刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

記紀に基づく想像は古代妄想だった?(;´Д`)

2024-12-10 16:26:28 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

#2022-05-20 00:44:11に記事にしましたが、図のリンクが切れていたので修復し、少し見直しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)


#仁徳天皇陵に関するいい動画を見つけました。ほとんどの方が記紀が日本の歴史書だと考えているようだとこの動画へのコメントからも分かります。そこで、コメント入れさせてもらいました。お付き合いください(*^▽^*)




本質家
@Blayz Bleay
元から北九州と朝鮮半島南部に日本文明圏があって、そこは新羅と一緒に大陸に朝貢していたが、日向・四国の大和王権はそうではなかったと思います。
鉄は最初北九州と朝鮮半島南部の日本文明圏が大陸から得ていたと思いますが、稲作などは日向・四国が南西諸島方面から伝えられたと思います。
そしてその2代勢力になる前から出雲にも勢力がいたが、これは神武東征で大和王権勢力に帰依して、200年年代半ばの三韓討伐で朝鮮半島南部が大和王権になったのです。
日本人が当時の黄河に行ったかどうかですが、日本自体が豊かで実り多かったので、畑作中心の貧しくて寒い地方に行ったとは思ません。


刮目天
@本質家 さん 日向は宮崎県ですか?ヤマト王権は3世紀末に纏向遺跡で成立していますが、そのシンボルである前方後円墳のルーツは寺沢薫氏の研究ではっきりと分かっています。主に吉備と北部九州と出雲です。



纏向遺跡では九州の土器がほとんど出土していません。あっても1%以下です。四国の讃岐と阿波の土器は三世紀初頭は見られましたが、中頃には消えています。考古学の成果から北部九州にあった倭国と纏向遺跡に居た勢力や集まってきた勢力とは対立する関係だと言えます。四国の勢力は三世紀中頃に倭国に着いたと見られます。


弥生後期後葉(二世紀末から三世紀初頭)の倭国大乱期に大分県大野川から阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落が数多く作られ、熊本県山鹿市の方保田東原遺跡、菊池市のうてな遺跡に倭国に敵対する勢力が集まり、佐賀平野筑紫平野などを襲撃した倭国大乱の痕跡を発見しました(拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。方保田東原遺跡には山陰や畿内の土器が集まっており、狗奴国の最前線基地です。倭国に対抗する勢力ですから、纏向遺跡が狗奴国の本拠地だと考えられます。



(左クリックで拡大)

そして、古墳時代初頭(三世紀中頃)から東海や畿内の勢力が九州に集まってきます。纏向遺跡の狗奴国勢が倭国に遠征したと推理しました。

卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王ヲトヨノミコト(記紀の仲哀天皇)を倒して、13歳の台与(記紀の神功皇后)を卑弥呼の後の女王に立て、魏を後ろ盾にして倭国王に立ったのが大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)でした。

大国主が半島から入手した高温鍛冶の技術を気前よく傘下に普及させましたので、後世、最も人気のある神様として様々な名前で日本全国で祀られています。


そして、三世紀後半に、記紀の景行天皇の九州遠征のルートに鉄鏃・銅鏃が出土し、環濠や溝で発見されたものは矢戦の痕跡と見られます。また崇神天皇紀の四道将軍のルートやヤマトタケルのルート上にも見られるようになり、日本列島が狗奴国と敵対する倭国の勢力になっていて、それを統一する様子が見られます(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

つまり、日本書紀の話は日本建国の史実を隠蔽するために史実を改ざんしたものだと分かりました。

日本建国に纏わる大国主の国譲りも神武東征も神功皇后の東征も藤原不比等が創作したもので、建国の真相が考古学の成果から分かりましたよ。

ですから、記紀の話に基づく想像は、事実に基づかない話ですから、それに固執するのは古代妄想なのですよ( ^)o(^ )

詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」にありますので、ご参照されてから疑問点を教えてください。よろしくお願いします(^◇^)

【関連記事】

【検証19】日本建国のための戦いだ!


(左クリックで拡大)

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)

大国主に父の尾張王(記紀の仲哀天皇)を討たれた仇討ちで、建稲種命が九州に遠征しますが、苦難の末に成功させました。記紀では景行天皇の九州遠征の話になっていますが、詳細に語られていますので、様子が分かりました。さるカニ合戦はこの時の仇討ち話だったのです。建稲種命は東国遠征の途中で流れ矢に当たって戦死したようですので、建国の主役を隠すために登場させた英雄ヤマトタケルのモデルにされています。熱田神宮に祀られています(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その3)」「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照 )。


(左クリックで拡大)





最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


「事実に反する畿内説に固執」?古代妄想だよ!(;^ω^)

2024-12-09 00:00:01 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

#とてもいい質問コメントをtorachan208さんから頂いたので、ご説明します。よろしければ、お付き合いください。

前回は詳しいコメントありがとうございます😊それにしても三国志の時代に、日本の女王が接点があった事に、壮大なスケールを感じました。映画キングダムを観た時にも感じました😊前回は卑弥呼の場所について私は近畿と思っているのですが、九州説の最大根拠を幾つか教えていただけますでしょうか?

またまた、いいコメント感謝します( ^)o(^ )
九州説の根拠はいくつかありますが、河村哲夫先生の動画に詳しくありますので是非、ご覧ください。

一番支持されている説は、邪馬台国への行程記事で万二千里のうち末盧国まで一万里で、残りは二千里ですから、九州から出ることはないというものでしょうか。

そして、安本美典先生も鉄その他の遺物の奈良県との比較から99%福岡県だとおっしゃるように、魏志倭人伝の記述にあるとおり考古学の成果が九州説を支持しています。

刮目天の見解ですが、行程記事は政治的な理由で作られていますので、これを頼りにしては誰もが納得する位置を探せないということで、魏志倭人伝に邪馬台国あるいは女王国と記述されているわけですから、記事の内容と考古学の成果が一致する部分はウソではない可能性があります。

そして金印などのように見つけた人が容易に持ち運べるような遺物は、発掘された場所が邪馬台国だという決め手にはならないかもしれないので、墓などの発見された遺構や遺跡から候補を探すのが良いという意見を前回のブログ記事で述べたのです。

そして魏志倭人伝にある通りの卑弥呼の墓を発見していますので、これは有力な候補として考えられるということなのです。もしも、他にも条件に合う候補地が見つかれば、その他の証拠から優劣を決めることができるということなのです。いかがでしょうか?

torachan208さんが邪馬台国は近畿にあったとする根拠は論理的に上で説明したものを上回るとお考えでしたら、詳しく教えて下さい。よろしくお願いします(#^.^#)

 

畿内説の根拠としては纏向遺跡や箸墓古墳等大きな古墳が多くある事。

その周囲から大量の銅鏡や三角縁神獣鏡が見つかっている。

邪馬台国と大和の名前が似ている。

纏向遺跡から卑弥呼の時代の、植物の種が見つかっている。

畿内の都市遺跡が、当時の建築物としては最大である事。

※逆に弥生時代の鉄製品、絹織物等の出土が無い事が、畿内説を弱めているかと思います。

確かに纏向遺跡は大集落ですが、先の記事にあるように卑弥呼は人前に出ないし、卑弥呼の婢は千人ではなく、殉葬されたのが百余人ですから、千は大袈裟な数字でしょう。邪馬台国が七万余戸というのも、当時奴国の列島最大の交易センター比恵・那珂遺跡群で2万余戸(約10万人)ですから、かなり大袈裟です。倭国が全体で14万余戸というのは、東夷の大国だと主張するための誇張された数字と見るのが妥当です(洛陽で10万戸なのです)。

また纏向遺跡は環濠集落ではなく、防御性はありませんので魏志倭人伝の記述に合いません。

そして纏向遺跡の古墳ですが、最初の前方後円墳が三世紀初頭の石塚古墳で、三世紀末から列島各地で前方後円墳が作られるようになりますので、ヤマト王権成立はその頃纏向で発祥したとされています。

先にも述べましたが三世紀前半の卑弥呼の時代の北部九州の人々が纏向遺跡に来ていないのですよ。

これは纏向遺跡が邪馬台国ではないことの決定的な証拠になります。

纏向遺跡では戦乱の痕跡がありませんので、卑弥呼の倭国と対立していた狗奴国と推理しています。3世紀後半の戦争の痕跡が崇神天皇の四道将軍や景行天皇の九州遠征・ヤマトタケルの東国遠征のルート上から出土していますので、纏向遺跡の狗奴国勢が日本を統一したと分かるのです(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

纏向遺跡で2千個くらい見つかった桃の種は祈祷や占いで使ったようです。吉備の上東遺跡などから合わせて1万個以上出土していますので、吉備の勢力が纏向遺跡を造ったと分かります。その他にも前方後円墳の祭祀に使われた円筒型土器と特殊器台やナーガを象った弧文円板なども奴国(龍蛇神国)由来の吉備のものですので、狗奴国王卑弥弓呼(崇神天皇)は吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王の子孫だと推理しています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

ですから、纏向遺跡が当時の最大級の集落だからと言って、邪馬台国だと決めつけることはできないのです。

ヤマトの名称は邪馬台国から来ていますが、280年に西晋によって呉が滅ぼされたことに関係します。狗奴国が西晋に朝貢していた大国主高野御子と女王台与の倭国を滅ぼしたために、西晋に追討されることを怖れて二人の子ホムダワケを探し出してヤマトの祭祀王応神天皇として初代ヤマトの大王に即位させて、狗奴国を邪馬台国の後継国としたと推理しています。日本書紀崇神天皇紀のオオタタネコの話です。ですから、箸墓で母の神功皇后(女王台与)を、桜井茶臼山古墳で大国主高野御子を宗像明神として改葬したと推理しています(詳細は「【検証27】箸墓の築造年代は?」参照)。

 

また、四世紀の古墳で大量に副葬された三角縁神獣鏡ですが、中国から出土しておらず、呉から亡命した職人に日本で作らせたものである可能性が高いのです。卑弥呼の鏡に見せかけるためではないかと推理しています。卑弥呼の鏡の一部は平原王墓で副葬品とされた鏡ではないかと考えています(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。

つまり、先にも述べたように、纏向遺跡は魏志倭人伝にある邪馬台国の記述とはほとんどが一致していないのですから、邪馬台国ではないという結論になります。

事実に基づかない畿内説に固執するのは古代妄想なのですよ(;^ω^)

ご納得していただけたでしょうか?(#^.^#)

よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

【関連記事】

【検証19】日本建国のための戦いだ!


(左クリックで拡大)

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)
(左クリックで拡大)






【後記】

古代史界隈に「古代妄想」というちょっと過激に聞こえるギャグを入れましたが、妄想を逆手に取って開き直る方も居たり、ご不快に感じる方が居るかと思いますので、ここでちょっと言い訳です(;^ω^)

事実に基づく想像は、科学的な探求において推論・推理という正しい方法です

しかし人間は空想する生き物なんです。空想は事実に基づかない想像のことです。普通は、本人も空想かも知れないと自覚していますが、空想に凝り固まって反証を受け付けない信念になると妄想という精神医学上の症状ということですネ(*´Д`)

古代史探求に嵌っている多くの方は、事実に基づかない「空想」を仮説にしたままで、数多くの事実で仮説を検証しようとしないようです。都合の悪い反証も無視するようですので「古代妄想」ということなのです。

以前に、ある著名な古代史研究家のブログで、その点を指摘しても、「検証は後世に行われるハズだ」と自信満々だったので驚きました(#^.^#)

歴史あるいは歴史学という学問は人文科学の範疇ですので、科学の手法に従う必要があります。

なぜならば、科学の手法による結果は偏見のない多くの方が納得行くものですので、定説として認められやすいからなのです。その仮説は「科学的な信念」になり(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」参照)、教科書にも載るような定説になります。これが科学的な探求の目標です。

しかし、定説となっても、それを導く過程で何らかの見落としやミスを犯していたかもしれないのです。ですから、定説となったその仮説も、常に新たな事実によって検証を受け続ける宿命なのです。定説が覆されることがあるのは、科学の世界では常識ですから。人間は神様ではないという証です。大国主のように死んでから神様になる人間は居ますが(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

最後までおつきあい、有難うございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )


魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆

2024-12-08 10:24:39 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

#2022-03-30 21:52:19に記事にしましたが、本文中でほんの少しだけ追加しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

#下の興味ある内容の動画にコメントしました。お付き合いください(*^▽^*)

【魏志倭人伝】女王 卑弥呼の 使者は 魏の国に 着くと我は 呉の 太伯 の 末なり 位は 大夫なり!と 名乗った!
2021/10/27 歴史マニア@YouTube

古公亶父」は、太伯の父ですから、二人とも皇室の祖先です(注1)。


魏略逸文に、例えば「従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国、至拘邪韓国七千里」とあり、対応する魏志倭人伝の「従郡至倭 循海岸水行 歴韓国乍南乍東 到其北岸狗邪韓国七千余里」と全く同じではなく、いずれも簡潔になっており逸文を残した人物が意図的に削ったようです(塚田敬章「魏略逸文と魏志倭人伝」より)。しかし、特に七千里という里数が同じなので、魏略を撰した魚豢が宮廷の書庫に残っていた二人の魏使の報告書を見て、そこから引用した可能性が高いと思います。

西晋の史官陳寿は当然、魏使の報告書を閲覧できたはずですので、それらの報告書にあった内容をそのまま引用したようです。しかし、「倭人は太伯の後」という部分などはご指摘のとおり意図的に削った可能性が高いと思います。つまり、陳寿が魏志倭人伝を撰した目的は西晋の基礎を築き、宣帝と諡されて称えられる魏の司馬懿を称揚する目的だったので、その部分は不要だと判断したためと考えられます。そのように考える理由は長くなるので、続きを記事にしました。よろしければ拙ブログをご参照ください。失礼しました。


陳寿の意図を示す証拠はいくつかありますが、一番わかりやすいのは、たかが東夷の女王に過ぎない卑弥呼を絶賛する詔書のほぼ全文を魏志倭人伝に掲載していることです。極めて異例なことです。これは戦略上重要な位置にあった倭国に朝貢させた司馬懿が曹魏第一等の功労者だったと西晋の朝廷の人々にアピールするためです。司馬懿を持ち上げることによって陳寿のパトロンで西晋の実力者の張華の顔が立ち、陳寿の評価も上がるからです。張華は三国志の写本を部下に命じて作り、正史の資格を与えたと伝わっています。陳寿は歴史家の前に宮仕えなのです(^_-)-☆

曹操の甥の曹真が魏のライバルの蜀を抑え込むために西域の大国であった大月氏国王を朝貢させましたので、その功績が魏で最高のものでした。曹真は直ぐに病死して、その息子の曹爽が魏の実力ナンバーワンの大将軍となっていましたから、景初二年(238年)8月に公孫氏を滅ぼした太尉司馬懿は、曹真の功績を上回るものとしたいと考え、当時魏の最大のライバルだった呉の会稽郡東冶県の東の海上にあると考えられていた倭国を懐柔することにしました(注1)。

ですから、司馬懿は部下の劉夏を帯方郡太守として派遣し、それまで公孫氏に朝貢していた倭国を魏に朝貢させるように命じたと考えられます。劉夏は帯方郡に訪れた大夫難升米と談合して、邪馬台国へのデタラメな行程記事や、長引く戦乱で人口が十分の一に激減した魏の都洛陽が十万余戸で大月氏国も同じ十万余戸だったので、倭国を大月氏国を上回る合計十四万余戸の超大国としました(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社 1994に詳しい)。

当時のシナでは、遠方の大国に、皇帝の徳を慕って朝貢させることによって皇帝に高い評価が与えられました。洛陽から大月氏国の都カーピシー(現在アフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十余里と知られていました。ですから、帯方郡から女王国(邪馬台国)まで万二千余里ということにして、洛陽から楽浪郡までの約五千里を加え、合計万七千余里だとでっち上げました。九州の上陸地点末蘆国からの方角も南寄りになるように操作しています。

さらに魏の朝廷の人々に、倭国を南国のエキゾチックで不思議な島国と印象付けるために、鬼道で人々を支配する女王が統治者であって、女王は人前に出ないとして、男弟が政治を補佐していたということにしたわけです(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!(^_-)-☆」参照)。



ですから、邪馬台国までの行程記事の方角や里数や戸数などは朝廷の人々が納得する程度のつじつま合わせのデタラメだったのです。里数を日数で記述するなどシナ人には考えられないと「隋書 倭国伝」にもありますから、魏使は男弟に面会すれば役割を果たしたことになるので、邪馬台国の卑弥呼には会っていないはずです。結局、倭国の大夫と帯方郡の太守が談合で決めた司馬懿に都合の良い内容になるように魏使に報告書を書かせ、それを陳寿が引用したというのが真相だったと推理しました。

二十一世紀になっても邪馬台国の位置が確定しないのは、多くの研究者がこのようないい加減な行程記事を、正しく解釈すれば正しい場所が定まると思い込んでいたからです。先に自分の思う場所があり、そうなるように理屈をつけて解釈するやり方だったから、万人が納得できないのです。

したがって、邪馬台国がどこにあったのかを知るには、行程記事を一旦横に置いて、考古学などの成果から三世紀の纏向遺跡におけるヤマト王権の成立過程を推理する必要があります。

そこで厄介なのは、現存する日本最古の正史は「日本書紀」ですが、多くの方は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと思い込んでいます。しかし崩御から約30年後の完成当時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏にとって不都合な歴史の真実が改ざんされていることが古代史作家関裕二氏万葉集研究者渡辺康則氏らによって指摘されています。

戦後の歴史学者の多くは津田左右吉が指摘した内容に拠って、「日本書紀」の早い時期の天皇の話は信用できないとして(注2)、「日本書紀」を全く無視して、考古学の成果だけを使って唯物史観で弥生時代を解釈しようとしました。しかし岡田前掲書で指摘されたように考古学は歴史学の代用にはならず、文献がないと書くことができないので、日本の歴史を正しく示すことができませんでした。なぜ倭国大乱が起こったのかという定説も間違いであったことも発見しました(「倭国大乱の原因が古代史解明のカギ!(^_-)-☆」参照)。

最近は、「日本書紀」に書かれていることは歴史の事実を反映した天皇の歴史書だと考える研究者が多いようです。しかし、上述のとおりですから考古学の成果と矛盾する内容になってしまいます。それでも魏志倭人伝と同様に「日本書紀」の解釈で乗り切ろうと努力されていますが、これもうまくいきません(「神武天皇はいつ即位した?」参照)。

「日本書紀」は藤原氏が権力を握り続けるために、不比等が歴史を捏造・改ざんしたインチキな正史なのですから当たり前です。詳しくは「権力者が歴史書を作る目的は何?」をご参照ください。

しかしいくつも藤原氏に都合の悪い証拠があるのですが、多くの研究者は正史は正しい歴史書・天皇の歴史書だと思い込んでいるので、その証拠を無視しています。例えば、推古天皇の時期に隋書にはアメノタリシヒコという男の大王(おおきみ)が朝貢したと記録されています。しかし、それを無視して推古天皇が実在したと考えているので、このような姿勢では歴史の真相に迫る可能性は絶望的でしょう(「初の女性天皇、推古天皇は「中継ぎ」だった? バイアス外し見えた姿」2022年3月18日 16時30分 朝日デジタル 参照)。間違った定説や権力者に都合の良いフェイク・ニュースをマスメディアの力で国民に拡散し、定着させようとしているようですので、日本の存続にかかわる大問題です。気づいた方はマスメディア離れを起こしていますが、古代史については気づいていない方が多いようです(詳細は「隠された倭王と創作された継体天皇?」参照)。

「日本書紀」で不比等が何を捏造し改ざんしたのかを知るためには、不比等の目的を考え、このような視点で「日本書紀」の内容を疑って、考古学などの成果によって明らかにできることに気づきました。これによって日本建国の真相が明らかとなり、邪馬台国や卑弥呼の謎も解けました。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。

【関連記事】
「魏志倭人伝」の真相とは?!

【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)
倭人の王が太伯の後というのが正しいと分かりました。

女性天皇は「記紀神話」の呪いだった(;´Д`)
ほとんど国民は気づいていませんが、すべての女性天皇は不比等のフェイクだということを京都にある天皇家の菩提寺が教えてくれました。女系天皇を期待すると易姓革命が起こることになり、伝統国家の日本ではなくなりますよ(;´Д`)

(注1)「三国志 呉志呉主伝」に「会稽東(冶)県の人で、海に行き風にあい流れ移って亶洲に至ったものがあると言い伝えている」とあり、范曄「後漢書」に「会稽東冶県の人で海に入ってゆき風にあい流されて澶(亶)洲に至ったものがあると言い伝えているが、その所在はきわめて遠く往来することはできない」とあります(塚田敬章「徐福は日本に来たか?」より)。倭人の王(奴国王)が太伯の後裔なので、古公亶父も奴国王の父祖という意味です。そして日本は古の倭の奴国、つまり倭人の王(奴国王)が日本の皇祖神ですから、結局、当時のシナ人は亶洲を会稽郡東冶県の東の海上に位置する倭国(日本)と考えていたということです。

(注2)wiki「津田左右吉」によれば以下の通りです。
・古事記と日本書紀の元になったのは、皇室系譜の「帝紀」と、宮廷で伝わってきた説話の集合体の「旧辞」である。
・帝紀と旧辞が成立したのは、6世紀の継体天皇~欽明天皇の時期である。
・帝紀の系譜は全て史実ではなく、少なくとも15代応神天皇より以前(14代仲哀天皇や13代成務天皇以前)の天皇は創作された非実在の人物である。
・旧辞の大部分、特に神話の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説く為に造作されたもので、史実的な資料価値は全く無い。



最後までおつきあい、有難うございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )


【邪馬台国問題】誰もが納得できる解決法とは?(#^.^#)

2024-12-07 12:42:54 | 古代史

いつもありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

第34回邪馬台国までの行程【まとめ】 ~超難問を解説、水行陸行問題はトラブルメーカー? 河村哲夫の日本古代史チャンネル@YouTube

興味ある話題を有難うございます。

水行・陸行は一旦無視すべきという河村先生のご提案に賛成です。邪馬台国への行程は、邪馬台国を魏の戦略上重要な位置に置くために政治的に作られたと分かっています(詳細は「刮目天の古代史 魏志倭人伝の真実?」参照)。ですから、この行程記事から位置論に入っても300年も決着がつかない話になるわけです。



そこで、先生は不弥国から邪馬台国まで徒歩で行ける場所という解決案をお出しになりましたが、金印や鏡、絹織物など発見した人が容易に持ち運べる遺物などは決定的な証拠にはなりにくいと思います。 もっと合理的な解決手法はあると思います。

つまり、魏志倭人伝の行程記事以外で、以下のような邪馬台国に関する記事がいくつかありますので、それらを基に探し、いくつか候補地が出てくればその中で最も蓋然性の高いものを最有力候補とすればよいと思います。

現在九州説で候補とされている吉野ヶ里遺跡や朝倉の遺跡群は残念ながらこれらの条件と合いません。

①「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国有り。みな倭種なり。)

短里は行程記事が正しく書かれていることを前提にしたつじつま合わせの仮説ですので、当時の一里は約450mとするのが妥当です。つまり、千余里は約450kmということです。九州説ですと、この条件に合う場所は周防灘に面した地域となり、宇佐が最有力となります。宇佐は御存じのとおり宇佐神宮があり、皇室の祖廟です。畿内説では東に海ということは合致しないので、理由なしでこの記述を無視しています。日本列島内でこの記述に合う、邪馬台国の候補地はないようですので、最初に学説とされた富来隆先生が最大の根拠としています(富来隆「卑弥呼」学生社1975年 参照)。

しかし、「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史(女王国より以北は、特に一大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。)」から伊都国の南という方角が合致しませんので、この文章の「北」は上記の理由で政治的に作られた方角であって、伊都国から方角が東にある宇佐説は正しい可能性があります。

②「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人(卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人である。)」「其死有棺無槨 封土作冢(その死には、棺有りて槨なし。土で封じ冢を作る。)

卑弥呼の死の前後の記述から急造りの土を盛り上げただけの円形墳墓で直径は約150m。墳頂部に女王の棺が埋められ、その傍らに奴婢約100名を殉葬した痕跡がある場所ということです。卑弥呼の死は大きな事件ですので、伝承や地名が残っている可能性もあります。

③「自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛(王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、自ずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。)

上の記事から、奴婢は百人程度と考えられますので何万人も居る大集落ではないようです。卑弥呼は人に会うことを避けていますので、大集落から少し外れて、数百人程度の兵士に護衛された防御性の高い集落を居城とした考えられます(ただし、原文の訳は塚田敬章氏の魏志倭人伝現代語より引用)

これらの条件に合う場所で卑弥呼の居城の候補を発見しました。 宇佐市安心院町下毛「宮ノ原遺跡」です。日本書紀で三女神降臨伝承のひとつである三女神社が卑弥呼の宮室と考えられます。神社の西側に深さ1m幅2.5mのV字溝があり、その中から銅鏃1個が発見されていますので、城柵で護られており、南側を流れる深見川の河岸の10mくらいの崖の上の台地にあります。宮ノ原遺跡は宇佐市街にある大規模な集落群から少し離れた山間部にありますので、要害堅固な居城です。その西側500mにある「三柱山古墳」が卑弥呼の墓と推定しています(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。 これらによって卑弥呼は宗像三女神の主神であった市杵島姫命だと分かりました。宇佐神宮の最も立派な二之御殿に祀られた比売大神で、厳島神社の主神です。卑弥呼が倭国女王というのは行程記事を漢字で書いて魏の帯方郡太守に教えたある人物だと判明しています。上述した政治的な理由で倭国女王としたということです。詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。長々とお邪魔しました。

【関連記事】

投馬国へ水行してみませんか?

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )


「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)

2024-12-06 20:03:46 | 古代史

いつもありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )

#2021-12-18 12:38:10に記事にしましたが、若干見直して一部追加し、(注1)に注記しました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)


#2018-06-02 00:21:39に記事にしましたが、古代史について発信されているユーチューバーのまあちゃんさんの動画『【[邪馬台国】旧唐書・新唐書から見える古代日本の成立について考えてみました。』(2018/05/31 )にコメントしたところ、この記事をYouTubeで流して頂きました。古代史研究の盲点の重要事項ですので、少し書き足して再度この記事を掲載いたします。最後までお付き合いください。



日本という国号に関しては、応神天皇が即位した280年頃に、ヤマト王権が倭国から大倭国、大和国へ、そして日本国へと変えようとしたようだ。西晋の恵帝(290-306年)の代に「日本」という号が見られるのだ(神野志隆光『「日本」国号の由来と歴史』講談社学術文庫、2016年10月11日、p.68-69)。

倭国は、ヤマト王権のルーツである奴国から国王を追放した、恨みのある帥升王が興した国だから、ヤマト王権にとって不名誉な歴史のある国名だ(詳細は、「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」 参照)。

だが、ヤマト王権がいくら国号を変えようとしても、当時はシナの了解がなければ国際的に認められないのだ(;´Д`)

607年の聖徳太子から隋の煬帝に宛てた有名な手紙「日の出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや云々」からも、日本国は対等の独立国だという意識があらわれている(藤堂明保ほか「倭国伝」講談社学術文庫2000、p.192)。

いつまでも倭国としてシナの冊封体制に組み込まれているのは嫌だと考えていたことが分かる。この話の載っている「隋書」までのシナの正史には国号をすべて「倭国」として記されているのだ。

聖徳太子の考えが天武天皇に引き継がれ、シナに「日本国」の国号を認めさせるために日本の正史「日本書紀」を編纂するように詔されたのだが、完成前に崩御され、さらに持統天皇に引き継がれた。シナの律令制度導入に取り掛かっている頃の701年に遣唐使粟田朝臣真人を派遣して「倭国」から「日本国」へ国号変更をシナに正式に要請したが、後述するように、通説とは異なり、それは認められなかったのだ(注1)(2024.12.6 青字追加)

シナの朝廷(丁度、則天武后が国号を唐から(大)周に変更していた)に倭の奴国からヤマト王権成立までのややこしい経緯を詳細に述べることもできないので、恐らく都を筑紫から大和に神武天皇が遷されたと記した『帝紀』・『旧辞』に基づいて神武東征を説明したのだろう(注2)。

しかし、その中に金印を賜った倭の奴国の話が出てこなかったから、シナ人には史実を無視して高天原神話や天孫降臨の神話などを説明したとしても、全く理解できなかったのだと思う。

さらに、6世紀の南朝梁の任昉(にんぼう)が撰したとされている『述異記』(じゅついき)という「山川等地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集め」た小説集の中に「日本国に重さ一斤(約500グラム)の金の桃がなる木がある」(増訂漢魏叢書. 載籍第71册,国会図書館デジタルコレクション18コマ左頁)という話が出ており、当時のシナ人たちに「日本は黄金の国」とのイメージが出来上がっていたこともあるのだと思う(王勇「中国史の中の日本像」農山漁村文化協会,2000,pp.74-75)。

945年に完成した「旧唐書」の編纂者らは、倭国の条の冒頭に「倭国は古の倭の奴国也」と書き、
日本の条に
日本国は、倭国の別種也。其の国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰く、「倭国自ら其の名の雅やかならずを悪み、改めて日本と為す」と。
或いは云う、「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。
其の人、〔唐の〕朝〔廷〕に入る者、多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以って対(こた)えず。故に中国は焉(これ)を〔どこまで真なりや〕と疑う。
』とあり(藤堂、上掲書,pp.205-208)、更に粟田真人の後の遣唐使の話の中で「日本に調布の制度があるなんて嘘だろう」とも書いている。

大和朝廷としても、838年最後の遣唐使を送った後に、これ以上シナに納得してもらうのは難しいということも遣唐使廃止に繋がっているのかもしれない( ^)o(^ )

そして、唐が滅び、五代十国から宋になって、984年東大寺の僧奝然(ちょうねん)に「王年代紀」などを持たせて遣使した。太宗に謁見し、これらを献上し、手厚くもてなしを受けた。『太宗は、日本国王が一姓の世襲であり、臣下もすべて世襲の官だと聞くと、嘆息して宰相にこう言われた。「彼らはたかが島国の夷(えびす)だ。にもかかわらず、国王の位は久しきにわたって世襲し、その臣もまた親の後を継いで絶えることがない。これこそ古の理想の道と称すべきであろう。ひるがえって中国は、・・・・』(藤堂、上掲書、pp.300-301)。

「王年代紀」には初代天御中主から彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)までの二十三代の王都は「筑紫の日向宮」にあって、彦瀲尊の4男神武天皇が大和の橿原宮に遷し、その後の64代円融天皇まで書かれている。

これによって、シナは日本の神代の話が倭の奴国のことだと理解した。だから、1060年に完成した「新唐書 日本」の冒頭で日本は、古の倭の奴也と書いてもらい、「倭国」から「日本国」にようやく認められたことが分かる(注3)。

結局、国号変更を正式に認めてもらい、史書に載せてもらうまでに、ヤマト王権成立から何と、800年近く掛かったという気の長い話だ!(;´Д`)

大変、お疲れ様でした(^◇^)

【付録】中国文献(三国志~宋史)に関連する年表

(左クリックで拡大)


(注1)736年に完成した「史記正義」という司馬遷「史記」の注釈書の中で「則天武后が倭を改めて日本にした」と神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書)で指摘されているとある(『日本はいつから「日本」なのか?』より)。だから、通説では正式にシナに認められたように理解されているのだが、後述するシナの正史「旧唐書」には倭と日本が登場するので、「日本」という国号が「倭国」から変更されたと正式に認められたというわけではないのだ(;^ω^)(2024.12.6 青字追加)

(注2)『帝紀』・『旧辞』の存在は「古事記」序文に書かれている。九世紀の朝廷で「日本書紀」の講義をしていた多人長が序文を書いたと考えられている。Wiki『帝紀』によれば『681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。』とあるが、現存しない。720年に完成した「日本書紀」も、712年に完成したとされる「古事記」も『帝紀』・『旧辞』を参考にして編纂されたとされているが、たとえそれらが記紀の編纂当時に存在していたとしても内容は異なるはず。「日本書紀」は藤原不比等が権力を維持するために、不都合な日本建国の歴史を隠蔽し、藤原氏に都合のよいように改ざんした歴史書だと分かって来た。このような正史は、701年に完成した大宝律令と共に、朝廷で藤原氏が他の豪族を追い落とし、藤原氏だけが栄耀栄華を誇るための道具として利用された。「古事記」は基本的に「日本書紀」に倣いながら、歴史の真相を暗号のようにして暴露している(「古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)」参照)。
 正史が編纂された奈良時代から平安時代・室町時代くらいまでの人々は日本建国の真相を理解していたようで、天変地異は建国当時の悲惨な死に方をした貴人の祟りだと信じて各地で丁重に祀っていたことから分かる。祟るはずのない人物(神功皇后や宗像三女神など)が祟るのだから、正史のウソがわかる。最近の研究では万葉集も歴史の真相を暴露するための暗号であることが明らかにされている。江戸時代の文化人らも皇祖神天照大御神が男性だと突き止めていた。
 記紀に書かれた神話などは史実が基になっている部分があるので、編纂者の真の目的を推理すれば、古代史の謎を解くためのヒントを与える貴重な古典文学だというのが正しい理解だ。

(注3)「新唐書」では王が筑紫日向の宮に三十二代居たと書いているが、王の名を列挙していない。1345年に完成した「宋史」の記述が二十三代の王を列挙しているので、これが正しいと思われる。

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )