城山三郎『そうか、もう君はいないのか』がドラマ化されて、今夜のちょうど今頃テレビで放映されているのですが、その予告で、主演の田村正和がかすれた声で呟く「そうか、もう君はいないのか」という台詞がものすごくいい。「古畑」のとき既にかすれていましたが、それとはまた別の次元と言うか、なんというか、枯れた声。秋、枯れ葉をガサ、ガサと言わせながら、とぼとぼと歩いてゆき、その黒い後ろ姿が小さくなってゆく…そういう情景を髣髴とさせる、非常に滋味深い声でした。役者は顔と同様声も大事だと思うのですが、あれだけ表現力豊かな声を出せれば、一流ですね。もっとも、小説はもちろんドラマも見てないのですが…
ところで昨日『ゼロの焦点』のレビューを書いたら、アクセス数が過去最高を記録。なんで?たぶん記事とは無関係だと思うのですが…
今日も松本清張。『張込み』です。これは初期短編集で、収録作品は、「張込み」「顔」「声」「地方紙を買う女」「鬼畜」「一年半待て」「投影」「カルネアデスの舟板」の8作。どれもすばらしい出来です。推理小説と言うと、純文学愛好家からは時にみくびられることがあるようですが、しかしこの短編集は大変な傑作ですね。松本清張の他の初期長編、つまり『点と線』や『ゼロの焦点』と比べても優れているように感じます。解説の平野謙は松本清張の推理小説の特色を、その反体制的である点に求めていますが、ぼくとしてはそういう面をあまり強調したくない。松本清張は推理小説に「社会派」の新風を生んだと評されているらしく、そうすると平野謙の言葉も相応しいようですが、けれどもこの短編集から浮かび上がってくるのはそういう政治的ないし社会的側面よりもむしろ、人間の秘奥にある部分、平たく言えば「人間とは何か」という哲学的問いに他ならないように思えます。
例えば「顔」という小説。ぼくはこれを以前ドラマか何かで観たことがあったのですが、いずれも(ドラマも小説も)暴き出すのは人間の心理と記憶の奥深さです。殺人犯が、自分の顔をある男に目撃されていると思って、そのことで長年懊悩し、その男の調査を開始しますが、実はその男は確かに顔を見ていたものの、記憶が薄れてしまって顔の印象は曖昧模糊としたものになっていたのでした。殺人犯は長いあいだ無意味な苦悩を背負っていたことになりますが、下手に調査を始めていたせいで、危うく馬脚を現しそうになります。その緊張感。このような描写は人間心理の奥深い闇を剔出していると同時に、エンターテインメントとしても優れています。殺人犯は男が自分の顔を忘れていることを知り、ようやく安んじて映画の出演を果たします。しかし煙草を吸いながら窓の方を向いて横顔を見せているその表情がスクリーンに映し出されたとき、映画を観ていた男ははっとして、全てを思い出したのでした。ここには記憶の不思議が立ち現れています。と同時に、思いもかけない事柄から真相が暴かれるというプロット上のおもしろみも累乗され、実に知的な娯楽小説に仕上がっていると言えるでしょう。
ぼくが一番おもしろいと思ったのは、「一年半待て」です。これは、「判決が確定した者に対しては、後に不利な事実が出ても裁判のやり直しはしない〈一事不再理〉」という刑法の条文にヒントを得たそうなのですが、これは普通の推理小説と違い、犯人は結局裁かれません。いや、いちおう有罪にはなるのですが、執行猶予がつき、実刑は免れます。しかも世間から同情され、世論の支持すら獲得するに至ります。その裏には巧みな詐術が秘められており、ほとんどの人間が彼女(犯人)に欺かれたことになります。後半は彼女のその隠された奸計の内実が暴露されるのですが、しかしそれはあくまでひっそりと行われ、世間が感知しないのはもちろん、判決がひっくり返ることもありません。それが「一事不再理」だからです。彼女のほとんど数学的とも言える見事な計画にはただただ恐れ入るばかりですが、本当に怖いのはこの「一事不再理」という制度ですね。今もこんな決まりはあるのでしょうか?
まだ色々書きたいことはあるのですが、最後に一つだけ「投影」という短編について。推理小説という性格上仕方のないことかもしれませんが、松本清張の小説は人間の暗い面を多く描きます。犯罪そのものが人間の暗黒面であるとすれば、漏れずに犯罪を扱うこの短編集は、人間のどうしようもないネガティブな側面を読者に晒していることになります。だから、読んでいて気分が暗鬱になってくることもありました。その中で唯一の救いが、この「投影」という小説でした。地方の新聞記者が政治の腐敗を追及するというこの作品の中に、子供のような正義感を持った老人が登場します。その人物像は、ある種の人の目から見ればひょっとすると、余りにも一面的な性格の持ち主に見えてしまうかもしれません。もともと絶対的な正義など存在しないという立場を取るわれわれ21世紀人からすれば、盲目的に「正義」を信奉し自らがその体現者たらんとする老人の姿は、滑稽にすら映ってしまうかもしれません。いや彼に反感をさえ抱きかねません。けれどもぼくは、この短編集の中に光明を見出したような気持ちになりました。彼の姿に、そして彼に協力する人々の姿勢に、他の短編で描かれていた人間の深奥に潜むものとはまた別の部分、その根源にあるポジティブな明るさを見た思いがしました。分かりやすい正義を求めるのは安易で危険なことかもしれませんが、しかし「悪を正す」という一本気な意向に、何か溌剌とした清々しさを感じてしまったのです。たまにはこういうのもいいな、と思ったのでした。
ところで昨日『ゼロの焦点』のレビューを書いたら、アクセス数が過去最高を記録。なんで?たぶん記事とは無関係だと思うのですが…
今日も松本清張。『張込み』です。これは初期短編集で、収録作品は、「張込み」「顔」「声」「地方紙を買う女」「鬼畜」「一年半待て」「投影」「カルネアデスの舟板」の8作。どれもすばらしい出来です。推理小説と言うと、純文学愛好家からは時にみくびられることがあるようですが、しかしこの短編集は大変な傑作ですね。松本清張の他の初期長編、つまり『点と線』や『ゼロの焦点』と比べても優れているように感じます。解説の平野謙は松本清張の推理小説の特色を、その反体制的である点に求めていますが、ぼくとしてはそういう面をあまり強調したくない。松本清張は推理小説に「社会派」の新風を生んだと評されているらしく、そうすると平野謙の言葉も相応しいようですが、けれどもこの短編集から浮かび上がってくるのはそういう政治的ないし社会的側面よりもむしろ、人間の秘奥にある部分、平たく言えば「人間とは何か」という哲学的問いに他ならないように思えます。
例えば「顔」という小説。ぼくはこれを以前ドラマか何かで観たことがあったのですが、いずれも(ドラマも小説も)暴き出すのは人間の心理と記憶の奥深さです。殺人犯が、自分の顔をある男に目撃されていると思って、そのことで長年懊悩し、その男の調査を開始しますが、実はその男は確かに顔を見ていたものの、記憶が薄れてしまって顔の印象は曖昧模糊としたものになっていたのでした。殺人犯は長いあいだ無意味な苦悩を背負っていたことになりますが、下手に調査を始めていたせいで、危うく馬脚を現しそうになります。その緊張感。このような描写は人間心理の奥深い闇を剔出していると同時に、エンターテインメントとしても優れています。殺人犯は男が自分の顔を忘れていることを知り、ようやく安んじて映画の出演を果たします。しかし煙草を吸いながら窓の方を向いて横顔を見せているその表情がスクリーンに映し出されたとき、映画を観ていた男ははっとして、全てを思い出したのでした。ここには記憶の不思議が立ち現れています。と同時に、思いもかけない事柄から真相が暴かれるというプロット上のおもしろみも累乗され、実に知的な娯楽小説に仕上がっていると言えるでしょう。
ぼくが一番おもしろいと思ったのは、「一年半待て」です。これは、「判決が確定した者に対しては、後に不利な事実が出ても裁判のやり直しはしない〈一事不再理〉」という刑法の条文にヒントを得たそうなのですが、これは普通の推理小説と違い、犯人は結局裁かれません。いや、いちおう有罪にはなるのですが、執行猶予がつき、実刑は免れます。しかも世間から同情され、世論の支持すら獲得するに至ります。その裏には巧みな詐術が秘められており、ほとんどの人間が彼女(犯人)に欺かれたことになります。後半は彼女のその隠された奸計の内実が暴露されるのですが、しかしそれはあくまでひっそりと行われ、世間が感知しないのはもちろん、判決がひっくり返ることもありません。それが「一事不再理」だからです。彼女のほとんど数学的とも言える見事な計画にはただただ恐れ入るばかりですが、本当に怖いのはこの「一事不再理」という制度ですね。今もこんな決まりはあるのでしょうか?
まだ色々書きたいことはあるのですが、最後に一つだけ「投影」という短編について。推理小説という性格上仕方のないことかもしれませんが、松本清張の小説は人間の暗い面を多く描きます。犯罪そのものが人間の暗黒面であるとすれば、漏れずに犯罪を扱うこの短編集は、人間のどうしようもないネガティブな側面を読者に晒していることになります。だから、読んでいて気分が暗鬱になってくることもありました。その中で唯一の救いが、この「投影」という小説でした。地方の新聞記者が政治の腐敗を追及するというこの作品の中に、子供のような正義感を持った老人が登場します。その人物像は、ある種の人の目から見ればひょっとすると、余りにも一面的な性格の持ち主に見えてしまうかもしれません。もともと絶対的な正義など存在しないという立場を取るわれわれ21世紀人からすれば、盲目的に「正義」を信奉し自らがその体現者たらんとする老人の姿は、滑稽にすら映ってしまうかもしれません。いや彼に反感をさえ抱きかねません。けれどもぼくは、この短編集の中に光明を見出したような気持ちになりました。彼の姿に、そして彼に協力する人々の姿勢に、他の短編で描かれていた人間の深奥に潜むものとはまた別の部分、その根源にあるポジティブな明るさを見た思いがしました。分かりやすい正義を求めるのは安易で危険なことかもしれませんが、しかし「悪を正す」という一本気な意向に、何か溌剌とした清々しさを感じてしまったのです。たまにはこういうのもいいな、と思ったのでした。