最近は読書の記事を載せていませんでしたが、このリカルドゥー『小説のテクスト』という本を読んでいました。小説ではありません。評論です。原題は『ヌーヴォー・ロマンの理論のために』です。この題からも分かるように、フランスのヌーヴォー・ロマンの批評書です。ぼくは別にヌーヴォー・ロマンが好きというわけではないし(というかほとんど読んだことがない)、著者のリカルドゥーのファンというわけでもないのですが、この本の中でインターテクスチュアリティが扱われていると別の本に書いてあったので、覗いてみることにしたのです。ぱらぱらとめくってみて、該当箇所を見つけたらそこだけ読めばいいと思っていたのですが(というのも細かい字で400ページ近くある本だから)、どうしても見つからず、仕方なく最初から最後まで通読することにしました。
感想はというと、案外おもしろかったです。最近の評論は、「批評用語」で武装した難解なものが多いのですが、この本はそういう用語をほとんど使わず、またテクストに即して緻密に読解しようとしていて(いわゆるクロース・リーディング)、文学批評のあるべき姿だと思います。意味分からない本が本当に多いですからね。そういうのは哲学に半分足を突っ込んでいるので(デリダとかドゥルーズとか)、その方面の知識も必要とされますし、どんだけ賢くないといけないんだ、っていう。けっこう勉強はしましたが、やっぱり分からないものは分からないですよ。翻訳が悪いんだってよく言われますけど、原書で読んだら余計分からないですから。
さて、リカルドゥー『小説のテクスト』は一種のミメーシス論であり、反復論であると見ました。これはぼくが「反復」を専門に勉強しているからそう映るだけかもしれませんが、はっきりと言えることは、反復に通じる側面が確かにこの本にはあるということです。ミメーシス論というのはどういうことかというと、『小説のテクスト』では表現・再現的な文学のあり方を批判し、それに対して自己再現と反再現という概念を提出しています。それぞれヌーヴォー・ロマンとテル・ケルの文学が相当するのですが、それらはあるべき文学が表現・再現的なものではなく、生産的なものであることを主張した結果として生まれた概念です。人間の心理を「表現」しようとしたロマン派の詩、世界を「再現」しようとしたユゴー的な小説は、どちらもミメーシス(模倣)の理論に縛られていたと考えられます。いわば、「アリストテレス的な呪縛」にかかっていたと言ってよいでしょう。ところが、現代の文学は模倣するのではなく、生産するのだ、というのが著者であるリカルドゥーの基本的な立場です。そこで、この本の大半を占めるのが、文学がいかに生産的であるかを立証しようとする記述になります。
その証明過程をここで詳しく述べることは不可能です。というのは、それが非常に複雑で難解であるからではなく、フランス語の知識を駆使したルーセル的な言語実験を想起させるからです。フランス語の知識がほとんどないぼくがそれを真似ようとするのはあまりに無謀だし、よしんばできたとしても、ちょっと専門的過ぎますよね。ただ、例えば「黄」という単語(もちろんフランス語)がそれに類似した綴りや音韻を持つ単語を次々に「発生」させてゆく小説を分析するリカルドゥーの手法だけを述べておきます。これは「類は友を呼ぶ」式の「類似」に注目した分析方法ですが、一方で「相違」に注目することも忘れていません。例えば「赤」という単語が出てきたら、それが「黒」を喚起しそれをテクストに呼び出す様を詳らかにしているのです。これが、ぼくがこの本を一種の反復論と呼ぶ由縁です。綴りにしろ音にしろ類似した単語が散種されていれば、一定のイメージの反復と言いうるということは恐らく多くの人が認めるだろうと思いますが(太陽、血、薔薇という単語の総体は「赤」を喚起する、など)、きれいに反発しあう語彙の群れもまた反復という概念を逆照射します。というのも、ドゥルーズの著書にあるように、反復というのは「差異」と表裏一体であるからです。
既にある世界や心理を再現するのではなく、ある語彙が新たな語彙を、つまりテクストを生産しようとするその動態的な小説のありようにリカルドゥーは着目し、主にヌーヴォー・ロマンを対象に分析してみせたわけです。その一方で、ポーの「黄金虫」も俎上にのぼせられているのですが、これが扱われている章は「読むことのアレゴリー」とでも言えそうな内容になっています。「黄金虫」は羊皮紙(パランプセスト)に書かれた暗号を読み解く話ですが、その行為が「読むこと」一般にまで敷衍されている気がしました。あるテクストの下には別のテクストが潜在している、という考えをリカルドゥーは「黄金虫」から導き出すのですが、それが羊皮紙(パランプセスト)と深く結び付いている点からして、どうしてもそれはジュネットの超テクスト性を取り上げた大著『パランプセスト』と響き合うし、したがってインターテクスチュアリティやソシュールのアナグラム、クリステヴァのジェノ・テクストを喚起します。加えてぼくはナボコフの『青白い炎』をも想起しました。いずれも表面に現れているテクスト(フェノ・テクスト)の下に蠢いている(無数の)テクスト(ジェノ・テクスト)を暴こうとする志向性があります。リカルドゥーは「読むということは、(略)テクストの作用のかくされた秩序というものに対して注意深くなること」であると述べています(p.72)。暗号を解読するという行為はまさに注意深い読書であり、『青白い炎』における註釈作業もまたそうであると言えるでしょう。後者は壮大で奇想天外な誤読の試みでもありますが、読むということがえてして誤読でありうるならば、やはりそれは、ナボコフ自身のプーシキンへの註釈作業のアレゴリーを超えた、読むことのアレゴリーであるでしょう。
ちなみに、そもそもの読書の目的だったインターテクスチュアリティについては、この本ではほとんど言及されていませんでした。確かにこの本だと書いてあるのですが、どういうことなんだろう…。ただ、興味深い例として、「象嵌法」というのがときどき言及されていました。これはいわゆる「相互内的なインターテクスチュアリティ」に相当しそうなので、これが収穫です。なおこの手法についてはデーレンバックが『鏡の物語』というやはりヌーヴォー・ロマンを扱った本で主題として取り上げています。
そういえばこの本は翻訳が気になりました。作家や作品の名前が通例のものとはほとんど違っているのです。ルーセルがルッセルに、ヴァレリーがヴァレリになっていたりします。またなぜかプロップがポップになっていました。ルーセルなどは翻訳の時点で(1974年)まだ定訳がなかったのかもしれませんが、そうでないものもちらほら…
だいぶ専門的な記事になりました。ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。
感想はというと、案外おもしろかったです。最近の評論は、「批評用語」で武装した難解なものが多いのですが、この本はそういう用語をほとんど使わず、またテクストに即して緻密に読解しようとしていて(いわゆるクロース・リーディング)、文学批評のあるべき姿だと思います。意味分からない本が本当に多いですからね。そういうのは哲学に半分足を突っ込んでいるので(デリダとかドゥルーズとか)、その方面の知識も必要とされますし、どんだけ賢くないといけないんだ、っていう。けっこう勉強はしましたが、やっぱり分からないものは分からないですよ。翻訳が悪いんだってよく言われますけど、原書で読んだら余計分からないですから。
さて、リカルドゥー『小説のテクスト』は一種のミメーシス論であり、反復論であると見ました。これはぼくが「反復」を専門に勉強しているからそう映るだけかもしれませんが、はっきりと言えることは、反復に通じる側面が確かにこの本にはあるということです。ミメーシス論というのはどういうことかというと、『小説のテクスト』では表現・再現的な文学のあり方を批判し、それに対して自己再現と反再現という概念を提出しています。それぞれヌーヴォー・ロマンとテル・ケルの文学が相当するのですが、それらはあるべき文学が表現・再現的なものではなく、生産的なものであることを主張した結果として生まれた概念です。人間の心理を「表現」しようとしたロマン派の詩、世界を「再現」しようとしたユゴー的な小説は、どちらもミメーシス(模倣)の理論に縛られていたと考えられます。いわば、「アリストテレス的な呪縛」にかかっていたと言ってよいでしょう。ところが、現代の文学は模倣するのではなく、生産するのだ、というのが著者であるリカルドゥーの基本的な立場です。そこで、この本の大半を占めるのが、文学がいかに生産的であるかを立証しようとする記述になります。
その証明過程をここで詳しく述べることは不可能です。というのは、それが非常に複雑で難解であるからではなく、フランス語の知識を駆使したルーセル的な言語実験を想起させるからです。フランス語の知識がほとんどないぼくがそれを真似ようとするのはあまりに無謀だし、よしんばできたとしても、ちょっと専門的過ぎますよね。ただ、例えば「黄」という単語(もちろんフランス語)がそれに類似した綴りや音韻を持つ単語を次々に「発生」させてゆく小説を分析するリカルドゥーの手法だけを述べておきます。これは「類は友を呼ぶ」式の「類似」に注目した分析方法ですが、一方で「相違」に注目することも忘れていません。例えば「赤」という単語が出てきたら、それが「黒」を喚起しそれをテクストに呼び出す様を詳らかにしているのです。これが、ぼくがこの本を一種の反復論と呼ぶ由縁です。綴りにしろ音にしろ類似した単語が散種されていれば、一定のイメージの反復と言いうるということは恐らく多くの人が認めるだろうと思いますが(太陽、血、薔薇という単語の総体は「赤」を喚起する、など)、きれいに反発しあう語彙の群れもまた反復という概念を逆照射します。というのも、ドゥルーズの著書にあるように、反復というのは「差異」と表裏一体であるからです。
既にある世界や心理を再現するのではなく、ある語彙が新たな語彙を、つまりテクストを生産しようとするその動態的な小説のありようにリカルドゥーは着目し、主にヌーヴォー・ロマンを対象に分析してみせたわけです。その一方で、ポーの「黄金虫」も俎上にのぼせられているのですが、これが扱われている章は「読むことのアレゴリー」とでも言えそうな内容になっています。「黄金虫」は羊皮紙(パランプセスト)に書かれた暗号を読み解く話ですが、その行為が「読むこと」一般にまで敷衍されている気がしました。あるテクストの下には別のテクストが潜在している、という考えをリカルドゥーは「黄金虫」から導き出すのですが、それが羊皮紙(パランプセスト)と深く結び付いている点からして、どうしてもそれはジュネットの超テクスト性を取り上げた大著『パランプセスト』と響き合うし、したがってインターテクスチュアリティやソシュールのアナグラム、クリステヴァのジェノ・テクストを喚起します。加えてぼくはナボコフの『青白い炎』をも想起しました。いずれも表面に現れているテクスト(フェノ・テクスト)の下に蠢いている(無数の)テクスト(ジェノ・テクスト)を暴こうとする志向性があります。リカルドゥーは「読むということは、(略)テクストの作用のかくされた秩序というものに対して注意深くなること」であると述べています(p.72)。暗号を解読するという行為はまさに注意深い読書であり、『青白い炎』における註釈作業もまたそうであると言えるでしょう。後者は壮大で奇想天外な誤読の試みでもありますが、読むということがえてして誤読でありうるならば、やはりそれは、ナボコフ自身のプーシキンへの註釈作業のアレゴリーを超えた、読むことのアレゴリーであるでしょう。
ちなみに、そもそもの読書の目的だったインターテクスチュアリティについては、この本ではほとんど言及されていませんでした。確かにこの本だと書いてあるのですが、どういうことなんだろう…。ただ、興味深い例として、「象嵌法」というのがときどき言及されていました。これはいわゆる「相互内的なインターテクスチュアリティ」に相当しそうなので、これが収穫です。なおこの手法についてはデーレンバックが『鏡の物語』というやはりヌーヴォー・ロマンを扱った本で主題として取り上げています。
そういえばこの本は翻訳が気になりました。作家や作品の名前が通例のものとはほとんど違っているのです。ルーセルがルッセルに、ヴァレリーがヴァレリになっていたりします。またなぜかプロップがポップになっていました。ルーセルなどは翻訳の時点で(1974年)まだ定訳がなかったのかもしれませんが、そうでないものもちらほら…
だいぶ専門的な記事になりました。ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。