拝啓、世界の路上から

ギター片手に世界を旅するミュージシャン&映画監督のブログ(現在の訪問国:104ヶ国)

拝啓、世界の路上から 第10話「わくわく?密入国入門/パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第10話「わくわく?密入国入門/パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル」(前編)

ああ星がキレイだ。ん?……ハッと目を開けるとそこは長距離バスの車内。周りには灯り1つない為か、車窓に映るこぼれそうな星空がとびきり美しい。寝ぼけ眼をこすりながら時計を見るとまだ夜の11時ぐらい。今向かっている目的地パラグアイの首都アスンシオンに着くのは、翌日のお昼頃だからまだかなりある。
ペルーのクスコからチリの首都サンチアゴに戻った僕は、そのままアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに向かう。そこでサッカーの試合などを観戦した後、この日の夕方6時にアスンシオン行きのバスに乗り込んだ。バス車内にはまばらに乗客が座り、皆一様に眠っている。僕も同様に眠っていたのだが、ふとこんな時間に目が覚めてしまった。窓を開けて外の景色を見ると、バスはパンパの大草原の中を走っている。

もう少し眠ろうと目を閉じると、またしばらくして僕は眠りの中に吸い込まれてゆく。

どれぐらいの時間がたったのだろう。急にザワザワと辺りが騒がしくなり何だろうと目を覚ますと、バスの中に物売りが大勢やってきていた。

ちょっとした規模の町にさしかかるとよく物売りがバスの中に入ってきて、どうだ兄ちゃん食い物はいらないか?ほら土産もあるぞなどとやるので、ああまたかと再び目を閉じ眠ろうとする。しかしいつもと少し様子が違う。というのはその中に両替屋のオヤジが混じっていて、替えるよ!ほらオイラがアンタのお金替えてやるよと札束をピラピラさせているのだ。もうすぐ国境が近いのかなと、最初大して気にもとめずそのまま様子を伺っていたが、彼達はしばらくしてゾロゾロと降りてゆきバスはまたパンパの草原の中を走り出す。そしてさらに少し走ると町が見えてきた。

だが町に入ると、道路沿いのいたるところで見覚えのある旗が靡いている。それはパラグアイの国旗。寝ぼけながら状況を確認する。うーんと、ええっと。やっちまったか?

どうやら寝ている間に、国境を通り過ぎてしまったらしい。イミグレーションを通っていないので入国スタンプは当然無く、いわば密入国の形でパラグアイに入ってしまったようだ。ヤバイ。
しかし不思議なもので、どうしようという不安より、ふうんこんなに簡単に密入国ってできるのだと、変に感心している自分に気付く。まあやっちまったものはしょうがない。きっとなんとかなるだろうとまた眠りにつく。随分と僕も神経が鈍く、イヤたくましくなったものだ。

正午頃、バスはアスンシオンのバスターミナルへ着く。ここまで約18時間。そこから1000グアラニ、約30円のローカルバスに乗り換え走ること30分、町の中心部であるセントロを目指す。

 パラグアイは人口約483万人、総面積40万6752k㎡(日本の約1.1倍)の国土を持ち、南はアルゼンチン北のボリビア、そして東にブラジルとそれぞれ隣接している。またここは1811年にスペインから独立の海に面しない内陸部の国で、南米大陸で海に面しない内陸の国といえば、ボリビアとパラグアイだけ。その為国土を流れるパラグアイ川が重要な交通網となっており、国際貿易港として長年に渡り重要な拠点として栄えてきたのが、ここ首都アスンシオンである。
 大きな観光資源を持たない為か南米指折りの田舎者と呼ばれており、それも頷ける程首都といってもかなりのどかで牧歌的。もう既に町の中心部あたりにきているはずなのだが、昨日までいた大都会ブエノスアイレスと比べると、どこか田舎の小さな地方都市に来ているようなそんな感じすらする。

ローカルバスを降りてブエノスアイレスで他の旅行者に貰った、古い日本のガイドブックの切れ端を頼りに、日系2世が経営するという町外れのペティロッシ通り沿いにあるホテル内山田へ向かう。内山田といえば教頭か?と僕などは思ってしまうのだが、GTOを知らない人にはなんのこっちゃかもしれない。もう少し上の世代には、むしろクールファイブなのだろう。哀愁漂うワワワワーというコーラスが懐かしい。
持っている情報は5~6年前のものなので、まだちゃんとあるかどうか少し不安だったが意外と簡単に見つかる。中に入ってすぐのフロントの横に置かれたTVでは、NHKが放送されていて、日本にいた時は民放ばかり見ていたクセになんだか嬉しくなる。
この宿にはドミトリーが無く、1番安いシングルルームで1泊US15ドル。少し高い気がしたが、和食の朝食が付くという言葉に惹かれて1泊だけチェックインする。白いご飯と味噌汁の朝食なんて久々。これまた日本にいた時は朝はパン食だったのに、和朝食と聞いただけでワクワクしてくるから不思議だ。

とりあえず部屋に荷物を置いて町へと繰り出してみることに。しかし幾ら歩けど人の姿は無く、店もほとんどシャッターを下して閉まっている。もう町の中心部にきているはずなのだが、まるでゴーストタウンのような状態。
ええ?クーデターでも起きたのか?と恐ろしい考えが頭を過ぎる。政情不安な国が多い南米では、1ヶ月前に平和でのどかだった町でも、急に情勢が変わりある日突然銃声が鳴り響き戦車が行き交う、デンジャラスゾーンに豹変することはよくある。そして僕は今、イミグレーションを通らずいわば密入国の状態。もし捕まれば独房にぶち込まれ、イヤーヤメテエと泣き叫ぶ中、オラッおとなしく吐いちまいなぁと拷問にかけられるのは必須。吐けといわれてもろくなもの食べていないので、きっと胃液ぐらいしか出ないと思う。
どうしましょう、そうだったらキャーッどうしましょうと一人青い顔をして、同じ所を行ったり来たりするが、さあここは危険だ中に入って!と秘密アジトへ案内してくれる革命の同士は一向に現れない。辺りをキョロキョロと見回すと、繁華街のほぼ全部の店がシャッターを下している中、ふと見ると1軒だけレストランが開いていたので、今日はまだ何も食べていないしと匍匐前進しながら中に入ってみることにする。

 何にいたしましょう?とウェイターが注文をとりにきたので、こんな戦時中なのにご苦労様ですとビシッと敬礼すると、は?といった奇妙な目を向けられる。とりあえずメニューに載っていた肉とニョッキのランチ、そしてコーラを注文する。これが約10000グアラニ、約300円。
 戦時中といったら皆迷彩服に着替えヘルメットを被り、機関銃持って注文をとりにくるものだとばかり思っていたのだが、見たところいつもと変わらぬ普通の格好。スペイン語のよくわからない僕がオカシナ注文をして、ウチにはソンナモノ置いてませんズダダダダ!と銃を乱射されたらどうしようと思っていたのだが、とりあえずそれはなさそうだ。
 TVなら爆弾がズトーンドカーン、イヤンバカーンなどという映像が流れていたりして、何かわかるのではないかと思い店内に置かれたTVに目を向ける。だがコメディアンが何やらしゃべっていて、店の客がゲラゲラと笑っている。これはおかしい、非常におかしい。いやギャグがおかしいという意味じゃなくてね。
 
 ウェイターが食事を運んできたので、辞書をペラペラとめくり単語だけ繋いで、キョウ・オミセ・ゼンブシマッテイル、ヒトモ・イナイ・ナゼ?と聞いてみると、最初ナンダコイツハ?という怪訝そうな顔をしていたが、すぐにスィースィー(はいはい)と答え、続けてエル・ドミンゴといわれる。何だろうと辞書をめくると:::日曜日。
 ああ今日は日曜日だったのねえと、ようやく状況を理解する。この旅に出てからというもの、すっかり曜日感覚を無くしてしまっていたのだが、なんだ日曜日ごときでワタシャ大騒ぎしたのかいと急に可笑しくなる。ホッと一安心。

食事を済ませて町をまたぶらつくがやはりどの店も閉まっており、しかもここは何も無いことで有名なパラグアイ、ハッキリいってすることが無い。パラグアイといって思い浮かぶのはチラベルト(フリーキックを蹴る事でも有名な、世界屈指のサッカーの名ゴールキーパー)くらいのもので、しかも彼は今海外でプレーしている。ああ暇だ。
ではパラグアイ川でも見に行こうとテクテク歩いてゆくが、行ってみると汚いただの川。仕方ない宿に戻るとするか。

夜になってお腹がすいたので宿を出て、ペティロッシ通りを今度は繁華街と逆の、南東の方角へと歩いてみることに。するとアジア人街らしき小さな一角がある。そのまましばらくその界隈を歩いていると、1件賑わいをみせている中華系のオジサンが経営する、食堂らしき店があったので中に入ってみる。ここでアサード(骨付き牛リブ肉のあぶり焼き)とコーラを頼む。これを口の中に放り込むと、肉汁がピューッとはじけてめちゃ美味い。アサードはアルゼンチンでも何度か食べたのだが、偶然知り合った現地在住の日本人のご自宅に招かれた時に食べた、炭火でじっくりとあぶったアサードは特に絶品で、肉料理の中ではダントツに、また旅中に食した物の中でもトップ3に入る程だった。しかしこれもその時のアサードに負けず劣らずウマイ。これが10000グアラニ、約300円。

 そういえば言い忘れていたが、何もないああ暇だというような所へ、いったい何しに来たのだと思われているかもしれないが、ここパラグアイのアスンシオンに寄ったのには理由がある。実はアルゼンチンのブエノスアイレスで、サッカーのリーグ戦の試合を観戦していた時に1つ賭けをしていたのだ。
 その時僕はブエノスアイレスの後バスで移動するルートを、どうするか決めかねていた。最終的にはブラジルのリオデジャネイロまでバスで行きたいと思っていたが、進むルートが複数あり結論を出せずにいたので、もしホームチームが勝ったらドコソコ、引き分けならコウ、負けたらナニと決めて、その試合に旅の行き先を賭けてみたのだった。だが下馬評で圧倒的有利だったホームチームが、まさかの逆転負けを喫し一番可能性の低かった、パラグアイ経由のルートを選択することになったのだ。

 そんなことでルートを決めるなよと思われるかもしれないが、風まかせの旅というのも案外楽しいもので、一度その味をしめるとなかなか止められないものなのだ。
非科学的だと思われるかもしれないが、時運という類のモノはどこか風に似ていて、風の吹いていないところでいくら羽をバタツカセテも、疲れるだけで何処にも飛んでいけない。でも風の吹いている方角に羽を広げると何の苦労もなく、パーッと空高く飛べるように物事が順調に進む。だからどこへ向かって風が吹いているのか、試してみようとそんな賭けをしてみたのだ。
 何も無いパラグアイで、しかも密入国状態でどうなってしまうのだろうと一時は思ったが、このアサードを食べられただけでもツイテいる。何だか風が吹いているような気がする。きっと密入国の件だって何とかなるような、そんな気持ちにすらなるのだから不思議だ。
 ひょっとしたら人生にも同じことがいえるのかもなあと、そんなことを思いながら宿のベッドの上で物思いに耽っていた。

翌日7時に起きて待望の和朝食をいただく。白いご飯に味噌汁、味付けのりに焼き魚。ああ幸せ。お代わりは納豆と生卵のぶっかけご飯。うーん日本人でよかったと、熱い日本茶をズズズッと啜りながらしみじみ思う。ああ極楽、極楽。

宿をチェックアウトし、すぐ前にあるペティロッシ通りのバス停から10番のローカルバスに乗って、郊外にある長距離バスターミナルへ向かう。そして9時半発のバスで、アルゼンチンとブラジルとの3国間の国境の町、シウダーデルエステへ向かう。料金が35000グアラニ、約1000円。

何もない田舎道をガタゴト揺られること約6時間、僕を乗せたバスはシウダーデルエステの長距離バスターミナルに到着する。そして近くを通り掛かった係員に教わり、少し離れたローカルバス乗り場へ移動する。

シウダ―デルエステは、僅かここ40年の間に急速に発展したパラナ川沿いの町で、この川は世界一といわれるイグアスの滝へと続いている。隣接する町はそのイグアスの滝の観光拠点である、アルゼンチン側のプエルトイグアスとブラジル側のフォスドイグアスで、そのブラジル側とを繋ぐ国境の橋辺りには、闇マーケットが広がっていることでも有名だ。なんでもこの界隈ではこの町が1番物価が安いとかで、アルゼンチンやブラジルからここの闇マーケットに、皆日帰りで買い物に来るらしい。
またこのパラナ川の膨大な水量を利用した、1991年竣工のイタイプーダムは世界最大とかで、全長8km高さ最大196mもあるとか。密入国状態でなければ行ってみたい気もするのだが、今はまずこの状況を脱することを優先しようと思う。

さっきからずっとバス停の前で待っているが、なかなかお目当てのバスが来ない。バス自体は15分おきぐらいにやってくるので、バス停のすぐ前にある売店のおばちゃんにこれか?これなのか?と聞いてみるが、違うといって首を横に振る。どうやらこれらのバスはフォスドイグアス行きらしい。ブラジルのビザはブエノスアイレスで取得してきているが、僕の持っているのはシングルビザなので、一度入国して外に出てしまうと再入国するにはビザを取り直さなくてはいけない。
僕のパスポートには今だアルゼンチンの出国スタンプが押されていない為、とりあえずはアルゼンチン側へ戻る為、プエルトイグアス行きのバスを待っているのだ。

バス停でそのままボーッと突っ立っていると、パラグアイ人のオッサンが僕のギターを指差し、ドスのきいた声であんさんソイツをお弾きなさるのかい?と聞いてきた。そうだと答えると、ぜひあっしに一度お聞かせ願えますかい?といわれる。そうまでいわれて引いたとあっちゃあ武士の名折れ。ウチの先祖は純度100パーセントの農民らしいのだが、とにかく武士の名折れだからとリクエストに答えギターを取り出し、日本のうたを歌い始める。すると物珍しいのか、子供連れのおばさんやら暇そうな物売りやらナニやらが、ごっそりと集まってきてしまった。

歌い終わるとヤンヤヤンヤの大拍手で、もっと歌ってくれと言い出す。しかしここでプエルトイグアス行きのバスがやって来てしまう。さっきまで無表情で首を横にしか振らなかった、ゼンマイ仕掛けみたいな売店のおばちゃんが、アンタが乗るのはコレよ早くお行きなさいとバスを指差し、僕の背中をポンポンと叩く。皆に別れを告げバスに乗り込むと、皆笑顔で手を振ってくれた。バス代6000グアラニ、約190円。

さてここで問題の国境だ。バスはまずブラジルとの国境、友情の橋を通過する。しかしパラグアイの出国のイミグレーションは素通り。どうやらイミグレ―ションを通るのは入国のみで良いようだ。
それから続いてブラジル側のイミグレ―ションの前を通る。しかしこのバスはアルゼンチン行きなので、これまた素通り。第一関門に続いて第二関門も突破。よしうまくいった。

フォスドイグアスのビルが立ち並ぶ近代的な町の中を抜けて、さらに郊外に向け走ること30分。今度はアルゼンチンとの国境タンクレードネベス橋を通って、プエルトイグアスへ入る。
ここでアルゼンチン側のイミグレ―ションの前でバスは止まり、入国スタンプの必要な人は降りてイミグレ―ションへといわれる。しかし僕はパラグアイの宿で、この3都市間は日帰りの観光目的なら、出入国のスタンプがいらないことを聞いて知っていたので、日帰りでーすといった顔をしてそのままバスの座席に座っていることに。
しかしさすがはアルゼンチン、国境の係員が2人さっそうとバスに乗り込んできて、全員のパスポートをチェックし始めた。

僕の番になり、スペイン語で入国のスタンプは?というようなことを聞かれたので、今朝プエルトイグアスからパラグアイのマーケットに行き、日帰りで帰ってきたところですと英語で言うと、この係員は英語が分らないのか、顰め面をしてそのままパスポートを返してくれ次の人へ行ってしまった。もっともこれは、南米ではほとんど英語が通じないことを分っていての計画的犯行。イイカゲンな南米人のことなので、アルゼンチンの出国スタンプがまだ押されていない僕のパスポートを見せれば、なんとかなると思ったのだ。そして全員のチェックを終えると、係員はサッサと降りて行き再びバスは走り出す。

僕は大きなバックパックとデイバック、そしてギターといった大掛かりな荷物を抱えていて、どう見ても日帰りのはずはない。だがやはりそこはイイカゲンな南米、なんとかなってしまった。これで無事アルゼンチンへ帰還。密入国状態解除。ホッと胸を撫で下ろす。

都会的なブラジル側と違い、こじんまりしたアルゼンチン側のセントロ(町の中心)でバスを降りる。そこからブエノスアイレスの宿で教わった町外れの安宿へ行くが、1000円ぐらいと聞いていたのにもかかわらず違う値段をいわれる。
主人曰く素泊まりのシングルルームで1泊15ドル。アルゼンチンドルはUSドルと1対1のレートなので随分高い。
 値引きを試みるが改装したばかりだとかで、宿帳を見せられホラ他のお客も15ドル払っているだろうといわれる。今から他の宿を当ても無く探し回るのも嫌だったので、しかたなく明日は荷物を預けて観光することにし、1泊だけチェックインした。2~3泊予定していただけに残念だ。きっとブラジルが早く僕に来て欲しいのだろうと、そう解釈することにする。

部屋に荷物を降ろしベッドに横になる。突然思いがけず密入国状態になってしまい、一時はどうなることかと思ったがなんとかなってしまった。旅はなるようにしかならないが、それなりになんとかなるものである。アルゼンチンへ戻りほっとしたのか、あっという間に眠ってしまった。

拝啓、世界の路上から 第9話「グッバイマチュピチュ/ペルー」

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第9話「グッバイマチュピチュ/ペルー」

うーんやっぱり空気が薄いな。息苦しい。
ここは標高3360mにあるペルーのクスコ。イースター島からチリの首都サンチアゴに戻り、島で知り合ったアメリカ人ロスのギターと僕の歌とで、現地のライヴハウスに出演したりして数日過ごした後、彼と別れた僕はサンチアゴの旅行代理店で航空券を購入し、かつてインカ帝国の都だったクスコにやってきた。

ペルーの首都リマから南東に1180km離れた、ケチュア語でヘソを意味するクスコは、1533年11月15日に当時の王だった第13代皇帝アタワルパを殺害し、エクアドルから南下してきたスペイン人によって征服されるまで、南米大陸をまたにかけた大勢力、インカ帝国の中心地だった。
クスコを制圧したスペイン人は、インカの民が信仰していた太陽神の神殿などを破壊して、そこにスペイン風の教会や邸宅などを建てた。だがカミソリ一枚通さない精巧な石組みであるインカの建築物や、クスコを中心として南米大陸各地に伸びるインカ道、灌漑用水路などが郊外に現存している。また幻の空中都市と呼ばれる、マチュピチュへ行く為の拠点としても有名な町だ。

それにしてもこの町は本当に坂道ばかりが続く。おまけにここは標高が高く空気が薄いのでちょっと歩けばすぐに息があがってしまい、いつもハアハアと酸欠状態になる。

宿泊している日本人長期旅行者が集まる宿を出て、長々と続く坂を下るとようやく町の中心部であるアルマス広場に出た。
この広場にある旅行代理店で、明日マチュピチュに行く列車のチケットを手配する。だが多くの観光客の足となっている、アウトバゴンと呼ばれる急行列車の座席を予約しようと思っていたのだが、すでに一杯というのでしかたなくローカル電車で行くことに。

 初日はあまり動き回ると高山病になる恐れがあるので、宿で高山病予防に効果があるというコカ茶などを飲んで、この日はおとなしくしていることに。高山病は酷い場合には肺に水が溜まったり、脳がむくんだりして死に至る場合もあるので恐い病気だ。かといって昼間から眠れないしどうしようか思案していると、宿の本棚に日本の漫画が並んでいるのを見つける。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の20年位前の単行本があったので、それらを読みながら、ご自由にお飲みくださいと置かれていたコカ茶を飲む。コカ茶はでかい葉っぱがそのまま入っているので、ちょっと飲みにくいがカモミールに少し似た味がする。でもお茶ばかり飲んでいたので何度もトイレにいくはめに。

夜になると標高が高い為か、雪が降るのではないかと思う程かなり冷え込んだので、宿のドミトリーに置かれていた厚手の毛布を、体中に何枚もぐるぐる巻きつけて眠る。なんでも僕は寝言を言うらしいので、たぶん伊達巻!とぶつぶつ呟いていたと思う。

翌朝7時半発のマチュピチュ行きのローカル電車に乗る為、朝6時に起きてタクシーを拾いサンペドロ駅に移動する。タクシー代が4ソル、120円。こんなものかなと思って乗ったのだが、後で聞いた話ではこれでもかなりボラれたみたいで、相場は2ソルぐらいらしい。
駅に着いてから55ソル、約1650円のチケットを購入しホームに駆け込むと、そこにオンボロの列車が停まっていた。どうやらこれが僕の乗る列車みたいだ。僕の座席は2等の指定席。列車に乗り込むと周りには現地の人しか見当たらない。それでも現地の人にとってもマチュピチュは一大イベントなのか家族連れが目立ち、子供がはしゃいで列車の中をバタバタと駆け抜けて行く。しばらくして列車は走り出し、かなり左右にガタゴトと揺れながらウルバンバ川や、万年雪を頭に被った東アンデスの山々を眺めて走ること4時間半、マチュピチュの最寄り駅であるアグアスカリエンテスに朝11時半に到着。

スペイン語でお湯を意味する小さなこの町は、露天の温泉があることで有名。元々はひっそりとした温泉の保養地だったらしいが、クスコからマチュピチュへ向かう列車が、ここを基点に運行するようになり観光客が増加。それに伴いお店などが増えて町らしくなってきたという。ここの温泉は関節炎に効くとかで現地の人にも人気らしいのだが、僕は水着を持ってきていないので入れない。残念。
駅を出ると食べ物やみやげもの、そしてなぜか蛇やサソリやタランチュラなどゲテモノを売るずらっと並んだ商店街があり、そこを抜けてバス停へと向かう。
アグアスカリエンテスから往復15.5ソル、約465円のミニバスで、曲がりくねったつづら折りの山道を登ること30分、ようやく空中都市と呼ばれるマチュピチュに到着する。3日前にクスコに着いたときは雨が降っており、天気予報ではしばらく雨とのことだったが、この日のマチュピチュは雲一つ無い快晴。最高の観光日よりだ。

クスコからウルバンバ川に沿って114km下ったあたりは、熱帯雨林のジャングルになっており、そこから断崖絶壁の山を400m一気に登ったところに、スペイン人によってクスコを追われた、1万人ものインカの民が暮らしたという秘密基地マチュピチュは存在する。
標高2280mの山の頂上にある為下からはその存在を確認できないことが、この遺跡が空中都市と呼ばれる所以なのだが、1911年アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見された時は、草に埋もれた廃墟だった。
 スペイン人に追われたインカの民は、高い山の上の頂に精巧な建造物を作り持ち出したインカの黄金を、その秘密基地ビルカバンバに隠したという古い記録があり、それをヒントにしたアメリカ人歴史学者の手によってマチュピチュは発見された。
しかし残念ながらマチュピチュはビルカバンバではなかったようで、マチュピチュの民は遺跡が発見される400年前に自らこの町に火をかけ、さらに奥地に姿を隠したらしい。そこに新たに築いたとされる空中都市が、その伝説のビルカバンバだといわれているのだが、その都市の遺跡はいまだ発見されておらず真相は闇に包まれたままだ。

10USドルのめちゃ高い入場料を支払い、ゲートをくぐり中に入る。しかし僕はギターを持っていたので、それはバゲージカウンターで預けてこいといわれる。
歌うことが目的でわざわざやって来たのだから、歌わない筈はないのだがここは嘘も方便と、お願い持っているだけで歌わないからいいでしょう?と、すがるような目をうるうるパチパチさせ、顔も右斜め45度に傾けて粘るが、持込禁止だから駄目だと入れてくれない。僕チャン難しくてよくわかんなあいと子供のフリをしてみるが、しばくぞオッサン!と一喝されやはりNG。誰がオッサンやねん!と腹に沸きあがる感情を抑えつつ、泣く泣くギターを預けることにする。まあ後でマチュピチュが見える丘にでも登って、ゆっくりと歌うことにしよう。

中に入ると見渡す限りの段々畑。かなり勾配のキツイこの段々畑をハアハアと息を切らしてひた上がり、遺跡内のてっぺんにある見張り小屋と、当時墓地だったという一角に辿り着く。そしてそこで見たものは、まさにイメージしていた通りの風景。空中都市マチュピチュが他の色を寄せ付けないのではないかと思うほど、真っ青な空に吸い込まれるようにして、見渡す限り一面に広がっている。
その背後にはひときわ高く、まるでロケットの頭の部分みたいにとんがったワイナピチュ(若い峰の意味。一方マチュピチュは老いた峰の意味を持つ)の山が、悠々とそびえ立つ。
世界遺産の写真集を夜な夜な開いては、いつか行ってみたいと穴が空くほど見つめた風景が同じように、いやその何倍もの大きな存在感で、どうだといわんばかりに今僕の2つの眼をめがけて飛び込んでくる。何か言おうとしても、喉元辺りで声にならなくなってしまうそんな風景。何の言葉すらなく、ただただそこに立ち尽くし見とれてしまう。

魂がぴょーんと抜け出て、遠い世界にさようならと旅立ってしまったのではないかと思う程、いつまでもボーッとその景色を見つめたまま動けずにいると、しばらくして英語で写真を取ってもらえないかと声をかけられる。ようやくハッと現実に戻る。
振り返るとアジア人の青年がこちらを見てニッコリ微笑んでいる。ああもちろんですと英語で答えてオートフォーカスのカメラを受け取り、パシャッと1枚シャッターを押す。
どこから来たのですか?と聞かれたので日本の東京と答えると、あっなんだ日本の方でしたかと、今度は日本語で話かけてきた。彼もまた日本人だったのだ。彼の話では僕がペルー人に見えたとのこと。会って最初に交わした言葉が、南米系の顔ですねとはどういうこと?と思いつつ、ああそうでしたかと目の辺りをピクピクさせてニッコリ笑って返す。チャイニーズ系とはよくいわれたが真っ黒に日焼けしたせいか、いよいよ南米人にも間違えられるようになったらしい。まあ南米人も元々同じモンゴロイド系だものね。
マチュピチュはどうですか?とさり気なく言葉を交わす。するとなんでも彼はマチュピチュに滞在して今日で4日目とかで、アグアスカリエンテスの宿に宿泊しているらしい。またワイナピチュからの景色が最高だとしきりに進められたので、それならと登ってみることにする。

段段畑を下り、太陽の神殿や石切り場を抜けると大広場に出る。そこからさらに東へ向かって遺跡の端まで歩いていくと、ようやくワイナピチュに向かうゲートへと出た。入り口には小さな小屋がありノートが置かれていて、時間と名前国籍を記入する仕組みになっている。これは以前事故にあって帰らぬ人がいたとかで、以来チェックの為入下山時にいつ誰が登り、何時に帰ってきたのか記入するようにしたらしい。
自分の名前などをノートに記入し入山すると、そこからは一本道が続いている。最初は木々の間を抜ける下り道なのだが、とにかく道幅が狭く人1人通るのがやっと。下山してくる人とすれ違うのも一苦労だ。
マチュピチュとワイナピチュの繋ぎ目なのだろうか、一頻り坂道を下ると今度はマジですか?とボヤキたくなる程急な登り道に変わる。ウエを向イテ、歩こう~♪と鼻歌を歌いながらとぼとぼと山道を登ってゆくが、想像していた以上に勾配が険しく、気付けばさっきから下を向きっぱなし。しかし道はどんどんと急になり、道幅もほとんど無くなって、岩肌に張られたロープを掴みながらでないと登れない程。おまけにどんどんと標高も高くなり空気も薄くなってきた。かなり息苦しい。山道を歩くというよりは、よじ登るに近い状態。いつの間にか鼻歌はビートルズのHELP!に変わっている。あれ?
最初は少し駆け足気味で、ヘヘッ!と鼻を鳴らして他の登山者を追い越して登ってきたのだが、30分も登るとそれはヒィヒィに代り終には、かっ勘弁してくださいと泣きが入る。もう1歩も動けなくなってしまったので、しかたなく少し休むことに。あっ先程抜かした白人の登山者が、笑いながら追い越して行く。あー悔しい、カッコ悪い。

しばらくそのまま休んでいると、上から下山してきた人達にあと残り10分ぐらいだから頑張って!と励まされる。普通それならもう一息!となるのかもしれないが、ええ?まだ10分もあるの?という気持ちが先立って、よけいに起き上がれない。エレベーターとかありません?と思わず聞きたくなる。そんなものある訳無いだろうが。

しかしいつまでもここで休んでいる訳にもいかないので、しぶしぶまた登りはじめる。するとようやく見晴台のような開けた場所に出た。頂上まであと一息だ。
道は岩場へと変わり、こんな所本当に人が通れるのか?と思うような岩のトンネルの隙間を抜け、そのトンネルを形成するでかい岩肌をよじ登るとようやく頂上だ。あーもう駄目!死にそう。

しかしまたここの風景を見て言葉を失う。
360度広がるパノラマの世界。標高2743mのここワイナピチュの頂上よりも、遥かに高い山々が周りに高く聳え立ち、さらに奥には頭にすっぽりと万年雪をかぶったアンデスの山々が連なっている。そしてマチュピチュが、遠く下の方に豆粒のように小さく見える。標高差約450m。改めてかなりの山道を歩いたのだと実感させられる。

心地よい風を受けながら、しばらく岩の上に横になって休む。
ふと横を見ると岩の上で、蝶々が羽を休めて止まっていた。こんな所にも命が息づいているのだと驚かされる。そして下界とは時間の流れが違うのではないかと思える程、ここは穏やかに緩やかに時が流れるそんな場所。いつまでもここでこうしていたいとそんな気持ちにさせられる。

それから少し休んで、登りあれほどキツかった急な坂道をダーッと一気に駆け下りてゲートに戻ってくると、時計の針は2時半を指していた。小屋に置かれたノートに下山時刻を記入し自分の名前と共に、その横に書かれた入山時刻と照らし合わせると、ちょうど2時間程のショートトレッキングだった。

その後30分程、また段々畑の上からマチュピチュをぼうっと眺めて過ごす。多くの観光客はガイドに連れられて、遺跡のあちこちをあれこれ説明されながら歩いているが、僕にとってそれはどうでもよいこと。3つの窓の神殿は伝説のタンプトッコといわれているとか、その穴から初代皇帝マンコ・カパックが湧き出し、インカ帝国を築きましたなどといったうんちくを詰め込むよりも、ただこの美しい景色を眺めていたいと思った。

青い空に溶けて無くなってしまいそうな、そんなマチュピチュでの一時は、僕を幸せな気持ちにしてくれた。

本当はもう少しこうして景色を眺めていたかったが、予定している帰りの列車が4時半発なので、そろそろマチュピチュを後にすることに。

バゲージカウンターでギターを受け取りインカ道を少し降りると、ちょうどマチュピチュが良く見える場所に大きな岩があったので、それに腰掛けギターを取り出し歌い始める。
チチッ、チチチッという鳥の鳴き声と共に、僕の歌声が深緑に包まれた山々に響いている。それがマチュピチュへと届いたのだろうか、インカの民族衣装に身を包んだ小学校低学年ぐらいの少女(少年?)が降りてきて、じっと僕の歌を聞いている。
日本語の歌なのにわかるかな?と思ったが、真剣に聞いているので僕も心を込めてその子に、そしてマチュピチュに向かって歌い続けた。
歌い終わるとその子はこれあげるといって、袋に入ったビスケットを1箱くれた。そしてアミーゴ(友達よ)チャオ(またね)といって、さらにインカ道を下へと降って行く。
グラシアスとお礼を言うと、振り返って微笑みアミーゴチャオと何度も手を振りながら去っていった。思わぬ出来事に嬉しくなる。

インカ服の子供が去ってから、アップテンポの曲を始めた所でギターの3弦が切れる。急いで張り替えようとするが、どうやらクスコの宿に代えの弦を忘れてきたらしい。
まだ1曲しか歌っていないのに、3弦の無いギターでは辛過ぎる。やはり日頃の行いが悪いのだろうか。とりあえずバラードならもう少しイケルかとさらに2曲程歌う。

ふと時計に目をやると4時少し前だったので、列車に遅れてはいけないと急いでバスに飛び乗る。そしてまもなくするとバスは鉄道駅に向かって動きはじめた。
しばらく走ると、曲がりくねったつづら折りの山道の、急カーブするコーナーの1つで、インカの民族衣装を着た地元の子供達が何人か集まっており、そのうちの1人がグッバーイ!と叫んで手を振っている。

窓から顔を出してその様子を見ていると、その子供達の中に先程僕にお菓子をくれた子も混じっていた。子供達の中でひときわ小さい彼女(彼?)も僕に気付いたらしく、さっきまでその場にぼんやりとしゃがんでいたのが、サッと急に立ち上がり顔に満弁の笑みを浮かべ、アミーゴチャオといって手を振りながらバスに向かって走り出してきた。僕も同じようにバスから身を乗り出して手を振って応える。もちろんバスのスピードに小さな子供が付いて来られるはずもなく、すぐにその姿は見えなくなってしまったが、僕の胸には言葉にならない熱い思いが込み上げていた。

そうか、あの子はグッバイボーイだったのだ。

噂に聞いていたグッバイボーイ。近年になって作られた鉄道駅とマチュピチュを結ぶバス通りは、つづら折に横に長く曲がりくねって続いている。しかし一方人が通る昔からのインカ道は縦にまっすぐと伸びており、走ればバスより早く下に降りることが出来る。これを利用し、現地の子供が毎カーブごとに先回りして、グッバイ!とかアディオス!と叫んでは山の麓までついてくるのだ。
ただバスは15分に1本ぐらいの割合であり一度下に降りてしまうと、とてもじゃないがすぐには登ることが出来ない。それでバス1台に子供が1人ずつ、担当制でずっと後をついてくるみたいだ。
僕にビスケットをくれた子はまだ自分の番ではなかったらしく、僕達のバスについてきた子供は別の少年だったが、先回りして何度もグッバーイ!と叫ぶ少年の姿は、バスの白人達に好評で、彼が叫ぶ度にバスの中ではどっと笑いがおきる。

そしてバスが山の麓に着くと少年はバスの中に乗り込んで来て、グッバーイ!と1つひときわ大きく叫ぶ。おおっ車内にまで入ってくるのかと驚いていると、少年は乗客からチップをもらって回っている。どうやらこれは彼達のいいアルバイトのようだ。
僕もすっかり気をよくしていたので、チップをあげようと財布を探していると、隣に座っていた白人のガタイのいいおじさんが先にチップをあげてしまった。するとその少年は僕達を親子だと思ったのか、次の席へと行ってしまった。どう考えても僕達が親子のはずは無いのだけど、サイフサイフとブツブツいいながら財布を探し、デイバックの中から見つかった時には、少年はもうバスを降りようとしていた。別にメガネメガネと横山やすしのネタの真似をしようとしたとか、時間稼ぎをしてお金を出さずにおこうとか、そういった他意は無かったのだけれどまあいっか。

そして少年は最後に大きくグッバーイ!と叫んで、バスを降りていった。

へえおもしろいなと感心しながらも、観光客からチップをもらうグッバイボーイ、そしてそのグッバイボーイからお菓子をもらう自分という構図を、頭に思い浮かべてヘヘッエヘへと1人笑う。理由がわからない他の乗客には、頭のおかしい兄ちゃんだと思われたかもしれない。

予定より10分程遅れて走り出した列車は、4時間半程かけクスコの街に戻ってくる。郊外に段々畑のようにして、切り立った山に面し立ち並ぶ家の横を鉄道のレールが敷いてある為、真っ直ぐに降りてくることができず、途中何度も止まってはレールを切り替えて、ジグザグに振り子のように行ったり来たりして、やっとの事で列車はクスコの鉄道駅へと到着する。
その途中車窓からこぼれるクスコの街明かりは、まるでミルキーウェイのような輝きを放っていて、乗客が皆窓にへばりつくようにしてその街明かりをずっと眺めていた。

しかしクスコの鉄道駅に到着した時は、夜の9時半を過ぎており少し不安になる。この時間は複数の人間がグループをなし、人通りの少ない路地などで後ろから首を締めて金品を奪う、この街の名物?ともいえる首締め強盗が多発するからだ。
ここは金を使うところと、駅でタクシーを拾い宿まで戻ってくる。ここでも5ソル、150円とボラれるが、親切だったので言い値で払ってあげた。そして宿に着いたのが夜の10時。

宿に戻りリビングルームで、グッバイボーイにお菓子をもらいましたと他の日本人旅行者に言うと皆に笑われた。でもせっかくなのでと皆で、グッバイボーイから貰ったビスケットを食べる。そのビスケットは素朴でどこか懐かしい、優しい味がした。グッバイボーイとの思いがけない出来事に少し驚いたが、こんなふれあいがあるから旅はたまらなく楽しい。

ここでの目的だったマチュピチュで歌うというテーマも達成できたので、明日この町を出ることにする。もう少しここにいたい気持ちだったが、また新しい何かが僕を待っているそんな気がするので先を急ごうと思う。

ビスケットを口にくわえて宿のリビングルームを出た僕は、1人廊下の窓から空の星を眺め、静かにグッバイ!とそう呟いた。

拝啓、世界の路上から 第8話「モアイの住む島/チリ・イースター島」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第8話「モアイの住む島/チリ・イースター島」(後編)

最終日。日本の友人に送る絵ハガキを郵便局に出しに行った後、午後からロスと鳥人儀礼の行われたオロンゴ岬へ行く。
イデさんも誘うが今日はパスとのこと。レンタルした車は昨日返してしまったので、タクシーを捕まえ交渉すると、1時間チャーターして5ドルという。自転車をレンタルしても1日1台10ドルなので、初め僕達は運転手に1時間で10ドルくらいか?と訪ねたのだが、いやそんなに要らない1時間で5ドルだと下方修正された。えっ本当に?と聞くと、インディアン嘘つかないという。
アンタはインディアンじゃないだろうと思いつつ、大抵の国では観光客と見るや、相場より遥かに高い不当な料金を請求されたり、いいカモとばかりにボラれることが日常茶飯事なのだが、そんなに要らないなどといわれたのは初めてだ。本当にイースター島の人達はいい人が多い。

オロンゴというのは18世紀のフリモアイ戦争が収まった後、モアイ信仰に代わって戦士階級の間で広まったマケマケ信仰「鳥人儀礼」の聖地で、死火山であるラノカオ火口を望む山頂にある。その裏手は断崖絶壁ですぐ下は海になっており、ここから泳いで少し離れた沖にあるモツヌイ島まで渡り、渡り鳥マヌタラの卵を取って帰ってくるという鳥人レースの行われた場所だ。
このレースは1年に1度行われ、1番最初に卵を持ち帰った部族の戦士が鳥人(勇者)として、次の1年間の政治的及び宗教的実権を握ることが出来たという。

チョウジン・レースというと思わずキン肉マンを想像するのだが、残念ながらゆでたまごの漫画は関係無いらしい。タマゴ繋がりまでは近かったけど、屁のツッパリがいらないスグル君はエピソードには出てこない。チョット残念。

なぜこのような鳥人レースが行われたのだろうと考えていると、ふとサッカーのワールドカップのことを思い出す。
日本のような島国では少し判り難いのだが、国土を隣接する大陸の各国では、長年に渡り異民族間で激しい領土争いが繰り広げられてきた。世界中の人が熱中する世界一をかけた、各国の代表チームが戦うサッカーのワールドカップは、国家間の血を流さない代理戦争(時々血も流れるが)の意味合いも持っている。あれだけ人々がクレイジーなまでに熱狂するのは、アイツラだけには負けたくないといった、異民族や国同士の歴史的背景も大きく影響しているのだ。
同じようにこの鳥人儀礼もひょっとすると、部族間の血で血を洗う長い戦争にピリオドを打つべく、始められた儀式かもしれないなとそんな想像を巡らす。

しばらくぼんやりとオロンゴの景色を楽しむ。
澄んだ青い海の水平線に空にまばらに浮かぶ白い雲の跡が、ゆっくりとゆっくりと流れて行く。そしてその中に小さなエメラルドグリーンの島が、天からの授かりもののように神々しくぽつんと浮んでいる。こんなに美しい場所を僕は今まで見たことがない。
ロスと2人でその場に佇んでいると、係員が声をかけてきた。ここは国立公園になっているのだが、他に観光客がいなかったこともあってか、係員が公園内を案内してくれるというのでお言葉に甘えることに。

その係員の話しによるとこの一帯はサメが多くて、鳥人レースの時も多くの人が犠牲になったらしい。ロスがすかさずそれは今でも?と聞くと、もちろんと係員は真面目な顔をしていう。だからビーチもあぶないので迂闊に泳いではいけないよと注意されるが、今頃いわれてもあのう僕達昨日1時間以上もしっかり泳いじゃってルンデスガと、ロスと顔を見合わせ苦笑いする。
 またこの係員は親日家らしく、僕が日本人だとわかると日本のうたを知っているよと何やら歌い始めた。歌詞はわすれてしまったけどといって口ずさむ、彼のフレーズを聞いていると坂本九さんの「上を向いて歩こう」だ。I knowと答えて、一緒に歌うと彼は嬉しそうに笑っていた。

ハンガロアの村に戻った後、村の中にあるアフタハイの「目があるモアイ」を見に行く。モアイには元々どのモアイにも目があったらしいのだが、魔力が宿るとかでその目は戦争で全部壊されてしまったとか。だから目があるモアイは現実には存在しないのだが、何年か前に新しく目をつけてもらったとかで、このタハイのモアイだけは目があるらしい。
行ってみると確かにそのモアイには、白いペンキで下地を塗り潰しダルマにスミ入れするように目玉が書かれている。でも何だか知事選に勝ったオヤジが、胸に赤い花をつけてバンザイ三唱しながら入れたみたいで、思わず当選!と張り紙したくなるようなシロモノ。何か違うのでは?と思っちゃうのは僕だけだろうか。しかもツブラな瞳は酷くシュールで、思わず3歩ぐらい後退りしてしまう程かなりブキミ。見つめられたらちょっと怖い。イヤお願いだからそんな目で見ないで。
しかしここは島で1番のサンセットポイントらしく、ロスと2人で日没を待っていると、先日会ったアサノさんとばったり会う。少し雲は多かったが、3人で見た夕日はなかなかのものだった。

夜はいつものメンバーにアサノさんを加えた4人で、パスタを作って食べる。また最後の晩餐なのでとビールとワインで乾杯した。
食後に皆でアドレスを交換していると、ロスが自分の名前を漢字で書いてくれた。彼はロス・ドイルだからと露巣土井流と書いたのだが、トンネルとかにある暴走族の落書きの○×参上!みたいと皆に茶化される。しかしこんな楽しい状況を?やたらと人に名前をつけるのが大好きな、イデ姉さんがほおっておくはずが無い。
すぐさまロスの「ス」は、るすの「ス」にしようと言い出し、それならいっそうの事「留守土井流」にしたらという話になり、彼は僕達に無理矢理改名させられることに。でも留守土井流って、なんだか居留守土井さん流みたいだねと皆で腹をかかえて笑う。あんたら人の名前を何だと思ってるの。

モアイに会いに来たイースター島。しかし僕はここで、それ以上に素晴らしく楽しいものを手に入れた気がする。
この島に来て考えさせられた幸せの意味。まだその答えは出ていないけれど、きっとそれはそれ程難しくないもののような気がする。
日本にいた頃、それは手を伸ばしても届かない得がたいもののような気がしていたのだけれど、僕は間違いなくこの島に来て幸せだと感じていた。

幸せはそんなに難しくはない。今はそう思える。

ロスのアドレス帳に、旅が終わっても友達でいようとコメントを書きながら、この島での大切な5日間をいつまでも僕は噛み締めていた。

拝啓、世界の路上から 第8話「モアイの住む島/チリ・イースター島」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第8話「モアイの住む島/チリ・イースター島」(前編)

「日本人ですか?」その声に振り返ると、大柄な白人男性が立っている。ええと答えると、「やっぱり。あなたもユースホステルに行くのですか?」と続ける。彼もこれからユースに向かうらしく、どうぞよろしくと日本語で挨拶される。
先程空港のインフォメーションで宿泊の予約を入れた、ユースホステルの担当者から教わった辺りまで歩くと、駐車場に送迎の車が停まっていたのでその白人男性と一緒に乗り込んだ。

 ニューヨークの後、マイアミを経由しメキシコのカンクンへ。そこでマヤ文明の遺跡などを見た後、チリの首都サンチアゴに旅を進める。いよいよこの旅もアジア、アフリカ、オセアニア、北米ときて5番目の大陸、南米に入る。

 サンチアゴの旅行代理店では、念願だったイースター島行きの航空券を購入。そう今僕はチリ本土から3800km、そしてそれに次いで近いタヒチ島からも約4000km離れた南緯27度、西緯109度にある南太平洋に浮ぶ孤島、イースター島に来ている。
オランダ人ヤコブ・ロッヘフェーンによって、1722年4月5日の復活祭(イースター)に発見されたことにちなんで名付けられたこの島には、世界7大不思議に数えられる遺跡、モアイがあることで有名だ。

先程声をかけてきた白人男性の名前はロス。以前日本に2年間住んだことがあるというバンクーバー在住のアメリカ人。日本に興味があって、大学時代からずっと日本語を勉強しているという。目を閉じると日本人かと思う程日本語がうまい。

マタベリ空港から車で走って、3分程でユースホステルに到着。
周囲58km、長さ23km、最大幅10kmの直角三角形に似た形をしたイースター島は、総面積165k㎡しかない小さな島で、総人口2800人といわれるそのほとんどの人が、ハンガロアという村に住んでおりこのユースもそこにある。僕とロスは離れのプレハブ小屋の、3人部屋のドミトリーを割り当てられる。部屋数は5つ程で10~15人もいたら、一杯という小さなユースだ。

宿の人はすごく親切だったが建物は古く、部屋でもリビングでもうじゃうじゃと這いずり回る、つやのある黒光りしたやたらとでかいゴキブリ達の洗礼を受ける。しかしここは熱帯の小さな孤島。コンナモノサと割り切るが実は何を隠そう僕は、この世でゴキブリ程苦手なものはなかったりする。
寝ている間にコンニチハと勝手に口の中に入られて、寝ぼけてムシャムシャとオイシク食べちゃうと非常に困るので、見つける度にマメにこのやろう!と、プチプチ靴で踏んづけてやっつけるのだが、その数はこの日だけでも軽く20匹を越える。ちょっとうんざり。別にゴキブリに罪は無いのだろうが、嫌いなのだからショウガナイ。でも言ってることはいじめっ子と変わりない。

しかし翌日、昨日の仕返しだろうか朝からいきなりハプニングが起こる。
シャワーを浴びて服を着ると、デニムのジーンズの中で何やらもぞもぞと動いている。ハッまさか?と恐る恐るそのジーンズをそっと脱いで見てみると、ガーン!やっぱりゴキブリだ。ぎゃおお!と絶叫し、急いでジーンズを脱ぎ追い払う。小さい奴だったが目の前に突きつけられると、すいませんワタシが悪かったと無条件で土下座してしまう程、ゴキブリ嫌いな僕なのでやはりショックの色は隠せない。しなを作ってシクシクと泣きたい心境。
キズモノにされた恨みと、即刻靴を履いてプチッと踏み潰し死をもって償ってもらう。そしてすぐさまシャワーを浴びなおし、ジーンズも手洗いすることに。
洗面所で石鹸を片手にゴシゴシとジーンズを洗いながら、勘弁してくれえ!と泣き言を言っていると、ロスがエ?何?何?と寝ぼけ眼をこすりながらベッドでうごめいていた。そしてまた新たなゴキブリが、部屋をカサカサと走り抜けて行く。ああ熱帯、ここは熱帯そう熱帯~♪。1曲できそうである。

表にジーンズを干した後、ロスと一緒に食堂に行く。すると同じユースホステルに宿泊しているイデさんも、一足先に食堂に来ていた。
イデさんは1年半程世界のあちこちを旅していて、3日前にイースター島に着いたとのこと。先程のズボンに入ったゴキブリの話をすると、ここは多いから気をつけてと笑っている。平気なのですか?と聞くと、まあ慣れだねと一言。さすがに女の人1人で世界を旅してるだけあって根性が座っている。というより男のクセに、ゴキブリくらいでいちいち騒ぐなということなのだろうか。だってぇキライなんですもの。なぜかオネエ言葉。

食事の後イデさんが市場に行くというのでついて行き、一緒にマグロをシェアして購入。とれたてのやつが1kg200円ぐらい。安い。その後宿に戻って溜まった洗濯物を手洗いしてから、ロスと3人でユースから徒歩5分程の所にある、村の小さなスーパーマーケットで買い物をして昼食を作る。
この日の昼食は朝市場で買ったマグロで鉄火丼を作る予定だったが、さばいている時に小さな卵があり寄生虫がいるかもしれないので、念のため火を通して生姜と卵でとじて食べる。
寄生虫ダイエットというのが昔話題になったことがあるが、何が哀しくて自分のお腹でソンナモノ、愛情注いでせっせと育てなきゃならんのだと思うので、生で食べた方がウマイことはわかっていたが一応念には念を入れる。しかしこれもナカナカのもので、悪くない。

それから3人で海を見に行く。ロスはギターが弾けるというので、僕のギターを持って行き2人のフェイバリットであるU2の曲を、ロスのギターと僕の歌とで海に向かってセッションする。
その帰りに明日から島内を散策する為、レンタカーの手配をする。2日で80USドル、ガス代を入れても3人でシェアすれば1人あたり30USドル。悪くない。
チリにはペソという通貨があるのだが、ここイースター島では小さな商店を除き宿やレンタカー屋といった場所で、USドルがそのまま使えるのがありがたい。
宿に戻って夕食の準備にとりかかる。晩御飯のメニューは昼の残りのマグロと、スーパーで買ったトマトを使ってパスタを作り3人で食べた。

さらに翌日、昨日借りた車でモアイを見に行く。周囲58km総面積165k㎡の小さな島といっても、遺跡は島のあちこちに散らばっているので、車を使っても全部を1日で見てまわるのは難しいくらいだ。

まずは島の東側から車を走らせるが、こちら側のモアイは皆倒れておりイマイチ。
イースター島では18世紀頃、フリモアイというモアイ倒し戦争があった。これは当時人口増加などによって著しい食料不足に陥り、その食料を争って異なる部族間で激しい戦争が起きる。その時に相手の部族の守り神であるモアイを倒すことによって、戦争を有利な方向へ導こうとしたらしい。
その戦争によって島内の多くのモアイが倒されたのだが、戦争が収まった後製造に激しい労力を必要とされるモアイ信仰に代わって、別の新たな信仰が広まった為、倒されたモアイはそのまま近年まで放置されていたとか。ほとんどのモアイがうつぶせに倒されているのは、モアイの目には魔力があると信じられていたので、その目を壊して下向きにしたらしい。

そのまま車を走らせバイフという遺跡に行く。ここで倒れているモアイを真似て一緒にロスが寝そべって倒れ、写真を撮ってくれと言い出す。モアイでぇす!とふざけるロスを、イデさんと大笑いしながら撮ってあげる。なかなか面白い奴だ。

昼頃ラノララクという遺跡に到着。ここは10世紀から11世紀にかけて始まったモアイを製造する為の石切り場で、作りかけのモアイが約390体も立っており、さながらモアイの製造工場といった感じ。
ここにはモアイの原料である凝灰岩でできた死火山があり、火口にはトトラ葦という浮き草の自生する美しい火口湖がある。3人で石切り場を登ってこの火口湖を見に行く。
上まで登ると360度海が広がっており、水平線がどこまでも青く続いている。近隣に他の島がまったく無いイースター島では、まさに360度青い空と海しか無い。こんな光景見たことがない。ここに昔住んでいた人は、この地球上に他の大地があるなど思いもしなかったのだろうなと、そんな事をぼんやり考え海を見つめる。
そしてここでイデさん特製の、僕とイデさんで持ち寄ったフリカケとロスが提供した缶詰のツナが入ったおにぎりで昼食にする。素朴な味だが、涙が出る程めちゃくちゃ美味い。おっおっおむすびおいしいねと思わず裸の大将の、芦屋雁之助のモノマネが出てしまう。ウケタイ精神旺盛な僕を、何事もなかったかのようにほったらかす同行2人。突っ込んでもくれない。寂しい。

昼食の後、車を走らせトンガリキのモアイを見に行く。ここでは15体の巨大なモアイが一列に並んで立っており、このモアイの修復工事をしたのは何を隠そう日本のタダノクレーンという会社。
1988年11月放送の日本のクイズ番組で、当時のイースター島知事だったセルジオ・ラプ氏が、クレーンがあればモアイ像を起せます、日本の皆さんクレーンをおくれん?と呼びかけた。すると偶然それを見ていた同社の社員の1人が、そのオヤジギャグ?に感動したかどうかは定かでないが、じゃあ我々がやりましょうと話を持ちかけ実現。今やラノララクと並びイースター島のモアイの中でも最も有名な遺跡の1つにまでになり、小さな一個人の力でも、大きなムーブメントを起すことができるのだなあと感心させられる。

先程のバイフのロスに対抗し、16人目のモアイだぴょーんと一緒に並んで立つ。これで写真を撮ってもらおうとすると、コラッ!とその辺りにゴザを敷いてみやげ物を売っていた、島のおばちゃんに怒られる。
いい年こいて「だぴょーん」などというギャグは、見苦しいからオヤメナサイということかと思ったら、どうやら僕の立っている場所が問題らしい。
何でもモアイの土台はアフとよばれる祭壇とかで、お墓にもなっているらしくその上に乗ってはいけないといっていると、スペイン語も話せるロスが訳してくれた。そうかそれは悪いことをしたと、おばちゃんの前でロスの肩に手をあてて頭を垂れて反省する。ワタシャお猿の次郎君かい。でもこのネタ知っていたら、反省していないのがバレバレである。早いトコずらかろう。

それからロスがビーチで泳ぎたいというので、トンガリキから北上した所にあるオバヘビーチに行く。僕も水着を持ってきていたが、この日は曇っていて少し肌寒かったので泳いだのはロスだけ。その間イデさんは砂遊び、僕は岩場でギターを弾いて楽しむ。

日が西に傾きかけた頃、ボツマイアという伝説の王のモアイがある、ココヤシの林と真っ白な砂浜が美しいアナケナビーチに行く。
今日この辺りにイデさんの知り合いがテントを張って泊まっており、ペットボトルの水を差し入れるのだといってやってきたのだ。その人がアサノさん。もう何年もこのようなスタイルで世界中を旅しているとかで、アフリカのジンバブエからはずっと自転車だけで移動しているとか。イデさんとはサンチアゴ郊外にある、ビーニャデルマルの日本人宿で一緒だったらしく紹介してくれた。
またアサノさんと一緒にいた島の兄ちゃん達に、魚を釣ってきたからお前らもどうだと勧められロスと一緒にご馳走になる。どうやって釣ったの?と聞くと、釣り糸をつけた直径15センチぐらいの穴の開いた竹筒を、海にほうり投げてクイクイと引っ張ると、それを見て寄って来た魚が筒の中に入るのですかさず捕まえるのだという。アサノさんも挑戦してみたが、まったく釣れなかったと笑っている。
たき火で焼いた30センチ級の魚は、味付けは海水の塩分だけという超自然的なものだったが、ほんのり甘くて美味かった。

しばらくして喉が渇いたなと思っていると、さっき木になっているココナッツを落したのだといって、それをナイフで割って皆に飲ませてくれた。ココナッツジュースなんてタイ以来かもしれない。
この島の兄ちゃん達はこの近辺に住んでいるヒッピーとかで、普段は馬に跨って野山を駆け回り自由奔放に暮らしているとか。生活は時々畑仕事や釣りなどをしてその魚などを食べたり、多くとれたら町に売りに行ったりして生計をたてているらしい。それにしても彼達はアミーゴアミーゴ(友達)といって本当に良くしてくれる。
ニックネームをつけるのが趣味なのか、旅する女子イデさんはそのうちの1人を歌手の松崎しげるに似ているので「しげる」、もう1人はジーンズのチャックが開いていて、ノーパンなのかそこから密林のジャングルを覗かせているとかで「しげみ」と名付けたと耳打ちしてくれた。「しげみ」って、アナタいったい???

4日目、この日はすばらしい快晴になる。
この日はまず島のほぼ中央に位置する荒涼とした牧草地帯で、海に向かってそびえ立つ7体のモアイのあるアフアキビへ行く。普通モアイは海沿いに島の内部を向いて立っていることが多いのだが、ここのモアイだけは皆海を向いて立っているきわめて希な例だ。海風をほんのりと頬に受けながら、草原の中に立つモアイと一緒に海を眺めていると、なんだか穏やかな気持ちになる。

その後そこからほど近い、昔人が暮らしていたという洞窟テパフに行く。真っ暗で少しヒンヤリとした洞窟の中に入ると、あっ!ガイコツがあるとか、毒グモが出たとロスがほざいている。………いないって。

昼ご飯はモアイ製造全盛期時代に流行った、モアイの頭に乗せる為の赤茶色の帽子プカオを作っていたという、プナパウという石切り場の小高い丘へ登って食べる。モアイに帽子があったなんて知らなかったのだが、この帽子なんだか昔学校の理科の実験で使った上皿天秤の分銅みたいで、思わずピンセットで摘みたくなる。この帽子を頭にチョコンと載せたモアイの姿はちょっとユーモラス。
石切り場の小高い丘に登り、真っ青な海の地平線とハンガロア村を眺めながらおにぎりを食べる。まさに至福の味。こうしているとすべての物事は、どうでもいい些細な出来事のように思えてくる。
人間は奇麗な場所で美味しいご飯、そして楽しい仲間がいるだけで、本当に心から幸せな気持ちになれるのだなとそう思う。日本にいた頃は溢れる物の中でいつも何か足りないと感じていたが、ひょっとしたらこれだけで充分じゃないかとそんな風に思えてくる。幸せって何だろうと、その場でしばらく自問自答を繰り返してみる。

そろそろ移動しようかと皆立ち上がり、丘を歩きながらハーッと1つ大きな溜息をつくと、ロスがウンコ踏んじゃった?と聞いてきた。辺りを見回すと馬の糞があちこちに散らばっている。イヤそうじゃなくてね。

それからあまりにも天気がいいので、昨日行ったアナケナビーチへ移動し皆で泳ぐ。ここは波が高いのでボードを使わず体だけで波に乗る、ボディーサーフィンという遊びをロスが教えてくれたので一緒にやってみる。3回程うまく波に乗れ、水流が顔から足のつま先まで流れて行く感じが面白い。もっともその10倍はうまく波に乗れず、海の中でもがいていたのだけれど。あっまた水飲んじゃった。

その後車に戻ってギターを取り出し、アナケナのモアイの前で自分のうたを歌う。イースター島に来たらぜひやりたいと思っていたことの1つだ。
何をしているの?とロスが聞いてきたので、モアイに歌って聞かせてあげているのだよと言うと、じゃあ俺もやるというのでロスにギターを渡して2人でU2を歌う。
歌っていると昨日魚を食わせてくれた島の兄ちゃん、イデさんいわく「しげる」と「しげみ?」が馬に乗ってやってきて、おおアミーゴいい歌声だねと誉めてくれた。グラシアスと礼を言うと、今から魚を捕まえにいくので2時間後に来いよ、また食わしてやるからといって去って行った。ごめん。残念だけどこれから移動だから。またね。

さらに僕達は車を走らせトンガリキに寄った後、モアイ製造工場の異名を持つラノララクに行く。ここで夕日を見ようということになり日が沈むのを待つ。昨日アナケナで会ったアサノさんも、今日はこの近くでテントを張っているとかで一緒に合流する。
6時半頃、日が沈んできたのでギターを取り出し歌う。シーンと張り詰めた空気を切り裂くように、シャウトする僕の歌声と時と共に真ッ赤に染まっていく空。そして微風が吹く中、どこか寂しげにたたずむモアイ達。まるで異次元にでも迷い込んだような雰囲気。このまま時間が止まってしまいそうな、いやむしろ時間を止めて欲しいとさえ感じるそんな一時。

ラノララクのモアイに捧げる歌は、夕日の中に響く切なげなバラードだった。

夜になりイデさんが朝市場で買ってきたというマグロで、鉄火丼とセビッチェを作ってくれる。旅馴れたイデさんは醤油とワサビも持っていて、鉄火丼もまさに日本の味という感じ。この日のマグロは新鮮でとても美味い。あっという間にガツガツと全部食べてしまう。
女将さんオカワリ!とお皿を差し出すと、もうオシマイといわれる。ああ、あともう1口食べたいそんな味。口の中にふわっと広がる少し甘味を帯びた、フルーティーなマグロの余韻を楽しんでいると、足元をまたカサカサとゴキブリが走って行った。急に現実に引き戻される。ああここは熱帯。

食事の後3人で話していると、旅のトラブルの話題になる。僕がアメリカで起こった出来事を話し、ニューヨークはあまり好きじゃないと言うと、ロスも東京にいた時同じようなことがあったと話してくれた。
例えば東京の人は皆冷たくて、ある雨の日の通勤中地下鉄でロスが転んでケガをしたにもかかわらず、誰も大丈夫?と声さえかけてくれない。中には転んだロスの上をまたいで、通り過ぎて行ったサラリーマンもいたこと。まだ日本語のコミュニケーションがうまくとれなかった頃、区役所のおじいさんに日本語話せないの?と一瞥され、こちらが一生懸命説明しようとしているのに、ちゃんと聞こうともせず冷たくあしらわれたこと。
他にもATMが24時間やっているところを、誰も教えてくれず困ったとか、引越しの時に粗大ごみを役所に申し込んだが、2週間前にいってくれないと困るよといって引き取ってくれなかったことなど、トラブルが堪えなかったので東京は嫌いだといっていた。
そして仕事の仲間も仕事中は普通にしゃべるけど、仕事が終わるとプライベートなレベルではお互いあまり干渉しないといった雰囲気だったらしく、心からの友達ができなかった事も大きかったと、そう遠くを見つめ昔を思い出しているようだった。

その話を聞きながら自分も6年前田舎から上京した当時の事、ニューヨークでの出来事を思い出しながら、言葉や文化が違うと特にそれを理解するのが難しい分、より大きなインパクトを受けるだけで、どこでも大都会は同じなのかもしれないなと感じていた。
またイデさんも、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで泊まった宿で、高価なノートパソコンを盗まれた時の話をしてくれる。トラブルにあったり文化の違いに悩んだり、異国で冷たくあしらわれたりというのは、このような長い旅をしていると皆、大小の違いはあれ、誰もが体験するものらしい。

過去のトラブルはものすごく悔しいけれど、2人と会えたおかげでこれからは少し違った受け止め方ができるかもしれないと思う。
特にロスの話の中では、日本人の僕からすればそれ程大したことと思えないことでも、それが理解できず憤慨している様子は、ニューヨークでの自分の姿が重なって見えた。やはり異なる文化やその国ではあたり前のシステムも、外から訪れる他国の人間にとっては、容易に理解したり受け入れたりは出来ないものなのかもしれない。

深い話題が終わってつながるまで1時間はかかるという、ユースの入り口に置かれた気の長~いインターネット用のコンピュータでメールを書いていると、奥でロスとイデさんの悲鳴が聞こえる。
何だろうと思っていると、サソリが出たという。とりあえず叩いて殺したらしいが、部屋の中までサソリが出るとはさすがイースター島。お酒につけたら良いダシが出るかもね。

拝啓、世界の路上から 第7話「コンクリートに囲まれた戦場/ニューヨーク・USA」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第7話「コンクリートに囲まれた戦場/ニューヨーク・USA」(後編)

翌日早起きしてユースホステルから歩いてセントラルパークを横切り、5番街に出た所でバスに乗り込んで、82番ストリートにあるメトロポリタン美術館へ行く。

足もまだ少し痛かったので休み休みしながら移動するが、セントラルパークを歩いていると時折すれ違うジョキングする男女や、無数の野リス達が愛敬をふりまいてくれた。
メトロポリタン美術館はロンドンにある大英博物館、パリのルーブル美術館と並んで、世界の3大ミュージアムの1つといわれていて、前者の2つは大学時代に訪れたことがあるので、ニューヨークに来たらぜひとも残る1つを制覇したいと思っていた。
中に入るとものすごく広い。総面積129k㎡にもなる3つのフロアに、5000年にもおよぶ人類の文化遺産が約200万点も収蔵されているこの美術館は、まさに世界最高峰の美術館だと思う。
 4時間程メトロポリタン美術館で絵画を鑑賞し外に出ると、まだ2時過ぎだったので、さらにそこからバスに乗って11W.53番ストリートにある近代美術館へ行く。
「The Museum of Modern Art」、通称MoMA(モマ)と呼ばれるこの美術館は、メトロポリタン美術館と同じく、僕にとってニューヨークに来たらぜひ行きたいと思っていた場所だった。
1929年にたった9点のコレクションから始まったこの美術館は、20世紀の優れた芸術作品が世界中から集まり、現在そのコレクションは10万点にも膨れ上がったという。ここで現代アートを3時間程堪能する。

その後地下鉄に乗って観光客のお決まりコース、5番街34番ストリートにあるエンパイアステートビルに行くが、すごい人でごった返していたのでそのまま上らず帰ってきてしまう。
地上102階建てアンテナ塔の先端までの高さ443mのこのビルは、1931年に完成され、1977年ワールド・トレード・センタービルの完成まで長らく世界一の座を保ってきた、自由の女神と並ぶニューヨークの象徴。1957年の映画「めぐり逢い」では、このビルの展望台で待ち合わせるシーンがあまりにも有名。
観光ポイントとしては見逃せない場所なのだろうが、今回の僕の旅にとってそれ程重要な場所とも思えなかったので今回はやめにした。旅にマニュアルはいらない。自分にとって行きたい場所、好きな所へ行けばいいと思う。

そして翌朝は6時過ぎに目が覚めた。ベッドでうだうだするが眠れなかったので、そのまま7時頃レセプションに行き、宿泊の延長手続きをとろうとする。
以前にも手続きをしようとしたのだが、2泊以上は当日の朝でないとできないといわれ、しかたなくこの日の朝になったのだ。すると8時から受け付けをするのでその頃またこいという。
時間をつぶし8時に再びレセプションに行くと、担当者が変わっていて9時から受け付けるのでまた来いという。
さっき8時に来いといわれたから来たのだと言うと、今コンピューターがダウンしていて使えないから9時といわれる。まあトラブルならしかたないと引き下がるが、振り返ると、次の客の対応にはちゃんとコンピュータを使って対応している。
イッタイナンナノダ?あまりにもバカにしてやがると、ウキ―ッとお猿のように叫びもう結構とばかりに本日の宿泊を止めて、有料のバケージルームに荷物を預け、冗談じゃないとチェックアウトしてしまった。
短気は損気と子供の頃母親に教わったが、教えた本人が尋常ならぬ気の短い人なので、血だよ血と子供ながらに悟って以来、まったくもって身についていなかったりする。
江戸っ子は気が短ぇんだい!と開き直るが、僕は生まれも育ちも尾張名古屋、たぶん関係無い。まあ翌朝のメキシコ行きのフライトが早朝なので、今晩は空港で寝ることにしよう。
時計を見ると9時少し前だったので、ロウアマンハッタンのサウスフリー駅まで地下鉄で行き、海岸線沿いのバッテリーパーク公園から船に乗る。行き先は自由の女神だ。

自由の女神はマンハッタン島最南端から、約3km離れたリバティ島にある。アメリカ独立100周年を祝ってフランスから贈られ、その10年後の1886年10月28日に完成。右手にたいまつ左手に独立宣言書を持ち、足に繋がれたクサリをちぎって歩き出そうとする女神像は、以来自由とデモクラシー、そしてこのニューヨークの象徴として親しまれてきた。

リバティ島行きの船はいつも込んでいると聞いていたので、少し早めに出てきたのだが時間が早かったせいか、思った程混雑もなく船に乗れた。バッテリーパークからは小さく見える女神像も、近づくとさすがにでかい。
リバティ島に到着し中に入ろうと女神像の入り口に進むが、さすがにここは人で一杯だ。1時間半程並んでなんとかエレベータに乗り、女神像の台座の所まで来ることができた。
本当は女神像の冠の所に最上階の展望台があり、そこまで階段が続いているのだが、この日は夏休みの土曜日だったせいなのか?クローズといわれる。運が良ければ冠までいけると聞き、密かに楽しみにしていただけに残念だ。しかしここでの目的は別にあった。それは女神像で歌うこと。

台座の所にあるベンチに腰を下ろし、ギターを取り出し歌いはじめる。

1時間程対岸に浮かぶマンハッタン島を見つめ、ひた歌う。頬を撫でる海風が心地良い。行き交う観客の反応も上々で、曲が終わるとちらほらではあるが拍手がおこる。
時折、警備員風の係員が通りかかったが、この日はあえてお金を入れる缶を用意しなかったせいか、何もいわず好きなようにやらせてくれた。最悪は強制退去も覚悟して臨んでいたのだが、終始和やかなムードで大変ありがたかった。

帰りの船は混雑していて、ここでも1時間半ほど並んでやっとのことでマンハッタン島まで戻ってくる。
それから世界一高いといわれる110階建てのツインタワービル、ワールド・トレード・センターや、ウォール街のニューヨーク証券取引所の前などをぶらりと歩く。この時は世界の経済の中枢も見ておくかと、ロウアマンハッタンに行ったついでに立ち寄っただけだったのだが、この僅か1年後にまさかジャンボジェット2機がテロリストによってハイジャックされ、このビルに突っ込んで跡形も無く崩れ去ることになろうとは、思いも寄らなかった。
その後地下鉄に乗りいつものように市立図書館に寄ってから帰ろうとすると、42番ストリート沿いにウィークエンドマーケットが出ていたので、少しひやかして歩く。
どこの国でも路上で売られているものといえば、コピー商品や海賊版といったバッタものしかり、なんじゃそりゃ的なみやげ物しかり、ハイよぉく揉みましょうお姉さんキレイだからいつもより多く揉んじゃいましょうという、中国人マッサージ師しかりで怪しげなものが多いのだが(※ちなみにワタシもこの旅中、タイでマッサージ師のライセンスを取得しました。)、偶然良さげな黒い小さな皮財布を見つけ、値段を聞くと2ドルというので1つ購入する。
これはこの後行く中南米で、万が一襲われた時に差し出す為のダミーの財布にしようと思い購入したのだ。
アフリカと違い中南米では、お金を出せば命まではとらないらしく最低200ドルもあれば、危害を加えられずあっさり引き下がってくれることが多いと聞いていた。
本音をいうとビタ一文出さずに引き下がって欲しいのだが、とりあえず小銭を幾らか入れておき、もしも襲われたらこれで全部です、子供の給食費に母さんが夜なべして、手袋編んだ内職のお金なんですと泣きながら差し出せば、さすがの悪人も同情して許してくれるに違いない。

そこからさらに歩いて5番街から7番街、47番ストリートから52番ストリートにかけて広がる、ロックフェラーセンターへ行く。70階建てのG.E.ビルとチャンネルガーデンの間のロウアプラザは、冬のアイススケートリンクや大きなクリスマスツリーが飾られることで有名な場所だ。この日は花のイベントがあるとかで、その飾り付けをしていた。

しばらくすると足がまた痛くなってきたので、無理をせずユースに戻ることにする。

夕食を作っていると、カズ君が帰ってきたので、2人でタラコスパゲティーを食べる。食後に最後の夜だからと庭に出て、ギターを片手に1時間程歌った。

夜も更けてきたので荷物を引き取り、カズ君に別れを告げ空港へと向かう。真夜中郊外に行く程、地下鉄の車内は黒人の割合がぐっと増し、目の前では黒人の母親とその子供達が仲良く寝息をたてて眠っている。そして僕はこの街での日々を振り返る。

ニューヨークという街。日本にいた頃は華やかで刺激的なこの街に、憧れに近い感情さえ抱いていた。しかし思い描いていたものと、実際の印象は驚くほど違っていた。
確かに華やかで刺激的ではある。だがここには弱肉強食的な独自のルールのようなものがあり、そこに存在する全てのものを飲み込んでいる。そしてこの街は休日に日々の疲れを癒しにくる類の場所ではないように思える。
夢や野望やまだ見ぬサクセスをカバンに詰め込んで、一勝負しにくる場所。弱い者は倒れ跪き、強いものだけが生き残る。いわばコンクリートに囲まれた戦場だと思う。
だから皆自分のことで精一杯だし、けして優しく手を差し伸べてくれたりはしない。転んだら自分で立ち上がる。道が無ければ自分で作る。そうしなければ誰も何もしてくれないのだ。弱いものはここでは生き残れない。それがこの街で生きる者の、目には見えないルールのような気がする。

地位やお金があればそういったものが自分を守ってくれる武器となり、今回とはまた違った印象となったかもしれない。きっと札束をばらまけば高級ホテルで何の不自由も無い快適なサービスを受け、華やかな5番街のショッピングモールに象徴される、優雅で豪華な旅を満喫できるのだろう。まあそこまでいわないまでも、中級以上の宿に泊まり1日100ドル程遊ぶための予算があれば、楽しかった思い出だけを詰め込んで、エンターテイメントを満喫し旅を終えるのかもしれない。

しかしもし次にこの街に来るときはお金ではなく、胸にとびきりの熱いものを詰め込んで、僕も一勝負しに来たいとそう思う。

さらば、あらゆるものが渦巻く戦場よ。
車窓にはいつまでも無数の街灯りが、夜空の星のように光って映っていた。

拝啓、世界の路上から 第7話「コンクリートに囲まれた戦場/ニューヨーク・USA」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第7話「コンクリートに囲まれた戦場/ニューヨーク・USA」(前編)

え?カズ君はここに泊まっていないのですか?
 本日宿泊を予定しているニューヨークのゲストハウスのレセプションで、一足先に着いているはずの友人が宿泊していないというので、メッセージボックスを確認する。すると僕宛のメッセージが1通入っていた。
 キチンと4つに折りたたまれた紙を開いて読んでみる。するとやはり今朝方まで滞在していたカナダ最大の都市、トロントのユースホステルで一緒だったカズ君からの伝言だ。そしてその紙には、空き部屋が無いのでユースホステルに行きますと書かれてあった。

 クライストチャーチを後にした僕は、アメリカの西海岸にあるLA、ラスベガス、グランドキャニオンを経て東海岸のボストンへ移動する。そこで日本の友人に再会した後、さらにバスを乗り継いでカナダのナイアガラフォールズ、そして昨夜まで宿泊していたトロントと旅を進めていた。そしてそこから朝10時発の列車でニューヨークのマンハッタンへとやってきたのだ。

カナダ、アメリカ間の国境を越えるVIA(カナダ大陸横断鉄道)と、アムトラック(アメリカ鉄道旅客輸送公社)の共同運行であるその列車は、予定では夜9時台にニューヨーク着のはずだったが、噂に違わずかなり遅れる。結局マンハッタン42番ストリートのマジソンスクエアガーデンの地下にある、ペンシルバニアステーションに到着したのは夜の11時半。

トロントのユースホステルで一緒だったカズ君は、この日の朝バスでマンハッタンに着くことになっていた。あまり治安も良くないニューヨークに鉄道で夜に到着することが不安だった僕は、無理をいって宿代シェアでこのゲストハウスのツインルームに、一足先にチェックインしてもらうことになっていたのだ。しかし残念ながら部屋が満室だったらしい。このゲストハウスは予約も不可なのでしかたないと諦める。

さて問題は今日の宿をどうするか。再度レセプションで部屋の空きを確認するが、やはり満室だという。お願いデスダここに泊めてもらえねえと、オラ野垂れ死んでしまいマスダと泣き落としにでるが、無い部屋は貸せないといわれそれも道理と諦める。しかたなく近郊の宿を片端からあたってみるが、どこも同じく満室。時計を見るとすでに深夜2時を回っている。マイッタ。

万策尽きてしかたなく駅のホームへトボトボと引き返す。これは夜が明けるまで待つしかないなと覚悟するが、ペンシルバニアステーションまで戻ると列車待ちをする人の為の待合室があったので、列車が遅れて宿がとれず困っている、できたらここのベンチで朝まで待たせてもらえないかと待合室の入り口の係員に聞いてみた。

すると係員は面倒そうな顔をしながらも、さっさと入れといった仕種をする。とりあえず外で寝るよりはいくらかましだろうと駄目元で聞いてみたのだが、思いがけずうまくいった。列車による長時間の移動と宿を探して歩き回り疲れたのか、眠くなったので少し仮眠しようと、ずらりと並んだプラスチック製の小さな椅子の1つに座って、しばらく眠ることにする。

 どれくらいの時間が過ぎただろう。いきなり何やら声をかけられて体が宙に浮いた。「グギッ!」という鈍い音と共に、激しい痛みが駆け抜ける。「痛い!」と床の上をのたうちまわりながら目を開けると、駅の清掃員が背を向けて遠ざかって行く姿が見える。
どうやら掃除のじゃまだからどけと僕を立たせようとしたらしいが、寝ボケて足をくじいてしまったらしい。あまりの痛みで声がでず、また立つこともできない。おまけに吐き気までしてきて、骨折か?と不安がよぎる。
しかし僕がどんなにわめき叫ぼうが、清掃員はさっさと掃除を終えどこかへ行ってしまう。コラちょっとまて!お前大丈夫ですかの一言も無しかよ!ああっ痛ええええ!

そして激しい痛みの中で、次第に意識は遠くなっていく。

 ザワザワと物音がする。ふと目を覚ますと、まわりに沢山の人が座っている。どうやら僕は駅の待合室の床に倒れたまま、眠ってしまったらしい。
起き上がろうとするが、激しい痛みが体中を駆け抜け立つことができない。どうやら昨夜の出来事は夢ではなかったらしい。
あまりの痛さに口をパクパクさせながら、それでも靴と靴下を脱いで足を見てみると、左足が紫色に変色してしかも右足の2倍近い大きさに膨れあがっている。わーい1晩でこんなに足が大きくなりました!と一発ボケたいところだが、激痛に顔も歪みそんな余裕は無い。これはやばいことになった。
時計を見ると早朝6時半。まだ少し早いがとりあえず宿を確保して手当てしなくてはと、足を引きずりながら地下鉄のホームへ向かう。左足が痛くていうことを聞かず、うまく歩けなかったがなんとか足首は動いているみたい。

 地下鉄1番のアップタウン方向(北向き)の列車に乗って、103番ストリート.のユースホステルへと向かう。今僕の知っているニューヨークでの知り合いは、トロントのユースで一緒だったカズ君だけだったので、とりあえず彼の宿泊している宿まで行こうと思ったのだ。
しかしレセプション(受付)でチェックインしようとすると、11時からだからというのでしかたなく奥の食堂で待つことにする。
イスに倒れ込むように腰掛けしばらくうとうとしていると、何やら表が騒がしくなったので覗いてみる。すると既にレセプションで本日分のチェックインが始まっていた。時計を見るとまだ9時半。11時からっていったじゃないかと少し腹が立つ。しかも僕の番が来て部屋を予約しようとすると、もう一杯だから他へ行けといわれる。足をケガして、しかも朝の7時から待っているのだがと言うが、僕を無視してその受け付けの黒人女性はNEXT!と叫んで次の客を対応し始める。

 どうなっとるんじゃい!出る所出たろうかい!という思いだったが、もうフラフラでそんな気力も無く、しかたなく列から離れてどうしたものかと立ち尽くす。すると僕が並んでいたのとは別の列では、まだ予約無しでも受け付けを済ませ、皆続々と部屋の鍵を受け取っているじゃないか。
何てファッキンな所だ!イチビってんじゃねえぞと、知っている汚い単語をずらりと並べ、イチビリって英語で何ていうのだろうかとそんなことを思いつつ、カズ君と会うことも忘れて、痛む左足をひきずりながら地下鉄の駅まで戻ってきてしまった。
とりあえず他にあてもないので、昨日カズ君と泊まる予定にしていたビックアップルというゲストハウスへ移動する。レセプションへ行くと今日は部屋に空きがあるとのこと。また僕宛に手紙がきていたのでそれを受け取る。中を開けてみるとボストンで会った友人のイズミさんからだった。
実はボストンに移動する際の飛行機で、僕の持っていた寝袋を航空会社にロストされてしまい、それを弁償して貰えることになっていた。だが約束ではボストン在住のイズミさん名義で発行してくれるはずだったのが、その代金のパーソナルチェックを僕名義で発行してしまい、本人以外換金できないというのでこの宿に送ってもらったのだ。
しかし足がひどく痛むので、部屋に入るなりまずは一眠りすることに。宿泊費は4人部屋のドミトリーで1泊30USドル、かなり高い。

 目が覚めると昼の2時半。手持ちの現金が少なかったので、宿のすぐ裏手にあるシティバンクのキャッシュコーナーへ現金を下ろしに行く。しかし手続きをしていざお金がでてくる段階になって、機械の画面がしばらくお待ちくださいになってしまい、そしてその後時間をおいてからお試しくださいという、何じゃソリャな表示に変わってしまった。
もう1度やりなおすが相変らずアウトオブオーダーになったままなので、仕方なく隣の機械でやり直す。しかし残高照会するとまだ下ろしていないお金が、そっくり口座から消えてしまっている。何かの間違いだろうともう一度やり直すが同じ。先ほど引き出せなかった700USドルがそっくり口座から消えてしまっている。
え?何?何?とパニックになりながらも、ひょっとしてお金が出てきているのかと思い、そーっと忍び足で隣の機械に戻るがやはりない。うそぉマジですか?

立て続けのトラブルに今日は仏滅なのか?と思いつつ、こうしちゃいられないとまずはATMの機械のすぐ横についている電話でコールセンターに連絡をとるが、あなたの口座は日本のモノなので、日本でしか対応できないといわれる。
日本もナニもここの機械がオカシイのではないか!ナントカして頂戴とクレームをつけるが、それは日本の担当なので日本でしか出来ないの一点張り。まったく話にならない。アメリカという国は何かあるとすぐに私のせいじゃない、それは我々の担当では無いといつもコレだ。
コレクトコールで大丈夫だからというので日本の連絡先を聞いて宿に戻り、公衆電話から日本のコールセンターへ電話をする。

しかし日本側ではカードの紛失や盗難以外は、コレクトコールでは受け付けられないという。コレクトコールでかけろといわれて電話したのです、そちらの機械の都合でこちらはまったく悪くないのですと事情を説明するが、やはり受け取りを拒否されますと、間に入っている国際電話のオペレーターが、申し訳なさそうに向こうの言い分を伝えてくる。
 今自分はお金がなくて自費ではかけられないこと、状況からいってこちらに非があるとは思えないことを伝え粘り強く交渉を続けるが、先方では口座から下ろされなかったお金が、消えるはずがないといっているらしい。
こっちだってそう思うわい。何もUFOが襲ってきたとか、アナタは神をシンジマスカ?などと言っている訳じゃないのだ。現実に自分の口座からお金が消えてしまったのだから仕方ないでしょうと、少しキレかかり語気を強めて言うと、では30分後にもう1度残高照会してみてそれでも駄目なら再度電話してくださいというので、とりあえずわかりましたと答え受話器を置く。たぶん無駄だと思うけど、まあやってみますか。

 しかし30分後も1時間後にも試してみるが、やはり結果は同じ。ホラみなさいと宿に戻ってもう1度電話をすると、国際電話のオペレーターが先程と同じ人で、すぐ状況をわかってくれ先方に電話をつないでくれた。
それから事情を説明し調べてもらうと機械の誤作動らしく、お金が出てきていないのに、支払い済みと機械が認識してしまっているようだとのこと。明日日本時間の月曜日の午後に、僕の口座に返金してくれるというので担当者の名前を聞いて電話を切る。

 夜になり、同じ宿に泊まっている日本人旅行者と話をする。その中でも同郷出身のアスカさんが、僕の一連のトラブルを親身になって聞いてくれた。まあこれだけ立て続けにトラブルに遭う奴も珍しいのだろう。カモが貧乏神しょって歩いているようなものだ。
突然、ねえ足を見せてとアスカさんにいわれる。前フリが無ければこの人足フェチなのか?と一瞬引いてしまいそうなセリフだが、すぐに心配してくれたのだろうと悟り左足を出すと、「何これ!すごく酷いじゃない」といって医者に行くよう進められる。
だが今回適当なものが見つからず、海外旅行用の保険に入っていないので医者には行けないと事情を話すと、明朝包帯と湿布を買ってきてくれるという。
シティバンクのキャッシュコーナの一件で、明後日にならないとお金が無いことも話すと、いいよそんなの後でといって翌朝包帯と湿布一式を買ってきてくれた。なんと親切な人であろう。捨てる神あれば拾う神ありである。
 手当てをすると少しだけ楽になるが、依然として状況はあまり良くない。一晩すれば良くなるかもという淡い期待を抱いていたのだが、相変わらず足はパンパンに腫れている。どうやら完治するにはしばらく時間を要しそうだ。

 とりあえずこの日は安静にしていようと部屋で寝ていると、トロントのユースで一緒だったボンバーヘッドのスノーボーダー、カズ君が僕の宿まで尋ねてきてくれた。一連のトラブルを前日宿にあるコンピュータからEメールで伝えてあったので、心配して様子を見に来てくれたのだ。
手持ちの材料で昼に作ったカレーの残りがあったので、カズ君と2人で食べているとアスカさんが帰ってきたので、どうもすいませんと薬のお礼をいう。別に林家では無いのですけどねと言うと、はあ?と怪訝な顔をされた。イヤわからなければよいのです。
しばらく話しているうちに宿の日本人の皆で大富豪をやろうということになり、夜遅くまで白熱する。

 翌朝は地下鉄に乗って103番ストリートにある、先日えらい目にあったユースホステルに行き明日以降の宿泊予約を入れる。
カズ君にこっちに移ってきたらどうです?といわれたこともあったのだが、何より今の宿よりユースの方が1泊3ドル安いというのが最大の理由だ。足が治るまで移動できないので、1泊3ドルでも長引けば結構大きい。

夕方シティバンクへ行くと、消えたお金がちゃんと振り込まれていた。ホッと胸を撫で下ろし、お金もついでに下ろしてアスカさんに返す。ついでついでとズボンも下そうかと思ったが、真面目そうなアスカさんには、ギャグだとわかってもらえないような気がしたので、命は惜しいしと丁重にお礼ダケいうことに。
またこの日は同じ宿に宿泊していた、画家を目指しているという日本人と話をする。彼が書いた絵を見せてくれたので、じゃあ僕もと何曲か自分のうたを歌って返す。

 さらに翌朝、宿をチェックアウトしてユースに移動するが、予約時に27USドルの部屋を2日間リザーブしていたのにもかかわらず、27ドルの部屋は一杯なので30ドルの部屋しかない、だからあと6ドル払えという。予約したレシートを見せるが、空いていないものは空いていないのだと突っぱねられる。
当然かなり揉めたが30ドルの部屋がイヤなら他所へいけといわれ、結局6ドル払わされてしまった。これじゃ何の為のリザベーションなのか。訳がわからない。まったくここはどうしていつもこうなのだろう。

昼からカズ君とこれまたトロントのユースで一緒だったシンスケ君と3人で、ストロベリーフィールズに行く。
ここはジョン・レノンが妻のオノ・ヨーコさんと一緒に住み、また1980年12月8日22時50分頃当時40歳だった彼が、その玄関先で熱心なファンだったというマーク・チャップマンの放つ3発の銃弾に倒れた、W72番ストリートのダコタアパートに程近い、セントラルパークWESTの一角にある場所。
彼の名曲ストロベリーフィールズ・フォーエヴァーの名にちなみ、追悼の意を込め作られたこの場所は、穏やかな日差しを受けた緑の芝生の中にオノ・ヨーコさんがデザインした、涙の雫のカタチをしたガーデンと追悼の石碑があり、皆で買って持っていった花をそこに添える。

イマジンの文字が刻まれたその場所には、あれから20年経った今も、偉大な彼の死を惜しむ多くの人によって添えられた、無数の花がひっそりと置かれていた。

 その後アメリカン航空のオフィスに行き、足のケガで移動ができなくなってしまった為、予定していた次のメキシコ行きのフライトを変更する。
それからさらにシティバンクに赴き、先日ボストンのイズミさんから送られてきたパーソナルチェックを換金しようとするが、僕の口座が日本のものだった為、ニューヨークに口座が無いとできないといわれてしまう。
ではニューヨークに口座が作れないかと聞くが、居住者でないと駄目とのこと。30分以上並んだというのに、出来ないの一言だけなのか。
お願いデスダ、コレが換金出来ないと冬が越せねえデスダと、お代官様に年貢の減額を懇願する水呑百姓のように追いすがるが、ここでもNEXT!と一言われおざなりに追い払われる。あなたは何て冷たいお人なの!と目をウルウルとさせるが、ようやく6月になろうかというこの時期に冬が越せないなどといわれても、いつの冬を越そうというのかお前は!とツッコまれそうである。
エクスチェンジでも換金できるらしいと聞いていたので、そこにも行ってみたが駄目。日本の銀行ならなんとかなるかもしれないと思い、東京三菱銀行の支店に行くがすでに閉まっている。まさに無駄足。
左足をケガして痛いのに、無駄足だなんて縁起悪い。チョン切られてはかなわないので明日、もう一度出直すことにしよう。

宿への帰り道カナダからアメリカへ入国する際に、ビザのスタンプが押して貰えなかったというトラブルにあった、大学でスペイン語を専攻するシンスケ君の相談にのる。
いろいろ手を尽くしてみたがやはり駄目で、本当なら3ヶ月滞在した後、中南米へ向かうはずが、アメリカに2ヶ月しかいられなくなったと嘆いていた。
僕のこれまでの旅のトラブル話をし、このような旅はなるようにしかならないし、もしどうしてもという理由がなければ風の吹く方向に身をまかせるのが、一番いいかもしれないよと言いながら、自分の中でもう一度その言葉を噛み締める。
もしかしたら次の国が早く君に来て欲しいのかもしれないしと話すと、そうかもしれませんねと笑っていた。
僕が予定外にニューヨークに滞在することになったのは、ここで僕に伝えたい何かがあるのだろうか。それとも?

 夜になってカズ君、シンスケ君、それと料理人をしているというシュンジさんと4人で賭け大富豪をする。結果は僕の大勝。
オラオラッ!さっさと出すものを出しな、尻の毛まで毟り取ってやるぜ!と、追い込みをかける借金取りのように、エゲツナク皆からお金を巻き上げる。といってもレートが低いので、全部あわせても2ドル程の勝ちしか無い。ジュース2本ぐらいのお金で、オケツの毛まで毟られてはタマッタものじゃない。
その後、男4人でくだらないシモネタの話題で盛り上がる。どうしてこう男って奴は皆シモの話が好きなのかねえ、まったく本当にバカばっかり!と言いつつ、1番ノリノリだったのは何を隠そうこのワタシ。
シックで小綺麗な洋風建築の建物を抜けた所にある、緑の芝生に囲まれたユースの中庭に、○ンポ・○ンポ、イェイ!○ンポ!と大合唱する日本人4名。日本語通じないからいいようなものの、我々の存在自体にモザイクかけられそう。正真正銘のドアホ。何がイェイ!なものか。
しかしここのところトラブル続きで沈みがちだったので、こんなに笑ったのは久々のことだった。

 その次の日は5番街の42番ストリートにある市立図書館と、そこから歩いて少し行った所にある、町の小さなスーパーといった趣の日本人経営のお店に、食材の買い出しに行く。インターネットが無料で出来る公立図書館の存在は、我々のような金の無い旅行者にとって、物価の高いアメリカでは不可欠の場所。また料理のレパートリーの少ない僕には、米とカレールウの存在は不可欠だった。他にも日本のフリカケや、インスタントラーメンなどを買い込む。
その途中で昨日閉まっていた東京三菱銀行にも行ってみたが、道に迷って3時を少しまわってしまいすでに閉店後だった。

昨夜カモにされオケツの毛を毟られたシンスケ君は、心に深い傷を負ってワシントンDCへと旅立っていったが、この夜もカズ君とシュンジさんと3人で大富豪をして握る。結果はまたしても僕の1人勝ち。フフッお主も悪よのう、いえお代官様の方こそイッヒッヒと一人芝居をしてそのお金で1本コーラを飲む。いつから越後屋になったのだお前は。
 一方足の方も本当は安静にしていなければならないが、やらなければいけないことが多くて歩きまわっているせいか相変らずよくならない。せめて足だけでも治ってくれれば随分違うのだけど。

さらに翌朝ユースホステルのフロントに行くと、今の部屋よりベッド数が2つ多い27USドルのドミトリーに、空きがあるというのでそちらに移動する。

昼過ぎに昨日閉まっていた東京三菱銀行の支店で、日本人スタッフを呼んでもらい相談するが、やはりニューヨークに住所があるか観光ビザ以外で入国していないと口座が開けないとのこと。換金も同じようにできないといわれる。
東京に同銀行の口座を持っているのでそちらに入金できないか聞くが、1ヶ月以上時間がかかるのと、手数料に60ドル近くかかるといわれる。65ドルのパーソナルチェックを換金するのに、そんな手数料じゃ話にならない。
しかたなくボストンにある航空会社のオフィスに電話をするが、前回電話した際と同じくチェックに裏書きすれば、友人のイズミさんでも換金できるので問題ないという。
彼が手続きしようとしたが駄目だったのだと言っても、できるからやってみろ、それ以外に方法は無いといわれてしまう。しかたなく再度そのチェックをボストンに送り、挑戦してみてもらうことにするがこれで駄目なら諦めるしかない。

時計を見るとまだ3時前だったので、ギターを持って先日訪れたストロベリーフィールズに行く。ここでジョン・レノンの、そしてビートルズの歌を歌おうと思ったからだ。
3曲目ぐらいになって、ちらほらとお金が入りはじめる。また曲が終わるごとに、周りの人から拍手をもらえるようになった。しかし4曲目に入った所でギターの2弦が切れる。
弦を張り替えていると白人の白髪頭のおばあさんがやってきて、ここでお金を稼ぐのは禁止よと忠告してきた。無視していると、急に怒り出して警官を呼ぶと言い出したので、わかったとお金を入れる缶をしまうと、不機嫌そうな顔をしてどこかへ行ってしまった。
僕にとってはお金よりもこの場所で歌うこと、ジョンに歌を捧げることが重要だったので、かまわず続けることにする。 レットイットビーを歌い終わると、周りからどっと大きな拍手が沸き上がった。そしてここで一番歌いたかった、イマジンを歌いはじめる。
すると歌っている途中で今度は太った別の白人のおばさんがやってきて、ここは皆の場所、それも特別な場所なの、だからあなたは歌うことができない、よそでやって頂戴といわれる。
曲の途中で、しかもイマジンを歌っているときにとかなり頭にくるが、そのまま歌い続けていると、わかったあなたが帰らないなら私が帰るわといって、怒鳴ってどこかへ行ってしまった。 歌い終えるが周りに気まずい雰囲気が流れる。
なんだが僕も嫌な気分になり、そのままギターを閉まって帰ってきてしまった。

心を込めて歌っている。でも僕の歌なんて聞きたくないという人がいる。自分自身の存在そのものが否定された気分だ。
でも一方でお金を入れてくれたり、拍手をしてくれる人がいる。もっと僕に歌ってくれという人だっているじゃないか。そうやって自分を励ますが、やはり今日の出来事は正直ショックだった。
自分の言葉で、ありのままの自分を歌おう。たとえ言葉が通じなくても、ギターが下手クソだとしても、そのほうが気持ちは通じるのではとそんなことを考える。
できるだけ前向きに考えようとしたが、それでも自分自身の存在がやけにちっぽけに思えて悔しかった。 自分の為に歌おう、好きな歌を歌おう。そう心の中で何度もつぶやきながら、切れかかったギターの弦を張り直していた。

拝啓、世界の路上から 第6話「誰かの為に出来ること/ニュージーランド」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第6話「誰かの為に出来ること/ニュージーランド」(後編)

さらに次の日朝10時に出発してスナザキさんと一緒に、車でクライストチャーチに戻ったのは昼過ぎの2時。約4時間の移動だ。

 まずは宿をとスナザキさんの持つ裏情報を頼りに、前回泊まった宿とは別のユースホステルの、ミックスドミトリーにチェックインする。ここは本来なら1泊17ドルらしいのだが、このミックスドミトリーは1泊15ニュージーランドドルで泊まれるという。値段が安いのは男女混合だからとのこと。しかしその存在は意外に知られていないという。スナザキさんと一緒にいると他にもいろんな裏情報を教えてもらえ助かる。これで1泊約800円。
 また他にもフリーフードを使った料理や、写真を現像するならどこが1番安いなど、旅のお役立ち情報を色々教えてもらった。先人の情報は貴重だ。
フリーフードというのは、他の宿泊客が遠方へ移動する際使い切れず残ってしまった食べ物や調味料を、お好きに使ってくださいと、キッチンのフリーコーナーに置いて行くいわば残り物のこと。
この日の昼食はスナザキさんが、フリーフードだけでパスタを作ってくれた。もっともフリーといっても、材料はスーパーで売っているものともちろん変わりない訳で、おまけにプロフェッショナルが作るとなればマズイはずが無い。しかもタダときた。タダ飯!ああなんと素敵な響きなのでしょう。
この日は他にも米や調味料などが大量にあった為、もったいないので使わせていただくことに。これは大切な資源の有効利用、いわば精進の道にも通ずる尊いものと言い訳以外のナニモノでも無いごたくを並べ、根こそぎごっそりと2人でいただく。この後もしばらくなんとかなりそうな程の豊作。スナザキさんいわく、ここのユースは回転率がかなり良いとか。

 しばらくしてスナザキさんの車で空港に送ってもらい、カンタスオーストラリア航空のチケットオフィスへ向かう。明日もし空席があれば、そのままアメリカ西海岸のLAに飛びたかったのだが、あいにく全部席がふさがっているとのこと。僕の持っているチケットがシドニー乗り継ぎ便ということもあり、LAに飛べるのは最短で4日後の朝一番のフライトという。困った。しかし他に方法も無いのでその便を予約し、オフィスを後にする。
 その後町の大型ディスカウントスーパーでフィルムを現像に出す。ただしこの日は土曜日で、土日は工場が休みの為月曜日扱いになってしまい、出来あがりは火曜日とのこと。ちょっとついてない。

 翌日は2人で片道2時間かけ、クライストチャーチから135km離れたカンタベリー北部の内陸にある、ハンマースプリングスという温泉へ行く。
こちらの温泉はお風呂よりもプールに近く、必ず水着を着用しなくてはいけないと聞いていたのであまり乗り気でなかったのだが、岩風呂があるらしいと聞きそれならと勇んで行ってみる。しかしあったのは温泉とは名ばかりの岩に囲まれた温水プール。
おまけに水着での入浴というのは僕としてはどうしても入った気がせず、やはり温泉は日本が一番だなと改めて感じる。これで8ニュージーランドドル、約430円。

 月曜日になり町のお店が開いたので、楽器屋でギターの弦を買った。値段はほぼ日本並みだが待望のバラ売りの弦を購入する事ができ、よく切れる3弦を多めに買う。

 昼時になり料理長のスナザキさんを探すがみつからない。そういえば今日彼は散髪しに行くと話していたのを思い出す。
 いつもは彼が料理をし自分が片付ける役割分担になっていたのだが、久々に自分で料理するかといつものようにフリーフードをあさる。最近どうやらあさり癖がついたみたい。
 どれどれとフリーコーナーを覗くとマカロニとチーズがあったので、これを茹でてトマトが無いので代わりにケチャップであえて、マカロニパスタを作ることに。しかし食べてみて絶句。ゲロマズである。よくもまあこんなにまずく作れたものである。
 しかも分量を間違えたのか軽く3人前はあるではないか。半ば拷問のように、そしてこんなにまずく作ってしまった己の罪を償うかのように半泣きで食べるが、2人前を食べ終えたところで気持ち悪くなり、残りは捨ててしまった。せっかくのフリーフードもこれでは報われない。悪いことをした。精進道もナニもあったものじゃない。

 午後になって自分の持つバンコクの路上で買ったオモチャのラジカセに、前回クライストチャーチで書いた友人の結婚祝いに贈る曲を再録音するが、やはりノイズがひどく使いものにならない。おまけに今度は回転が速すぎて、ものすごく高い声になってしまった。オラハシンジマッタダーと歌いたくなるような声。
というのは先日録音したテープを、スナザキさんの車に付いていたカーステレオで聞いたところ、電池が少なかったのか音にして約長2度低く、テンポにして♪=40は遅いような状態で聞けたものじゃなかった。それで再度電池を入れ替えて録音してみたのだが、今度は電池がありすぎて回転が速くなってしまっている。いったいどんなラジカセなのか。
砂崎さんも同情してくれたのか、どこかでもう少しましなラジカセを借りられないか一緒にあちこち聞いて回ってくれるが、ひょんなことからギターの弦を買った楽器屋で、ちゃんとしたレコーディングスタジオを紹介される。
 もちろん本格的なレコーディングをする予算はなかったが、まあとりあえず行くだけ行ってみましょうかとそのスタジオに赴き、ブッキングマネージャーと話をしてみた。
しかし最低2時間、料金にして150ニュージーランドドルといわれ、それはちょっと手がでないなと困っていると、なんならもっと安いところがあるよと別のスタジオを紹介してもらえることに。
 しかしそのスタジオがかなりの郊外にあり、しかも個人宅の裏の離れを改造した、看板も出ていないホームレコーディングスタジオだったのでかなり道に迷う。
 それでもなんとか辿り着き、ギターと歌の1発録りを1時間だけでいいから録音させてくれないかと頼むと、明日の午後だったら大丈夫という。スタジオを見せてもらうと、オンボロだが一応ステージ用の電子ピアノがあったので、これを使ってもいいかと聞くと無料で使っていいとのこと。自分の場合ギターよりはピアノの方が幾らか自信があるので、明日のレコーディングの予約を入れる。

 火曜日になり昼過ぎに現像に出していた写真を受け取った後、そのままスナザキさんと2人でスタジオへ向かう。とりあえず時間もないことだしと、最高3テイクまでと自分に言い聞かせ、少しだけ練習させてもらいそのまま本番に入る。
 決して最高の出来という訳ではなかったが、とりあえず現状ではこんなものだろうというモノが2テイク目で録れたので、これでOKとしてテープに落としてもらう。
 ここはスタジオも狭くミキサーもかなりオンボロだったが、マッキントッシュのコンピュータ上でプロツールスという専用ソフトを使った、最新のハードディスクレコーディングシステムを導入している。また歌録り用、楽器用とちゃんとそれぞれ別にブースがあり、マイクもAKGのコンデンサーマイクを使っていて、プロでもデモテープくらいなら録音できそうな環境。
レコーディングの記念にとエンジニアのおやじと一緒に写真撮影をし、サンキューと握手してスタジオを後にする。その足で郵便局へ行って、そのカセットテープを日本の友人宛に送る。あとは無事届けばよいのだが。

 夜になってこの日が最後だからと、お世話になったお礼に朝スーパーで買ったラム肉のステーキをスナザキさんに調理してもらい、スパークリングワインもあけて2人だけのお別れ会を開く。
 値段にすると2人前で15ニュージーランドドル、約800円程度のものだったが、さすがは元フレンチのシェフだけあって即席でソースまで作ってくれ、星付きレストラン級の美味さ。本当に専属シェフとして一緒に世界を回りたい程だ。
 スナザキさんとは偶然、クイーンズタウンのユースで同じ部屋だった縁で一緒に旅することになったが、気付けばもう1週間も一緒に旅をしていた計算になる。
 彼がとても良い人だったこともあり、別れるのが名残惜しかったがまたいつかどこかで会いましょうとアドレスを交換した。彼のおかげで本当に楽しい一時を過ごすことが出来た。
 また高校時代からの友人に、結婚のお祝いとして贈る曲を書き上げ、スタジオでレコーディングすることも出来た。マトモなラジカセすら無い状況でいったい自分に何が出来るのだろうと思ったが、どんな状況に置かれようと、必ず人には何か出来ることがあるのだと改めて思い知らされた。
これからも背伸びせず、ありのままの自分でひとつずつ、今の自分が出来ることをやっていけたらと思う。誰かの為に。そして自分自身の為に。

拝啓、世界の路上から 第6話「誰かの為に出来ること/ニュージーランド」(前編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第6話「誰かの為に出来ること/ニュージーランド」(前編)

 うーんなんて緑の多い町だろう。さすがはガーデンシティといわれるだけあるなあ。思わずそんな言葉がこぼれる。
空港からの乗合シャトルに乗って窓の外を眺めていると、緑豊な美しい公園があちこちに点在していた。そしてしばらくして街の中心部にある大聖堂の前で、シャトルは停車する。

オーストラリアの世界最大級の一枚岩、エアーズロックからシドニーを経由し、今僕はニュージーランドのクライストチャーチに来ていた。 

 オーストラリアのすぐ東隣にある国ニュージーランドは、国の人口の約3分の1が集中する商業都市オークランドや、政治の中枢首都ウェリントンのある北島と、サザンアルプスの2000~3000m級の山々や西岸の氷河湖やフィヨルド、そしてご存知ニュージーランド名物の、羊達が放たれた大牧草地帯といった自然に囲まれた、南島とで構成されている。
その南島最大の都市クライストチャーチはオークランド、ウェリントンに次ぐ人口約34万人のニュージーランド第3の都市で、市街地を流れるエイボン川の清流と緑に包まれた多くの公園を持つ、どこかほっとさせてくれる雰囲気の街。またイギリス以外で最もイギリス的な街とも形容されており、その象徴が街の中心にある大聖堂だ。

 大聖堂の前で乗合シャトルを降りた僕は、そこから少し歩いた所にあるユースホステルのドミトリーにチェックインする。ここは1泊19ニュージーランドドル、日本円で約1000円。

 南半球は秋の為かここクライストチャーチもあいにくの雨で、特にすることも無いので八百屋やパン屋、肉屋が並ぶ商店街で買い物をして、調理器具一式が常備されているユースのキッチンで自炊する。
東京で独り暮らしをしたとはいえ、カレーやチャーハンなど5品限定のレパートリーを、長年延々とフル稼動させてきた僕なので、とりたてて料理が得意という訳でも無いのだが、予算の関係上できるだけ出費を抑えたいこともあり、可能な限りの自炊は必須だ。
しかもこの街は食料品が安く分厚いステーキが1枚約100円、20枚入りの食パンが80円に缶ビール1本70円ぐらい。これならここにいる間はバランスの良い食事ができそうだ。ここでしばらく腰を落ち着けて曲作りでもすることにしよう。

 晴れたら公園で曲でも作ろうと思っていた。しかし翌日も翌々日もずっと雨。
朝起きてパンを焼いて食べ、買い物に行って昼ご飯を作って食べ、洗濯して夕飯作って食べて寝る毎日。食って寝るしかやっていない。これではただのぐうたら男じゃないかまったく。何をしにこの町に来たのかわからない。

 これではいけないと思い立ち、小雨の降る中ギターを持って公園に出た。今日からこちらはイースター(復活祭)とかで5連休に入るらしく、街はひっそりと静まりかえっている。
 雨は相変わらず降り続いており、どこか屋根のある場所は無いか探すが、なかなか都合の良い場所は見つからない。しかたなくラティマースクエアという公園近くの、人通りも少ない道沿いにある、シャッターの下りた店先の屋根下でギターを出して浮んだフレーズを口ずさむ。フンフンフンらーらーらー、ギターが無かったらたたのアブナイ人である。
 少し気に入ったフレーズが出てきたので、以前バンコクの道端で買ったおもちゃのラジカセに、浮んだアイデアを吹き込んでゆく。
 しかししばらくすると、明らかに違法な薬物でキメておられるレゲエ風の黒人と、同じく遠い世界へトリップされているスキンヘッドの白人の、2人組みが僕の前で立ち止まった。なんだお前はストリートミュージシャンか?何か歌ってみなと目の前にコインをばらまかれる。
 はっと気付くと首筋に、ガマの油がとれそうな程の脂汗が流れている。本当は曲を作っているのだから邪魔しないで欲しいのだが、まあ小銭の大好きな僕なのでくれるならと1曲歌い始める。
 ビートルズを歌っていると、彼達も知っている曲らしく一緒になって歌っている。
すると今度はニュージーランド人だろうか、白人の女性2人組が何をやっているの?と声をかけてきた。もう1曲歌ってくれというので、ビートルズのナンバーを皆で歌う。
 すっかりご機嫌になった彼達は、さらにコインをポケットからばらまいて楽しかったぜ、どうせやるならもっと人がいるところでやらないと駄目だぞと、ご丁寧にもアドバイスまでして去っていった。いや別にストリートライブをしていた訳じゃ無いのだけどねと思いつつ、残されたコインを数えてみると5ニュージーランドドル以上もある。なんだかよく分らないうちに1日の食費が浮いた。毎度ありい。

 いつものように昼食をとった後、午後もおなじように雨の中路上の屋根下でフレーズを重ねてゆく。少し曲らしくなってきたので後は明日まとめることに。今日は思わぬ収入が入ったので、夕食のおかずを1品増やした。

 翌日は今までの雨が嘘のように晴れあがる。ようやく晴れ男の本領発揮。これでようやく、ずっと行きたいと思っていたクライストチャーチのシンボル大聖堂に行ける。
インスタントカメラ片手に大聖堂の前をしばらくぶらついた後、中に入って厳かなクリスチャン気分を味わう。でもなんちゃってクリスチャンはすぐに飽きてしまったので、そのまま宿に戻ってギターを抱え表に出た。これだけ晴れてくれると、今日はじっくり公園で曲作りができる。
 この後1日かけて昨日のフレーズをまとめる。一応何とか1曲カタチになった。あとは歌詞だ。
実は高校時代からの友人が結婚するというので、ぜひお祝いに1曲プレゼントしたいと思っていた。書き上げた曲も甘いラブソングになっており、詞も同様のイメージで書き始めたのだが、今自分がラブラブハッピー♪という状況ではないので、なかなか良い言葉が思いつかない。
出来上がる詞は、さよなら~アンタが憎い~♪と中島みゆき風のものばかり。結婚祝いに贈ろうものなら、三代末までたたられそうである。しかたないのでシャワーを浴びて早めの就寝。

 しかし夜中の12時にふと目が覚め、なぜだか無性に詞が書きたい気分になった。こん
な気持ちは久々だ。これを逃してなるものかと誰もいないロビーのソファーで、スケッチブックに詞を書き続ける。
2時間程してなんとかこれならというものができた。時計を見ると深夜2時を回っていたので、部屋へ戻ってもう1度眠ることに。
ベッドに入ると、相部屋のオヤジが半径3m以内の小動物が即死しそうな、殺人的なイビキをかいている。子リスの様にオトナシイ僕が、そんなに眠いのなら永眠させてやろうかいと、思わず実力行使に出そうな程の凄まじさだったが、1時間もするとイビキも少し収まりようやく眠りにつくことが出来た。

 翌朝、目が覚めるとすぐにギターを持って外に出る。
今日もまた雨だったが昨夜書き上げた詞をフレーズにあわせ完成させたいと、いつものように路上の屋根下で、何度も口ずさみながら少しずつ手を加えて行く。そして2時間程して、この旅最初の曲ができあがった。
 
雨は相変わらず降り続いていたが、この感じを忘れたくないと他のアイデアフレーズも少しまとめる。
夕方になって雨が小降りになったので、おもちゃのラジカセを持って先程書いた曲をテープに吹き込んだ。ちょっとノイズが酷いが、今の環境ではこれが精一杯だ。仕方無い。本当なら直接出向いて友人の結婚式で歌いたいが、旅中は何があっても帰国しないと決めているのでこのテープを送ることにしよう。

 宿に戻って荷物をまとめる。曲が出来たら移動すると決めていたので、明日にはここを出ることにする。このユースに着いてから明日で丸1週間。ちょうど良い頃かもしれない。

 次の日、朝7時過ぎに宿の前にバスが止まった。前日に座席を予約しておいたので、僕はそのバスにいそいそと乗り込む。
連日の雨が嘘のような気持ち良い晴天の中、8時間かけてクライストチャーチから約487km離れた今日の目的地、クイーンズタウンを目指す。
 ニュージーランドに来てからというもの曲作り以外何もしていないので、羊くらいは見てこようと思っていたのだが、1週間地図を眺めても、うーんうーんと唸るばかりで行きたい場所が見つからない。トイレに行きたいのかと誤解されたらどうしようと悩んでいた時、偶然同じユースに宿泊していた日本人がクイーンズタウンから来たとかで、あそこは良かったですよと勧められる。それならと急遽クイーンズタウン行きのバスを予約したのだ。

 バスが走り出して間もなく、羊の群れに遭遇する。羊が人口の約10倍といわれるニュージーランドだけあって、本当にどこへ行っても羊だらけだ。
 初めこそおお羊だ!と窓にへばりつくようにして眺めていたのだが、多い牧場になると数百頭は羊がいて、それが幾度となくこれでもかと続くものだから、さすがに8時間もすると飽きてくる。
 羊を数えていた訳ではないが、奴らには催眠効果があるのかなんだか眠くなり後半は少し眠ってしまった。まるでラリホー状態。え?わからないって?
到着したぞという運転手の声で目が覚め、ほとんど寝ぼけ状態で皆と一緒にぞろぞろとバスを降りたのが午後2時半。
 とりあえず今日の宿をとユースホステルを目指し、20分程歩いた湖沿いにあるユースのドミトリーにチェックインする。1泊19ニュージーランドドル、約1000円。

 ここクイーンズタウンはサザンアルプスの山々の麓、ワカティブ湖に寄り添うように広がるコジンマリとした街で、18世紀のゴールドラッシュによって栄えた歴史を持つ。
 今は美しい自然と豊富なアクティビティが中心となっているが、どことなく富士五湖などの避暑地を思わせる雰囲気だ。

部屋に荷物を置いた後、とりあえずお腹が空いていたのでスーパーへ買い出しに行き、かなり遅めのサンドイッチとコーラの昼食を済ませる。
 途中にあった街中のインフォメーションに入り、クイン―ズタウンの見所を聞いてみるが、ラフティングやバンジ―ジャンプなどお金がかかるものばかり勧めるので、お金無いので結構ですと席を立つ。自分から来たクセにまるで駅前のキャッチセールスを応対するかのように、逃げるようにして出てきてしまった。きっと受け付けのお姉さんは、なんなのよアイツ~とお茶菓子片手に同僚に愚痴をこぼしているに違いない。しかたなくこの日は、ただひたすら体育座りでワカティブ湖を眺めて過ごす。
 
 夜になり、宿のキッチンで作った軽めの夕食を済ませシャワーを浴びた後、疲れていたので早めに就寝につく。しかししばらくすると、何やら日本語の会話が聞こえ目を覚ました。
 体を起こしその方向に目をやると、相部屋の日本人青年2人が話をしている。せっかくなのでと自分も会話に加わり、ワーキングホリデーだという青年達と少し話をする。だが時間も遅く、1時間もするとそろそろ寝ようということになり再びベッドにもぐり込む。
 
 翌朝今日はどうしようかなぁ、金も無いしなぁとブツブツ言いながらキッチンで朝食を作っていると、昨日話した相部屋の青年の1人が同じように食事をしていた。
 隣に座って一緒に食事しながら、ニュージーランドはどうですか?などとたわいない会話をする。彼はスナザキさんといい、今日これから車でワナカへ向かうとのこと。オークランドからヒッチハイクでクライストチャーチまで来たのだが、さすがに人口の少ない南島では難しいらしく、中古の車を購入し旅しているとのことだった。
 もしテカポかダニ―デンへ行くのだったら、ガス代シェアして行きたかったですねと話すと、テカポだったらいいですよと意外な返事が帰ってきた。
 本当にいいのですかと聞くと、大丈夫どうせ1人ですからというので急いでチェックアウトし急遽テカポに移動することに。この街は金無し用無しみたいなので、さっさと移動してしまおう。

 車で3時間半程走って、湖畔の小さな町テカポに到着する。
テカポは万年雪に囲まれたサザンアルプス東側に開けた高原地帯で、時間ごとにその色を変えるという岩石を含んだ、ミルキーブルーの美しい湖畔にある、標高710m人口400人の小さな町。雰囲気は町とというより村に近い感じだ。
 ここはクライストチャーチから、クイーンズタウンやマウントクックへ移動する際の中継点でもあり、皆旅の途中に立ち寄って、他では見られない独特の色合いを持つ美しい湖を眺めながら、しばしの休息をとる穏やかな町。のんびりするにはもってこいの場所だ。
 
この日も空は快晴だったので、外に出て湖をぼんやり眺めながらくつろぐ。
それからしばらくして、スナザキさんと一緒にユースの近くにある湖沿いの小さな教会まで歩くことに。この教会は善き羊飼いの教会と呼ばれ、聖書に出てくる同名の教会をモチーフに、1935年に開拓者達によって建てられた教会だ。
 普通の教会は、祭壇の後ろにステンドグラスが散りばめられているが、ここはフロートガラスの大きな窓になっていて、テカポの青い湖と万年雪の山々が見渡せる。なかなか洒落た趣向が施されている。その美しさに思わず溜息。

 夕方になってようやくオーナーのおばちゃんが帰ってきたので、ユースホステルのドミトリーにチェックインする。1泊16ニュージーランドドル、約850円。
敷地内の庭に出てみると夕日が真っ白な山々の間に沈みかけていて、それがテカポの青い湖を真っ赤に染めている。ただただ見とれてしまう。
 部屋にギターを取りに戻り、その湖に浮ぶ夕日に向かって1曲歌うことにする。するとスナザキさんや、同じユースで知り合った日本人の女の子達が出てきて、もっと聴かせて欲しいというので調子にのって1時間近く歌う。やはり絶景のサンセットには、切なげなバラードがよく似合う。
 太陽が完全に沈んだ頃ちょうどギターの1弦が切れたので、本日のステージはこれにて終了。

 夜になると皆で大トランプ大会となった。この日は宿泊客に日本人が多く、男性6人が全て日本人で同じ部屋。女性も1人だけ韓国人で、残りは皆日本人という異様な状態。
夕食後から夜10時半ぐらいまで大貧民(大富豪ともいう)などのトランプをして過ごした後、1人の女の子がアルバイト先で下宿しており帰らなくてはいけないというので、夜も遅いしと皆で送って行くことに。
歩きながらふと空を見上げると、真っ暗な闇の中に散らばる星屑は手を伸ばせば届きそうな程で、なぜか物悲しくなるような切なげな輝きを放っている。すると一緒にいた内の1人が、あっ南十字星だ!と叫ぶ。そういえばここも南半球だったなと思い出す。風は少し冷たかったが、そのまましばらく立ち止まって零れ落ちそうな空の星を眺めていた。

 翌朝起きるとリビングルームにピアノがあったので、久々に弾き語りをする。先日書き上げた曲があったので、しばらく歌っているうちに気付くと2時間近くもたっていた。
 
お昼頃になりスナザキさんがマウントクックへ行くというので、アニキ待ってくださいよ~と風車の弥七とうっかり八兵衛のような関係で、急いで荷物を担ぎスナザキさんの後を追う。ここでなぜ水戸黄門なのかは分らないが、とにかくそんな関係。昼過ぎに出て1時間程してマウントクックのユースホステルに到着する。

マウントクックは標高3754mのニュージーランドで最も高い山で、この山を中心に標高3000mを越える18の山々と、その間の谷間を埋める氷河によって成るこの山脈は、南半球のアルプスの異名を持つ。
この日の空は快晴。絶好のトレッキング日和だ。もっともマウントクック自体に登るにはザイルなど本格的な道具を使い、山小屋などに泊まり数日かけてクライムする必要がある。だがそれ以外にも近辺にはビューポイントを基点にして、幾つかのトレッキングコースがあるらしく、それにチャレンジしようとここにやって来たのだ。

 まだ3時前なので、スナザキさんと一緒に往復1時間というビューポイントまで歩く。しかし思ったより早く手軽に着いてしまったので、さらに先にあるセアリーターンズトラックというトレッキングコースに挑戦したのだが、これがマジデスカという程キツイ。
 限り無くガケに近い山道を1時間かけて登るのだが、かなりハードで黙々と登り続けるスナザキさんのペースについて行けず、お先にどうぞと僕はゆっくり上ることにする。
 スナザキさんはフルーツピッキングの仕事で、鍛えているだけありさすがだ。ぐうたらミュージシャンの僕では太刀打ちできない。
 この後1時間かけてようやくビューポイントに到着。ぜえぜえハアハアいいながら、汗と鼻水でぐちゃぐちゃの顔して登りきると、あ、遅かったですねえとスナザキさんが涼しい顔して待っていてくれた。なんでも10分以上先に着いたとか。さすがですねえと感服すると、こちらの話に耳も貸さずオモシロイ顔してますねえと指さされる。大きなお世話ですってば。
しかしかなり高い所まで登ったので、そこから見るマウントクックは最高。これは苦労して登る価値がある。

帰り道、あまりに疲れてコワレテいた僕はエヘヘヘとトリップしながら、スナザキさんをブッチギリ、なぜか足は少し内股気味、脱力しきって手はブラブラで下り坂をかっ飛んで行く。疲れも足の痛みも、もう何も感じな~いという状態。ほとんどイッちゃっている。
下まで降りてから来た道を振り返ると、どこにもスナザキさんの姿は見えない。きっと今頃スナザキさんは、僕と一緒にトレッキングしたことを後悔しているはずである。

 翌日も天気は快晴。この日もまた2人してトレッキングをするが、この日行ったホッカーバレートラックはひたすら平坦な道で、往復およそ4時間程。昨日と比べるとかなり楽だ。
 このコースはマウントクックの登頂にも使われるルートで、麓にある氷河までは道具無しで行くことができる。氷河へのトレッキングということでかなり期待していたが、行ってみると氷河とは名ばかりのこじんまりした池に、小汚い小さな氷が数個ぷかぷかと浮いているだけでいささか拍子抜け。途中この界隈を源泉として下流へ向かって流れる、ホッカーリバーに架かっていた2本のつり橋だけが少し雰囲気があって唯一の救い。
 
その後宿に戻って食事にする。スナザキさんは何を隠そう元フレンチのコックさんで、テカポの小さなスーパーで買った食材を使って子羊の香草焼きや、絶妙な炊き上がりの白いご飯を作ってくれる。それらを口に入れるともう最高。あまりに美味過ぎて言葉が出ない。どこまでもあなたについて行きたい程の味。
 

拝啓、世界の路上から 第5話「夢の先にあるもの/オーストラリア」(後編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第5話「夢の先にあるもの/オーストラリア」(後編)

 朝6時に宿をチェックアウトし空港へ向かう。シドニーから列車でケアンズまで行き、グレートバリアリーフを見るという目的を達成してしまったので、僕は次の目的地エアーズロックを目指すことにしたのだ。
7時半発のカンタスオーストラリア航空の飛行機に乗り、3時間もするとエアーズロックの空の玄関口、コネラン空港へと到着する。

 エアーズロックは周囲9km、海抜867mの世界最大級の一枚岩で、オーストラリア大陸のほぼ真中に位置する。荒涼とした砂漠の真中にあるこの巨大な岩肌は、時間によって七色に変化することでも有名で、またこの近隣に住む先住民アボリジニーに崇められている聖地でもある。

 空港から無料のシャトルバスに乗って5km程行った所にある、エアーズロック近郊にある観光拠点、エアーズロック・リゾートに移動する。ここには観光局やホテル、ションピックセンターなどが集まっていて、1日5000人収容可能な宿泊施設がある。
 エアーズロックのある一帯は国立公園に指定されており、このエアーズロック・リゾートにアコモデーションを集中させることで、国立公園全体の景観を保っているとか。といっても、ここには5つのホテルしか無く、事前に予約を入れないと宿泊出来ないことも多いらしい。
僕が事前に予約してあったのは、このエアーズロック・リゾートの唯一のドミトリー、アウトバックパイオニアロッジで、自分の名前と予約してあった旨を告げ、パスポートを見せると問題なくチェックインすることが出来た。ここは少し高く2泊で45オーストラリアドル、一泊あたり約1400円。

 大部屋のドミトリールームのベッド脇に荷物を置いた後、ロッジに隣接された同名のホテルのツアーインフォメーションで、午後からのザ・オルガズとエアーズロックサンセットツアーを、またついでに翌朝のサンライズとエアーズロックへ登るツアーも申し込む。ディスカウントしてもらってこれで98オーストラリアドル、約6000円。噂通り高い。
 
 買っておいたパンとコーラだけのショボイ昼食を済ませ、昼過ぎに到着した迎えのワゴン車に乗り込む。乗客は僕の他に、眼鏡をかけた細身の日本人男性が1人と、白人のおばさんの3人だけ。その日本人の男性の名前はコウノさん。4年前ニュージーランドでワーキングホリデーをして以来、世界のあちこちを旅しているとのこと。

 この日最初の目的地ザ・オルガズは、36個の巨大な奇岩が集まっており、標高1069mのオルガ渓谷の間を通る、風の谷と呼ばれる山道を歩くことができる。またその壮大な迫力はエアーズロック以上ともいわれている。

ザ・オルガズに到着すると、いきなり沢山の蝿の洗礼を受ける。エアーズロックもそうだが、この近辺はある季節になると蝿が大量発生するらしく、どうやらその時期にあたってしまったようで、さっきから無数の蝿が集まってきてうざったい。

とにかくまずは風の谷のウォーキング・トレイル(ハイキングコースのようなもの)を歩こうと、コウノさんと2人で2時間半のコースに出る。しかしこのザ・オルガズが、エアーズロック以上といわれるのも頷ける程、なんともモノスゴイ迫力だ。
またアップダウンが激しい山道を歩いていると、急に開けた一角に出てそこから眺める奇岩群は、この世のものとは思えない神秘的な情景。フーッと吹き抜け頬を撫でる風は、これまでの疲れを一瞬にして吹き飛ばしてしまう心地良さ。
風の谷というと思わずナウシカを想像するが、あの映画に出てきた同名の場所とどことなく似ている。本当に素晴らしい風景だ。思わず2人して壊れたラジカセのように、スゴイ・スゴイと連呼し続ける。
もうちょっとバリエーションを変えないと、頭の弱い方々といわれてしまいそうですねとコウノさんに話すと、スゴイ、スゴイノウ、スゴイカモと微妙な変化をつけている。イヤ、そうじゃないって。
 
しかしそれ以上にすごいのがこの蝿。目、鼻、口とあらゆる穴に飛び込んでくるは、体にとまりまくるはでキリがない。何とかならんのかい!と思わず絶叫すると、何ともなりませーん!とコウノさんが答える。いえあなたに言ったのではないのですけれどね。
一方何とかして欲しい肝心の蝿さん達は、相変わらずお構いなしに襲ってくる。そのスケールも半端では無く、コウノさんは蝿避けのフライネットを用意して、頭から覆面レスラーのように被っているので首から上は大丈夫だったが、反面彼のリュックには100匹近く、蝿がぎっしりととまっている。
スパイダーマンならぬフライダーマン1号の称号を授けようといって、コウノさんをちゃかすと、君のリュックにも沢山とまっているよじゃあ君は2号だ!と、とても30過ぎているとは思えない、するどいツッコミで返される。
そうだ自分も背中が見えないだけで、他人事では無かった。無数の蝿が群がる自分の姿を想像して、思わず気を失いそうになる。でもこんなところで気絶しては、それこそ蝿達の思うツボだ。いったいどこからこの蝿は湧いてくるのだろうか。ん?ちょっと待て。ということは同じ数だけの蝿の子供が、どこかにいるということ?うーん、マジで気絶してしまいそう。

 2時間程歩いてザ・オルガズを堪能し、さあ帰り道というところで突然激しい雨が降りだした。たまらず大木の下で雨宿りする。
 しばらくすれば止むかと思っていた雨はどんどん勢いを増し、スコールを通りこして嵐となる。雷も鳴り出した。ふと横に目をやると隣の木に雷の落ちた形跡があったので、ここは危ないとまだ残り30分もある道程を、ずぶ濡れになりながら走ってワゴンまで引き返す。途中結構急な岩道もあり、それがまた雨で滑ってかなり危ない。
 
走りながら後ろを振り返ると、ザ・オルガズの岩々に無数の滝が出来ていた。これもすごい迫力。

 びしょ濡れのままワゴンに乗り込むと、エアーズロックサンセットツアーだけのお客なのか、白人がさらに6人程乗っていた。女性もいたのだが日本人は僕とコウノさんだけだったので、2人でパンツ1枚になる。風邪をひいたらイケナイとそうしたのだが、ほとんど旅の恥はナントカの状態。これではパンツマンと呼ばれてしまう。パンツマン1号、2号じゃフライダーマンよりカッコ悪い。イヤ過ぎる。

 雨は相変わらず激しく降り続き止みそうにもないので、ツアーキャンセルで宿に引き返すかと思いきや、このサンセットツアーは急遽エアーズロック滝見物ツアーに名称を変え強行された。宿に帰って暖かいシャワーを浴び新しい服に着替えられるという、僕達の淡い希望も空しく打ち砕かる。パンツマン続行!ほとんどさらし者に近い。

 だがエアーズロックから流れ落ちる無数の雨水は、まるで元々そこが滝壷であるかのように、平らな己の頂に激しい濁流を生み出し、ありとあらゆるものを流し尽くすのではないかと思う程の激しさで、先を競うようにして下界へと降り注いでいる。まさに圧巻の一言。サンセットが見られないのは残念だが、これまたもの凄いモノを見せつけられたものである。
コウノさんと2人で車の窓にかぶりつくようにしてこの滝を見ていると、駐車場なのだろうか、他の観光客が沢山集まっている一角で僕達のワゴンも停車する。そこで運転手が、外に出てみてはいかがですかと乗客に声をかける。
え?この格好で外にでるの?服を着るからちょっと待ってという間も無く、早くしろよといわんばかりに後部座席の乗客に押し出されるようにして、僕達2人は車を降ろされる。
他の観光客の注目を一身に浴びる中、真っ裸でパンツ1枚でもちゃんと靴と靴下は履いておりますというイデタチで、パンツマン1号2号本日デビュー!ほとんど公開処刑と同意語。もうこうなりゃヤケだ、煮るなり焼くなり好きにしてくれえと僕が呟くと、コウノさんはチッ惜しいなあ、あとこれでネクタイがあれば完璧だったのにと残念がっている。何がそんなに惜しいのか。(注※断っておくがこれはフィクションでは無い。トホホ。)

 宿に戻りシャワーを浴びると、もう既に夜になっていた。そして宿の屋根付きの野外食堂では、バーベキューパーティーが始まる。ただやはりここは物価の高いリゾートとなのでと、コウノさんとワリカンでカンガルーステーキを1人前頼む。これで14オーストラリアドル。ビールも2人で6オーストラリアドル。合計1人あたり10オーストラリアドル、約630円。
 牛肉より安かったのでカンガルーの肉にしたのだが、つい先日エサをあげていたカンガルーを食べるなんてそんなことできませんと涙ぐむが、数分後うまいうまい母さんお代わり!と叫ぶ自分の姿があった。いやマジで柔らかい牛肉みたいでうまいんだってば。所詮人間なんてこんなものである。
 
 雨は留まるところを知らず、延々と激しく降りつづける。明朝のサンライズは無理だろうと、レセプションで日程を1日伸ばしてもらうことにする。

 翌日は特に何をするわけでもなく、ただ洗濯をして過ごす。リゾート内を歩いて回るとスーパーが1件あり、また宿に共同キッチンも付いていたので、作った方が安いと食料を買い込んで自炊することに。

 パンツマン1号のコウノさんに、材料費をワリカンしないかと持ちかけるといいよというのでさらに安上がりに。昼夜ともパンと牛のステーキを食べて、夜ビールを飲んで1日の食費が8オーストラリアドル、約500円。かなり安上がりだ。これからは出来る限り自炊することにしよう。
 
 明日もしエアーズロックに登れなかったら、登れるまで滞在を伸ばそうとコウノさんと話す。ただもし登れてしまうとクライムツアーの会社が違うコウノさんとは、今日で最後になってしまう為互いのアドレスを交換した。僕のツアーは早朝で、彼のツアーは朝の10時過ぎ。ちょうどすれ違ってしまうのだ。でももしこれが最後の夜となっても、またいつか会おうと再会の約束をする。パンツマンの絆は深いのだ。
 
 最終日。空は雲も多かったが、それでもなんとか晴れてくれる。ツアーはもちろん行われ、まばゆいばかりの朝日を浴びた広大な一枚岩、エアーズロックは赤というよりオレンジに近い光を放ち、どことなく2日ぶりの晴天を喜んでいるかのようにも見える。
そして今回のテーマの1つである、エアーズロッククライムにもOKが出た。切り立った急な岩肌を登るのはかなり危険なので、雨はもちろんちょっとした風でもすぐ入り口が閉鎖されてしまうらしく、どうなることやと心配していたのだがこれはラッキーだ。

 クライムゲートは、エアーズロックの西側に1箇所あるだけ。登り始めの最初の急な部分には、鎖が張られておりそれを伝って登る。この鎖が無くなるところで約半分くらい。それにしてもかなりの高さだ。先程まで自分がいたゲート口でこれから、いざ登ろうとしている人々がアリのように小さく見える。あまり下を見たくない。

その後は岩肌に引かれた白いペンキのラインに沿って、ひたすら歩くことになる。
 少ししてちょっとしたアップダウンが繰り返され、まだかいつになったら着くのだ勘弁してくれえと少し弱気になる頃、エアーズロックの頂に到着する。そしてそこには頂上を示すプレートが。
そしてエアーズロック頂上からの眺めは、今までの苦労がすべて拭き飛ぶくらい最高。この頃になると空は晴れ渡り、またエアーズロックの頂から眺める、約30km西方のザ・オルガズがひときわ美しい。そうだこれを見る為にここにやってきたのだと感動に打ち震えながら、あらためて自然の凄さを実感させられる。

 ただ続々と観光客が登ってきてあちこちでワイワイと騒ぎ出したので、少し危ないが切り立った岩肌を越え、あまり人が近づかない端の方のさらに奥まった場所へと移動する。ここなら他に誰もいない。
しばらくぼんやりと地平線を見ていると、雲の隙間から朝日が差し込みその光を浴びたザ・オルガスが、まるで神々の住む聖域のような神々しい光を放ち出した。思わず涙がこぼれそうになる程神秘的な光景。まさに至福の時。

 エアーズロックに登れてしまったので、予定ではもう次の国に移動する頃だ。シドニーから始めたこのオーストラリアの旅も、気付けば3週間近い日数がたっている。
 これまで自分が旅してきた道程を辿るようにして、オーストラリアで過ごした日々を振り返る。大自然の凄さを身を持って体感することが出来た、ここオーストラリアでの旅。しかしその中で今僕の脳裏に浮んでいるのは、意外にもブリスベンで会った元サッカー選手、ジン君と交わした言葉だった。

「今までずっとサッカー一筋でやってきたので、サッカーヤメテからなんだが自分がこの先どうすればいいのか、ワカンなくちゃったんですよねえ。でもいつまでもこのままじゃイケナイんで、新しい自分を探す為にここに来たんですよ。」そんなジン君の言葉が、今そこに彼がいるかのように僕に語りかけてくる。

君が新しい君を見つけるのは、いつのことなのだろうか。

君の追いかけた夢の先で、君を待っているものはいったい何なのか。

そして君はこれからどんな人生を選択し、歩いていくのだろうか。

あの時なんだが彼の姿と自分の姿が、重なって見えたような気がしたのだ。僕も同じように新しい自分を探している、1人の迷える旅人だ。
長い人生の中で、かつて自分の情熱の全てを注ぎ込んだ1つの夢が消え去った時、人は言葉も出ない程の痛みに必死に耐え、それでも救われたいこのまま終わりたくないとモガキ苦しむ。
あまりにもその痛みがツライものだから、時にはその痛みから目を背け現実から逃げ出してしまうこともある。でもどんなにバカ騒ぎして気を晴らそうと、どこまで走って逃げようと、自分がそのハードルを乗り越えない限り、結局現実という名の同じ場所に戻ってきてしまう。そして痛みは目を背けた分だけ、よけいに激しい痛みをまして自分に再び襲い掛かる。

以前必死になって追いかけたその夢は、終わってしまった。そう終わってしまったんだ。

でもいいじゃない。全てのモノには始まりがある以上、必ず終わりがあるもの。1つの夢が終わることなど大したことではない。
ねえまた次の夢を追いかければいいじゃない。夢のカタチは1つではない。もし例え再び選んだ夢のカタチが、以前目指したものと同じだったとしても、そこへと伸びる道は決して1つではない。

 必死に追いかけたその夢の先には、また夢が続いていて欲しいって思う。そして僕の歩いているこの道の先にも、同じようにまた夢が続いていたらいいなって思う。

 目の前に広がる地平線。そしてその中に1つ、ぽつんと光輝くザ・オルガズ。あそこへ行く道は一つじゃ無いじゃない。そしてあそこへ行ったからといって、道は終わりじゃないじゃない。ねえそう思わないかい?

 エアーズロックの頂上でそんなことを自分に問いかけながら、瞬き程の時間の中、駆け抜けた広大なオーストラリアの僕の旅は、終わりを告げようとしていた。

拝啓、世界の路上から 第5話「夢の先にあるもの/オーストラリア」(中編)

2007-12-27 | 旅エッセイ2000「拝啓世界の路上から」
拝啓、世界の路上から 第5話「夢の先にあるもの/オーストラリア」(中編)

 シドニーからグレートバリアリーフを求めてオーストラリア大陸を北上する列車の旅。僕はブリスベンの後、さらに列車で揺られ、南回帰線が通る町ロックハンプトンやグレートケッペル島に立ち寄り、次なる目的地、ウィットサンディ諸島の最寄駅、プロサパイン行きの列車に乗っていた。

 昼の3時前にはプロサパインに列車は到着し、そこからさらにバスで15分かけて、アーリービーチという港街まで移動する。
 
 グレートバリアリーフでも随一の景勝を誇るウィットサンディ諸島は、マッカイとタウンズビルの中間に位置し、入江には74の美しい島々が点在する一大ビーチリゾートだ。そしてここアーリービーチは、ウィットサンディ諸島への拠点となるゲートシティーで宿泊施設等が充実しており、また各島へのクルーズの申し込みをする観光案内所が多く点在していると聞いていた。
 早速この街でも、ユースホステルのドミトリーに1泊宿を取る。ここも15オーストラリアドル、約900円。またユースでクルーズ船の申し込みが出来たので、翌日の船の手配をしてそのまま就寝。疲れていたのかよく眠れた。

 翌朝7時半のバスに乗って、シュートハーバーという港まで移動する。今日の予定はハミルトン島とウィットサンディ島のホワイトヘブンビーチへ、半日づつ滞在することになっている。
 ここで偶然同じバスだった、日本人女性がいたので話かけてみる。彼女はジュンコさんといってこの日は別のクルーズだったが、ハミルトン島までは一緒の船ということでしばらく話をした。
 彼女はグレートバリアリーフの、アウターリーフ(大珊瑚礁群)へダイビングをしに行くとのこと。僕も本当はそちらに参加したかったのだが、今日僕が行くツアーの3倍の値段なので、悩んだ末にあきらめたのだった。すると彼女の話では今ちょうどキャンペーン価格で半額なのだという。
 しまった僕もそちらにするのだったと少し悔やんだが、アウターリーフはこの後予定しているケアンズでもチャンスがあるので、その時お値打ちなクルーズを探すことにしよう。
 
 シュートハーバーを出て30分もすると、ハミルトン島に到着。
ハミルトン島は、ウィットサンディ諸島の中でも、最もポピュラーなアイランドリゾートで、他の島々への経由地にもなっている。またウィンドサーフィンやジェットスキー、パラセイリングなどアクティビティの豊富さも抜群。
しかし僕にそんなリゾートライフを満喫するお金はないので、金のかからない遊びはないかと、とりあえずインフォメーションを訪ねることに。しかしやはり金のかからぬ遊びはないそうで、とりあえず無料の地図を貰いお手軽だから行ってみてはと勧められた、港の反対側のビーチまで歩いて行く。
 ここはジェットスキーがノーライセンスで、10分30オーストラリアドルで出来るというのでやってみようとするが、用具をレンタルしているサーフショップに入ると、午前中はクローズだから午後にまた来いという。なぜ午前中は駄目なのだ、俺は午前中しかここに滞在していない、露骨な嫌がらせなのか?と、言いがかり以外のナニモノでもないクレームをつけると、そうかそれは残念、でも午前中は波が高くて今日はクローズなのだと事情を説明される。
そうかそれは文句を言う相手が違ったと非礼を詫び、すぐさま海の方へ走り出し同じように海に向かって因縁をつける。しかしザバーンザバーンと波打つだけで、何の返事もしやがらない。振り返ると先程まで話していたサーフショップの兄さんが、口をポカンと開け固まっていた。

しかたなく港に戻ってアイスクリームをなめながら、ひたすら海を眺めて過ごすことに。
 
 午後船でさらに1時間程揺られて、ウィットサンディ島のホワイトヘブンビーチに到着する。しかしまた雨が強く振り出してきており、雨が止むまでこのクルーズとセットになっている、ビュッフェ形式のランチをとることになった。

ウィットサンディ島はウィットサンディ諸島の中で最も大きな島で、その東海岸に約8kmも続くシリカサンドの真っ白なビーチは、ホワイトヘブンビーチと呼ばれており、その美しさはオーストラリア随一といわれる程。今日はこのホワイトヘブンビーチを満喫しようとやってきたのだが、ここで1つ大きな問題が。
実は同じ船には関西人の新婚旅行の団体さんが一緒で、皆あっちでイチャイチャこっちでイチャイチャとやっておられる。新婚旅行なのだがらイチャついて当たり前なのだが、なんせこちらは1人身の小汚いバックパッカー。ひたすら場違いな僕は、どうしたらよいのでしょう?と窓の外を飛ぶカモメさんに聞いてみるが、クークーとしかいってくれないので、どこにも居場所が無いまま端っこにポツンと1人座り、ただひたすらガツガツ食いまくることに。何をしに来たのだお前は。

 そんな中で同じく、場違いね私達と遠巻きに食事をしていたイタリア人のお姉さん2人組がいたので、お仲間お仲間♪とご一緒させてもらうことに。

 この船では日本人ツアー客にあわせてか日本食も少しあり、僕の飲んでいる味噌汁に興味を示したお姉さん達は、同じようにインスタント味噌汁を持ってきて食べ始めた。
 味はどう?と聞いてみると、うん美味しいと笑う。ただその時彼女達の味噌汁の異変に気付いた僕は、思わずそのお椀を凝視してしまう。
 その視線に気付いたお姉さんは、何か変?と僕に聞くので、彼女の耳元でそっと一言呟く。「姉さん、それは猫のエサでっせ」
実をいうとインスタント味噌汁の隣には、日本の白いご飯が置いてあったのだが、どうやらそれも一緒と思ったらしく、知らずに彼女達はぶっかけご飯にしてしまったのだった。自分達の食べているモノが「ねこまんま」だと判ると、彼女達も大爆笑だった。僕も一緒に大笑いする。
 
 雨が止んだのを見計らって、皆ぞろぞろとビーチへ出始めた。僕も後から続く。
砂浜でゴロンと横になってしばし寛ぐ。するとさすが世界屈指の美しいビーチというだけあって、雲の間から太陽が顔を出すと見渡す限り広がる砂浜が、パッと目映いばかりの銀色に輝き、まさに純白の天国と呼ぶに相応しい場所だ。
 雨のせいで少し砂は硬かったが、それでも所々鳴き砂になっており足の裏でその感触を楽しむ。海に入ると水も温かくて気持ちいいが、この時期はもう秋なのであちこちにクラゲがいて時々チクチク刺されて痛い。

 その後また少し雨に降られたが、それでも充分美しいビーチを満喫し帰りの船に乗り込む。

そして1時間もすると、新婚旅行の団体さんと場違いな僕を乗せた船は、ハミルトン島へ戻ってきた。ここで再び船を乗り換えて、アーリービーチまで戻る。すると朝一緒だったジュンコさんも同じ船だった。彼女は一日この船に乗っていたとのこと。
 今日の感想を聞かれたので、やはりリゾートは1人で来るものじゃないですね、雨にも降られて散々でしたと笑うと、あちらは雨にも降られずなかなか良かったとのこと。チッ、俺だけ損な役回りかい。
 ただこの一帯はアウターリーフまでかなり距離があり、片道4時間もかかるらしく、船酔いする人が続出したとのこと。自分も行っていたら吐いていたかもしれない。

 アーリービーチに戻るとせっかくだからと、ジュンコさんと一緒に夕食を取ることに。
 彼女は半年前からワーキングホリデーでこちらに来ていて、今月から3ヶ月かけてオーストラリア1周のラウンドに出ているとのこと。今回僕は東海岸沿いに列車で縦断するだけだが、確かに数奇な自然が点在するこの国の正しい旅の楽しみ方は、横断でも縦断でもなく、一周なのかもしれないなと話を聞きながら思う。ただ広大な面積を誇るオーストラリアを一周するには、3ヶ月でも足りないくらいだといっていた。

 彼女と別れた後、バスも終わっていたのでタクシーで鉄道駅のあるプロサパインへ向かう。15分ぐらいだからまあしれているだろうとタカをくくっていたが、着いてびっくり。30オーストラリアドルも取られた。日本円で約1800円。宿代2泊分。日本並みだ。

 翌朝4時発の列車の為、今晩は駅のホームのベンチで寝袋を敷いて寝る事にする。さすがに2日に1本しか客車が通らない駅だけあって、乗客どころか駅員の姿すらない。トイレにまで鍵がかかっている有様だ。普段は無人で列車の到着前後のみ、有人化されるのだろうか。
 外はまた雨が降り始めた。人っ子1人いない無人のホームは、どこか物悲しい。ガラスのように繊細な心臓を持つ僕が、こんな場所で眠られるかどうか心配だったが、5分もせず熟睡してしまった。どうやらガラスというのは大きな勘違いで、実は鉄板だったらしい。今度焼きそばでも焼いてみよう。

列車の出発時刻が近づくと、辺りがざわつき始め目を覚ます。時計を見ると深夜3時過ぎ。眠い目をこすり、寝袋をしまってそのままベンチに腰掛けて列車を待つ。
定刻より1時間近く遅れた列車に乗り込み、14時間程揺られてケアンズに到着する。雨の影響からか、結局3時間近く遅れての到着。

ケアンズは日本からダイレクトの航空便などもある、オーストラリアの北の玄関口的都市で、日本の観光客の大多数がここからグレートバリアリーフに訪れるという、超メジャーな観光地。
しかし意外に歴史が浅く、本格的に人の住む町としての開発が始まったのは、砂糖の積出港が出来た百年ちょっと前といったところらしい。そのサトウキビの栽培からもわかるように、バナナやマンゴーといったトロピカルフルーツの栽培に適した熱帯性気候で、パームツリーの街路樹が並ぶ1年中暖かく過ごせる南国リゾートだ。

 とりあえずは宿探しと駅前近くのユースに行くと、ベッドに空きがあったのでそのままチェックインする。
またこの日はろくに食事もしていなかったので、腹が減ッテハ戦は出来ぬと食べ物屋を求めて街を徘徊する。しばらく歩くと日本の大衆食堂のような店があったので、連日の移動の疲れで少し体調がすぐれなかったこともあり、奮発してこの店に入る。とんかつ定食が8オーストラリアドル、約500円。味噌汁とご飯がめちゃくちゃ美味い。

 翌日は連日の雨が嘘のような快晴。溜まった洗濯物をイッキに片付ける。オーストラリア入りして以来、靴を抜いで置いておくと半径1mは誰も近寄らない程の、殺人的な異臭を放つマイシューズも洗うが、何度洗っても臭いが取れない。洗剤もまったく効き目無し。でもやらないよりはと天日干しをする。
 ただこの時に重大なことに気付く。洗おうと思った水着が無いのだ。他にもタオルやらブラシ、そしてカメラが無くなっている。ホワイトヘブンビーチへ行った時にはまだ持っていたので、おそらくその後何処かへ置き忘れたようだ。しかし今となってはどうしようもない。
 カメラに入っていたフィルムは、グレートケッペル島からホワイトへブンビーチまでだったが、安物とはいえカメラが無くなるのは痛かった。買い換えるお金も無い。
 自分のバカさ加減に呆れながらも、まあ無ければ無いでなんとかなるかとそんな気持ちでいる自分に驚く。最近段々と執着心というものが、無くなりつつあるようだ。

 ユースの受け付けで、アウターリーフへのクルーズを申し込んだ後街へ出る。
 とりあえずタオルが1枚になってしまったので、買い足そうとスーパーやら町の商店街をあちこち見て回る。小さなハンドタオルが、1枚2オーストラリアドルだったので購入。他にも水着が12オーストラリアドル、約750円。そして使い捨てカメラがディスカウントセールをやっていて、フラッシュ付27枚撮りが3個で44オーストラリアドル、約2700円。ちょっと痛い出費だが、旅の間なんとかこれで凌ぐ事にする。

 宿に帰ると同じユースに宿泊している、ワーキングホリデーの日本人がロビーにいたのであれこれと話す。すると奇遇にも、明日自分が予定しているクルーズに参加する青年だった。彼の名前はオノ君。彼はなんでも半年間ゴールドコーストの土産物屋で働いた後、オーストラリアのあちこちをラウンドしてもう2ヶ月になるという。この夜は他にも数人ワーキングホリデーの日本人がいたので、皆で夜遅くまで話し込む。

 翌朝は曇。雨こそ降っていなかったが、今にも降りそうな空模様。なんとかもってくれと祈りつつ、朝7時半にオノ君と一緒に送迎バスに乗り込む。
 このクルーズは大型船カタマランでアウターリーフに行く1日ツアーで、ディスカウントしてもらい60オーストラリアドル、約3600円とかなりお得。勿論昼食付き。
 ケアンズ港から2時間半程かけて、アウターリーフのダイビングポイントまで移動する。途中やはり雨に降られかなり揺れたので、念の為酔い止めの薬を貰って飲む。結構キツイ。

 それでもポイントに着く頃には晴れ間が覗いており、絶好のダイビング日和。
 ダイビングのライセンスも体験ダイブのお金も無い僕は、シュノーケリングにチャレンジする。
無料で貸してくれるというので、体に人命救助でよく見るような浮き袋入りベスト、ゴーグルとシュノーケル、足ひれなどをつけてドボンと海に入る。
かなりおっかなびっくりだったが、少し馴れて水中に目をやると、海底には延々と巨大な珊瑚礁群が続いている。これぞまさにグレートバリアリーフ!という感じで、かなりスゴイ!しかし息が苦しい。あっ水飲んじゃった。溺れそう。
シュノーケリングは生まれて初めてだったが、元々泳ぎもあまり得意な方ではないので、足もまったくつかないダイビングポイントのような所で、長い間泳ぐというのは個人的にはかなり辛い。オマケにシュノーケルが異常にゴム臭く、変な味もして吐きそうだ。イチゴ味とかうすくちしょうゆ味とか、もうちょっとマシな味にならないのだろうか。

ドラえもんの道具みたいに海の中でも酸素ボンベ無しに、呼吸できるマスクみたいなものがあれば良いのだが、そんな便利なモノは無いので、このままではドザエモンになってしまうと一旦船に戻る。
何か無いかなと辺りを見回すと浮き輪があったので、恥を忍んでさらにそれをつけて再度トライ。これなら大丈夫そうだ。
 ここ数日の雨のせいか、ものすごくクリアーとまではいかなかったが、それでもこの巨大な珊瑚礁群をしばらく楽しむ。
 
 慣れぬことをしてかなり疲れたので、早めに船に戻って昼食をとることに。のんびりビュッフェを楽しんでいると、また雨が降り始めた。昼食後またトライしようと思っていたのだが、かなり激しく雨が振っている。
これはヨワッタ、ドラえもーんと泣きを入れるが、西欧人にこのネタは通じないらしく誰も何もいってくれない。唯一同じ日本人であるオノ君は、離れて他人のフリをしている。
仕方ないのでしばらく船の中でフテ寝する。ダイバー達はそれでも潜りに行ったが、僕はもう充分だ。
 
 3時頃僕達を乗せた船は動き出し、2時間もすると無事ケアンズに到着した。この日も定食屋で日本食を食べ、夜にはオノ君達と話をして就寝する。明日は次なる目的地を目指しまた移動だ。