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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚)

2024-12-05 22:56:02 | 古代史

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#2021-11-24 17:57:24に記事にしましたが、切れていた図のリンクを修正し、本文も若干修正しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

#2019-10-14 08:51:39に掲載しましたが、余り読まれていないので、若干改訂して、再度掲載いたします。北部九州における対外交易の拠点の移動について考古学者の早野浩二先生が「東海系土器を基軸とした東西広域編年の実際」(「弥生時代の東西交流」(六一書房)2020.5、pp.199-204)で話題にされていました。【付録】に同書付録第3表の「北部九州から東北・北海道までの編年併行関係表」に刮目天が作成した年表を加えたものを掲載しました。ちょっと長くて恐縮ですが、よろしくお願い致します。

「魏志倭人伝」に登場する伊都国は倭国の中でも、とても重要な国のひとつだ。邪馬台国までの行程記事から考えて、魏使は伊都国までしか行かなかったという解釈もあるくらい倭国の中心的な場所なのだ。通説では唐津に比定される末盧国から南東に陸行五百里で到着するとなっているので、東南という方角は変だが、「イト」国という地名の一致と、後で詳しく見ていくが、立派な王墓や対外交易センターと見なせる遺構や遺物が出ていることから伊都国が糸島平野で間違いない。



弥生時代の北部九州に出現した王墓や主要な首長墓を時期ごとに整理した一覧を下に示す。赤枠で囲った代表的な王墓について時代順に簡単に説明する。

まず、弥生中期初頭から前葉(紀元前4世紀末から前3世紀初頭)に日本で最初に早良平野に造られた吉武高木王墓群だ。まだこの時代は倭国王として十分に王権を確立していないとは思われるが、「宋史 王年代記」にある初代王の天御中主から数代の王墓だ(【検証9】奴国の大王は凄かった(*^^)v【付録】参照)。

次も前回のブログで説明したとおり、奴国が大いに発展した弥生中期後葉の王墓だ。多分、第13代奴国大王の國常立尊(くにのとこたちのみこと)か?(^_-)-☆ 副葬品から考えてこの頃には十分に倭国王と呼べる権力と実力を持っていたのだろうね。そして同じ時期の伊都国王の墓が三雲南小路遺跡の王墓だ。奴国王家の血筋の有力な人物だと考えている。代々の伊都国王もここに眠っているはずだが、王位は奴国大王の認可を受けた世襲だと思う。

伊都国の井原鑓溝(いはらやりみぞ)王墓は、2世紀初頭(後期中葉)に奴国を乗っ取った師升の墓だと考えている(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)。三雲遺跡を新たな王都としたことは室見川河口で発見された日本で作られた最古の金石文「室見川銘板」から分かった(「弥生時代にすでに漢字が!」)。

最後の平原王墓は、後で詳しく述べるが、倭国が西晋に朝貢した266年から、西晋に呉が滅ぼされる280年までに大国主の倭国がヤマト勢の追討を受けて、伊都国で戦死した女王台与の墓だと推理している(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆)。


前述のとおり弥生時代中期後半から伊都国は対外交渉の拠点・対外交易センターの役割を担っていた。弥生時代中期後半から掘削された環濠集落の今宿五郎江遺跡だ。対外交易の拠点と考えられる遺物(楽浪系土器、三韓系瓦質土器、鋳造鉄斧など)が多数見つかっている。


(2019.10.15 改訂)

弥生中期後半から北側に拡張し、中期末から後期初頭にかけて南北約270m東西約200mの大規模な環濠集落(右図のSD1は幅3m、深さ約1.5m前後の逆台形断面の溝)となっていた。潟湖を形成していた北西側は環濠が途切れている。環濠の東側に一か所だけ陸橋が作られ、出入り口となっていた(図1のJ地区)。東側には水田が広がっていたようだ。

弥生時代の対外交易だが、弥生中期中頃まで半島南部の勒島に弥生系土器が集中していたが、楽浪郡が設置される紀元前108年以降の弥生中期末から後期後半にかけて伊都国・原の辻(壱岐)を経由する対外交易に変わった(注1)。つまり、奴国大王が倭国側の対外交渉の窓口として伊都国王をあて、今宿五郎江・大塚遺跡を対外交易センターとして交易を管理するようになったのだ。それによって弥生時代中期後半の伊都国王墓に、奴国大王と張り合うくらいの豪華な副葬品が見られるようになるのだ。伊都国王が「魏志倭人伝」に出てくる政治権力を持つ刺史のような役割の一大率だったと考えると納得できる。

楽浪郡と倭国の交易が盛んにおこなわれるようになり、57年後漢光武帝が奴国大王に金印を贈って倭国王に封じ、華僑の商売を保証させたということだ。後漢の外交使節や華僑が乗り込む構造船を今津の北側の外洋側に停泊させ、今津湾から潟湖を通って丸木舟で下賜品や交易品を運んだようだ。

しかし、2世紀初頭(後期前半)に奴国の宮中楽師の師升らがクーデターを起こし、奴国の時代が終わった。新たに倭国王となった師升は、上述のとおり対外交渉に便利な伊都国を倭国の都とし、井原地区に王墓を造ったと考えられる。

師升王はさらに今宿五郎江・大塚遺跡を対外交易だけでなく、倭国内の産品の交易センターに拡大したと考えられる。というのも奴国の隣の不弥国(うみこく、新宮町から宗像市までの玄界灘沿岸地域に比定)から東側は師升王の倭国とは敵対関係になったからだ。だからその時代に伊都国に持ち込まれる交易品は九州西部・南部・沖縄などのものだったはずだ。弥生後期から終末期の外来土器がたくさん出土しているが、後期の肥前型器台がこの時期かもしれない(大塚遺跡6、福岡市埋蔵文化財調査報告書1185、2013年、p.124)。そこで環濠集落の外にも集落群を建設して(青木遺跡・谷遺跡など)、この地区が都市に発展したのもこの時期ではないかと考えている。

「魏志倭人伝」にあるように師升王から7・80年は一族が伊都国で王として倭国を支配していたが、後漢王朝の内部抗争の影響で半島支配が弱まり、濊人・韓人が暴れたので、楽浪郡と倭との交易に支障が出た。すでにクーデターを逃れて出雲・吉備などで力を付けていた旧奴国王族がこの頃に倭国と抗争を始めた。第一次倭国大乱だ。

この大乱で最も活躍したのはスサノヲ直系の狗古智卑狗(久々遅彦)だった。スサノヲの子イタケルから直系の出雲・丹波王が代々久々遅彦と名乗ったようだが、その配下の縄文系ムナカタ海人族を使い、半島南部の鉄素材を沖ノ島経由で入手して鉄製の武器や農工具などを作り、旧奴国王族に配布していた。勢力を蓄え、師升一族の倭国に対抗できるまでになったようだ。倭国の南側の菊池に軍事拠点として鍛冶工房の集落を造り、鉄鏃を大量に作って筑後川周辺の倭国の領域を荒らしたものと考えている。開発した久々遅彦の名に因み「菊池」という地名となったのだと思う。

その後、遼東太守公孫氏が半島に進出して混乱を収め、204年に帯方郡を設置して倭国との交易が正常化したと考えられる。そこで勢いを取り戻した倭国王である伊都国の男王は、旧奴国王族の勢力拡大を抑えるために不弥国(うみこく)のムナカタ海人族を懐柔し、野麻国(やまこく、宇佐市安心院町下毛字宮の原遺跡)に疎開していたムナカタの姫巫女「卑弥呼」を女王に立てた。それによって、九州東部から中国西部・四国を含む領域が倭国に加わった。敵対する東側の旧奴国王族へ鉄素材供給を阻止した。

そこで狗奴国王卑弥弓呼(スサノヲの弟で吉備を平定し奴国大王位を継承した天照大神尊ニギハヤヒの直系の大王)が纏向に旧奴国王族を集め、政治都市を建設した。各地の首長クラスが集まり、倭国懲伏の祈祷を盛んに行って倭国攻略の軍議をしていた模様だ。大型建物が見つかっている(【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!)。

238年に公孫氏が魏に滅ぼされた。魏はライバルの呉に圧力を加えるために東夷の大国である倭国の朝貢を促した。政治の実権を握っていた伊都国男王は魏を後ろ盾として倭国を統治するため、早速、大夫難升米らを派遣した(孫栄健さんは「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎 2018,pp.300-302)で難升米と伊都国男王は同一人物だと指摘しているが、そうかもしれないね(^_-)-☆)。魏は親魏倭王の金印などを女王卑弥呼に与えた。男王は魏の朝廷の興味を惹くために、魏使梯儁には、邪馬台国を呉の東方海上に置くためのつじつま合わせの行程を教えたのだろう(伊都国の意味がヒントだった?)(^_-)-☆

男王の策略どおり魏との外交は大成功だった。伊都国の男王は女王に逆らうヤマトの旧奴国の勢力をバカにして犬コロの奴国の意味の「狗奴国」と呼んだのだ。卑弥呼が鬼道によって倭国を統治する女王と考える方が多いようだが、実際はシャーマンとして太陽神のお告げを男王に伝える巫女なのだ。これも魏の朝廷の興味を惹くために女王という肩書を男王が魏使に報告させたものと推理できる(注3)。

少しおさらいが長くなったが、247年の日食で卑弥呼が伊都国男王によって暗殺されたと推理している。丁度狗奴国の大軍が攻めてくる情報が入ったので、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったので、不吉な前兆が起こったと考えたからだ。(詳細は卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照。
狗奴国の倭国追討軍の構成は纏向の外来土器の分布から、尾張王乎止与命 (おとよのみこと)が主将で、出雲・丹波や近江・北陸の勢力が中心のようだ。卑弥呼の後に乎止与命が倭国王に立ったのだが、出雲・丹波王久々遅彦らが承服せず、内戦になって千人くらいが死んだ。結局、久々遅彦が乎止与命を殺し、ムナカタ族の姫巫女で13歳の台与を女王に立て、倭国を治めた。久々遅彦は邪馬台国連合倭国に加えて日本海沿岸部などを版図にしたので、後世「大国主」と呼ばれたのだ(倭国大乱で活躍した久々遅彦は日高彦とも呼ばれており、大国主はその子なので日高彦の御子から高野御子という隠語で呼ばれている)大塚遺跡の外来土器に山陰系の土器などが数多く見られるのはこの頃のことだろう。(2024.12.5 青字追加)




265年に魏王朝を乗っ取った司馬懿の孫の司馬炎が晋を建国した。すかさず台与は朝貢し、後ろ盾とした。狗奴国ヤマトはこのままでは倭国に呑みこまれるので、恐らく呉を後ろ盾としたのではないかと考えられる(呉が魏についた倭国と対抗する勢力を味方にしようと活動していた記録があり、その頃作られた呉鏡も近畿以東で見つかっている)。270年頃、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)は久々遅彦・台与の裏切りと尾張王殺害の復讐で再度倭国に追討軍を送ることになる。鳥取の大量虐殺事件はこの時期に起こったのだ(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。

倭国追討軍を二手に分けた模様で、父の仇討ちで尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮祭神)が大分方面から攻め、河内・播磨などの狗奴国勢(物部氏の祖)は玄界灘沿岸部から攻撃した模様だ。尾張勢は豊後大野で待ち構えていた久々遅彦軍に撃退され、西都原に南下して、矢傷で200人以上戦死した模様で、川床遺跡で葬ったと推理している。南九州で狗奴国から援軍を待ち、態勢を整えて人吉から島原半島南部・阿蘇・菊池を攻略し、最終的に高良山に立て籠もる大国主久々遅彦を討った。恐らく、70歳を超えた大国主と共に戦っていた台与との間の子ホムダワケは265年頃に生まれ、293年に初代ヤマトの祭祀王応神天皇として即位したと推理している(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)」参照)。台与が西晋に朝貢したのが266年だから、卑弥呼の死んだ247年に13歳だったので32才くらいだ。また幼子だったホムダワケは有明海から小舟で南九州に逃亡したのだと関裕二さんは推理しているが、多分台与と一緒に行動し、立て籠もった吉野ヶ里遺跡(父息長宿禰王が支配していたが、すでに死んで日吉神社の謎の石棺に葬られたと推理している(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」参照)。吉野ケ里遺跡が尾張勢に陥落させられそうになったので、台与らは背振山地を越えて三雲遺跡に逃げてたのではないかな。しかし、狗奴国勢がまた押し寄せてきたので、台与はさらに逃げる途中、今宿五郎江遺跡で狗奴国勢に囲まれて、自ら剣を振るい抵抗したが、戦死したと推理している平原王墓に葬られたが、棺の上に素環頭大刀が置かれていたので、日本書紀に斧・鉞(まさかり)を振るった女傑の神功皇后のイメージになったと推理している(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?参照)。ホムダワケも台与と同行していたが、台与奮戦しているうち小舟で南九州に脱出したと考えている。落ち着き先が大隅正八幡宮(鹿児島神宮)だったと考えている。(2024.12.5 青字追加)

ついつい想像を逞しくしてしまったが、図1の今宿五郎江・谷遺跡で銅鏃が出土した地区記号を赤枠で囲った。弥生後期の北部九州や日本海沿岸部などは比較的鉄が豊富なので戦闘用には鉄鏃を使用していると考えられる(注7)。なので、そこで出土する銅鏃は外来(東部瀬戸内・近畿・東海)のものだと推理できるのだ。大塚遺跡の図2Ⅳ地点でも鉄の鍛冶工房が見つかっている(森本幹彦「今宿五郎江・大塚遺跡」[西谷正編「伊都国の研究」]学生社,2012,p.226)。また銅鏃は溝やその付近から出土しているので外部の敵が矢を打ち込んできた戦闘の痕跡と考えてよい。

ということで東側から河内などのヤマト勢が押し寄せた痕跡が図1のJ地区の環濠で出土した柳葉型有茎銅鏃だ((注4)に示す大阪市平野区長原遺跡、橿原市四分遺跡、姫路市長越遺跡出土の銅鏃に似ている)。図1のI地区の環濠からは吉備物部勢(倉敷市上東遺跡出土の逆刺型)や河内物部勢(八尾市亀井遺跡出土)と思われるものなどが15本も出土しているのだ。外来土器についても前述のとおり、弥生後期後半から終末期の近畿西部系の器台や古墳時代初頭の布留式系の甕などが出土しているのでこの時期に狗奴国勢が押し寄せた証拠になると思う。

 



環濠の外側の図2のⅡ地点の「遺構の時期は弥生終末期前後を中心とする。ⅢからⅣ地点の集落域も当該期に成立するものである。環濠の埋没が進む弥生終末期前後には中心集落域の拡大(Ⅰ・Ⅱ地点)と、分村(周辺集落)の増加(Ⅲ~Ⅳ地点)がみられるのである。これらは古墳時代前期前半を最後に一度衰滅するが、その背景には列島規模での拠点集落の再編を指摘するむきもある。(森本幹彦,前掲書,pp.220-221)

この270年頃の第三次倭国大乱で、ほぼ100年続いた日本建国に関わる騒乱の時代が終了した。狗奴国勢の吉備または河内の物部氏が北部九州を占領支配したために、多くの拠点集落の再編が起こったと考えられるのだ(注5)

これによって伊都国の対外交渉窓口・対外交易センターが閉鎖されて、代わりに東側の西新町遺跡を新たに対外交易センターとした模様だ。福岡市早良区の砂丘上にあり、弥生時代前期から人々が生活していたのだが、3世紀後半から4世紀初頭の古墳時代前期の半島から渡来した人々の集落跡が見つかっている。半島系特有の両側に耳が付いた甕などの土器が出土している。またそれまで日本にはなかった『食事のための煮炊きをしたり暖をとったりするための「炉」や「カマド」竈(かまど)』のある住居跡が見つかっている(注6)。

では、なぜ伊都国をそのまま対外交易センターに使わなかったのだろうか?

一応、謎じゃないのかな?

博多に近い方に移した方が便利だからか?

いやいや!

やはりニギハヤヒ大王の子孫の物部氏の祖(崇神天皇)が作ったヤマト政権にとって、伊都国は恨みのある裏切り者の奴国宮廷楽師「師升」がスサノヲ大王を殺し、倭国を乗っ取って都としたところだから、縁起が悪いと考えたからだろうか?

それもあるかもしれないが、「本当は怖い七福神の謎」で推理したとおり、やはりヤマト政権が神功皇后台与を殺してしまった事実は当時のヤマトの人々にとって大きな心のキズとなり、精神的な負担になったようなのだ。つまり高貴な方が恨みを持って亡くなったら祟ると考えたからだ。それによって地震や津波や火山噴火や台風や疫病などが起こると当時の人々は考えた。台与は平原王墓に手厚く葬られ、台与の亡くなった伊都国から離れた場所に対外交易センターをつくったのだと考えられるのだ。そういえば戦死した大国主ククチヒコにもピラミッド状の立派な祇園山古墳が造られ丁重に葬られた。後に筑後国一之宮高良大社が創建されいている。祭神を高良玉垂大神としているが、地名が久留米市御井=「巳(ミイ、へび)」だから大国主大神だとすぐに分かる。しかし、殺した敵の大将をこれ程丁重に扱う国は日本以外で他にあるのだろうか?

現代人はそんなことは迷信だと言うかもしれないが、天罰を怖れていた古代の人々の方が、怖いもの無しの唯物論で汚染された無神論の現代人よりも人間としてはまともかも知れないよ(;^ω^)(2024.12.5 青字修正)

【付録】日本列島の土器編年併行関係表と年表

(左クリックで拡大)

【付録2】ヤマト王権成立過程の仮説と活躍した人々の系譜








(注1)石丸あゆみ「朝鮮半島出土弥生土器から復元する日韓交渉」東大考古学紀要(25),(2011,p.65)によれば、「この時期に原ノ辻が交易の拠点となり環濠集落が成立する。勒島においてもこの時期に弥生土器が最も多い。」

久住猛雄『「博多湾貿易」の成立と解体・再編』第20回加耶史国際会議 金官加耶の国際交流と外来系遺物,2014,p.5 によれば「中期末以降に楽浪人が三雲遺跡群(伊都国)に居住し、「政治的な交渉」が行われたことを指摘する。→「原の辻=三雲貿易」(久住2004)へ。
「「原の辻貿易」ではおもに北部九州の倭人が活躍し・・・瀬戸内・畿内への物資のもある程度制御していた」
→後期も楽浪土器・三韓土器がともに多い原の辻が「交易機構」の中心とするが、楽浪土器は北部九州に徐々に広がることに注意する(逆に三韓土器は広がらない)。また楽浪土器の機種変化にも注意。後期後半には楽浪との交渉が政治主体から交易主体に変化した可能性を指摘。さらに、楽浪人は西日本の交易機構に大きな変革を迫ることなく、・・・・それを利用することで交易を」成立させたとした。」

後期後半は第一次倭国大乱の時期なので、伊都国男王が交易をコントロールできていないことを言っているのだろう。この混乱の時期でも華僑は列島と交易していたということか?

(注2)帯方郡との交易で勢力を盛り返した伊都国男王が菊池を攻めて、ククチヒコが戦死したのではないかと考えている。これに動揺した九州東部のムナカタ海人族が伊都国男王に懐柔されたのではないかと思う。このククチヒコは大国主の先代だが。

(注3)西晋の官吏陳寿に「魏志倭人伝」の中で邪馬台国へのいい加減な行程記事を書かせたのは、邪馬台国が江南の呉を圧迫する東方海上に位置に在るとしたいためのつじつま合わせなのだ。魏使にそのような報告書を書かせたのは、元々は伊都国の男王だったと見ていい(詳しいことはシリーズ【新説】邪馬台国はここだ!(その1~5),シリーズ 邪馬台国 水行陸行の謎?(その1~6最終回)を参照)。

2世紀初頭に奴国の宮廷楽師師升らがクーデターを起こし、第18代国王素戔烏尊(スサノヲノミコト)を殺して倭国を乗っ取り、奴国王に替わって支配権を得たことを後漢に承認してもらうために107年に朝貢したものと推理している。

「魏志倭人伝」に「其(そ)の国、本亦(ま)た男子を以って王と為す。住(とど)まるところ七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴(へ)たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰(い)う。」と書かれたが、年代を考えると范曄の「後漢書」原本に書かれたと思われる師升王の「倭面土国」は「倭の回土(ヱト、weitu)国=伊都国」が正解だったようだ。つまり伊都国男王は師升王の後裔と言うことになる。

(注4)銅鏃の型式分類

(注5)527年ヤマト王権に反抗した筑紫の磐井は千年村プロジェクト岡山県に磐井郡磐井郷の地名があることからこの時期に筑紫を占領した吉備出身の物部一族だと思う。岡山市北区三門に祭神を大国主命とする國神社があり、そこの氏子が岩井だった。厳井という地名も使われているようだ。その東の方の備前市麻宇那にかわいい磐井神社が祇園神社とペアで並んでいた。祇園神社の祭神はスサノヲだが、大国主の墓が祇園山古墳だったのなら真の祭神はスサノヲ直系の大国主だったのかも。とすれば、大国主ククチヒコを殺したのは吉備物部の磐井一族だったのではないだろうか?ちょっと古代妄想気味かな?でも、吉備の磐井郡磐井郷はどちらかだろうね(^_-)-☆

(注6)渡来人ということで通説では韓国人またはその先祖と考えているようだが、前にも指摘したとおり間違いだ。半島南部は江南出身の倭人・越人や列島出身の縄文人が支配していたので、彼らが列島に渡来して外来文化を伝えたと考えられる。倭人の言葉を話さない韓人・濊人が日本に渡来して文化を伝えたとは考えにくいからだ。現代韓国人の男性のルーツだが、Y染色体DNAから、8割以上が中国大陸由来の人々でありシナ語を話していた(秦の圧政から逃亡した陝西語を話す人々やその後の大陸の戦争難民だろう)。韓国人が祖国の英雄と考えている広開土王などのツングース系北方アジア人をルーツとする男性は1割以下しかなく、ほとんどの男性が中国大陸由来なのだ(半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆

(注7)井尻B遺跡出土の銅鏃鋳型について、 青銅器鎔范残欠(井尻B遺跡出土)に記載されているが、戦闘用の銅鏃としてはサイズが大き過ぎて実用的でないようなので、祭祀用ではないかと考えられる。

また、この頃の銅鏃鋳型の出土例が全国で5例しかないとあるが、すべて奴国の領域で在ることを考え合わせると、奴国の領域以外の戦闘用などの実用品として使用する銅鏃の鋳型はほとんど(注4)25に示される連鋳式になっていたので、製造のたびに鋳型を破壊して取り出していたのではないかな(^_-)-☆

なお、夜須町ヒルハタ遺跡の鋳型は一枚の石に5面それぞれ別の鋳型が彫られている極めて特殊なものだった。五面鋳型解説によれば、銅鏃は2個連鋳式だし、戦闘用に作ったものではないようだね(*^▽^*)

さらにネットで調査したところ、以下のとおり鳥栖市・藤木古墳で銅鏃鋳型が見つかっていたが詳細は不明だ。
鳥栖市・藤木遺跡 弥生時代後期の青銅器の鋳型出土
2014-06-12 04:54:43


 鳥栖市教委は6日、同市藤木町の藤木遺跡から弥生時代後期(西暦50~100年)の小型青銅器をつくる石製鋳型4点が出土したと発表した。
 ①輪型の銅釧用鋳型(破片) 1点 (福岡県など3府県で出土例がある)
 ②ほぼ完全形の銅鏃用鋳型 2点 (福岡県で出土例がある。 1点は祭祀用の矢じりか)
 ③装身具の銅釦(どうこう)用の鋳型 1点 (全国初)


長ったらしい、読みにくい文章を最後まで読んでいただき感謝します(#^.^#)
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卑弥呼死して大国主立つ!など(^_-)-☆

2024-12-03 20:48:51 | 古代史

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#2022-04-07 19:20:17 に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修復し、最新の情報を【関連記事】に載せました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)


魏志倭人伝の謎
2021/01/12 歴史探求チャンネル@YouTube


K Mさん
疑問点
・古代中国人が邪馬台国に行ってないということだが、壹與即位後帯方郡の使者が檄文をもって壹與を諭すとあるので、邪馬台国に出向いているとも取れる
・侏儒国、裸国、黒歯国は古代中国人の世界観を反映したもので「山海経」のような前例を見るに架空の国と考えるのが妥当ではないか
この3国名のみ倭人の言語的特徴がないのも疑問


刮目天一
KMさん、いいご指摘です。
最初のご指摘ですが、卑弥呼の死後に男王が立って、それに不服な勢力と内戦の後に女王とされた台与が邪馬台国にいたという記述はありません。邪馬台国の卑弥呼は人前に出ないとあり、約千人が死ぬ戦場は邪馬台国から離れている可能性が高いです。そして魏使張政は卑弥呼の男弟に面会したはずですが、内戦に巻き込まれずに勝利した人物と面会して、台与を卑弥呼の後の女王に立てるよう進言して、魏を後ろ盾にしたと分かります。張政は下級役人から帯方郡太守にまで出世した人物ですから相当やり手です(「【検証23】魏使張政って?!(*^▽^*)」参照)。
そうすると卑弥呼の死後に立った男王は卑弥呼の政治を補佐する男弟であるはずありません。なぜなら、卑弥呼が死んだからと言って、その跡に男弟が王に立つことに不服に思う倭国の人間はいないはずだからです。

そこで卑弥呼の死の直前に、狗奴国との争いを魏に報告しているので、狗奴国勢がやってきて戦闘になった可能性が高いですが、男弟が王に立ったことに不服で押し寄せてきたわけではないので、不服という表現は当たりません。

だから、男弟はどこかに隠れた可能性が高いと思います。そうなると、内戦は狗奴国勢の中で起こったことになります。狗奴国勢の大将が狗奴国王卑弥弓呼ならば、狗奴国勢の中で不服な人間はいないはずです。

ですから狗奴国勢の大将は卑弥弓呼王ではなく、狗奴国の実力者で、卑弥弓呼王は本国にいたはずです。

この狗奴国の実力者が狗奴国王を裏切って倭国王になろうとしたから、それに不服に思った勢力との内戦が起こったと推理できます。勝利者は誰なのか?

答えは玄界灘と日本海などを支配する縄文海人ムナカタ族を束ねる王で、卑弥呼の版図を手に入れて列島のほとんどを支配した人物です。記紀神話の大国主命ですが、これについての詳細は拙ブログ「狗古智卑狗という人物?」をご参照ください。



 



次に、侏儒国ですが、九州の邪馬台国から南へ4千余里(約2000km)離れたフィリピンに古くから住む小柄な少数民族アエタ族のことでしょう。ピナトゥボ山付近に住んでいた模様です。東南アジア一帯に住む小柄な先住民族ネグリートの一種族のことでしょう。種子島にやってきた可能性もあります。裸の人や歯を黒く染めた人たちの裸国、黒歯国はフィリピンの東南方向にあるパプア・ニューギニア辺りでしょう。「船行一年可至」は邪馬台国からでしょう。裸族や黒歯族も海を小舟で移動すると思われますのでシナ人と遭遇していてもおかしくないと思います(「東鯷人(とうていじん)って?(^^)/」参照)。

【関連記事】

【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!

日本の建国において最も活躍したのは、王として、列島各地に散らばって活動していた縄文海人ムナカタ族を束ねたスサノヲの子孫たちでした。日本書紀は神代の日向三代の神話などを創って徹底的に隠しましたが、考古学や民俗学などの成果から推理しました。(^_-)-☆

 

 



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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古事記が教える「スサノヲと倭王帥升」の史実?!(^_-)-☆

2024-12-02 10:27:59 | 古代史

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倭国王帥升のことだと思いますが、ご存じのとおり後漢書の原本が散逸していますので、原本を引いた文献から倭面土国王帥升が正しいようなのです。しかし、魏志倭人伝の記事から、倭国の中で王が居たのは伊都国男王だけですので、白鳥庫吉は面は回の俗字の囬の誤写と考えて、倭の囬土(ウィト)国王が正しいとしています。
 
師姓は「風俗通義」によれば周代以前から宮廷祭祀の楽師に与えた官位だそうですので、50年前に後漢光武帝から金印を賜った奴国の宮廷楽師だったと分かります。
 
つまり、奴国の楽師師升らが反乱を起こして倭国を奪い、王都を伊都国に遷したということが分かります。その物証は延光四年(125年)と記された黄銅製の室見川銘板です。内容が祭祀にこだわったものですので師升王が作らせた日本最古の金石文だと分かりました(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。

 
そして、師升らの反乱で殺された奴国王が「古事記」から分かりました。
 
宋史王年代紀18代王素戔嗚尊が高天原神話の乱暴者の神スサノヲでした。八百万の神々がスサノヲを捕らえて拷問し、財産を奪ったことが書かれていました(注)。
 
師升は奴国王に成りすますために金印を手に入れようとスサノヲを拷問したのですが、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が持って逃げ、途中で志賀島によって土の中に埋めたのです。それが江戸時代の百姓によってたまたま掘り出されたということです。
 
師升らは代わりに160名もの生口を献上して王に認められたわけです。
 
この史実は日本書紀の編纂者も分かっていたことが仲哀天皇四年に博多の奴国を儺縣としていることから判明しました。スサノヲの史実は平安時代にも知られており、疫病神の元締めとされ祇園御霊会や熊野信仰になっていることから分かります。
 
記紀が天皇の歴史書だという洗脳から覚めると古代史が分かってきますよ。詳細は「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)」をご参照ください。どうもお邪魔しました(#^.^#) 
 
(注)「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)
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@katumoku10
YOさん、こんばんは!
光武帝から金印を賜った王は、奴国16代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)だと、宋史王年代紀から分かりますよ。17代王伊弉諾尊の父です。
 
この中で23代王彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)の四男が大和州橿原宮に遷都したとあります。
 
しかしこれは史実ではなく、彦瀲尊は大国主高野御子のことで、神武天皇は初代ヤマトの祭祀王の応神天皇の史実を誤魔化すために創作した初代天皇だと突き止めています。詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」をご参照ください(#^.^#)
 
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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)

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邪馬台国は考古学・民俗学の成果から分かる!(#^.^#)

2024-12-01 15:55:02 | 古代史

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【睡眠用】邪馬台国は見つからない...!!!【ゆっくり解説 】
古代史ヤバイ【ゆっくり解説】@YouTube

卑弥呼の正体の前に倭国大乱について言及するのは絶対必要です。これは考古学の成果で議論すべきです。二世紀後半の日本列島の中で倭国大乱の痕跡が見つかっています。

鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べると、弓矢での集団戦の痕跡が分かります。環濠集落の溝などで矢じりが出土すれば、敵集団が集落を攻めたと分かります。まさか味方が自分の集落に弓を向けるはずないですから。

それを日本全国で調べた結果、戦跡が見られたのは、北部九州の吉野ヶ里遺跡などかなりの数の集落と熊本県菊池川沿岸の二つの集落(方保田東原遺跡・うてな遺跡)だけだったのです。つまり、北部九州の倭国と菊池川沿岸の勢力の戦争だったと分かります。

菊池は狗奴国の官狗古智卑狗の名前からとった地名だということで通説では菊池彦と言ってますが、方保田東原遺跡からは山陰や畿内の土器が見つかっていますので、菊池の集落は狗奴国の前線基地だと分かります。

そして、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄鏃が住居跡から大量に見つかっていますし、鉄製の武器の素材となる板状鉄斧が大量に見つかっています。これらは半島南部の鉄素材が運ばれて鉄製武器を菊池の前線基地に供給するコンビナートと考えられます。

ですから、狗古智卑狗は玄界灘沿岸部や山陰地方などのムナカタ海人族を束ねる王だったと推理できます(豊岡市久久比神社祭神の久々遅彦、スサノヲの子孫の出雲・丹後国王と推理)。また、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤り)は畿内の纏向遺跡を王都としていたと考えられます(実際は吉備から河内に拠点を移したニギハヤヒ大王の子孫で旧奴国王族)と推理しています(詳細は拙ブログ「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」をご参照ください(#^.^#)。

そして、福岡市や糸島市のいくつかの集落で銅鏃が住居跡から出土しており、倭国は半島が混乱していたので公孫氏との交易ができないので鉄不足になって青銅器を溶かして矢じりを作っていたと推理できます。

それらの銅鏃が菊池の二つの集落の環濠から発見されているのです。倭国の勢力が狗奴国の前線基地を襲撃したことを意味します。それまでは圧倒的に優勢だった久々遅彦の部隊が襲われたということです。

これは状況が大きく変化したことを意味します。204年に公孫氏が半島を平定し帯方郡を設置していますので、それまで劣勢だった倭国王(伊都国男王難升米)は早速、帯方郡に支援を求めて息を吹き返したと推理できます。

さらに、それによって戦争が終結し卑弥呼が登場することになるのですから、さらに何らかの大きな事件があったと分かります。

倭国軍の急襲によって久々遅彦が戦死したと推理しました(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。倭国大乱の英雄が亡くなって前線の部隊は壊滅し、途方に暮れた玄界灘の海運を支配していたナンバーツー赤坂比古(和邇氏の祖、天理市和邇坐赤阪比古神社で宗像女神市杵島姫命が祭神として祀られている)が倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切ったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

赤坂比古は縄文海人ムナカタ族の姫巫女が密室で発する太陽神の神託を解釈して部下や民に伝えるイセと呼ばれるシャーマン王なのです。唐古・鍵遺跡の線刻絵画土器に巫(かんなぎ、はふり)と巫女(はふりめ)の様子が描かれています(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」・「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。



 

つまり卑弥呼の正体は市杵島姫と呼ばれた宗像女神だったと推理しました。卑弥呼は不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡群)で生まれましたが、戦乱になって海に近い不弥国は物騒なので、宇佐市安心院町三柱山台地の要害堅固な居城宮ノ原遺跡に疎開していたと考えられます。宮室が三女神社です。日本書紀に宗像三女神が降臨した場所のひとつが葦原中ツ国の宇佐嶋とあり、宇佐市安心院町は和名抄の宇佐郡野麻郷に比定された土地で、院(女王)が疎開して安心したということが安心院の地名の由来だと考えています。つまり、邪馬台国はヤマコクを居城とする台(女王)の国という意味だったと分かります。長官は宇佐神宮を中心とする大規模集落に居て、卑弥呼を護る兵士は集落の規模から二百人程度で奴婢が百人くらいだと推理しています。魏志倭人伝にある径百余歩の冢(急造りの円形墳墓)「三柱山古墳」を発見しています(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。

そして赤坂比古の傘下となった国々は倭国だった北部九州の国々以外の九州全土と中国西部、四国西部ですが、公孫氏が後ろ盾になり半島南部の鉄も仕入れて、交易で隆盛になったので、四国東部や和歌山まで狗奴国を裏切って倭国側についたことが、纏向遺跡の外来土器の変化から分かりました。つまり、狗奴国王は突然劣勢に立たされて、吉備では危険なので西側の防御として生駒山系のある纏向遺跡に遷都し、旧奴国の勢力を結集して巻き返しを図ろうという戦略だったと考えられます(詳細は「【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆」参照)。

この先の日本建国の話がありますが、長くなったので拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。お邪魔しました(#^.^#)



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