私は60歳を迎えるまで、読書が嫌いだった。
仕事上、必要な本は読んだが、本屋に行くことも、図書館に行くことも好きではなかった。
退職して趣味を探していた時も、活字をあまり読まないですむということもあり、
短歌を選んだほどだ。
だが今になって、本を読まないできたことを後悔している。人生、損した気分だ。
もっと本を読んでいたら、自分を見つめ直すことが出来たかもしれないし、
違った人生があったかもしれない。
図書館にリクエストしていた本が、ここにきて一気に5冊回ってきてしまった。
3日前には、髙村薫著『土の記・上』と田中慎弥著『孤独論 逃げよ、生きよ』。
そして今日は、髙村薫著『土の記・下』と『騎士団長殺し・第一部、第二部』が回ってきた
とのメール。これはやばい!
いつも読むのが超スローモーな私が、髙村薫著『土の記・上』は2日で読んでしまった。
突然、山奥に放り出されたような、音・匂い・空気・気配、湿り……を感じながら、
主人公を追体験していた。 小説ってこんなに面白いものだったのね。
髙村さんはすごい、すご過ぎる!
追記1
第70回野間文芸賞に、髙村薫さんの『土の記』が選ばれました。
おめでとうございます。
(2017年11月23日 記)
追記2
第44回大佛次郎賞に、髙村薫さんの『土の記』が選ばれました。
おめでとうございます。
(2017年12月17日 記)
追記3
第59回毎日芸術賞に、髙村薫さんの『土の記』が選ばれました。
おめでとうございます。
(2018年1月1日 記)
5冊目の『騎士団長殺し第二部』を、4月29日に読み終える。
2週間で5冊読了は初めての経験だ。 老いの目はしょぼしょぼ。
国内外を問わず、社会現象にもなっている村上春樹さんは、
良質のストーリー・テラーだと思う。
物語が豊かに展開してゆき、読者は気持ちよく様々な世界に導かれる。
だが残りわずかになっても、ひろがっていった物語は一向に収拾に向かう気配がない。
そして、つじつまを合わせるような形で(あくまでも私感です)慌ただしく終わる。
それまでが面白かっただけに、終わり方にやや後味の悪さが残った。
(2017年4月30日 記)
今日(4月17日)は、田中慎弥著『孤独論 逃げよ、生きよ』を読む。
何冊か田中さんの本を読んだことがあるので、読んでいて何か違和感があった。
あとがきによると口述筆記とのことで、納得した。
今の若者たちの現状に、書かずにはいられなかったのだろう。
妹や弟に対して、あるいは甥っ子、姪っ子に対するような、田中さんのまなざしが温かい。
若い頃に読んでいたら、自分の夢ともっと葛藤できたかもしれないと思った。
心に残った言葉を引用させて頂きます。
第一章 奴隷状態から抜け出す
(1)一見、それなりに恵まれた環境にあっても、奴隷になっている人はたくさんいる。
反論が許されない雰囲気、主体的な思考を阻む雰囲気が蔓延(まんえん)して
いるなら、それは奴隷化をうながすものです。
でも、主体的な思考を取り払って仕事をしている状態が続くようだと、言わずもがな、
やがてそれは思考停止に直結します。マニュアルだけを重んじるあなたは、
奴隷か奴隷予備軍です。
人間同志だからそういう食い違いは日常茶飯事のはずですが、では実際に疑問を
相手に伝えているかといえば伝えていない。実害があるわけではないし、
それはそれでそこそこやっていけているからなんとなく黙したまま。
こうした状態も思考停止ですから、奴隷だと言える。
あなたが奴隷なのかどうかは、物理的な状況によってのみ左右されるのではありません。
むしろその状況をどう自覚するか、その状況をみずからコントロールする意思が
あるのかないのか、それが奴隷と非奴隷の分かれ目です。
人間は慣れる生き物だし、環境への適応能力もきわめて高い。だからそもそも
現状肯定に走りやすく、それは容易に思考停止してしまうこととイコールです。
(2)危険なのは、頭の中が目詰まりして客観性を失った人です。
わたしはいまここで仕事をしているのだ、やり遂げなくては、という目先の事実に
雁字搦(がんじがら)めになって、完全な思考停止に陥った挙句、
ほかの選択肢を見失う。
夜逃げすらできないし、その発想自体に思い至らない。そうするうち、
体力も精神力も奪われてゆく。これがもっとも危険な状態です。
自分が損なわれる、自分の人生を失う、それ以上の苦しみはありえない。
四の五の言わず、後先を考えず、その場から逃げろとわたしが強調するのは、
逃げることの一歩を踏み出さなければなにもはじまらないからです。……
大切なのは、逃げたら、そこからは能動的な思考を継続していくということ。
主体性、能動性、そういったものを取り戻すための逃避なのですから。
第二章 便利さと生きづらさ
(1)みずから向き合う時間がなければ、豊かさは得られないし、あなたは奴隷のままです。
ずっと急(せ)きたてられて生きることになる。
それはあなたの人生のようであってあなたの人生ではない。
第三章 孤独であること
(1)人間は孤独なのだという前提を受け入れがたいのは、独りになることを過度に恐れたり、
あるいは許せなかったり、さもなければ独りでいる自分はおかしいのではないかと
疑心暗鬼になったりしてしまうからで、そうした圧力のような存在は、かって長い間、
引きこもりのような状態だったわたしからすればわからなくもない。
そもそも日本社会そのものが、ひとつの共同体や同じ価値観に属するのを強いていて、
つまり孤立を回避する力学で成り立っているので、おのずと孤独には後ろめたさが
伴(ともな)うように仕向けられているのです。
友だちの数の多さや、場を盛り上げたり場に馴染むコミュニケーション能力を
重宝する風潮は、過剰防衛の虚(むな)しい反転にすぎません。
そんなものはなくても立派に生きていける。独りになり、陰口をささやかれ、
後ろ指を指されようとも、気に病むべきではない。
むしろ同調圧力から解放されて、自分を顧みる機会を得たのだから、
喜んでいいくらいです。
孤独を拒んでなしえることなど、なにひとつありません。
自分のやりたい道に舵を切れば、必ず孤独に直面します。
そこは耐えるしかない。そして耐えられるはずです。
孤独になるのは当たり前のことなのですから。
孤独とは思考を強化する時間でもあるので、その時間が足りないと、建設的な提案や、
あるいは反論ができなくなる。生産性を高められなくなるし、無理筋な要求を
唯々諾々(いいだくだく)と受け入れるはめにもなります。
いずれにしても、あなたなりの考えを練っておくことは大切です。
なにかしらのチャンスが訪れたときにものをいいます。
独りの時間、孤独の中で思考を重ねる営みは、あなたを豊かにします。
そうした準備、練習が、仕事に幅をもたらす。あなたを解放する。
(子どもが中学生の頃だったか、「チャンスの神様には前髪しかない。準備もなしに
慌ててつかまえようとしても、逃げられてしまう」と話したことがある。
田中さんも『チャンスの神様』の話をされていて、嬉しくなった) 2につづく
仕事上、必要な本は読んだが、本屋に行くことも、図書館に行くことも好きではなかった。
退職して趣味を探していた時も、活字をあまり読まないですむということもあり、
短歌を選んだほどだ。
だが今になって、本を読まないできたことを後悔している。人生、損した気分だ。
もっと本を読んでいたら、自分を見つめ直すことが出来たかもしれないし、
違った人生があったかもしれない。
図書館にリクエストしていた本が、ここにきて一気に5冊回ってきてしまった。
3日前には、髙村薫著『土の記・上』と田中慎弥著『孤独論 逃げよ、生きよ』。
そして今日は、髙村薫著『土の記・下』と『騎士団長殺し・第一部、第二部』が回ってきた
とのメール。これはやばい!
いつも読むのが超スローモーな私が、髙村薫著『土の記・上』は2日で読んでしまった。
突然、山奥に放り出されたような、音・匂い・空気・気配、湿り……を感じながら、
主人公を追体験していた。 小説ってこんなに面白いものだったのね。
髙村さんはすごい、すご過ぎる!
追記1
第70回野間文芸賞に、髙村薫さんの『土の記』が選ばれました。
おめでとうございます。
(2017年11月23日 記)
追記2
第44回大佛次郎賞に、髙村薫さんの『土の記』が選ばれました。
おめでとうございます。
(2017年12月17日 記)
追記3
第59回毎日芸術賞に、髙村薫さんの『土の記』が選ばれました。
おめでとうございます。
(2018年1月1日 記)
5冊目の『騎士団長殺し第二部』を、4月29日に読み終える。
2週間で5冊読了は初めての経験だ。 老いの目はしょぼしょぼ。
国内外を問わず、社会現象にもなっている村上春樹さんは、
良質のストーリー・テラーだと思う。
物語が豊かに展開してゆき、読者は気持ちよく様々な世界に導かれる。
だが残りわずかになっても、ひろがっていった物語は一向に収拾に向かう気配がない。
そして、つじつまを合わせるような形で(あくまでも私感です)慌ただしく終わる。
それまでが面白かっただけに、終わり方にやや後味の悪さが残った。
(2017年4月30日 記)
今日(4月17日)は、田中慎弥著『孤独論 逃げよ、生きよ』を読む。
何冊か田中さんの本を読んだことがあるので、読んでいて何か違和感があった。
あとがきによると口述筆記とのことで、納得した。
今の若者たちの現状に、書かずにはいられなかったのだろう。
妹や弟に対して、あるいは甥っ子、姪っ子に対するような、田中さんのまなざしが温かい。
若い頃に読んでいたら、自分の夢ともっと葛藤できたかもしれないと思った。
心に残った言葉を引用させて頂きます。
第一章 奴隷状態から抜け出す
(1)一見、それなりに恵まれた環境にあっても、奴隷になっている人はたくさんいる。
反論が許されない雰囲気、主体的な思考を阻む雰囲気が蔓延(まんえん)して
いるなら、それは奴隷化をうながすものです。
でも、主体的な思考を取り払って仕事をしている状態が続くようだと、言わずもがな、
やがてそれは思考停止に直結します。マニュアルだけを重んじるあなたは、
奴隷か奴隷予備軍です。
人間同志だからそういう食い違いは日常茶飯事のはずですが、では実際に疑問を
相手に伝えているかといえば伝えていない。実害があるわけではないし、
それはそれでそこそこやっていけているからなんとなく黙したまま。
こうした状態も思考停止ですから、奴隷だと言える。
あなたが奴隷なのかどうかは、物理的な状況によってのみ左右されるのではありません。
むしろその状況をどう自覚するか、その状況をみずからコントロールする意思が
あるのかないのか、それが奴隷と非奴隷の分かれ目です。
人間は慣れる生き物だし、環境への適応能力もきわめて高い。だからそもそも
現状肯定に走りやすく、それは容易に思考停止してしまうこととイコールです。
(2)危険なのは、頭の中が目詰まりして客観性を失った人です。
わたしはいまここで仕事をしているのだ、やり遂げなくては、という目先の事実に
雁字搦(がんじがら)めになって、完全な思考停止に陥った挙句、
ほかの選択肢を見失う。
夜逃げすらできないし、その発想自体に思い至らない。そうするうち、
体力も精神力も奪われてゆく。これがもっとも危険な状態です。
自分が損なわれる、自分の人生を失う、それ以上の苦しみはありえない。
四の五の言わず、後先を考えず、その場から逃げろとわたしが強調するのは、
逃げることの一歩を踏み出さなければなにもはじまらないからです。……
大切なのは、逃げたら、そこからは能動的な思考を継続していくということ。
主体性、能動性、そういったものを取り戻すための逃避なのですから。
第二章 便利さと生きづらさ
(1)みずから向き合う時間がなければ、豊かさは得られないし、あなたは奴隷のままです。
ずっと急(せ)きたてられて生きることになる。
それはあなたの人生のようであってあなたの人生ではない。
第三章 孤独であること
(1)人間は孤独なのだという前提を受け入れがたいのは、独りになることを過度に恐れたり、
あるいは許せなかったり、さもなければ独りでいる自分はおかしいのではないかと
疑心暗鬼になったりしてしまうからで、そうした圧力のような存在は、かって長い間、
引きこもりのような状態だったわたしからすればわからなくもない。
そもそも日本社会そのものが、ひとつの共同体や同じ価値観に属するのを強いていて、
つまり孤立を回避する力学で成り立っているので、おのずと孤独には後ろめたさが
伴(ともな)うように仕向けられているのです。
友だちの数の多さや、場を盛り上げたり場に馴染むコミュニケーション能力を
重宝する風潮は、過剰防衛の虚(むな)しい反転にすぎません。
そんなものはなくても立派に生きていける。独りになり、陰口をささやかれ、
後ろ指を指されようとも、気に病むべきではない。
むしろ同調圧力から解放されて、自分を顧みる機会を得たのだから、
喜んでいいくらいです。
孤独を拒んでなしえることなど、なにひとつありません。
自分のやりたい道に舵を切れば、必ず孤独に直面します。
そこは耐えるしかない。そして耐えられるはずです。
孤独になるのは当たり前のことなのですから。
孤独とは思考を強化する時間でもあるので、その時間が足りないと、建設的な提案や、
あるいは反論ができなくなる。生産性を高められなくなるし、無理筋な要求を
唯々諾々(いいだくだく)と受け入れるはめにもなります。
いずれにしても、あなたなりの考えを練っておくことは大切です。
なにかしらのチャンスが訪れたときにものをいいます。
独りの時間、孤独の中で思考を重ねる営みは、あなたを豊かにします。
そうした準備、練習が、仕事に幅をもたらす。あなたを解放する。
(子どもが中学生の頃だったか、「チャンスの神様には前髪しかない。準備もなしに
慌ててつかまえようとしても、逃げられてしまう」と話したことがある。
田中さんも『チャンスの神様』の話をされていて、嬉しくなった) 2につづく