ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝銀杏〟は〝銀杏の実〟?

2021年10月30日 | 俳句

 明日で10月も終りですね。こんなに時の流れが早くては到底付いていけませんので、私なんか〝置いてきぼり〟にしてくれたらいいのに。そうしたら年を取らないかも…なんて虫のいいことを考えたりして、ばかですね。いつもいつも時間と追いかけっこしてるんだから、却って息切れがして早く〝くたばる〟のでは…なんちゃって。

 こんなこと書いていたら…思い出しました。「くたばる」というのは〝「死ぬ」ことをののしっていう語〟なんですよね。

 何年か前、水原春郎先生がお亡くなりになった時、葬儀へ出られませんでしたので、新年俳句大会の帰りに水原家のお墓がある染井霊園へ寄って来たことがありました。ここにはたくさんの有名人のお墓がありましたが、時間が無くて…。その中で明治の小説家・「二葉亭四迷」の墓がちょっと大きくて目立ちましたので、よく覚えています。もちろん本名での墓でしたが。写真はお借りしました。ゴメンナサイ!

イメージ 1

 この二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助なんですが、なぜこのような名前を付けたのかという筆名の由来は有名ですよね。父親が文学のようなものを志すぐらいなら〝くたばって仕舞え!〟と言ったとか。しかし、Wikipediaでは、〝処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遙の名を借りて出版したことに対して、自身を罵ったことによる。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である。〟と。

 こんな話を生徒達にすると、すぐに名前を覚えてくれましたね。そりゃ私だってそうでしたもの。(笑)

 ところで、その前に使った「置いてきぼり」という言葉も、本来は「置いてけぼり」が正しいんですって。なぜかというと、その語源が昔江戸本所(墨田区石原四丁目)にあった堀の伝説からだったんです。知らなかった!

 本所七不思議の一つで、この堀で釣をすると、水中から「置いてけ、置いてけ」と呼ぶ声がし、魚を全部返すまでこの声がやまないという話。もちろん東京の方々はよくご存じなんでしょうが…。改めて、私にはヘエッ…でした。このように無意識に私たちが使っている言葉には、その語源を知らずに使っているものがきっとたくさんあるでしょう。知れば知るほど言葉って面白い!

 さて、先日の句会の兼題は「銀杏」でした。これは銀杏の実のこと。この「銀杏」という字も気をつけないといけません。〝いちょう〟とも〝ぎんなん〟とも読むからです。〝ぎんなん〟と読めば秋の季語になりますが、〝いちょう〟と読むときは、〝銀杏散る〟とか〝銀杏の実〟〝銀杏黄葉(もみじ)〟などと言わなければ季語にはなりませんから気をつけましょう。

  銀杏を焼きてもてなすまだぬくし  星野立子

 この句にはいろんな意見が出ました。〝もてなすのに銀杏ぐらいじゃおかしいのでは?〟とか〝昔は電子レンジがないから手間が掛かって貴重だったからと違う?〟〝まだぬくしというのは焼きたてじゃないということよね。なぜそんなこと言ったのかしら…〟などなど…。これはきっと気の置けない者同士で一杯飲もうということでは?それで酒のつまみに銀杏を焼いてもてなそうということを詠んだのだと思うんですが…、違ってたらごめんなさい。

 特にこの句をよく分るといって採ったのが酒好きのFさん。そのFさんの句は〈小料理屋のあてに銀杏十粒ほど〉という句でした。サスガです(笑) 写真は、貰った銀杏を剥いて撮ってみました。もちろん〈まだぬくし〉ですよ。( ^_^)

 実はこの教室では初心者が多いので勉強のため、句稿に歳時記掲載の名句をいくつか混ぜて投句してあるんです。また、これは選句眼を養うためでもあるんですけど。

 写真は、Nさんが自宅の庭にある銀杏を拾って、持ってきてくれた物。彼女の句に〈拾ふうち匂ひに慣れぬ銀杏の実〉があって、大笑い。でも彼女が言うには〝私は拾うだけで、後の始末は主人なの〟と。それで、またまた大笑い。もちろんNさんご夫妻に…ありがとうございますと言って食べましたよ。

 そういえば〈銀杏のひすい色成し労忘る〉という句も出ていました。でもこれには〈ぎんなんをむいてひすいをたなごごろ〉という森澄雄の先行句があるからダメですよって…ね。写真は白魚のような手じゃなくて…ボケました。スミマセン! 

 でも、これは焼いたのではなく、封筒に入れて電子レンジでチンしたものですから超簡単。こんなにキレイな色でも置いておくと上の写真のようにさめるんです。ところで、Nさんが言うには、銀杏は10個以上食べると身体に良くないんですって。どうしてと聞くと、血液がどろどろになって心筋梗塞や脳梗塞を起こしやすいんだと。エッ、ヤバイ!私大好きだからいつも10個以上食べてるし…おまけに血液さらさらの薬を飲んでるんですよ… 

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今度は本当に〝有帆〟への吟行-その2-で~す!

2021年10月27日 | 俳句

 月曜日・火曜日と連続で俳句教室でした。昼間は少し緩んで22,3度はありますが、朝夕の冷え込みは暖房がないとちょっと辛いですね。最低11度まで冷えるようですから。でもこの程度で根を上げていては北国の人には申し訳ない。ならもうしばらくは頑張りましょうか。

 さて、句会の話はまた今度にして、今日は有帆吟行の後半を書き上げます。

 「岩崎寺」「別府八幡宮」の次に行ったのが「熊野神社」です。

 ここは、昭和49年に和歌山県の熊野本宮大社から分霊が勧請された神社ですから、そんなに古くはありません。境内には珍しい「五色八重散椿」(ごしきやえちりつばき)があるというので、以前見に来たことがあります。また、確かここで滝行をしているのも見たことが…

 ああ、今も社殿の裏の方にありました。「名水50選」に選ばれた霊水の湧く九重の滝…ということで有名で、多くの人々が水を汲みに来るそうですが、この日も一人ペットボトルに何本も汲んでいましたね。

 しかし説明を読むとちょっとヤバイ!「名水50選」というのも調べてみましたが???…では全国のじゃなく山口県でのことかもと…これもネットにはありませんでした。一口飲みましたが…今のところ何ともないので大丈夫なのでしょう。でも迂闊に何でも呑まない方がいいかも…ですね。

 さて、この禊場から少し奥へ進みむすびの大橋を渡ると、最後の吟行地の菩提寺山(ぼだいじやま)の登山道になっています。

 この山は、有帆・船木・厚南・厚東の4境界に裾野をひく形で、高さ129mの小丘陵ながら全山巨岩の山なんです。九州の山々や内海の静波を望む景観、桜や紅葉の頃の手軽なハイキングコースとして、中央広場や健康広場なども用意されいて、市民の森として親しまれているところです。

 しかし、ここに来た私たちの一番の目的はナントいっても「磨崖仏」。

 この菩提寺山には、禅寺だった菩提寺の跡として、今は参道、鳥居、地蔵尊座像が残っているとか。他に自然石に刻まれた日本最古かもと話題になった3m余りの磨崖仏が残っています。斜面から突き出した高さ幅共に4m足らずの花崗岩巨石の表面を整形、中央に少しずんぐりむっくりの四頭身で寸足らずの古式な半肉彫り観音像が殆ど巨石一杯の高さで刻まれているのです。

山陽小野田市有帆の磨崖仏

 さて、この磨崖仏なんですが、以前日本最古ではという噂が立ち、地元新聞などが色めきだって報道していたときに見に来たことがあります。それからもう何年…いや10年以上は経っているでしょうか。

 調べてみると、平成17年に山陽小野田市では調査委員会を設置して本格調査に取り組んだそうなんですが、結局結論は出さず終いになったとか。

 私はその後の様子を是非見たかったのに、それがみんなにはぐれてしまって、私だけが見られなかったという次第。なぜって?と聞かれても、ね。先ず私の足が遅いこと、次は花などの写真を撮っていて更に遅れたりと…気がついた時には誰も見えなくなっていた。慌てて追いかけようと、先へ先へと進むのに追いつかない!で、とうとう山頂近くまで来てみても、人っ子一人いませんし、声も聞こえません。どうしよう…ちょっとパニックになりました。

 ところで、写真のように巨岩の階段のところを上がって曲がればすぐのところに磨崖仏はあったんですって。曲がるところを見ていないもので、真っ直ぐに進んでしまったからなんです。そして、みんなは磨崖仏を見たのですぐに下りたんですって。そこで誰かが気がついて電話でもしてくれたらよかったのに。どうも前のグループは後にいるものと、後ろのグループは先へ行ったものと…それで気がつかなかったと。私が電話して初めて一人で迷っているのが分ったというわけ。やはり少人数でも山では点呼が必要ですね。そういえば思い出しました。昔友人と軽井沢の探鳥会へ参加したとき貸切バスに置いて行かれたのを…。この話をしているとまた長くなりますので、ここでは止めましょう。 

 とにかく焦っていて気がつかなかったんでしょうが、あっそうだ、携帯があったんだ!と思いついて電話すると…〝どこおるんや?もうみんな神社の方へ下りてるんだぞ!〟なんて無下に言われて…うえ~ん、悔しい!私としたことが…。でもね、言うちゃ悪いけど、間違いなく後を追いかけて行ったのに…突然姿が見えなくなって、慌てたんですよ。それでちょっと危ない道も必死で登って行ったというのに…

 ここはやたらあちこちに道があって、その分かれ道を間違うと訳が分らなくなったんですね。どこにいるのかと聞かれても目印は無く、それでそこから大きな声で叫んでみろと、主人がいうので、〝ヤッホー、ヤッホー、ここですよ!〟と何度も叫んだのに全く聞こえなかったらしい。こんな低い山でも気象条件や時間次第では遭難ということもあり得るんですね。笑い事ではありません。どんな山でも甘く見てはいけませんよ。ハイ、気をつけます!('-'*)午後からの予定があるので、ホント間に合わないかと今回は正直焦りました。

 とにかく巨岩、巨岩の山道で、やはり一人では心細くなります。引き返した時もまた違う道を通ったらしく、皆が行かなかった「博打岩」(ばくちいわ)に出てきて、それを見て来られたのがせめてもの慰めかな。

 この「博打岩」というのは、昔海賊が船の監視をしていて、その暇に賭け事をしていたと伝えられている大岩で、その上に立つと遠くまで見晴らせる展望が開けていると。残念ながら上がる余裕はありませんでしたけど。

 ところで、磨崖仏の一件ですが、いつ頃からか急に騒がなくなって、どうしたのかと思っていましたが、ここに次のような看板が立っていたんですって。 

昭和55年文化庁の久野博士により日本最古 新羅系の様式と発表されて全国に話題を呼んだ観音立像磨崖仏です。長く廃仏状態にあったものを昭和初期地元の村田宝舟師が手入れして開眼供養を行った事実があって、古代からの様式はより鮮明に残されていることが大勢の古老の証言により明らかになりました。
近く所有地境界確認が行われ、文化財として指定申請が進められます。
日本仏教史にとって貴重な史跡ですから、後世に残すため大切に護りましょう。                  平成二年五月 荒谷伊三郎

 更にもう一枚看板が…

御参拝の皆様へ
昭和55年8月、全国に「日本最古の磨崖仏」として報道された石仏です。
地元梅田自治会では、毎年4月吉日観音祭と、石仏供養をつづけておりますが、岩崎寺よりの奉賛文、地元古老の証言等で昭和6年故村田宝舟禅師により開眼供養の事実があり、目下調査中で結論を得ておりません。
石仏を管理所有する梅田自治会は地元民の心のふるさと菩提寺山を今後も静かに愛し続ける所存です。
御参拝の皆様もその意御理解の上ていねいな観察御取扱いをおねがい出来れば幸甚です。              昭和五十五年八月 梅田自治会
御参拝者各位

 ということで、最終的には結論は出せないという判断でした。

 以上、何とか無事に神社へたどり着くと、トラックが山羊を乗せて参拝?に来ていてビックリ!わあ、とみんな早速句材にしていましたよ。ついでに私が山で迷いズボンを草虱(くさじらみ)だらけにして戻って来たのも、恰好の句材にされてしまいました。(笑)

 写真の花は、萩ですが、その次のは姫萩かも。最後のはタチバナモドキかな?

 12時、近くのレストランで昼食。その後いつものように句会場へ移動して、3時間バッチリ句会をしました。16時半終了。お疲れ様でした。

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また???〝有帆〟へ吟行で~す!ーその1ー

2021年10月25日 | 俳句

 今朝も4時の早起き…これは特別に用があってのことではなく、昨夜早く寝たからだけのことなんです。でも今気温13度と、寒いですね。こんなときはやっぱり炬燵がほしい!でもまだこの程度ならガマン、ガマン…

 さて、このままでは悔しいし記録としても写真など残しておきたいので、先日の消えたブログ「〝有帆〟へ吟行で~す!ーその1一」に、もう一度挑戦します。前回既に読まれた方はスルーしてくださいね。

 今月の恒例吟行会は、10月6日(水)、山陽小野田市有帆地区で行ないました。今回は、①岩崎寺(がんきじ)~②別府八幡宮~③熊野神社~④菩提寺山・磨崖仏の2時間半のコース。9時に集合し、参加者8名が車2台に分乗しての出発です。

 先ず①岩崎寺へ。

 有帆川のちとせ橋を渡るとすぐ前にあります。川には鯉が放流してあるらしく、欄干から覗くと餌がもらえるかと思って、瞬く間に集まってきました。でも、なぜか水が濁っていて…〝水澄む〟という秋の代表的な季語が使えない!雨が降ったわけでもないのに…そういえばこの日も30度近くあって、とても暑い日でした。今思えば考えられませんが、もちろん快晴でしたよ。(笑)

 この岩崎寺は、大同元年(806年)に開創された古い曹洞宗の寺院です。「注進案」によれば坂上田村麻呂の創建で、本尊は弘法大師作だとか。境内の観音堂には、1年に1度だけ開帳される木造千手観音菩薩立像や木造阿弥陀如来坐像をはじめ木造聖観音菩薩立像、木造釈迦如来坐像など平安時代中期~鎌倉時代初期のすばらしい仏像7駆が安置されています。そのうちの3躯は、以前は20年に一度のご開帳であったものが、今は毎年2月18日のみに公開されているそうです。

 また、ここには寺宝とされている鰐口があり、日頃は見られないのですが、この日はご住職にお願いして特別に見せて頂きました。

 銘文によると、明徳3年(1392年)4月16日に道乾が願主となって大工国弘に鋳造させ岩崎寺の堂前に懸けたものである。道乾や大工国弘等不明な点があるが、防長の鰐口には他に例を見ない珍しい銘文からは、室町時代初期の世上不安が窺える、ということで市指定文化財になっています。

 写真は、①岩崎寺を正面から ②橋の下の鯉 ③石碑 ④鐘楼(山門かと思いましたが、上に鐘が…) ⑤~⑨仏像(秘仏3躯は写真だけ) ⑩~⑫鰐口と説明文

 次は、②別府八幡宮へ。

 古くからこの有帆地区の産土神として崇敬されていて、拝殿に掲げられている注連縄は県下でも最大のものといわれています。

 八幡宮の由緒を見ると以下のように… 

 当社は神護景雲四年(770年)、和気清麻呂公よって豊前国(現在の大分県)の宇佐神宮より勧請されたことを創建の始めとする。
 僧道鏡の企てを阻止した宇佐神宮神託事件の折、野望を挫かれ憤激した道鏡により大隅国(現在の鹿児島県)へ流されていた和気清麻呂公は、道鏡の失脚後罪を解かれ勅命を受け京に召還されることとなった。
 しかし海路帰京の途中、清麻呂公の船は嵐に遭ったが為にこれを避けて有帆の入り江(当時有帆の地は海に面していた)に船を寄せた。そしてこの地にて宇佐神宮の御霊代の御幣を松の木に掛け八幡神に祈ったところ、たちまちのうちに嵐は鎮まったという。
 そこで清麻呂公は「我今ここに八幡宇佐宮を勧請奉る。依りてこの郷の神とせよ」と仰せられ、御神威に驚嘆した民衆により社が建立されたという。
 爾来千二百年以上の歴史を有する、当地方最古の古社である。

 写真は、別府八幡宮の本殿と参道。駐車場から参拝しましたので、参道は反対側からの写真。ゴメンナサイ!

 これらを見ると、寺も神社も歴史のあるとても古いものだとお分かりでしょう。実はこの「有帆」地区の名の由来には、神功皇后伝説が関係あるんです。市の北部を流れる有帆川周辺には、神功皇后にまつわる伝説が数多く残されていて、皇后が三韓出兵をされた際に、船を作った場所や梶を作った場所、帆をかけた場所、艫縄をこしらえた場所などが今の船木(現在宇部市)や梶浦、有帆、縄地ヶ鼻(なわじがはな)などといった地名の由来になったのだとか。
 山口県には他にもさまざまな神功皇后由来の地名が残っています。私もこちらに住むようになってから、その神功皇后伝説をよく聞きましたので、なぜなのかしらと思ったことはありますが、今までそのままに…。

 調べてみると、全国で山口県が最も多く神功皇后を祀っているのだとか。その神社の分布図をみると、山口県はダントツで138。次が福岡県68と兵庫県で61。続いて大分県55、島根県53、香川県51で、後はぐっと減って20前後。関東から東北、北海道にかけては10以下で、なきに等しい数でしたよ。ビックリでしょう。今まで何となく感じていたのが、このような数で知らされると改めて驚きでした。何事も勉強ですよね。

 今回もまた新しいことを学びました。有り難うございました。〝日々是好日〟…アレ、関係なかったっけ!(*^▽^*) でも、これで何とか以前に書いた記事は大凡書けたかな?ああ、満足、満足!('-'*)

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「2021年度特別巡回ラジオ体操・みんなの体操会」

2021年10月24日 | 俳句

 今朝は5時30分起床です。私にとっては年にそうそう何度もあることでは無いんですよ。エエッ、何事かって?

 いつものラジオ体操…日曜日はないのですが、今朝は市からの参加要請があって、正規の時間6時30分から放送のラジオ体操に間に合うようにということだったんです。宇部市制施行100周年記念の「2021年度特別巡回ラジオ体操・みんなの体操会」が今日の朝6時から中央公園テニスコートであるはずでした。が、急遽各地区で開催ということで、上宇部はいつものふれあいセンターで開催。日頃よりたくさんの方々が参加されて賑やかで…記念写真も撮りましたよ。

「2021年度特別巡回ラジオ体操・みんなの体操会」チラシ

2021年度特別巡回ラジオ体操・みんなの体操会チラシ表

 おまけに市から参加賞までいただきました。それはコレ!名水〝宇部の水〟と記念のロゴの入ったフェイスタオルです。

 朝6時頃というのは、たとえ起きていたとしても用がなければ外に出ることはありませんので、空の様子が分らなかったのですが、今朝はこんなに朝焼がキレイで…刻々と変っていく空が眩しいほどでした。昔から〝早起きは三文の徳〟といいますが、今日の早起きはまさにその通りでしたね。

 写真は、家を出た6時の空…後方東は太陽がまだで、前方西にはお月さまが…。会場に着くと朝焼が徐々に青空へ。最後は家の近くまで戻って来て。今日は秋晴れの爽やかな一日になりそうです。

 では、また今日一日をガンバリま~す!よろしくね。

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〝有帆〟へ吟行で~す!-その2-ではありません!

2021年10月23日 | 俳句

 今日10月23日は、二十四節季の一つ、〝霜降〟です。霜が初めて降る季節、旧暦9月の中のこと。

 秋が一段と深まり、朝霜が見られる頃で、朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感しますね。初霜の知らせが聞かれるのも大体このころで、山は紅葉で彩られ、コートや暖房器具の準備など、そろそろ冬支度を始めます。読書や編み物をしたりして、秋の夜長を楽しむのもいいかも。

  霜降や父に習ひし紙縒(こより)綴ぢ   能村研三

 沖2000年・11月号に掲載の句。この父とは言わずと知れた能村登四郎のこと。氏は2001年5月24日に亡くなられていますので、研三氏がこの句を詠まれたときにはまだご健在だったんですね。能村登四郎は我が馬酔木の大先輩であり、林翔先生とは学生の頃からの付き合いで、その後の「馬酔木」でも「沖」でも生涯の盟友の仲でした。

 この句は、霜降の日、お父さんに作り方を教わった紙縒で何かを束ねて一つに綴じようとしていたのでしょうか。きっと傍にはお父さんが…もしかしたら亡くなる半年前ぐらいですから病で臥されていたのかも。そのベッドの横で、この紙縒を習ったころの話でもしながら…。子供の頃の懐かしさを霜降という時期は一層掻き立てますものね。この紙縒というのは、細く切った和紙によりを掛けて紐状にしたものです。今ではうまく出来る人が少ないでしょう。

 実は私もこの紙縒を詠んだことがあります。わが家は昔質屋を営んでいましたので、母がいつも紙縒を作って品物に名札の代わりに付けていましたし、質札や台帳などを綴じておくのにもいろいろ使っていました。今のようなビニール紐はまだありませんでしたので、何でもこの紙縒で綴じていました。私も母の傍で見よう見まねで紙縒を作ってみるのですが、母のようにはなかなか…よりが掛からずにふにゃふにゃした太い物しか出来ませんでした。いつも母のを見ると同じ紙なのに細くてピンと立っていて、それなのに丈夫なんです。悔しいから必死で練習しましたが、最後まで母には適いませんでしたね。七夕の時はいつも紙縒で短冊や飾りなどを笹に付けていましたから…懐かしい話です。

 さて、さて…これ書いていて、大変なことをしてしまいました。「〝有帆〟で吟行で~す!ーその1-」が、消えてしまいました…いや、事実は消してしまいました…なんです。このブログを書くために、〝自動保存された記事データを復元しました〟の次の〝破棄する〟のところをクリックしてしまったら消えてしまったんです。当然なんですが、でももうUpしているんだからこれは要らないと思って、新規投稿にしようとしたんですよ…ウエ~ン!

 よく考えてみると、これは同じ日に記事を2つも書いたことがなかったからなんですね。今までは早くても次の日か2,3日後でしたから、新規投稿をクリックすると何も書いていない画面が出たのです。今回は今日書いたその1の記事がまだ原稿として残っていたのに、次を書こうとして私が破棄したものだからこんなことになったんですね。悔しい!既に読んで頂いた方がもう何十人もいらっしゃったんですが、まだの方にとっては幻の記事と写真になってしまいました。スミマセ~ン!

 時間があったら、思い出しながらもう一度挑戦してみますが…でもショックです。先に書いていて明日の朝にでもUpしようなんて…私に似合わないことをしたばっかりにこんなことになってしまいました。皆さまゴメンナサイ!

 吟行記はまた改めて書くことにしますので、今日の所はこれで…。疲れました。では、明日が早いので、オヤスミナサイ!

 写真は、〝ど根性日々草〟です。以前〝ど根性〇〇〟というのが流行りましたが、この日々草もたった1本だけ、それもセメントの土など全くない所から生えて、こんなに綺麗な花を咲かせていました。ラジオ体操へ行く途中の家なんですが、ここももう誰も住む人がいなくなったんですけどね。健気でしょう!泣けてきますよ。だから私もめげないで…ガンバリマス!

  

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兼題は〝爽やか〟

2021年10月19日 | 俳句

 最近の急激な寒さにびっくり…身体がつていきません。だって29度、30度あったものが突然20度に下がり、10度近くの温度差があるんですもの。年を取ってくると何事につけても徐々に馴らしていかないと…急激な変化は身体に悪いです!今朝はちょっと早くに目が覚めて、確か5時頃は13度だったかしら…寒いはず。

 今朝の嬉しいこと!ラジオ体操へ行く時にやっと〝アサギマダラ〟を3,4頭見かけました。いつも通る道に藤袴を植えてある家があって、もう満開なのにちっとも蝶が来てないわと見ていましたので…。でも今朝に限ってスマホを持って来てなかったので、証拠写真が撮れませんでした。ザンネン!更に家に戻ると庭に始めて〝ジョウビタキ〟の雄が来ていました。毎年来るジョウ君かしらと挨拶したら、こちらを見て逃げませんでしたので…ウレシイ!(写真はこの前の時に撮ったもの)

 ところで、昨日は久しぶりに広島へ。新幹線も久し振りでしたが、平日でしたのでコロナ以前と余り変らない感じ。しかし、広島駅が大改造されているみたい。北(裏)口の方はもう以前から綺麗になってたので分かるんですが、今表口の方が工事中、今後どうなっていくのか。行くたびに変って綺麗にはなっていくのでしょう。でも、私にとっては勝手知ったる馴染の駅の風景でなくなる方が淋しい。そう思うのは私だけでしょうかね。

 今回は俳誌「早苗」の運営委員会でしたが、昨今の高齢化と会員の減少からその運営維持の状況には厳しいものがあります。今後のことを考えると頭が痛い…。

 しかし、久し振りに皆さんの顔が見られて、嬉しい!やっぱり一緒にお喋りして食べたり飲んだり…それが次への活力にもなる。仲間が居て一緒になって何かを目指すということ、それが人には必要なことでは。一人では出来ないことも仲間がいればやる気にもなりますもの。

 でも今回のコロナ騒ぎでは、それが長引いた分だけ誰しもがやる気も根気も失ってしまって、お互いに〝年を取ったわね〟が実感でした。要するにコロナに罹らなくても、心身共に疲れ切っているんですよ。これは全国民にもいえることでしょうから、この損失はきっと大きいと思います。だから、その影響がいろんな所に見える形で徐々に現れてくるのではないでしょうか。考えてみれば世の変動というものには慣れていませんし、その先が見えない分だけ私には大きな恐怖なんです……。

 さて、さて、ブログに書くことはたくさんあるし、写真も溜まってますのに、身体が追いつかない…というより、書く時間がないという方が正解かな。とにかく優先順位の早いものから片付けていかないと…だからブログの方まで手が回らないというのが実情。ボチボチのUpですが、お許し下さいね。

 今日は先日の句会の話でも。兼題は〝爽やか〟でした。秋の季語です。これも先月がコロナ自粛で中止になりましたので、持越しの兼題でした。

 〝爽やか〟という言葉は、辞書で〝すがすがしく快いさま。気分のはればれしいさま〟という意味。でもそれがなぜ秋の季語になったのかというと、秋の大気の特色をよく表しているからなんです。

 秋になると大気が澄み切って、遠くの山々などもくっきりと見えますし、夏のように暑くもなく心身共にさっぱりとして心地よい。「さわ」は「さわさわ」から「さばさば」という語としても用いられ、「さっぱり」もこの語からの転用とされています。

 しかし、これは基本的には時候の季語なんです。それで、それを踏まえて詠まないといけません。概ね初心者は気分的なことだけで詠みやすいので気をつけましょう。詠みやすそうでも意外と難しい季語ですよ。

  爽やかや漕ぐにおくれて櫓の軋み   片山由美子

 まさに写生の句ですね。〈漕ぐ〉と〈櫓〉という語からボートか手漕ぎ舟かと思われますが、私的には川舟などの手漕ぎがいいな。それに作者はもしかしたら乗っているのかも知れませんが、それより岸辺で観ている景の方がいいような気もします。辺りが静寂なればこそ、櫓が舷とこすれあう〝きしきし〟という音は聞こえてくるでしょう。その音を更に際立たせているのが秋の澄んだ空気なんです。だから〈爽やかや〉と。この「や」で切っているところも妙味。ここを切らないで〈爽やかに〉としてしまうと櫓の音だけに絞られて、周辺の空気から空などの天地への広がりを失ってしまいます。ここは秋の澄んだ湖か川か…その景全ての爽涼感とそれを眺めている作者の清爽感が一体とならなければ…。またそれらの〝爽快感〟を一点で繋ぐのが〝軋む音〟、あとはまるで無音界のような。だから微妙な〈おくれて〉の把握ができたということかも。こういう実態のある季語の使い方、素晴らしいですね。真似をしたいけど、これがなかなか…。

 ところで、句会での最高点句は〈爽やかに白馬駈け抜く競馬場〉でした。この作者は〈爽やかに〉で随分迷ったらしく、句稿には〈や〉を消した跡がありました。やはりここは〈や〉で切るべきでしょうね。また出来ることなら、〈白馬〉がありますから〈競馬場〉を削りたい。〈爽やかやトップを白馬駈け抜けて〉と直しましたが、これで競馬場が見えてきましたかしら?

 昨日の夕焼…家に帰り着く寸前の近くのお寺から撮りました。〝夕焼〟は夏の季語、だからこれは〝秋夕焼〟になりますね。

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〝秋日和〟と〝菊日和〟

2021年10月15日 | 俳句

 昨日も今日も朝から雲一つない晴マーク、最高気温も26、7度と秋らしい日和でした。こういうのを季語では「秋日和」(あきびより)というんですよ。また、この時期は菊の花が盛りなので、こんなときには「菊日和」という季語を使います。

  畳屋の肘(ひじ)が働く秋日和  草間時彦

  四五日の旅行く妻に菊日和    石塚友二

 どちらの句も明るくていいですね。前句は、今は畳屋さんも少なくなってしまいましたが、〈肘が働く〉がピカイチ!なかなか云えないことばです。俳句は先ずしっかり〝観る〟ことが大事。知識だけでは上っ面だけの実感のない薄っぺらな句になりやすいですものね。

 「実相観入」という言葉があります。これは斎藤茂吉が正岡子規の写生論を踏まえて唱えた歌論ですが、この時彦の句はまさにその実相に観入して、畳屋という職業を的確に言い当てているのではないでしょうか。私も以前、あの太い針で畳を縫っては肘でキュッキュッと締めていく作業…その手際のよさに見とれていたことがありました。懐かしい景ですね。

 また後句は、何という優しい句でしょう。ここまで思ってもらえる奥様は幸せなこと、羨ましい!(笑) 季語を「秋日和」とせず「菊日和」にしたところ…さすがですね。もしかしたらこの旅は何かいいことがあって行くものかも。ただ単なる旅行なら秋日和でもよかったはずでしょう。〝菊〟という花の持っているイメージは、気品があって色も黄色や紅やピンク、白などと様々、また香しさも感じられる。だから「秋」なんかよりぐっと実態が見えてくるはず。更に〈妻や〉でなく〈妻に〉としたところも。妻を心から送り出してあげてるようでしょう。世の旦那様方、皆さんはいかがですか?それも日帰りとか一泊ではないんですよ。エエッ、できるですって…そりゃあいない方がせいせいするからというんじゃダメですよ。それでは妻への愛情は全く感じられませんものね。(笑)

 ところが驚きなんですよ。この句は1987年出版の句集『玉縄抄以後』に収められたものですが、友二が亡くなったのは1986年2月8日、79歳。しかし、1985年に句集『玉縄抄』を出しているんです。ということは死ぬ1年前ぐらいに詠んだ句ではということになるのです。

 ウィキペディアによれば、〝代表句に「百方に借りあるごとし秋の暮」などがあり、日々の生活を題材とし、私小説的な世界がそのまま俳句となるような句境を開いた〟とありますから、この句も彼の想い出の中からの私小説的な創作だったのかも。死のすぐ近くにあってもこんな句が詠めるなんて、友二さんとは一体どんな人だったんでしょうか。

 友二はそもそもは小説家で編集者でした。俳句は当初秋桜子の「馬酔木」に投句していて、1937年、石田波郷を主宰として「鶴」を創刊、発行編集者となり、後に波郷が応召された際には代選も務め、また、1969年に波郷が没してからは同主宰を継承しました。

 友二は波郷より7歳も年上でしたが、出逢ったときから句歴や実力などの違いから波郷に師事していて、俳誌「鶴」では波郷の盟友ともいえる存在であったようです。お二人とも「馬酔木」に繋がる私の大先輩ということになりますが、かつて林翔先生に〝寡黙だが、傍に居るだけで安らぎを覚えて、誰からも好かれる人物だったよ〟とお聞きした波郷さんならば、友二さんもきっとそんな人だったのでは。だって最後まで波郷を大事に思って「鶴」を守ってきた誠実な感じの人ですもの。

 実は今日も俳句教室でした。明日も午前と午後のダブル句会なんですよ。だから、また次がいつになることやら…。ではオヤスミナサイ!

 写真は、折り紙の〝紫のばら〟です。私が折ったんではないのですが、これを見てすぐに〝あの紫のばらの人…〟と言ったら、彼女も〝そう、そう、あれまだ続いてるのかしら?〟な~んて…。この会話分かりますか?分かる人は同類ですね!(^▽^)

 

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兼題は〝星月夜〟でした!

2021年10月13日 | 俳句

 今日は朝から曇で時々は晴れ間も見えましたが、なんとも湿度が高くて…一日中80%以上はあったでしょうか。だから蒸し暑くて不快指数の高いこと!

 さて、昨日はM俳句教室、兼題は〝星月夜〟でした。本当はこれは先月の兼題だったのですが、コロナで会場が使えなくなって中止、それで持ち越しになったものなんです。

 この季語を、星と月が出ている夜だと思う人が初心者には多いですね。今回はよく説明しておきましたので、そういう間違いの句はありませんでした。

 「星月夜」というのは、月のない夜空が星明りで月夜のように明るいことをいうのですが、昔ならいざ知らず現代の電化生活ではこんな夜空を見ることは滅多にないでしょう。特に都会ではね。だから高い山の全く明りのない頂上近くの小屋やテントなどで体験するぐらいでしょうか。そういえば私はヒマラヤ・トレッキングに行ったとき、4000メートル近くのタンボチェから見た星空はまさしくこの星月夜でしたよ。

  豪雨止み山の裏まで星月夜

 この句の作者は、山岳俳人で有名な岡田日郎(おかだ にちお)。本名は岡田晃、1932年東京生まれ。福田蓼汀(ふくだりょうてい)の「山火」に投句、1951年より同編集人。蓼汀の没後、1990年より「山火」主宰を継承。1993年、句集『連嶺』で第32回俳人協会賞。山岳俳句を多く詠み、『山の俳句歳時記』などの著作もある。(Wikipediaより)

 次の写真は、俳人協会の俳句カレンダー(平成23年8月)に載った日郎氏の書かれた色紙。その下は、俳句文学館発行の新聞に載ったこの句の解説文です。

豪雨止み山の裏まで星月夜 岡田日郞

 「庚申山・庚申山荘。日本百名山中もっとも手こずったのは皇海山である」と作者の『自疏句集山』にある。
 皇海(すかい)山登頂は、3度までも天候の急変等により阻まれる。昭和63年、4度目の挑戦。山荘の夕べは、凄まじい豪雨に見舞われた。しかし夜半に目覚め外に出た作者の頭上には、満天の星が清らかに輝いていた。
 皇海山登山の前山である庚申山は、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の奇々怪々な一舞台でもある。
 山小屋の屋根を打つ激しい雨音、窓ガラスを叩く雨しぶき、豪雨は時には山崩れを引き起こし、人を死に陥れることもある自然の猛威である。しかし一方では、あらゆるものを浄化する大いなる力ともいえる。
 掲句の魅力は「山の裏まで」という表現の圧倒的な存在感であろう。岳人の孤独な魂は「地球」という星の運行と天空の星の運行とをひたと見届けた。稜線を煌めきつつ昇ってきた星は、作者に啓示を与えた。
 直視・直観・直叙に基づきながらも、悲しいまでに美しい宇宙の真理を捉えた。透徹した山岳美の世界である。(乘田眞紀子)

 ちなみに、皇海山は栃木県日光市と群馬県沼田市との境界にある山で、足尾山地に属し、標高2,144m。日本百名山の一つです。

 今回の最高点句は、〈明日登る槍の山影星月夜〉でした。〝これは創作かしらね〟と言うと、〝いいえ、本当に登りました〟と作者。〝エエッ、いつ?〟〝昔、若いときに…〟なんですって。やっぱり…作者のTさんがこの教室で一番若いんですが、そういってももうお孫さんがいる年ですものね。

 この句はこれでいいとは思うのですが、登るとあれば槍だけで分かるでしょうからできれば山影を削りたい。またこのままでは中七から下五へのリズムがちょっと息苦しいでしょう。そこで〈明日登る槍前方に星月夜〉としました。

 皆さんも2ヶ月ぶりの教室で生き生きとして、やっぱり俳句は〝連座の文芸〟ですね。こういうのは充実感があって、疲れても快いものですよ。皆さんもいかがですか。( ^_^)

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いちご会の〝琴崎八幡宮吟行会〟-その3-

2021年10月11日 | 俳句

 皆さま、お久しぶりで~す!エエッ、今日まで何してたかって???

 あっと言う間の1週間が過ぎてしまいました。書かなきゃ…書かなくてもいいかな…いやいやダメだよと、心では葛藤を繰り返しながら(笑)、時間だけは容赦なく過ぎて…気がつけば今日になったんですよ。

 それでもその間過去のブログを読んで下さる方がいらっしゃって、その訪問者数を見るととてもアリガタイです。感謝、感謝!

 ブログを書けなかった理由はもちろん忙しいのが一番でしたが、途中でいちご会のその3を書いている最中にストップしていたら、下書き保存していなかったもので、消えて無くなりました。それでちょっと気が抜けたりもして…

 それでは、この1週間をざあっと見てみましょうか。やっぱり記録は残しておかないと…

 月曜日は雑用こもごも、火曜日はO俳句教室、水曜日は恒例の吟行会で、一日中小野田の有帆地区へ。これはまた後でご報告します。木曜日は病院のはしご…これも疲れましたよ。朝一番に医大で血液とエコーの検査、その後1時間待ちの診察。次は同じく医大で初めての歯科口腔外科へ。これは最近ものを噛むときにコキコキと顎の骨が鳴って食べづらいので、レントゲンを撮ってその後に診察。結果は…骨の老化なので対症療法しかないと。ウエエ~ンです!

 そこまでで昼過ぎになり、昼食後今度はいつもの通院の循環器クリニックへ。最後は整形のリハビリです。更に土曜日は午後と夜の部のフォーユーダブル句会。もうこの辺でぐったりなんですけどね。更にその合間の時間では自分の句作と人の添削で全部つぶれますし、本を読むのもやっとの時間を作って…ハアッ!と息も出来ないほど。

 その最後の極めつけが昨日のこと。父の33回忌に姉と兄の23回忌を合同でするというので、早朝から大分へ出掛けました。里へ行くのも久し振りですから、終って戻ったら二人とも疲れ切って、早々にバタンキュウですよ。夜中に目が覚めたものの、また朝までグッスリ…とうとう二人ともラジオ体操をサボりました。というわけなんで…

 すると昼頃原稿の校正が来ていないからと電話がかかってきて…ああ、忘れていました、ゴメンナサイ!と、平謝り。てなわけでどうかお許し下さいませ。

 それでは、いちご会の〝琴崎八幡宮吟行会〟の締めくくりをしましょうか。

 参道の途中に更に大きな石灯籠が二基ありました。一つは「沖田炭坑大灯籠」で、宇部は幕末の頃から石炭採掘が盛んだったという様子を伝える貴重なもの。もう一つは、渡邊祐策翁が大正4年大正天皇御大典記念に寄進されたもので、「吐輝」の大灯籠といわれています。その大きさが立っている人と比べるとお分かりでしょう。

 長い間コロナ禍の外出自粛ため、この八幡宮にも一年半以上お参りに来てなかったので、何だか少し様子が変っていました。御手洗が今までのように柄杓で水を汲むのではなくて、四方八方に噴き出す水で洗う。だから御手洗の中には水が汲めないように季節のもので(違う季節に来ていないので何とも云えないのですが…きっとそうだと)埋めてありました。だから、今は栗と姫リンゴでした。次は〝なでうさぎ〟〝なでいぬ〟や〝親子なできつね〟まで…なでものが増えて…。稲荷社も新しくなって違う場所に移動していたり、ビックリです。

 一通り説明を聞きながら見て回り、いよいよこれから立派な参集殿で句会です。所用で帰られた人がいて、句会は全員で7名、1人1句から3句までの投句。しめて20句出ましたから、皆さん殆ど3句出されたんですね。

 大体そんなものなんですよ。初心者は最初出来ないから1句にして下さいと言うんですが、それじゃあ最低1句の3句までと言うと、殆どが3句を出すんです。だからこれを3句から5句までと言うと、今度はみんな5句作る。(笑) 

 結局みんな負けず嫌いなんですかね。だからイヤイヤ言っていても、多めに言う方がいい。ただ人数と時間の関係で仕方なく絞るんですが、たくさん詠む方がいいにきまっていますものね。そうすると、そのうち全員5句と言ってもみんなそのつもりになって作りますし、何も言わなくても済みます。例えば時間がなくて、今日は3句にしようかなんて言うと、却ってガッカリしたりと。

 人って面白い!鍛えれば鍛えるほど着いてきますから。それで脱落する人は本当に向いていない人なのかも。だから上手い下手ではないのです。何でもいいのですが、そういう何かで自分を磨くということに喜びを感じられるのが人間だということかも。

 今回のいちご会の方々は全くの素人で、最初に〝季語を必ず一つ入れて定型(575)で詠んで下さいね〟と言うと、〝先生、季語が分かりません〟と。〝それでは、今は秋だから…八幡宮で見てきた中で秋を感じさせるものを何か思い出してみましょう〟と。すると今度は〝例えばどんなものかを教えて下さい〟と…こんな状態で始まりました。

 使われた季語は、木の葉、秋の朝、桜紅葉、萩の花、秋日傘、黄紅葉、秋の空、爽やか、秋風、秋の日など。他に吟行にはなかったのですが、彼岸花や月、十六夜なども。中に季語のないのが2句ありましたから、これは〝才能ナシですね〟と言うと、大笑い!しかし、他は季重ねもなくリズムもきちんと守って、みなさん、半日で初歩レベルをクリアーしましたよ。お見事!う~ん、これはきっと指導が良かったと…そりゃまあ…エへッ!(アツカマシイ!)

 最後に、最高点句と私の推薦する句の2句に賞品を授与するからということで、最高点句は〈参道の階段奏でる黄紅葉〉、私の推薦句は〈秋の空氏神様にごあいさつ〉でした。他にも添削すると良くなる句がたくさんありましたよ。

 皆さんからとっても楽しかったと言って頂き、私も本望です。短い時間でしたが、少しでも俳句の面白さに触れて頂けたこと、またそういう機会を作ってくださった幹事さんにも心から感謝です。(*^-^*)ございました。

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いちご会の〝琴崎八幡宮吟行会〟-その2-

2021年10月03日 | 俳句

 今日は10月3日、日曜日です…と言っても何のことはありませんが、昨夜は久し振りによく寝ました。何だか眠くて眠くて、どうしたんだろうと思いながら9時過ぎには寝てしまったかな。その後目が覚めてトイレへ。それが時計を見れば夜中の1時過ぎだったような。それから…と、また寝てしまったんですよ。これだったら普通もう眠れなくなって夜中に起き出し、ブログ書いたりPCの記事など読んだりして朝まで過ごすのですが…起きたのが6時過ぎでした。現役時代の頃の週末は、1週間の疲れが溜まってこんなことはザラでしたけどね。

 今日は本当に秋晴れのよい朝を迎えて、気分も爽快!実は今日の夕方、久し振りに家族全員揃っての会食なんです。1年ぶりでしょうか?9月30日が主人の誕生日なので、その日の前後、義母の敬老も兼ねて近場に一泊し、お祝をしていました。昨年は確か10月4日、GoToトラベルを使って湯田温泉でしたが、今年の夏は余りにもコロナの増大に恐れをなして、何の準備もする気がせず…でしたが、やっと緊急事態宣言も解除され、こちらでも自粛規制が緩和されましたので、急遽食事でも…というわけ。

 まあ、それはまた済んでのことで。今日は、いちご会の〝琴崎八幡宮の吟行会〟の続きです。

 先ず、この話の発端の吟行会を企画された幹事・今村美智子さんとの出会いから。これがやはり縁あってのことだったんです。お名前は知らなかったんですが、私の勤務していた学校の出身で、嘗て〝かるたクイーン〟だった人がいると、噂には聞いていました。

 しかし、学校では接触する機会もなく、その後何十年も過ぎて、この今になって出逢うという…これもやっぱり〝縁〟があってのことなんですよね。では彼女のことを簡単にご紹介しますと…

 旧小野田市出身の元かるたクイーン。中学 2 年の時に競技かるたに出会う。その 1 年半後には「準クイーン」に輝くと、高校 3 年の時には「クイーン」の座をつかみ、4 年間その地位を堅持。現在はかるた教室の講師を務めるなど、競技かるたを楽しくわかりやすく伝える活動に力を入れている。

 〝かるたの風を吹かせたい~競技かるたに込める夢~「競技かるたが多くのみなさんに愛されることを願っています。」と語る。旧小野田市(今は合併して山陽小野田市になっています)は、今村さんのほかに、昭和 59 年から連続して8 年クイーンの座を手にした実績を持ち、全国初の「永世クイーン」の栄冠にも輝いた久保久美子さんを輩出するなど、「かるたのまち」として広く知られるようになりました。(「広報さんようおのだ」より)

 見えなくてもどこかで繋がっていた糸が、こうやってちょっとしたきっかけから手繰り寄せられ、縁が結ばれるという…何だか不思議。でも嬉しい!

 これも宇部市制施行100周年記念のお陰かしら。ついでにもう一つ嬉しいこと…我が「馬酔木」は今年が創刊100周年になりますが、いつもと違う記念号の分厚い本がやっと10月2日に届きました。その100周年記念コンクールの「随筆の部」に、私の作品が入賞したという、嬉しいことが重なったんです。

 義母も今年満100歳と…こんなに100という数字が重なって、一生忘れられない年となりました。これもひとえにいろいろな方々と出会い助けられてのお陰だと思っています。全てのものに感謝、感謝です。ありがとう(*^-^*)ございました。

 さて、琴崎八幡宮の吟行…宇部市憲碑の次に目に留まったのが鳥居と大きな石灯籠です。鳥居は特に珍しくもないのですが、この鳥居は嘗ての参宮道路に建っていたもので、それを移転したと。だからこの鳥居の幅が旧参宮道路の幅。何とも狭い…ここを自動車が行き来していたとは!そんな説明を聞きながら傍にある二基の石灯籠に目が留まりました。それに書かれた文字を、案内のIさんにどういう意味かと聞いてみましたが、分からないと。私も初めて見る言葉で、向って右に「報本」、左に「反始」。何だろうと気になって、後で調べてみると、「報本反始」(ほうほんはんし)という熟語で、〝本に報い始めにかえる意から、祖先の恩に報いること〟なんですって。

 また、また勉強させて頂きました。やってもやっても知らないことばかりです。もちろん知らなきゃ知らなくても、何ら生き死にには関係ありません。けれど…そのままにするというのは、まるで人生に忘れ物をするようで、私にはこゝろ残りなんですが…。わたし欲張りでしょうか?皆さまだったらいかが?

 今日もまた長くなりましたので、ここまでにします。では次に…

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いちご会の〝琴崎八幡宮吟行会〟ーその1-

2021年10月01日 | 俳句

 うわあっ!とうとう10月に入りました。今日は一日中晴マーク、最高気温も30度まで上がるそう。しかし、何とも蒸し暑い。まるで夏の日に戻ったようなんですが、でも空の色はキレイ!

 さて今からは、昨日の報告です。この日も午前中は晴れて暑いぐらい…、でも午後からは曇でやはり蒸し暑かったですね。天気予報を見ると最高気温は28度とあるのに、湿度が高くて80%前後はあったようですから。

 実は、「いちご会」が宇部市制施行100周年記念に因んで、100年前の大正10年11月1日にその祝典が行なわれたという〝琴崎八幡宮〟での吟行会を、9月30日に開催するということで、その講師を私が頼まれたんです。

 朝9時30分、八幡宮の駐車場に集合。宇部市ふるさとコンパニオンのIさんの案内と説明を聞きながら、周辺と境内を見て回りました。

 宇部に住んで既に50年以上、初詣や節分、夏越しなどと、毎年何度も参拝に来ているのに、何と知らないことがたくさんあって、ビックリでした。

 先ずはこの「いちご会」についての説明をしましょう。2019年5月に発足した会で、〝「ふるさと宇部」を情熱を持って想い、「こども達が住み続けたい」と思う街づくりをコンセプトに集う紳士淑女の集団です〟と。(Facebookより)今回は、コロナ禍のために人数制限をして10人前後の参加です。

 最初に100年前の宇部村が市に昇格したときの話から。朝6時にあらゆる船や工場などの警笛や船笛を一斉に鳴らし、7時には旧参宮道路を人々が行列を作りこの八幡宮へ集まって祝典が開かれたのだそうです。

 次いで道路を挟んで駐車場の反対側にある「神苑」という石碑が残っている公園へ。

 ここは渡邊祐策(わたなべ すけさく、1864年 -1934年、日本の実業家・政治家。宇部興産の前身冲ノ山炭鉱組合の創業者)が還暦記念に大正14年9月、広さ5,280㎡を神苑と名付けて寄進したところ。当時はみんな田圃だったのを全部買い取って寄付をされたという。有り難いことですね。今は小さな児童公園になっていますが、殆どが参宮道路を作るときに削られて、その残りなんだそうです。その当時の地図や写真を見せて頂いていると、〝あれっ、これは曾祖父、これが祖父で…とするとこの幼い子どもが父親だ!〟と言うので…みんなからエエッという驚きの声。

 そうなんです。この会を催すに当たって2度ほどお会いして話す機会があったのです渡邊裕志(ひろし)さんが祐策翁の曾孫に当たる方だったんですよ。祐策翁のことは宇部で知らない人はいないのですから、その直系の方とお知り合いになれるなんて…本当に光栄!まあ、そんな訳でいちご会という名の由来である〝一期一会〟の通り…私も今回がいちご会の方々と一期一会だったんです。できればこの縁が更に広がっていくと嬉しいんですがね。

 次は鳥居を潜ると、特大絵馬のすぐ後に大きな石碑があります。それが「宇部市憲碑」。

 これは、大正10年(1921年)11月1日、宇部市が村から一躍市制を施行した日に、あの五箇条の御誓文に倣って作成され、読み上げられた誓文五則。それが市民の心得として刻まれ、宇部市憲碑として昭和3年(1928年)に建立されたものなんですって。

一、皇恩の暑き渥(あつ)きを奉戴し益々義勇奉公の誠を致すべし
一、固有の美風を発揮し、協同一致の精神を貫くべし
一、公徳を守り推譲を重んじ共存同榮の實(みのり)を興ぐべし
一、勤倹力行以て文化生活を進め大(おおい)に社會奉仕に努むべし
一、世界の進運に鑑み鋭意内容の充實を期し本市の使命を全ふすべし
 
 裕志さんに聞くと、この文章も祐策氏が当時の県知事さんに相談して作られたのだと。

 この五則にあるように、宇部市の礎を築いた人々には次世代の子供たちに発展的な街と地域産業を遺したいという強い想いがあったようです。市制施行と同時に制定された宇部市憲によって明文化された「共存同栄」や「協同一致」という言葉が、地域の歴史と共に誇りを持って受け継がれてきて、それが今日でも宇部の〝町づくり〟の精神になっているのです。

 ちなみに、よく聞くのが「共存共栄」という〝自他共に生存し、ともに繁栄すること〟の意味の言葉。これは中国の周恩来元総理が1954年10月11日、日本のある代表団と会見したとき、「…中日両国がともに工業化を果たしてこそ、平和共存、共存共栄が実現できる」と言ったのだと。(『周恩来外交文選』) またこの言葉が流布して松下幸之助氏などが好んで使っていたとか。しかし、この語の由来は不明らしいのですが、文献としては明治時代の官僚・森賢吾の著書「古着を好む日本人」(1927年)などに文言が記されていますから、もっと以前からあったものなんでしょうね。

 ところが、宇部市では「共存共栄」ではなく、今でも「共存同栄」なんですね。それがこの五則からきていたんだということですが、今回そのお話を聞いてから始めて知りました。本当に知らないということはオソロシイ!
 じゃあなぜ〝「共栄」でなくて「同栄」なの?〝という疑問が湧いてきますが、調べても辞書にはなかったし…ウウン…、もうワカラン!誰か教えて下さい。(笑)

 半世紀以上宇部市民だったというのに、こういうものがあるということさえ知りませんでした。恥ずかしい!参加された方もナルホド…と。

 要するに、一生かかっても知る気がなければ何事も知らないままに終るということなんですよね。またまたよい勉強をさせていただきました。ありがとう(*^-^*)ございました。

 まだ先がありますが、長くなりましたので今日はこれで。続きはまた…。

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