清朝西太后の命脈が尽きたとき、愛新覚羅溥儀を截て(推戴し)官僚たちは粉骨砕身努力した。とくに李鴻章は日清戦争以来、権謀術数の渦中をくぐりぬけてきた中心人物だ。策士としての能力は伊藤をはるかに凌駕している。
まさに消えかかった蝋燭が一瞬明るくなるように、大中華を夢見て洋務運動、留学生派遣、日本人指導員の受け入れなど矢継ぎ早の改革を行った。西太后という重しの取れた清朝首脳が夢を見た三年間であったと言える。
三年間と限ったのは、孫文らを中心とした勢力が清朝を倒してしまうからだ。その孫文も一挙に革命に成功した訳ではない。孫文の興中会が最初に蜂起したのは1895年である。失敗し日本に亡命する。
以降辛亥革命に成功するまで十回以上日中間を往来する。つまり十回以上革命は成功しなかったのである。清朝打倒においては大同団結できても革命以降のプランは各勢力様々だった。同床異夢では成功しない。
しかし問題のポイントはそこにはない。彼は各地で何回も何回も放棄を起こしては鎮圧され、を繰り返している。蜂起というのは鎮圧されればただのテロだ。孫文がかかわったもの11回、興中会だけで9回。やっと10回目にテロリストと呼ばれることがなくなる。それ以後、眠れる獅子が二度と目を覚ますことはなかった。
だが、孫文がいかに困難な戦いをして来たかを示す興味深い演説がある。
「日本がもし支那革命を支援してくれると云うのなら、成功の暁には満蒙(満州とモンゴル)を謝礼として日本に譲っても良い」(明治40年)
帝国は視野が狭くかつ近視眼だった。せっかくの味方までやがて敵に回す愚を犯す。孫文はやがて死ぬ。がしかし帝国は後継者の蒋介石とは戦火を交え、何も理解しないまま島国の農民兵は数十万単位で死ぬ。
タダでもらえた満蒙に散った兵や哀れである。くれるというものを強奪するバカにつける薬はない。後先考えずに錯乱した頭脳で破滅に突進した島の猿たちを美化するのが出てきて鬱陶しい。
蒋介石はこの頃お友達だという論評がお盛んで、台湾なんてお友達以上らしいが、そんならなぜ股肱の将兵を無駄に死なせたのか。
画像は孫文が泊り、からけんのじっちゃんが戦時中同級生と最後のゼミ旅行で泊まり(同級生はほとんど戦死)、からけんとからけんJrが泊った栃の木(とちのきおんせん)温泉です