(5)うっかりテレビをひねると、タレントたちのしぐさ、表情、身につけているものの
色も形も下品のかぎりである。日本人は世界の水準をこえて、その下卑さにおいて
群を抜いているのではないか。子どもの学力や躾の無さは親や家のせいだろうから、
戦後六十年かかってこの国は、精神のたががゆるんでしまったにちがいない。
あらゆる意味で「美」と「徳」の基準を見失い、倫理社会から失墜してしまった
としか思えない。政治家たちのむきだしの金銭欲はその象徴と思う。……
この国の国民的痴呆化現象は、敗戦を機に、長い間の占領政策が功を奏してきた
結果ではないか。戦前までは、日本的知性が庶民の間にもあったような気がして
ならない。たとえば他家を訪(おとな)うときの腰のつつましやかさなどに。
(断っておくが、ここに書かれていることは、安倍氏たちが提唱する戦前の教育への
回帰と全く違うものだ、念のため)
(6)水俣の受難の中にいてやりきれないのは、世界に類例がないといわれる症状に
苦しむ人々への、地域住民からの惨酷な仕打ちであった。
ここにいちいち書くにしのびないが、人間というものは特定の極限状況に置かれ
れば、残虐さを発揮する本質を隠し持っているのかとおもう。
たとえば戦争を起こすのに兵器産業が動き出す。平和時でも化学産業のある
ところ、一種の生物兵器ともいうべき環境汚染物質が氾濫する。企業あるいは
行政側は、たとえ人命がそこなわれようとも、当然出てくる負荷として、はじめから
計上しているのではないか。兵器産業の目的は生命の殲滅と引き替えに利益をうる
という意味で現代の悪魔である。これが野放しのまま世界の経済をあやつってきた
中で、高度成長を押しすすめてきたわが国の拝金思想は民意をあやつって、
弱者切り捨てが国民性のようになった時代に生まれたのが水俣病である。
公式確認からでも五十年以上経つのに、原因物質の総量や致死量がどのくらい
流されたのか、被害者の実態がどうなっているのか、チッソはもちろん国の政策
でもはっきり後づけられなかった。
(7)後ろずさりしてゆく背後を絶たれ者の絶対境で吐かれたどんでん返しの大逆説が
ここにある。かねてこの人はこうもいう。
「知らんちゅうことは、罪ぞ」
光に貫ぬかれた言葉だと思う。現代の知性には罪の自覚がないことをこの人は
見抜いたにちがいない。不自由きわまる体で、あらためて、水俣病とそこに生じる
諸現象の一切を、全部ひきうけ直します、と栄子さんは宣言したのだ。
皆が放棄した「人間の罪」をも、この病身に背負い直すぞとも言っているのでは
ないか。自分にむかって、迫害する者たちにむかって、世界にむかって、
仲間たちに対して。
(8)この地方の無邪気で神話の中にいるような人たちに加えられた残虐この上ない行為を
どう考えればよいのだろうか。国策としての高度経済成長が背後にあった。
それはしかし、万を越す弱者たちを供儀(くぎ=いけにえ)とせねばならぬほど必要
だったのだろうか。経済の成長とは世界に示すべきわが民族の徳目だろうか。
なぜ人柱を立てた金を握って富裕層になりたかったのか。猫四百号がチッソ付属
病院細川一氏や、別の猫が水俣保健所長の伊藤蓮雄氏によって発見され、
熊本大学医学部研究班が重金属中毒という原因もはっきりさせた時点でなぜチッソ
と国は患者のところにかけつけ、いたわり、治療に集中し、貧苦のどん底に落ちた
家族の面倒を見なかったのか。それが人情というものではないか。
一人を名乗り出させて家のほとんどすべてが、家族全員既に発病していた。
この時点から考えれば、親子、兄弟、じいちゃんばあちゃん、すべての魚好きの
家族たちが発病しているとみてよい。なにしろ食べる量がちがうのである。
(9)私の親の世代では、「後生(ごしょう)を願いに行く」という言葉があった。
今の世ではなく、生まれ変わった後(のち)の世を願いに。お寺に詣ることをそう
表現した。
来世とは、現世に失望した人たちの考え出した言葉である。近作の二句である。
来世にて逢わむ君かも花御飯(まんま)
生まれ変わったら、あの人に逢いたい。その時は花御飯を差し上げましょう。
四、五歳の女の子が、花をたくさん拾い、つわぶきの葉っぱに盛って客に
もてなすままごとの歌である。
闇の中草の小径は花あかり
ご先祖様も、親の親も、直接の両親も果たせなかった荷物を、来世にゆけば、
下ろしてよかろうか。こう考えて、暗い野の草の小径を行くと、向こうに幽かに
一輪の花が見える。それを目指して、命のあかりとして歩んでいる。
光とは、私にとって、そのようなものである。水俣病の患者さんたちが、
「水俣病を、自分たちが病み直す。引き受ける」と言われたのも、そういう
あかりである。それは、もはや生身の人間の言葉ではない。
仏、菩薩の言葉のように聞こえる。
生命(いのち)の中の生命が、仄(ほの)あかりになって、遠いところへ行く野道が
照らされる。そういう草林の原風景を見たい。 3につづく
色も形も下品のかぎりである。日本人は世界の水準をこえて、その下卑さにおいて
群を抜いているのではないか。子どもの学力や躾の無さは親や家のせいだろうから、
戦後六十年かかってこの国は、精神のたががゆるんでしまったにちがいない。
あらゆる意味で「美」と「徳」の基準を見失い、倫理社会から失墜してしまった
としか思えない。政治家たちのむきだしの金銭欲はその象徴と思う。……
この国の国民的痴呆化現象は、敗戦を機に、長い間の占領政策が功を奏してきた
結果ではないか。戦前までは、日本的知性が庶民の間にもあったような気がして
ならない。たとえば他家を訪(おとな)うときの腰のつつましやかさなどに。
(断っておくが、ここに書かれていることは、安倍氏たちが提唱する戦前の教育への
回帰と全く違うものだ、念のため)
(6)水俣の受難の中にいてやりきれないのは、世界に類例がないといわれる症状に
苦しむ人々への、地域住民からの惨酷な仕打ちであった。
ここにいちいち書くにしのびないが、人間というものは特定の極限状況に置かれ
れば、残虐さを発揮する本質を隠し持っているのかとおもう。
たとえば戦争を起こすのに兵器産業が動き出す。平和時でも化学産業のある
ところ、一種の生物兵器ともいうべき環境汚染物質が氾濫する。企業あるいは
行政側は、たとえ人命がそこなわれようとも、当然出てくる負荷として、はじめから
計上しているのではないか。兵器産業の目的は生命の殲滅と引き替えに利益をうる
という意味で現代の悪魔である。これが野放しのまま世界の経済をあやつってきた
中で、高度成長を押しすすめてきたわが国の拝金思想は民意をあやつって、
弱者切り捨てが国民性のようになった時代に生まれたのが水俣病である。
公式確認からでも五十年以上経つのに、原因物質の総量や致死量がどのくらい
流されたのか、被害者の実態がどうなっているのか、チッソはもちろん国の政策
でもはっきり後づけられなかった。
(7)後ろずさりしてゆく背後を絶たれ者の絶対境で吐かれたどんでん返しの大逆説が
ここにある。かねてこの人はこうもいう。
「知らんちゅうことは、罪ぞ」
光に貫ぬかれた言葉だと思う。現代の知性には罪の自覚がないことをこの人は
見抜いたにちがいない。不自由きわまる体で、あらためて、水俣病とそこに生じる
諸現象の一切を、全部ひきうけ直します、と栄子さんは宣言したのだ。
皆が放棄した「人間の罪」をも、この病身に背負い直すぞとも言っているのでは
ないか。自分にむかって、迫害する者たちにむかって、世界にむかって、
仲間たちに対して。
(8)この地方の無邪気で神話の中にいるような人たちに加えられた残虐この上ない行為を
どう考えればよいのだろうか。国策としての高度経済成長が背後にあった。
それはしかし、万を越す弱者たちを供儀(くぎ=いけにえ)とせねばならぬほど必要
だったのだろうか。経済の成長とは世界に示すべきわが民族の徳目だろうか。
なぜ人柱を立てた金を握って富裕層になりたかったのか。猫四百号がチッソ付属
病院細川一氏や、別の猫が水俣保健所長の伊藤蓮雄氏によって発見され、
熊本大学医学部研究班が重金属中毒という原因もはっきりさせた時点でなぜチッソ
と国は患者のところにかけつけ、いたわり、治療に集中し、貧苦のどん底に落ちた
家族の面倒を見なかったのか。それが人情というものではないか。
一人を名乗り出させて家のほとんどすべてが、家族全員既に発病していた。
この時点から考えれば、親子、兄弟、じいちゃんばあちゃん、すべての魚好きの
家族たちが発病しているとみてよい。なにしろ食べる量がちがうのである。
(9)私の親の世代では、「後生(ごしょう)を願いに行く」という言葉があった。
今の世ではなく、生まれ変わった後(のち)の世を願いに。お寺に詣ることをそう
表現した。
来世とは、現世に失望した人たちの考え出した言葉である。近作の二句である。
来世にて逢わむ君かも花御飯(まんま)
生まれ変わったら、あの人に逢いたい。その時は花御飯を差し上げましょう。
四、五歳の女の子が、花をたくさん拾い、つわぶきの葉っぱに盛って客に
もてなすままごとの歌である。
闇の中草の小径は花あかり
ご先祖様も、親の親も、直接の両親も果たせなかった荷物を、来世にゆけば、
下ろしてよかろうか。こう考えて、暗い野の草の小径を行くと、向こうに幽かに
一輪の花が見える。それを目指して、命のあかりとして歩んでいる。
光とは、私にとって、そのようなものである。水俣病の患者さんたちが、
「水俣病を、自分たちが病み直す。引き受ける」と言われたのも、そういう
あかりである。それは、もはや生身の人間の言葉ではない。
仏、菩薩の言葉のように聞こえる。
生命(いのち)の中の生命が、仄(ほの)あかりになって、遠いところへ行く野道が
照らされる。そういう草林の原風景を見たい。 3につづく