Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

『イジー・トルンカの世界 vol.1』

2009-01-15 23:44:02 | アニメーション
お正月から続いていた、アクセス数の増加がようやく頭打ちになり、去年と同じ水準に戻ったようです。記事をアップしなかったので、そのせいかもしれませんが。
一般の人のブログっていうのはどのくらいアクセス数があるものなのでしょうか…。gooブログは1000位までしか順位が出ないので、よく分からないんですよね。ただ、去年の夏に600~700件のアクセスがあった日、800番くらい(?)にランクインしたことがあるので、そんなに多くはないのだろうとは思いますが。100~200件くらいが普通なのかな?

さて、『イジー・トルンカの世界 vol.1』をDVDで鑑賞。収録作品は、「善良な兵士シュヴェイク」シリーズ3本と「手」。
「手」は何年も前に既に観たことがあったのですが、それ以外は今回が初めて。「シュヴェイク」は、チェコの国民的作家と言われるハシェクの代表作『兵士シュヴェイクの冒険』のアニメ化です。原作は大長編なので、その全てをアニメ化するのではなく、幾つかのエピソードを選んでいるようです(詳しく言うと、第一巻の最後から第二巻の最初にかけてのエピソードをアニメ化)。ちなみにぼくはこの本を持っていますが(全4冊あります)、例によって例の如く、未読。ちょっと長すぎますよね。でもいつか読んでみたいと思うのでありました、これもやはり例によって例の如く。

「シュヴェイク」は、シュヴェイクという兵士が戦争で活躍する話、ではなく、彼が所属部隊でいかにひょうひょうと生活しているかを物語る話です。上官の目を盗んでコニャックを買いに行ったり、汽車を停めてしまったり、警察に尋問されたりしますが、その度にシュヴェイクはいつものらりくらりと追及をかわし、気負うことなく困難をやり過ごしてしまいます。しかも彼は大変な雄弁家で、困ったときは色々なエピソードを開陳し、鉄砲水のようにそれを相手に浴びせ掛けます。こうまくし立てられてはいかに位の上の人物でもシュヴェイクを叱責する気は失せ、ただただ呆れるばかり。もうお分かりだと思いますが、この話はユーモア作品です。映像で観るよりも、むしろ小説で読んでみたい物語ですね。

「手」という作品は、トルンカのアニメーションの中では恐らく最も評価されているものですが、しかし最大の問題作でもあります。トルンカは人形アニメを制作しますが、「手」もやはりその例に漏れず人形が動き回ります。ただしその人形は「シュヴェイク」のような愛嬌のあるどことなくほのぼのとしたものではなく、少し不気味な、可愛らしさの排除された人形です。

ある部屋でその人形が植木鉢に水をやっているところから物語はスタートします。そこへ突然手袋を嵌めた人間の「手」が闖入し、彼(人形)に粘土で手を拵えるよう要求します。人形は拒否して「手」を追い返しますが、再び「手」は現れ、両者の攻防はその後もしばらく続きます。しかし遂に人形は「手」に操られ、大きな手を彫刻するはめになり、それを完成させます。意識を取り戻した人形はまたしても「手」から逃れようとしますが、最後には死んでしまいます。

いったいこの物語(これを物語と呼んでよいならば)は何なのか。芸術家というものは所詮、自分よりも巨大なものに操られているに過ぎない、その作品は、彼の自由意志によって創られたものではなく、別の意思が働いた結果なのだ、という作品創造の寓話なのでしょうか。あるいは権力によって創造行為は支配されているということを暴き立てる作品だ、とも言えそうです。その線で行くなら、手は権力の象徴であり、手を造形することは権力者を讃える作品を生み出すことに通じてきます。トルンカがこの作品を制作した背景について僕は全くの無知なのではっきりしたことは言えませんが、しかしそういう風にこのアニメーションを眺めることはできそうです。

ぼくは最初に「手」を観たときは全く意味が分からず、ある識者が本の中でこの作品についてコメントしているのを読んで、そのとき初めてこれが作品創造の寓話なのだ、という考え方を知りました。そして二回目を観た後ネットで調べている途中で、これが権力機構の寓話であるという考え方を知りました。だから上に書いたような視点は最初からぼくに固有のものではなくて、後から授かったものです。でも、何の予備知識もない一般人がこの作品を観て、いったいどれくらいの人がそのようなことを感じ取れるでしょうか。チェコの事情に詳しい人ならともかく、相当に勘のよい人でなければ気付かないだろうと思います。自分の鈍さを正当化したいわけではないのですが、正直言って、基本的に退屈な作品ですからね、これは。意味が分からん、の一言で終わってしまいそうな気がします。

深層の意味を理解しなければ楽しめない作品というのは「傑作」とは呼べないのではないかと思いますが、評価は高いんですよね。表面的なおもしろさもある作品をぼくは期待してしまいます。やっぱり頭が高等ではないからでしょうか…

村上春樹『羊をめぐる冒険』

2009-01-15 01:09:23 | 文学
上下巻ですが、一気に読了。まあ一冊あたりのページ数はそれほどではないし、一ページあたりの文字数もそれほどではないから、『罪と罰』を一日で一気に読了したというのとは違うわけです。

村上春樹の初期小説というのは、プロットがかなり大雑把ですね。本書の場合、主要なプロットはただ「ある羊を追いかける」、という一事に尽きています。特に前半は事件の進展どころかそもそも事件が起きていないように見えます。「僕」の人間関係の説明やその彼らとの何気ない会話の応酬によってのみ小説は進行し、かなり読んだ後にふと「そういえばこの小説はまだプロットがないな」と気付く有様でした。ある種の文体(村上春樹特有のカッコイイ文体)に小説は全面的に支えられていて、その点ではプロットを剥ぎ取り言語だけで勝負しようとした前衛小説とも重なる部分があるように思えます。もっとも、両者の小説言語のありようはまるで異なっているのですが。

途中からようやく話が見えてきて、ある羊を追うはめになった「僕」の冒険が小説そのものと読者を引っ張っていくことになります。後半になるとかなり奇態な人物が登場したり、目的の町の歴史が語られたりして小説の中味はバラエティに富むようになるのですが、基本は一つのプロットであり、まるで広々とした空間に一本の道がまっすぐ地平線まで伸びているようなものです。ぼくら読者はその道をただ進んでいけばいい。もちろん、脇には林や小川が見えますが、あまり深入りはしません。

                          ×××

この小説は『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』に続く、「僕」と「鼠」の物語であり、そしてその完結編です。

                          ×××

この小説は細部のリアリティに裏打ちされた現代小説ですが、その一方で非現実的な物語でもあって、言ってみれば、「非現実的なファクターをソフィスティケートされた形態に置き換えて現実の大地にはめこんでいく」(p.100)ような物語でもあります。いや、後半はかなり非現実的な方向へ小説は逸脱してゆくので、そう言えるのは中盤までかもしれません。

村上春樹はよく比喩を使いますが、それは少々変わっています。「例えばここにひとつの概念がある。そしてそこにはもちろんちょっとした例外がある。しかし時が経つにつれてその例外がしみ(傍点)みたいに広がり、そしてついにはひとつの別の概念になってしまう。そしてそこにはまたちょっとした例外が生まれる――ひとことで言ってしまえば、そんな感じの建物だった。」(p.122-123)これは「比喩」とすら言えるかどうか分からないのですが、非常に奇妙な説明です。こんな風に建物を形容する人はほとんどいないのではないかと思います。しかし村上春樹の文章というのはこんな感じで、ある対象を正確に描写することを心掛けているというよりは、それの印象、雰囲気みたいなものを現出させようとしているように見受けられます。細部にも忠実な、的確な描写もあるし、そういうものの方が多いとさえ言えるのかもしれないのですが、けれどもそれにしたって結局はその場やそのときの思考の雰囲気をよりよく表現するためのような気がします。

何かの真相、真実というものにはどんなに言葉を費やしても到達できるものではありません。それをどんなに描写しようとしても、具体的にも抽象的にも表現することはできないようです。だから、それのもつ雰囲気やそれの周辺を描写することは、見当外れのように見せながら、実は一番真実に近づく方法なのかもしれません。それは、ちょうど後ろ向きに歩きながら中心へ進んでゆくようなものです。脇を見る振りをして、しかし近づいているのです。

このような村上春樹の手法はあまりに文学的と言えるでしょう。芳醇な文学的香気が立ち上るようです。でもだからと言って難解な用語を振り回すわけでもなく、通常の話し言葉を使って表現しているところが、人気のある由縁なのかもしれません。文学的香気と言うよりは、文学的スモッグと言った方が適切かもしれません。それとも朝靄のかかった文学性?

ストーリーテリングで読ませるというよりは、文体で読ませるタイプの小説家ですね。ただ、エピローグで少し泣きそうになりました。なんでだかは分かりませんが。