熊本に行く途中、道の駅でツバメが飛び回っていた。
「飛燕」とは本当にいい例えだ。帝国は哀れな飛行機しか持ちえなかったが、名付け方は最高だ。鐘馗、隼、震電、烈風… 艦船もそうだ。
揚力が少ない形をしながらよく何千キロも旅をして、わざわざこの道の駅に巣を作る。フィリッピンやインドネシアのほうが彼らの環境はいいと思うのだが。
そばで見るととても飛燕は小さかった。
昔、本物の飛燕操縦士は僕に語った。戦闘中宙返りをするとたいてい敵機は引き離されたが、ある時、戦闘中にOILが漏れてきてキャノピーが見えなくなった。計器は半分以上が死に上下の感覚もなくなった。戦闘員は敵にやられるのは何ともない。整備不良で死ぬのはごめんだ。整備士を殺そうと思った。生きて帰ったら。
だが、整備士が悪いのではなく、まだ日本には液冷、FI、直列倒立V12は無理だったのだ。蜂のように舞いグラマンに襲い掛かる姿を葦原の少国民は夢想したに違いないが。
そんな日は来なかった。
いつの世も、歴史の当事者は「ほんとは違うんだけどな」という思いを抱くのだろう、上空で戦う者と地上勤務者との間にすら、すでに認識に差が出る。これに時間軸が重なり国が異なると真実はおろか事実ですらゆがめらる。
真実は発生した時から劣化が始まる。
その一例を見つけた。熊本県でアスベストの採掘がおこなわれていたところの近くに、小さな古い墓がある。間違えて碑の写真を撮ったが墓もすぐ隣にある。
秀吉の無謀な朝鮮出兵は強制連行の始まりのように朝鮮の教科書には書かれている。戦略のない進軍は必ず敗北する。いくらトラ退治をしようと敗北する。敗軍について帰国した技術者集団がいたという面もあろう。
陶工、紙すき、鍛冶、土木、の先進技術を持った人が日本に来たのは事実だが、手のひらに穴をあけてひもで繋いでで引きずってきたのではない。第一そうすれば朝鮮から肥後の国まで命が持たない。
村人は大勢で出迎えたのだ。慶春がもし帰りたがっていたらいつでも帰れた。慶春は日本での生活を選んだ。日本人も慶春のあと何代にもわたって墓の世話をし、差別なく村祭りにも加えた。
↑の写真にある説明文は60年代のものだ。すでに最近のものとは文面が違う。
人工のものがない池はきれいだ。みずすましがいた。水草は小魚に日陰を作り、風が吹き驚いたように蝶が飛んだ。人生を生きるには一定の頑張りが必要だ。頑張れば頑張るほど、キリギリスにならずにアリになれる。
しかしえてして、良い人間になるための努力であるはずが、相手とのいさかいに負けまいとするアリジゴクでの足の引っ張り合いになる。そこに、良い人生のための努力は影もない。街にある幾多のアリジゴクはいやだ。