがいいんですが…。晩春の季語です。100歳のおばあちゃんは歯が抜けましたけど、〈木瓜咲きぬ歯と飯茶碗欠けもせで〉と詠んだのは、秋元不死男。享年75歳でした。

 

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まだ〝花冷え〟なのかしら?

2021年04月11日 | 俳句

 このところズウッと快晴が続いて、気温もほどほどの気持良い日和です。でも、やっぱり夜になるとちょっと冷え込んで…これは、もう桜も散ってしまったので、〝花冷え〟とは言わないんでしょうね。じゃあ何といいましょうか?いや、いや、今は遅咲きの八重桜が満開になっていますから、これも〝花冷え〟でいいのかも…。

  花冷はかこちながらも憎からず  富安風生

 確かにこの句のように〝花冷〟という季語…。「花」なら桜ですから大歓迎。でも「冷え」は寒いからイヤだと…。一見理屈を述べたような句ですが、その時の偽らざる気持を何の衒いもなくズバリと言い止めています。

 「かこつ」とは、〝何かのせいにして恨み嘆く。愚痴を言う〟という意味ですが、〝この寒さは桜が満開のせいだ〟と、口ではぼやきながらも、その冷えの中で咲き誇る桜への愛おしさ…それがこの句の主眼〈憎からず〉なのです。

 ちょっと考えて見て下さい。もし花冷えがなかったらと…。ほら、抜けたようでしょう。冷えがないということは引き締まるところがないから、花も一遍に満開になり、その後すぐに散ってしまうという、何ともあっけないもので終わってしまうのです。そもそもこの原因は花にあるのでは無く、ちょうどこの時期に起る陽気の変動からくるものなのですからね。しかし、それが却って桜を長持ちさせるという事にもなっているです。

 最近は異常気象により思わぬ寒さに戸惑うことが多々ありますので、この季語も実感した上で句が詠めるというもの。ですが、歳時記を見ると例句には江戸時代のものが全くないのです。ということは、昔は〝花冷〟のような季語は用いられていなかったということなの?

 他にこの季語と似たものでよく使う季語に、〝若葉寒〟とか〝梅雨冷・梅雨寒〟とかがあります。が、これにも昔のものは全くありませんでした。ネットで調べてみて、やっと若葉寒に江戸時代の句が2句ほど見つかりましたが…

 このことをあれこれ考えてみますと、花にしても若葉や梅雨にしても、昔はその旬の時期の気温というものに余り変動がなかったのかもと。今日のように寒暖差のハッキリ分かるような時代の方が異常なのかも知れませんね。

 そもそも江戸時代と現代の毎月の気温差を調べてみたら、2.5度ぐらいだったとか。昔は4月の気温も平均15度前後のようでしたから桜の開花もきっと遅かったでしょうし、急激な暑い日がない限りは、この〝花冷え〟という状態を感じることがなかったのではと…。さて、さて、どうなのでしょうか?

 ちなみに今年の花見時に山口県では、最高26度まで上がり、それが次の日には17度前後に下がったのですから、当然〝花冷え〟を実感しますよね。そういう急激な気温の変化がなかったとすれば、江戸時代の人たちには花冷えなど言う語は必要なかったんでしょう。

 ところで、次の句…

  花の影寝まじ未来が恐しき    小林一茶

 この句を詠んだ後、半年もしないうちに一茶は亡くなりました。解釈は〝この真っ盛りの美しい花の影でも寝るのはいやだ。もし寝たりしようものならその先はどうなるか分からないし…まだ死ぬのはいやだ!〟というような意味でしょう。が、一茶の経歴を見ると、この時期に病気になっていて、もしかしたら死ぬかもしれないというような状況ではなかったようですから、なぜこんな句を詠んだんでしょうか。

 しかし、こんな句を残したということは何か虫が知らせたの? 人には自分の死期を悟るような潜在的能力が備わっているともいいますし…

 平安期の歌僧・西行は、〝願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ〟と詠んで、自分の願った通りの死を迎えましたものね。

 でも、こればかりは自分の思い通りになるはずもなく、ただ〝神のみぞ知る〟としか、私には言いようがありませんが…

  生誕も死も花冷えの寝間ひとつ  福田甲子雄

 桜にはそんな人の生死のイメージと重なるところが多く、古今東西死と桜を結びつける物語や作品は多く存在しています。どっちにしても、〝さくら〟は、絢爛であり、哀しくもはかなくもあって、日本人の根源にある心を揺さぶって止まない魅力的なものなのです。

 今日も1年前のblog記事が届きました。見れば桜が真っ盛りでしたよ。今年は完全に散ってしまって、もう葉桜になっていますのに…。

 去年もコロナで大変だったはずですし、今年もまだ…。こんな時代ですもの、誰にも明日のことは分かりません。ただしたたかに生きるしかないっちゃ!ガンバロウ!ねッ。 

 この2、3日、宇部ではちょっと寒い日が続いて、風もないのでさくらがまだ満開でした。少し散り始めたのもあったかな…。最後のは山桜で、もう葉がずいぶん出ていましたよ。

 

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またまた吟行、さて今回はどこへ?

2021年04月09日 | 俳句

 今日も概ね晴れて気温はちょっと暑いぐらい…20度ぐらいだったかしら。でも、この2,3日前は夜から朝方にかけてがグッと冷えて、そのあまりの温度差で体調がおかしくなりそうでした。

 3月末に医大の半年定期検診へ行く予定が、あまりに忙しくてつい忘れてしまい、延期して貰って昨日行って来ました。朝からといっても予約が10時でしたので、のんびりと出掛けましたが、検査のため飲まず食わず…。さすがにお腹が空いて我慢できず、検査が終わった途端に売店へ。我慢すれば少しは体重が減るのに…ね。(笑) 午後からは月1回の定期的な通院とリハビリと、昨日は三つも病院のはしごをしました。トホッ…でも、医大は異常なしで一安心。

 ところで、今までは月例の吟行会は第3水曜日でしたが、今年度4月から第1水曜日に変更しました。それでこの7日がまた吟行会だったんですよ。よく行くでしょう。コロナの自粛で吟行などに出掛けられない方々にはとても申し訳ないんですが…(m_m)

 今回もやっぱり見事な快晴!吟行先は宇部市の〝厚東地区〟です。先月の二俣瀬地区に隣接したところで、「旧山陽道」が通っていて、ここも歴史的に由緒ある神社仏閣や史跡などが多く残されています。

 当日は句会場の厚南会館に9時集合で、参加は8人。先ず最初に向ったのが「千林尼石畳道」です。

 この道は、船木の山田と厚東の棚井を結ぶ道で、江戸時代に毛利藩の勘場(今の役所)が設置されていた船木と厚東や宇部方面を結ぶ主要幹線でした。しかし、峠越えの険しい山道で、人馬の往来が困難であったため、これを見かねた船木逢坂の観音堂に住んでいた千林尼が自ら托鉢して浄財を集め、慶応年間(1866年前後)に、難所を選んで石を敷き詰め、現代の舗装道路ともいえる石畳道を作りました。
 現在棚井と船木山田間4キロメートルに5カ所約200メートルに石畳が残っています(宇部市側は4カ所約105メートル)。道筋には、「お駒堤(おこまつつみ)」や清らかな水が湧く「醴泉(れいせん)」があり、船木との境の峠付近には「道祖神」が祀られています。

 私たちは、時間がないので、第二石畳まで行ってそこで折り返して来ました。もうすっかり桜は散りましたが、柔らかなまるで初夏のような日差しと若葉の下を歩くと、本当に身も心も洗われる気持になりました。

 写真は、「ヤシャブシ」(こちらでの言い方で、俳句ではハンの木とか)と「サルトリイバラ」の若葉です。

 今度は石畳の隙間に咲いているのを見つけて、〝このカワイイ花は何ですか?〟と。〝ああ、これは春リンドウよ〟などと言いながら、みんなで季語を探しつつ…やがて、「お駒堤」が見えてきました。

 この堤は、紺碧の水をたたえた美しいため池で、昔は旅人たちの休憩地だったと言われています。お駒という若い娘が身を投げたという悲話もあるようですが…、本当のところは知りません。

 この堤の奥にある「醴泉」まで行って引き返しましたが、折角の清らかで美味しいという醴泉も僅かに水はあったものの、残念なことに落葉に埋れてしまっていて見る影もありませんでした。

 説明板によれば、〝醴泉は甘酒のようなおいしい清らかな水で、これを飲めば持病が治るといわれています。昔からこの泉は清冽な水が、こんこんと湧き出て絶えたことがありません。この峠道を上下する人々は、必ずこの水でのどを潤したといわれています。
 現在の宇部市では、数少ない名水の一つとして知られています。〟ですって。

 そこからの帰途に白い花が見えましたので、それを撮ろうと堤の縁に近づくと、ズルズルッと…転げ落ちそうになりました。キャッ!と叫んでも、みんな先へ行ってしまって誰も…。ヤバい! 必死で起き上がろうとしたときやっと聞きつけた人たちが来てくれました。ああ、助かった!

 でもその話を先に行ってた人に話すと、〝わあ、先生落ちればよかったのに。そうしたら句材になったのに…〟ですって。ナント、恐ろしいことを!これは油断もスキもありませんね。もし何かあっても助けるどころか句材にされてしまうわ…と。

 まさにこれは〝俳句の鬼〟ですね。あの芥川龍之介の『地獄変』を思い出してしまいました。すると、その後の句会に…〈穴ぼこに落ちたる悲鳴春落葉〉という句がでてるじゃありませんか。〝これは私のことを詠んだんでしょうが、作者は誰?〟と言うと、ナントS先生の句でした。〝でも、なんで春落葉なんですか?〟と聞くと、〝実は子供の頃、よく落とし穴を作って女の子を脅かして遊んでいたのを思い出し…〟ですって。やっぱりみんな俳句の鬼ですよ。タダじゃ起きないもの!クワバラ、クワバラ!

 また長くなりました。この続きは次のお楽しみに…。

 写真は、落ちそうになって撮った白い花。調べると「なんじゃもんじゃの花」(ひとつばたごとも)でした。その下は「ミツバツツジ」です。

 

 

 

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おばあちゃんが入院!

2021年04月04日 | 俳句

 今日の日曜日は、朝から雨がジョボジョボと降って…ああ、やっぱり正解でした!昨日筍掘りと蕨狩に行ったのは…

 今朝起きるとイヤに手足がこわばって痛いし、立ち上がるのもヨッコラショッと言わないとダメ…どうしたのかしら?と思ったら、その原因は昨日の筍掘りでした。杉林の急斜面でしたので、上るときはまだよかったのですが、降りるときが大変。持つところはないし、足を掛けるところもない…下手すると下まで転げ落ちて、また怪我をする羽目になったかも。

 日頃使わない全身の筋肉を使い、必死で這いつくばって…。ああ、蕨採りでも小さな谷川を越えるのに足場が悪かったので…これも必死で…

 そうしていたら、フッと思い出しました。すっかり忘れていたのですが、昨年は足を骨折してギブスをはめていたので、サンダル履きでここへ来たんでした。確か蕨の所へ行くときには滑り落ちたんだっけ…ナントまあ!呆れますよね。でも筍山では上らずに下で待っていましたから大丈夫でした…当然ですが。

 ところで、義母が4月1日にとうとう入院しました。私は早苗の会議で広島へ行っていましたから、主人と義弟が付き添いで…

 でも、今は入院すると大変なのだということをつい忘れていました。コロナで付き添いも面会も出来ない…ということは、話どころか顔も見られないのだということ。いくら元気だったといってもやっぱり100歳ですよ、それに今は食べ物が喉を通らないので点滴だけでしたから力が出るわけないんですもの。これで寝たきりにでもなったら…と思うとコワイです。

 以前肺炎で1ヶ月の入院が、治っても歩けなくなったのでリハビリに2ヶ月も掛かった事があるんです。それはコロナの時ではなかったので、毎日誰か彼かが顔を見に行っていて、様子が分かるし連絡も出来ましたから安心でしたが、今度はそういうわけにはいかないのです。携帯電話など一切ダメ、面会は1週間に1度だけで、それもリモートで10分間だけだという。

 もうまるで収監された罪人のよう!内部の様子が全く分からないというのは心配でたまりません。これが若い人ならまだしも…こんな高齢者には酷なことですよ。

 それに、お彼岸の20日に広島へ行って悪くなったので、コロナの感染が疑われ、おばあちゃんはPCR検査を受け陰性。もしこれが陽性だったらこの病院には入院できなかったし、陰性でも県外へ出た人は2週間過ぎないと受け入れないんですって。

 迂闊でしたね。主人もそこまでは考えていなかったようで。私も先日広島へ行ったので、2週間は病院への出入りが出来ないんです。これで病状が急変でもすれば…と考えただけでも怖ろしいことです。コロナが大変ということをつくづくと身を以て実感しました。親の死に目にも会えないということさえ起りうるんだと…ああ、そんなことイヤです、いやです、考えたくな~い!

 おばあちゃん早く元気になって!…神さまお願い、<(_ _)>します。

 写真は、昨日の筍山で見つけた花です。上から〝春リンドウ(筆リンドウかも)〟〝草イチゴ〟〝スミレ〟〝ハハコ草〟〝キラン草〟〝ミツバツツジ〟です。こんな花が大好きで、筍も蕨も大好きなおばあちゃんなのに…カワイソウ!

 

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筍(たけのこ)掘りと蕨(わらび)狩

2021年04月03日 | 俳句

 昨夜見た今日の天気予報は、一日中ズウッと曇で、夕方から夜にかけては雨になるとのことでした。ところが、朝からいいお天気で、夕方までしっかりと青空、気温も20度前後と気持のよい一日でした。

 実をいうと今日は、例年友人夫婦に誘われて行くOさん所有の山へ、〝筍掘りと蕨狩〟に行く日だったんです。もう何度も行っていますが、Oさんが言うことには、今年は例年に比べると筍も蕨も10日ほど早いんですって。

 行く道々の桜はもう殆ど散っていて、どこも〝桜蘂(しべ)ふる〟状態でした。これは晩春の季語で、桜の花びらが散った後に萼(がく)についている細かな蘂や茎が降ることをいうんです。

 下の写真は、他のものを撮ったときにたまたま写っていたもの。かなり拡大していますが、これがたくさん散り敷いて、地面が赤紫に染まるのもまた乙なもの。

 俳句では桜のことを〝〟といい、四季の自然美の総称として用いる〝雪月花〟の中の、春を代表するもの。そのためいろいろな花に関わる季語が生まれていますし、昔から日本人の心の拠り所としての最も大きな季語といえるものなんです。

 だから、花の盛りはもちろんのこと、それが散って行くさまは〝落花〟や〝花吹雪〟と、また、散り落ちた花びらさえも〝花屑〟や〝花の塵〟などと風流に詠むのです。更にその後が〝桜蘂ふる〟ということになるんですよ。

  忌七たび七たび踏みぬ桜蘂   鈴木真砂女

 〝忌日が来るたびに桜蘂を踏んでお参りしたが、それももう七度目になったことだよ〟と、時の経つ早さに感慨も一入なのでしょうか。遠ざかれば遠ざかるほど亡くなった人との想い出というものは哀しくも美しいものになっていくに違いありません。それを代弁してくれているのが〝桜蘂〟なんですね。

 さて、今年の蕨は?と、行ってみましたら、何だか痩せて短いのが多いし、数も少ない!このところ雨が降っていなかったからかしらなどと思ったりしたんですが…。でも、場所を変えてみると、今度は大きくて長いのがたくさん。ということは、最初に行ったところは誰かがいいのをみな採っていった後だったのかも…。

 午前中は蕨狩りで終り。風が心地よく吹く草原で、買って行ったお弁当を広げて、太陽の下で食べる至福!確か去年もコロナの自粛の中で同じ事を言ってたような…。まさか今年もとはあの時には思いもしませんでしたが、来年も?…でしょうか。もしそうならイヤになりますよね。

 食べ終わったら今度は筍掘りです。Oさんが見つけたら目印を立てておくように…と言われたんですが、あれ、あれ1つも見つかりません。意外と難しいんですよ。にょっきりと出ているものはありませんからね。頭の先の薄緑がほんのチョッピリのぞいているものを探すんですもの…

 私はやっと2個見つけましたが、6人で8、9個でしたから、まあいいほうでしょう。これも去年の方が多かったかしら?でも結構いい形のが採れたのでよかった!

 これで今年の恒例の行事も済みました。帰る車中で、去年の石垣島へ行った話が出て、〝また、どこかへ行きたいわね〟〝でも、このコロナがどうなるかしら〟〝そろそろワクチンが始まるから…もしかしたらもうすぐ行けるかも…〟〝でも、今度は変異型のコロナが増えてるし…〟と、話が続き…。

 そういえば、昨日から今日にかけて、宇部の病院からまた感染者が出たと聞いて、〝エエッ、またあのクラスターの病院?〟〝イヤ違う病院で、それも二ヵ所からだとか…〟でもまだハッキリしたことは分かりませんでした。ああ、もしそうならイヤになっちゃう! 

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