今日はもう8月も29日…残りあと2日です。朝のラジオ体操もなし、教室の句会もしばらく通信でということになりました。
何だか手足をもがれた蟹(かに)さんのような気分…はて、蟹さんはそれでも横這いするのかな?片手や片足の一本ぐらいならできるのかも…
さて、〝蟹〟はいつでもいるように思われますが、俳句では夏の季語なんです。それも磯や山や川にいる小蟹のことで、あのタラバ蟹やズワイ蟹などのような食用の大形の蟹は冬の季語になります。
川蟹の踏まれて赤し雷さかる 角川源義
あれは夏だったのかしら?いや、秋の初め頃だったような…。早朝、川の傍を車で走っていると、路上におびただしい蟹のような残骸が見えましたので、車を停めて降りてみました。それは全て踏みつぶされてぺちゃんこになった川蟹の姿でした。なんとも言えない…こんなに無惨な…まるで戦乱の後のような有様…。もちろんこれはみんな人間の仕業です。きっと夜川蟹が産卵のためにこの道へ登ってきていたんだわ、それを通行の車が次々に…と思いました。
実は、随分昔のことですが、以前の家の近くに切り通しがあって、ある月夜にその坂を下っていると、月光に照らし出された小さな生きものがゾロゾロと…。それはまるで地中から沸いてくるようにひっきりなしに坂を登って(下ってかも?)いました。よくよく見るとそれが全て小さな蟹だったんです。その産卵に行く蟹たちの映像は私の目に焼きついて、その後俳句を始めてからの私にとても役に立ちました。
子を産みに山の小蟹の列なして 小林草山
生きものはみな生まれた環境でそれぞれに生きていくしかないし、寿命にしたって与えられた時間しかない…。それが当たり前だし、それにナンの疑問も持たずに一生を終える。しかし、沢蟹などは10年も生きるんですって。おまけに脱皮を繰返しますので、その度に亡くした手足などはまた新しいのが生えるんだとか。スゴい!人間も少しは脱皮できるといいのに…(笑) そうすると膝などの痛みで病院へ通わなくてもいいのにね。まるで夢のような笑い話!
しかし、災害などというものは人だけではありません。私たちはその災害で家を失い肉親を失い…と嘆き悲しみます。が、その陰には五万という他の生きものたちも同じ災害に見舞われて死んでいったのではと思います。そういうときって人は自分たち以外の小さな生きものには目もくれないでしょう。当事者になればそれが当たり前。だって自分が苦しいときというのは心に余裕がなくて、他者への目配りなんて出来ませんものね。
でも、そういうとき、もしそんな小さなものへの〝思いやり〟という目を持っていたとしたら、それは光り輝きますよね。
山口県には大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した童謡詩人の金子みすゞがいます。彼女の作品の中に次のような「大漁」という有名な詩がありますが、ご存じでしょうか?
朝焼け小焼だ、 大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ。
浜は祭りの ようだけど、
海のなかでは 何万の、
鰮(いわし)のとむらい するだろう。
また、この詩を山口県出身のシンガーソングライターちひろさんが歌っておられますので、聞いてみて下さい。心が洗われるようですよ。
〝生きる〟ということは、その陰には必ず何らかの犠牲が伴うこと。そして、その立場を変えてみれば、それがある意味傲慢であったことにも気付かせてくれます。
詩だけに限らず、俳句でも…私はそんな人の気付かない心の襞を〝ことば〟と〝五七五〟に託して伝えたいと思うのです。音楽でも…そうですよね。
〝心にしみる〟…秋とはそんなセンチメンタルな気分の似合う季節ですね。せめてコロナ禍に疲れた体は無理だとしても、自分の心だけは自分で癒やしてあげましょう!自分の好きなことでいいんですから、誰にでも出来ることなんですよ…ネッ!この歌を聞いてみるのも…ほら、いいかも。