刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

持統天皇、百人一首の秘密?( ^)o(^ )

2024-12-17 00:00:01 | 古代史

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#今回はフォローさせていただいている方のブログをテーマにしました。よく知られた百人一首の中の持統天皇の有名な歌を英訳されていますので興味を持ちました。つい、いつものように不躾なコメントをしましたが、とてもいいお返事を頂きました。本ブログで紹介させていただくことも、快諾頂きました。改めて感謝いたします。よろしければお付き合いください(#^.^#)

英訳百人一首002持統天皇

花咲く丘の高校生@gooーblog

春過ぎて 夏きにけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

いい話題を有難うございます。人気古代史作家の関裕二さんは、天武天皇崩御後に持統天皇が即位した状況が現れていると解説していました。つまり、天香久山は霊山ですので、人間が立ち入るような山ではないのに、そこに洗濯物を干すなどというのはあり得ない話ですので、皇位を奪った喜びの歌だと解釈していました。出典は多分「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)だったと思います。(注)

ところが、天武天皇の後には高市皇子が即位していたという証拠が見つかっています。長男の長屋王の広大な屋敷跡から長屋親王と墨守された木簡が出土しています。701年の大宝律令では親王は天皇の兄弟か皇子だけです。

もしも高市皇子が即位していたら、持統天皇は存在しないのですよネ(^_-)-☆

その証拠が、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺(せんにゅうじ)で天智天皇から飛んで孫の光仁天皇より今上天皇までの歴代天皇を仏式で祀っているのですが、明治になるまで江戸時代の二人の女性天皇が天皇として祀られていなかったのです。仏事に揚げる肖像画は明治になって描かれたものですから。

ですから、この歌は後世に作られたものの可能性が高いです。
何が言いたいかというと、日本書紀は天皇の歴史書ではなく、藤原不比等による勝者の歴史書なのです。なので、不都合な話は捏造して誤魔化しているのです。

現在、愛子内親王を即位させようという天皇家の消滅を狙った反日活動家の動きで、国民の多くがそれに賛同しているようですが、日本の歴史上、女帝は存在しないと言いたかったのです。伝統国家の日本を護るために女性天皇や女系天皇に反対しないと日本が日本でなくなるという話でした。突然お邪魔して申し訳なかったです(;^ω^赤字は後で追加しました)。

おはようございます、katumoku10 さん
コメントありがとうございます。

なるほど、持統天皇即位には血生臭い抗争があったのですね。

私の中学生の頃は「衣干したり天の香具山」と習ったのですが、「衣干すてふ・・・」と伝聞で詠まれていたのですね。

この歌だけを読むと、うららかな初夏を描写しているように思えますが、実は春先の地吹雪のような激しい抗争の後、ようやく政権が落ち着いてきた安堵の心境を歌ったものでしょうか。

いずれにせよ、持統天皇の素晴らしい感性を読み取ることのできる一首だと思っています。

私も、戸籍制度や天皇制やら日本の「国家体制」にいちゃもんをつける反日活動家には立腹しています。
今後ともよろしくお願いいたします。(ゆ~)

的外れなコメントでしたので少し、躊躇していたのですが、とても心強いお返事を頂いたので、安心し、嬉しくなりました。どうも有難うございました(;^ω^)

(注)すいません、出典の記憶違いでした。正しくは、関裕二「万葉集に隠された古代史の真実」PHP文庫 2019(pp.244-254)でした(;^ω^)

持統天皇が胸に秘めていた野望が、万葉集の中に暗号めかしく折り込まれている。それが百人一首にも取り上げられている天香久山の歌である。題詞には、「藤原の宮に天の下知らしめしし天皇の代」とあるから、持統八年(六九四)以降の作だ。

<中略>

持統天皇は天武天皇の王家を継承したように見せかけて、実は持統天皇から始まる新たな王朝を構築していたと思われる。つまり、女性の太陽神・天照大神を自らの姿になぞらえ、「天照大神(持統天皇)から始まる王家」という観念上の新王家を開いたのであり、だからこそ持統天皇に、高天原広野姫天皇という天照大神を暗示する諡号が与えられたのであろう。

<中略>

なぜ持統天皇はこのような「背伸び」をしたのだろう。それは、持統女帝から始まる新たな王家の正統性を構築するためであろう。つまり、持統天皇の出現によって、ここから始まる王家は「持統王家(天智天皇の王家でもある)」となり、天武の王家は観念上葬り去られたのである。

持統天皇の喜びの歌というのも記憶違いでした。すんまへん(*´Д`)

それで、いいところまで謎ときして頂いたのですが、ここで止まると不比等の意図を汲んだ藤原氏の罠にはまることになるのです。どういうことか説明します(^_-)-☆

天智天皇はヤマト王権の基礎を築いた第十九代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の正統な跡継ぎだと推理しています。藤原氏は天智天皇の子孫(男系男子)に皇位を継がせるのが正統だと不比等から遺言されていたはずです。実際に天智天皇の孫の光仁天皇が皇位を継ぎ、今上天皇まで続いているのです(詳細は【関連記事】「言挙げしてはいけない古代史の秘密(;^ω^)」の図を参照)。

在しない持統天皇は皇位をニギハヤヒ大王の子孫に渡すための仮託、つまりかこつけたのです。持統天皇は不比等の創作ですので、持統天皇とされた天武天皇妃(天智天皇の皇女)鵜野讃良(うのさらら)がどこまで野望を持っていたのかははっきりと分かりませんが、ニギハヤヒ大王と同じ天照大神という神号を不比等が与えたのです。

また天武天皇から聖武天皇さらには淡路廃帝(淳仁天皇・舎人親王の子大炊王)まで含めた男性天皇は、スサノヲ・大国主・初代応神天皇の子孫の「ヤマトの祭祀王」なので、藤原氏にとってニギハヤヒ大王を始祖とする正統な天皇ではないのです。勿論、元明・元正・孝謙(称徳)天皇という女帝はフェイクですが。

泉涌寺が、江戸時代まで天智天皇と、飛んで光仁天皇から孝明天皇までの歴代の男性天皇だけを天皇として祀っていたことから分かります(^_-)-☆

【関連記事】

神話が隠した不自然な史実

不比等が何のために高天原神話を創作したのかを調べました。これによって女性天皇は存在しないことが分かってきました。そうすると、日本書紀に隠された不比等の悪事も見えてきました。それを隠すための高市皇子の出自に関するウソが分かり、卑弥呼やその一族の二人の天皇を隠さねばならない理由も分かりました(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)。

言挙げしてはいけない古代史の秘密(;^ω^)

日本の古代史が謎だらけなので、九州王朝説などの天才的な発想の様々な仮説が飛び出して収集がつかない状況でしたが、記紀が天皇の歴史書ではないと気づけば、不比等の気持ちを読んで隠したかったことが分かりました(#^.^#)

一番は不比等が権力を握るために行った悪事で、次に権力を握り続けるために都合の悪い出自を隠したということだと推理しました(^_-)-☆

 

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縄文人ってなんで創意工夫が得意?( ^)o(^ )

2024-12-16 00:23:45 | 古代史

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はい、おっしゃるとおりですね。

小銅鐸は奴国の祭祀で使われたもので、「聞く銅鐸」の祖形ですが、それを見た縄文人が、その音を聞いてマネするうちにどんどん大きくなっていったんですよ。それが「見る銅鐸」(#^.^#)。

縄文系の人々はいいと思ったものは真似をして、それがいつの間にか元のものを凌ぐ素晴らしいものにする創意工夫が得意なのです。

石剣は有柄式銅剣をまねしたもののようですが、石剣の方が切れ味が良くて、出来が良いようですよ( ^)o(^ )(注)

魏志倭人伝でも不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡が中心)の長官が多模(タモ)とありますから、「マネの多いヤツ」という意味なので縄文系と分かりました。

あ、倭人伝の行程記事などは、従来漢字を読めない倭人が魏の役人に発音したものを韻書の冒頭の漢字で宛てたというのが通説でしたが、最近になって弥生時代にも漢字が使われていたことが分かってきており、本当の倭国王難升米が帯方郡太守劉夏に書いて教えたものだと分かりました。

最初の例のとおりそれぞれに意味があるのです。とても深い意味のある伊都国は范曄後漢書の回土国(ウィトコク)から付けられた国名ですが、その意味から行程記事が誰が書いたかが判明しました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

縄文人は恐らく、古くから半島や遼河や沿海州に黒曜石などを持って出かけて、嫁さんを手に入れて戻ってきたようですので、多様なmt-DNAをもつ混血民族だったようです。ですから、水田稲作も最初に北部九州に持ち込んだのは江南の倭人と半島南部で接触した縄文系の人々だということが最近分かってきました。現代にもそれが引き継がれているので科学技術立国になったのですよね(^_-)-☆


@takedaharuki
ありがとうございます。地味ながら意味深そうな遺物を拾いあげてみました。

大型化するのは確かに創意工夫の結果と思います。ある意味、倭人らしいです。

硯も出土しているので、弥生時代に漢字が使われていたと私も思います。外交文書とかに使われていたのではないかと予想します。

古代、半島と倭の垣根は小さかったと私も思います。

その証拠に半島の土器と北部九州の土器は時代にも寄りますが、結構似ています。

【関連記事】

【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?

江南出身の倭人(江南系倭人)によって北部九州にもたらされる水田稲作文化は直接日本列島に伝達されたと考えるよりも、下図に示すように長江河口から東へ海流に乗って済州島に到達し、北上して韓半島に渡るルートが考えられます。地理的に韓半島南部で日本列島よりも先に始められたと考えるのが自然です。紀元前十世紀ごろ頃(無文土器時代前期初頭)の半島では水田跡が見られないので、半島の縄文系の人が江南の倭人に接触して湿地での散播式水稲栽培を行っていたようです。その後、江南の倭人が北部九州に灌漑式の水田耕作を行った二段階渡来説が有力のようです(大川直士「倭国の創成期」論文019,日本古代史ネットワーク 2024.3)。


紀元前十五世紀から始まる無文土器時代前期(前850年頃まで)の 『後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。』とあり(Wiki「無文土器時代」より)、江南系倭人が活発に活動する紀元前十一世紀ごろに、半島南部で水稲耕作が行われた可能性が高いと考えられます。上で述べた江南系の倭人がすでに半島に来ていた縄文人と混血して生まれた縄文系倭人(多分父が江南系で母が縄文人でしょう)で、どちらも倭人と呼ばれるようになったようです。

【分かった!】日本人の形成過程!(^_-)-☆

縄文時代は母系社会でしたが、男性は集団で、集落の外に出て、狩猟や海外との交易を行っています。
隠岐の島の黒曜石が沿海州や半島などで出土しています(「いにしえの島根/第一巻・磨かれた技・豊かな資源」(島根県HP) 参照)。

母系のルーツが分かるミトコンドリアmt-DNAの解析結果です。縄文時代からすでに多様なDNAが列島に集まってきていることが分かりますよ(^_-)-☆


日本人に最も多いハプログループD (mtDNA)は北東アジアでよく見られ、朝鮮民族でも高頻度のようです。樺太のツングース系のウィルタ、ロシア連邦・モンゴル・中共に住むモンゴル系民族のブリヤート人、キルギスのモンゴル系カルムイク人、南アルタイのテレギント人などでもよく見られるそうです。パレオ・インディアンやロシア沿海州悪魔の門及び中国東北部の新石器時代初期の遺跡(吉林省大安市にあるホウタオムガ遺跡、内モンゴル自治区通遼市にあるハミンマンハ遺跡等)でも最も頻繁に見られるハプログループであるとwikiにあります。

 

(注)石剣は打製のものと磨製のものがあり、前者は縄文時代に黒曜石を使って作った鋭い刃の短剣・ナイフです。現代に作られたものが商品としてAmazonでも売っていますよ(^_-)-☆

後者は縄文時代の後期ごろから弥生時代中期ごろまで作られており、墓の副葬品として出土していますが、鉄剣が出現して消えたようですから、磨製石剣は実用品として作られた可能性があります。弥生前期の神戸市新方遺跡で出土した結晶片岩の磨製短剣は、両刃がよく研がれていますよ。弥生早期から前期の福岡市雑餉隈遺跡の木棺から長さ28-41cmの有柄式磨製石剣が3本出土しています。とても精巧にできているそうで、朝鮮半島で作られた可能性が高いとされています。半島に居た縄文系の人が持ってきたものだと思います。

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王年代紀が古代史の謎を解く!(#^.^#)

2024-12-14 22:28:43 | 古代史

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@J-history
奝然さんの動画、面白かったです。
天照大神以前の神々の数ですが、『日本書紀』よりは多いですが、『古事記』はそれぐらいの数でしたっけ。
まあ、初代天皇301年即位説、卑弥呼=天照大神説の私からは、コメントしようがありませんが。

@ancientJapanesehistorywithMAP
ありがとうございます。そう言えばこのちょうねん さんの報告書では邪馬台国が登場しないんですよね。平安末期の時代には忘れられていたかと思ったりします

@J-history
 @ancientJapanesehistorywithMAP  
『日本書紀』は紀年延長するにあたって卑弥呼の年代に神功皇后を創作したと考えています。そうだとすると、ですが、奝然さん系譜も、元ネタは紀年延長操作後(『日本書紀』成立後)のものだということになります。


みなさん驚かれるかと思いますが、記紀神話は江戸時代にできたのですよ。それまでは、日本書紀が三世紀までの建国時代の史実を神話にしましたが、神仏習合や修験道などの影響でナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していました(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書)。古事記は隠された史実をそれとなく暴露するために創られたものなのです(詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?参照)。それを王年代紀が明確にしました。

高天原に最初に降り立った天御中主神が初代奴国王で、天孫降臨神話は二代目天村雲尊が、孫の天爾聞尊(ニニギノミコト)にレガリヤを授けて周辺の糸島平野・福岡平野を平定させた史実から作られたものですし、18代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪ったのが倭国王帥升です。奴国の宮廷楽師だった人物です。これが二世紀末の倭国大乱の原因です。

奴国の反乱を逃れたのがスサノヲの子イタケルで、その子孫が出雲・丹後王国の三代(八束命・日高彦・高野御子)で日向三代の神話にされていますが、倭国大乱で大活躍したのが八束命と日高彦で、倭国を奪還して、日本列島主要部を傘下にしたのが大国主です。

また、奴国を逃亡したスサノヲの弟ニギハヤヒが吉備を平定して奴国を再興した19代王天照大神尊です。先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊で物部氏の祖とされています。記紀では吉備津彦とされていますが、平安時代に特別な神階の品位が贈られていたので判明しました。
詳しくは刮目天の古代史をご覧ください(#^.^#)

【関連記事】

【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?
記紀神話は日本最初の王墓「吉武高木遺跡」のある福岡市早良平野に降り立った呉王族の史実を隠しました(#^.^#)

【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)

日本の建国において最も活躍したのはスサノヲの子孫たちでした。古事記や出雲国風土記によって謎の古代史が解けましたよ(^_-)-☆

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なんで出雲に大元神社がないの?(@_@)

2024-12-13 21:01:49 | 古代史

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#2021-02-09 12:15:43に記事にしましたが、図のリンクが居れていたので修理し、少しだけ追加しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

#フォローしているmash1125さんの下の記事等を切っ掛けに、こないだからずっと調査していましたが、意外な発見をしています。しかしその内容は次に回すことにして、今回はとりあえずこの話からどうぞ!

益田本郷・大元神社
2021-01-18 08:40:09 | 石見国

出雲に大元神社は存在せず、在るのは荒神であり、反対に石見に荒神はなく、在るのは大元神であることは、過去に当該ブログで触れた。いずれも蛇神を信仰する点はおなじである。

蛇神は龍蛇神とも呼ばれます。ゲゲゲの鬼太郎で有名な境港にもありました。



大元神は荒神とともに、村の守護神として信仰されてきた。神木に蛇わら(蛇ではなく龍の場合もあるが)を巻きつけた状態で祀られ、開拓祖神(部族の祖先とされる神)だといわれている。蛇は東方をつかさどり、太陽神ということから稲の豊穣を願ってきた。このブロンズ像は水木しげるロードの東側に設置され、境港の自然と訪れる人たちを見守っている。

出雲はスキップして伯耆と石見で出雲を挟み込んでいる感じですね!

ヤマトトトビモモソヒメという舌をかみそうな箸墓の被葬者の名前を思い出します。

箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v

ヤマトとトビは対立関係なのです!

トビって?

大国主はトビヘビだった(^◇^)

そうです。記紀神話では神武東征の話で、すでに大和に降臨していたニギハヤヒにトミのナガスネヒコが殺されて神武が即位できる話になっています。これは、ヤマトが出雲に国譲りさせる神話と同じ話です。トミはトビ(蛇)のことです。ナガスネヒコは大国主です。大国主久々遅彦がニギハヤヒの子孫のヤマト勢(物部氏・尾張氏)に殺され、倭国を奪われた史実を表しています(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

さらに、ヤマトの大王崇神天皇の御代、疫病で民が半分も死に、民の心が離れたのは三輪山の大物主大神(大国主)の祟りに拠るので、大神の子のオオタタネコに祀らせれば収まるという神託を受けて祭祀させたら、確かに収まったという話になっています。オオタタネコは大国主と台与の子供です。台与は神功皇后のモデルですから応神天皇の本当の父は大国主なので、大国主の神託に拠って応神天皇がヤマトの祭祀王に即位したというストーリーなのです。つまり、初代神武天皇と応神天皇は同じ人物であり、大国主を祭祀したオオタタネコの史実とも一致するはなしなのです。

日本建国の主役である出雲の大国主久々遅彦(狗古智卑狗)の祟りをヤマト政権は最も畏れているのです。

そこで、出雲の西側の石見にはヤマト政権側の物部神社(祭神はニギハヤヒの子ウマシマジ)がありますが、出雲を監視し、出雲の勃興を抑えるために置かれたようなのです(関裕二「出雲抹殺の秘密」PHP文庫、2007、pp.242-244)。そうだとすれば東側の伯耆にもあるかも知れないと思い探しました。

伯耆国一之宮倭文神社(しどりじんじゃ)の御祭神は建葉槌命(たけはずちのみこと)です。日本書紀では経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。wiki「天羽槌雄神」にありました。

やっぱり国譲りをさせた大国主とその配下の縄文海人ムナカタ族の姫巫女台与の勢力が再び勃興しないように抑えるために、ヤマト政権側が伯耆にも神社を置いていました。(^_-)-☆


Wiki「荒神」によれば、荒神(こうじん)とは、日本の民間信仰において、台所の神として祀られる神格の一例。とあり、「日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。民間伝承でも、温和に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。後者は害悪をなす悪神だが祭ることによって荒魂が和魂に転じるという信仰があった。そこでこの「荒神」とはこの後者をさしたものではないかとの説もある。」とあります。

荒神信仰については仏教の教えでは三宝荒神がありますが、元々は神道の神と考えられます。「御祭神は各県により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神の火の神様系を荒神として祀っている。」とあり、荒神の正体は龍蛇神の大国主サルタヒコの荒魂と考えられます。

奥津彦命のペア奥津姫命は勿論台与ですね。台所の神ですが竈(かまど)神が醜い姿の女神ということであるので、これも台与の荒魂のことでしょう。サルタヒコとアメノウズメの双立神を道祖神とする考えと同じですね。台与は伊勢神宮外宮に祀られた御饌都神( みけつかみ)の 豊受大神で、五穀豊穣の神として祀られています。一方で『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記される食物の神稲荷大明神(おいなりさん)が台与の荒魂でしょう。

それで大元神社の祭神ですが、場所によっては龍蛇神大国主サルタヒコではなく、記紀神話の天地開闢に現れた天之御中主神や国之常立神とするところもあるようです。世界宗教用語大事典では、以下のとおりです。
だいげんしん 【大元神】中世の神道で宇宙の統一神とした神。道教から来た思想。国常立尊とか天御中主神だとかを当てる説もある。

これは「宋史 王年代紀」から奴国の初代王天之御中主と第十三代王国常立尊ですから、奴国王はすべて龍蛇神なのです。国常立尊の時代は恐らく弥生中期後葉です。この頃に列島内外の交易によって倭国が最も隆盛を迎えたのではないでしょうか。その後、第十七代王伊弉諾尊の先代沫名杵尊(あわなぎのみこと)が後漢光武帝から金印を賜ったと推理しています。

ですから、すべて大国主と霊的に繋がる祖先神なのです。首長霊信仰の考え方でしょう。

大元神と荒神の正体はどちらも龍蛇神大国主(あるいはペアの台与)ですから同じ神様と考えていいと思います。

そうすると、何故、出雲では大元神としてではなく荒神を祀っているのかの謎が解けてきましたね。(*^。^*)

荒神という名称から見て、やはり大国主の荒魂(あらみたま)の実体が出雲に存在していると信じられたのだと思います。

世界の人々の常識はWINNER-TAKES-ALL(勝者がすべてをかっさらっていく)でしょう。敗者に対しては血も涙もない仕打ちをします。例えば、京観(けいかん)と言って、古代中国において戦争で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し塚を作り、戦勝の記念碑とする風習があります。司馬懿は公孫氏を滅ぼしたときに、命乞いをしたにもかかわらず、王と千人の官僚を殺すだけでなく、十五歳以上の男子を皆殺しにして死骸をうず高く積み上げて見せしめにしたと伝わっています。

それに対して日本では古代から、色々な事情で殺してしまった敗者の霊を畏れ敬い、崇りを起こす荒魂をなだめて、幸せをもたらす和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)にしてもらうための努力が払われます。この素晴らしい日本人の神道の考え方が広まれば人類を救うはずですね!(^_-)-☆

【関連記事】

本当は怖い七福神の謎(;一_一)

大国主と台与と卑弥呼の祟りを恐れているので、三柱の鎮魂のために祀っていたのですが、いつの間にか台与が外されて七福神になっていました。しかし、台与には天女の羽衣の話もありますし、七福神に吉祥天の台与を加えた八福神として信仰している地域も残っていますよ( ^)o(^ )。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆






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氷川神社の秘密とアラハバキの正体?(@_@)

2024-12-11 09:26:36 | 古代史

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#前回の記事にjikan314様から以下のような有難いコメントをいただき、以前から気になっていた氷川神社について分かったことを記事にしました。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)

いつも拝見しております。
貴blogに触発され、2~3世紀解説のYouTubeを時々見ます。
今疑問に思っているのは、武蔵国氷川神社です。もちろん出雲国の斐川を神格し、素戔嗚尊を祭神としています。
ここで、出雲の大国主命では無く、その祖先の素戔嗚尊を祭神としています。出雲族が、武蔵に、大国主命の時代より、遥か昔に来たと言う事は、どういう事なのか?と。

八雲立つ武蔵野行けど冬の風

急に寒さが増しました。体調には十分ご注意下さい。

ありがとうございます。
jikan様からのとてもいいコメントを頂き、嬉しいです!

氷川神社の祭神をスサノヲとするのは、多分出雲に降り立った神話からではないかと思います。

実はスサノヲは出雲よりも米子にはよくきていたと考えています。つまり母イザナミの実家で、宗形神社そして山陰地方最大の集落妻木晩田遺跡を根拠地とするムナカタ族の王でイザナミの父アタカタスミの根拠地だったと推理しています。

奴国第十八代王スサノヲは宮廷楽師の師升らの反乱で殺されたと推理していますので(詳細は「古事記が教える「スサノヲと倭王帥升」の史実?!」参照)、出雲に結びつけられるスサノヲのヤマタノオロチ退治はスサノヲの史実を誤魔化すための創作です。出雲国風土記にもヤマタノオロチの話がありませんので分かります(^_-)-☆

スサノヲが王子五十猛(イタケル)と共に高天原から出雲に降り立ったと言う神話は、幼いイタケルや王女たちがムナカタ族の手助けで奴国を逃亡して成長すると、ムナカタ族の支配地だった出雲国を与えられた史実から作られたようです。意宇(おう)は出雲王のことで、イタケルの跡を継いだ出雲国風土記意宇郡の国引き神話の八束水臣津野命(略して八束命、記紀のニニギノミコト、海神豊玉彦)が、スサノヲ大王に所縁の豪族を出雲に集めて、恨みのある師升王の一族への復讐と倭国奪還の戦略を考えて活躍したので、出雲とスサノヲが結びつけられたようです。

祖霊と一体になって偉業を達成できるという首長霊信仰(米神信仰)が出雲で生まれたようで、これが大型首長墓が盛行する古墳時代の幕開けだったと思います(詳細は「国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。

武蔵ですが、関東地方から東北地方には八束命とその子日高彦(記紀のホホデミ・山幸彦、【関連記事】の図参照)が辰砂などの鉱物資源探索・採集で盛んに出かけた場所だったのです(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。その後継者の大国主高野御子が、卑弥呼の死後に列島各地のムナカタ族を傘下にしたのです。関東地方で多数見られる氷川神社で大国主を祀っていたのですが、後に日本書紀の神話に合わせて史実を隠すために、藤原氏がスサノヲを祭神としたと推理しています。 それでも、地元の方たちの大国主信仰は強いので、隠しきれません。

wiki「氷川神社」によれば、さいたま市武蔵国一宮氷川神社が東京都・埼玉県近辺にある約280もある氷川神社の総本社で、創建は社伝によれば孝昭天皇の時代だそうで、氷川の名称は、おっしゃるとおり、この地に移住した出雲族による簸川(ひかわ)が由来でしょう。ご祭神は現在、

となっていますが、上で述べたとおり、大己貴命は大国主高野御子の別名です。そして、社殿の東隣りに「門客人神社」が摂社として在り、「客人神」アラハバキが鎮座しています。アラハバキは、出雲族が来る前から存在した地主神ということですが、漢字で「荒脛巾」とも書かれ、脛(はぎ)に佩く「足の神」とされてきたようです。この神様は記紀神話にも民話にも登場しない謎の神様とされているのです。であるならば客人神は変ですね(#^.^#)。

その正体のヒントは、神武天皇に逆らって、先に降臨していた義理の弟饒速日命(ニギハヤヒ)に殺された「長脛彦」(ながすねひこ)ということから、大国主だと分かります(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。また、下半身全般をも癒す神ともされるので、男根の形をした金精神(こんせいしん)で道祖神(塞の神)と習合している例もあるようですので、大国主の分身のサルタヒコということです(詳細は「道祖神もやっぱり」参照)。ということで、アラハバキも大国主のことだと思います。

八重垣神社の社伝ではスサノヲがイナダヒメを八重垣で囲い、境内の奥地の佐久佐久の森でヤマタノオロチを退治して、日本最古の歌をスサノヲが詠んでいます。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を

この歌から作られた名前の妻垣神社(つまがけじんじゃ)が宇佐市安心院町にあります。記紀の神武東征に際して、妻垣神社の奥宮の一柱謄宮で、母玉依姫を祀るために最初に訪れ、ウサツヒコ・ウサツヒメが神武天皇を歓待したとあります。ウサツヒコが大国主でウサツヒメが女王台与と推理しています(詳細は「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)。卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)を討って、大国主が13歳の台与を卑弥呼の宗女として外交上女王に立てたのですが、卑弥呼を弔問に訪れて、磐座を造って祀ったと推理しています。この歌からスサノヲとイナダヒメは大国主と台与のことだと分かりました。ですから、乎止与命は第十九代奴(ナーガ=龍蛇神)国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子天香山命の子孫で狗奴国の有力者なのでヤマタノオロチ(ナーガ)になぞらえたのです。

つまり、氷川神社の最初の二柱の正体は大国主高野御子と台与でした。この二人は道祖神の中の夫婦の双立神として各地で祀られていますよ(^_-)-☆

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