克ちゃんのスロースローライフ

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私の苗字「東田」の発祥地(?)を訪ねて   奈良県桜井市

2015-08-30 14:15:13 | エッセー

 私の姓は「東田」と書いて「とうだ」と読みます。読み方について調べたところ、ほかに

ひがしだ、ひがした、あずまだ、ひがんだ等があり、同じ字の地名については愛媛県新居浜市に「とうだ」があり

山形県山形市に「ひがしだ」、北九州市八幡区に「ひがしだ」、奈良県桜井市に「ひがいだ」、愛知県豊橋市に

「あずまだ」があります。

 駅名では愛知県の豊橋鉄道「東田本線」、学校では東京都杉並区に東田小学校、中学校、豊橋市に市立東田小学校が

あります。中でも愛媛県新居浜市のJR新居浜駅の東側には東田「とうだ」の地名でかなり広域の地があり1丁目から

3丁目まであり市営東田団地のほかに東田大師堂等があり是非とも一度は訪問したいと思います。

 私の田舎は岡山県井原市美星町で旧は小田郡三山村大倉布東という山間の地で東田姓は4~5件あります。

 今から数十年前に兄が墓石を調査したところ、記載文字が判明した年代は「明和9年~~」とあり西暦では

1773年ごろで徳川幕府の10代将軍徳川家治(8代将軍徳川吉宗が祖父)の時代になります。今から242年前

になります。

 地名と姓は関係ないと思いますが、なんだか自分の姓については同じ名前の地があれば何だか興味がわきます。

 

 いろいろと調査した結果、「東田の発祥の地は奈良県の桜井市である」との書物に惹かれました。それは桜井市に

邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないか騒がれている「箸墓古墳」があり、この古墳と同じころの三世紀中頃に造られた

「東田大塚古墳」(ひがいだおおつかこふん)があります。先日の28日にこの古墳と東田名の地を訪問しました。

 

桜井市東田地名の地図

 東田大塚古墳説明版

東田大塚古墳全景

東田地区の風景と家屋等~東田大塚古墳が造られた三世紀とは今から1716年~1815年前、この村も

            そのころからあったのでしょうか。

 

JR桜井線~真っ直ぐに伸びた単線が青空の中に~~心が休まる情景です。

村中にあるお寺融通念仏宗「大念寺」~400年続く寺で現住職で22代だそうです。

付近に古墳も多くその案内標識

 

卑弥呼の墓と言われる箸墓古墳

 箸墓古墳は現在宮内庁管理で「孝麗天皇皇女(やまとととひももそひめ)の墓」とされています。

箸墓古墳で見かけたチョウ~ルリタテハかメスアカムラサキでは。

路上に落ちていた原付の標板~ひみこちゃんがかわいい。

 

 午前9時にバイクで自宅を出発して約40キロ余りの距離でした。以前に桜井市から三輪まで「山辺の道」を

歩きましたが今回は残暑も厳しく大変でした。滋賀県から独りで古墳めぐりをされているご婦人にお会いしました。

私の名前と「東田大塚古墳」のことを話すと早速見学に行くと話されていました。流石に古墳めぐりの「歴女」さん

と思いました。無事にお帰りになったでしょうか。

 

 

 


「キノコのお出ましです」   追記~ペリリュ―島の手記

2015-08-27 23:05:50 | 特定しない

処暑(しょしょ)「8月23日~8月24日)を過ぎやっと朝夕はしのぎ易くなった

感がします。処暑の意味は、暑さが終わり、涼風が吹くころとあります。

先日の新聞に、外国から松茸が入荷したとの報道もあり残暑が厳しい中、気分的に秋を

感じさせてくれます。

自宅の近くを散歩中に、かわいいキノコを見つけました。早速、報告いたします。又

不思議なキノコも見つけたので合わせてお知らせします。

 

 暑さを避けているようです。

 家族全員「ベレー帽」をかぶりおしゃれな一家です。

 

 一歩山に入ると真っ赤なキノコが~毒キノコでしょうか

雨上がり後の不思議なキノコ

 

  戦後70年、今年、天皇皇后両陛下が激戦の地パラオ共和国の「ペリリュー島」を訪問されました。

 以前にもブログに書きましたが、私の友人のお父さんもこの戦いで戦死されました。

 今回は、我が河内長野市に居住されていた故西川隆雄さんが昭和19年9月に同守備隊を増援すべく

 舟艇部隊として戦闘に参加中に垣間見た状況を絵と手記にまとめておられます。。この手記は病気で入院中に

 当時を思い出しながら書かれたそうですが、残念ながら3年前に他界されました。西川さんの体験された状況は

 2010年10月号 「歴史群像」に詳しく紹介されています。機会があれば図書館等でご高覧下さい。

              (広報 かわちながの8月号 から引用)内容の一部紹介

   パラオ本島からペリリュ―島に出発する場面を描いた絵には西川さんは手記に「船の進む波は夜光虫の

   光でピカピカ光る。米軍に見つかればいっぺんにやられる」とあり決死の任務であった様子が覗われます。

    戦死者 日本 10,695人    米国  1,794人  日本の生存者  34人

          戦死者のご冥福を心からお祈りいたします。

  

 

 

 

 


大正陸軍飛行場(現・八尾空港)を訪ねて

2015-08-15 23:14:22 | ポタリング日記

「大正陸軍飛行場」をご存知でしょうか。今の「八尾飛行場」です。

数日前に終戦記念日の特集で、八尾飛行場は戦時中は陸軍の飛行場であったことを知り

以前に数回訪れましたが、今回は気持ちを新たにして訪れました。昭和9年に阪神飛行学校の名称で

開かれ、昭和15年に大日本帝国陸軍に移譲されました。昭和19年7月には陸軍第11飛行師団の

司令部が置かれ、京阪地区の防空を担ったそうです。詳細は記録がないのでわかりません。

昭和31年3月31日に米軍に撤収されその後民間飛行場となったようです。現在は、府警航空隊

市消防局航空隊、国土交通省、陸上自衛隊中部方面航空隊が利用し、又民間航空会社等が遊覧飛行に

利用されています。滑走路はY型に2本あり日本では珍しいそうです。

飛行場までは、我が愛車「いわわき号」で午前9時30分に自宅をでて午後5時過ぎに帰宅、走行距離は170㌔

最高速度45キロ、さすがに残暑の厳しい中よく走りました。右足の膝も心配することなく無事帰宅できました。

なお、大正陸軍飛行場当時、配置されていた戦闘機は二式単戦「鍾馗」と四式戦「疾風」で1940年並びに

1943年ごろから0戦同様に活躍したそうです。

 管制塔

滑走路等敷地内~距離は2000㍍あるそうです

正面の山は信貴山~東方向~風の向きのより西か東に離陸方向が変更されるそうです

 今日の風は東向きの様です

滑走路の先にはアベノハルカスが見える

誘導灯

駐機中の遊覧飛行機

駐機飛行機~20機ぐらいありました

 

流石に敷地は広いですね

ドクターヘリの飛行が多く見られた

写真中央に関西空港を飛び立ったと思われる機体が小さく見える

 

陸上自衛隊中部方面航空隊 八尾駐屯地 コブラ様のヘリが2機見える

 

   お盆の為か離着陸するヘリもセスナ機も多くは見られなかった。

   今回は戦後70年の終戦記念日にあたり、京阪地区の空の防衛の為に八尾市に大日本帝国陸軍の

   飛行場が存在したことを知ってほしかったことです。

 

 

 


日本百名山「蓼科山」登山 (7月30日~8月1日)

2015-08-03 10:45:28 | 山登り

我が登山クラブ「即山会」は八が岳連峰の最北端に位置する「蓼科山」に登山計画を立てた。

高さは2530㍍と100名山中33番目の高さであるが、山容もきれいで近年では「諏訪富士」

の呼び名に統一されている。今回も会員中、最若手の宮元さんに車の提供と主たる運転をお願いし

午後10時に梅田を出発した。コースも名神高速並びに中央自動車道から諏訪IC出て192号の

ビーナスラインを走り、蓼科7合目駐車場に午前3時に到着した。1時間もすると付近は白み出し

仮眠の時間もなく登山準備にかかり、午前6時に蓼科神社の鳥居をくぐり登山に一歩を踏み出した。

 

今回は6月4日にダイヤモンドトレール中に左足を痛めやっと良くなると今度は右足の膝に痛みを

感じ医者い行くと「年齢的なもの」の診察を受け、登山直前になっても回復せずシップ薬、痛み止め

薬、塗り薬更にはトレッキングタイツに膝サポーターと万全で望んだ。幸い予定コースはスムースに

進んだが、鳥居を抜けてからの1時間半は岩だらけの急登であり、この坂を今度か下るのはと大変と

下山時はコースを変え別ルートに足を踏み入れたところ、町境界の尾根に入り道なき道をひたすら下り全く

別の場所にたどり着いた。45度もあろう急峻な山道を尻もちをつきながらの1時間半、「悪戦苦闘」

自衛隊の訓練でもあるまいに会員全員、一生忘れることのない登山で、幸い万全の態勢で臨んだお蔭で

無事に宿泊予定のホテルに到着した次第です。

 

出発まえに蓼科神社鳥居前での記念撮影

 

 この後の1時間半の「将軍平」までの石だらけの急登は写真撮る余裕はなく省略

 

 蓼科山荘のある将軍平から蓼科山を仰ぎ見る

 岩石が続く急坂をひたすら登る

1時間半で頂上に到着

 前方の山は南八が岳連峰~主峰の赤岳・阿弥陀岳等の連山

横岳や縞枯山

 

 頂上での記念撮影~皆いいか顔をしているでしょう

クレーターのような頂上一帯は岩石で埋もれていた。120万年前の火山噴火の跡

蓼科山荘のご主人が餌を与えていた鳥は「うそ」と名の付く小鳥

 オス

メス

縞枯れ状態の樹林帯を行く~このコースが苦難の始まり

 

 下記の地図説明

 本来ならば将軍平から蓼科山7合目に降るところを大河原峠の方に向かいその後駐車場方向に行くために

前掛山方向に進んだ。最初は踏後もあり更に下ってゆくと45度近くの急斜面に出くわし引き返すこともできない

状態になった。苔むした岩と落ち葉に足を取られながら更にシカのふんだらけの中を横切りコンパスを頼りにやっと

舗装道路に出た後、駐車場まで引き返した。最初の登山道より倍い近い距離を歩いたことになった。

下山途中に見かけたキノコ

 銀竜草(ギンリョウソウ)では~ユウレイソウとも言われている。

宿泊した「蓼科グランドホテル滝の湯」

ホテル周辺の眺め

 帰路途中に立ち寄った諏訪湖畔にある美術館併設の「SUWAガラスの里」

 2億円のガラス玉

 

   職場の山好きな仲間で作った「即山会」も今年で19年目を迎えました。お陰様で多少年齢的に

  足腰に故障は出ますがこれ補いながら「今が青春」の気持ちでいつまでも続けたいと思います。