お正月から続いていた、アクセス数の増加がようやく頭打ちになり、去年と同じ水準に戻ったようです。記事をアップしなかったので、そのせいかもしれませんが。
一般の人のブログっていうのはどのくらいアクセス数があるものなのでしょうか…。gooブログは1000位までしか順位が出ないので、よく分からないんですよね。ただ、去年の夏に600~700件のアクセスがあった日、800番くらい(?)にランクインしたことがあるので、そんなに多くはないのだろうとは思いますが。100~200件くらいが普通なのかな?
さて、『イジー・トルンカの世界 vol.1』をDVDで鑑賞。収録作品は、「善良な兵士シュヴェイク」シリーズ3本と「手」。
「手」は何年も前に既に観たことがあったのですが、それ以外は今回が初めて。「シュヴェイク」は、チェコの国民的作家と言われるハシェクの代表作『兵士シュヴェイクの冒険』のアニメ化です。原作は大長編なので、その全てをアニメ化するのではなく、幾つかのエピソードを選んでいるようです(詳しく言うと、第一巻の最後から第二巻の最初にかけてのエピソードをアニメ化)。ちなみにぼくはこの本を持っていますが(全4冊あります)、例によって例の如く、未読。ちょっと長すぎますよね。でもいつか読んでみたいと思うのでありました、これもやはり例によって例の如く。
「シュヴェイク」は、シュヴェイクという兵士が戦争で活躍する話、ではなく、彼が所属部隊でいかにひょうひょうと生活しているかを物語る話です。上官の目を盗んでコニャックを買いに行ったり、汽車を停めてしまったり、警察に尋問されたりしますが、その度にシュヴェイクはいつものらりくらりと追及をかわし、気負うことなく困難をやり過ごしてしまいます。しかも彼は大変な雄弁家で、困ったときは色々なエピソードを開陳し、鉄砲水のようにそれを相手に浴びせ掛けます。こうまくし立てられてはいかに位の上の人物でもシュヴェイクを叱責する気は失せ、ただただ呆れるばかり。もうお分かりだと思いますが、この話はユーモア作品です。映像で観るよりも、むしろ小説で読んでみたい物語ですね。
「手」という作品は、トルンカのアニメーションの中では恐らく最も評価されているものですが、しかし最大の問題作でもあります。トルンカは人形アニメを制作しますが、「手」もやはりその例に漏れず人形が動き回ります。ただしその人形は「シュヴェイク」のような愛嬌のあるどことなくほのぼのとしたものではなく、少し不気味な、可愛らしさの排除された人形です。
ある部屋でその人形が植木鉢に水をやっているところから物語はスタートします。そこへ突然手袋を嵌めた人間の「手」が闖入し、彼(人形)に粘土で手を拵えるよう要求します。人形は拒否して「手」を追い返しますが、再び「手」は現れ、両者の攻防はその後もしばらく続きます。しかし遂に人形は「手」に操られ、大きな手を彫刻するはめになり、それを完成させます。意識を取り戻した人形はまたしても「手」から逃れようとしますが、最後には死んでしまいます。
いったいこの物語(これを物語と呼んでよいならば)は何なのか。芸術家というものは所詮、自分よりも巨大なものに操られているに過ぎない、その作品は、彼の自由意志によって創られたものではなく、別の意思が働いた結果なのだ、という作品創造の寓話なのでしょうか。あるいは権力によって創造行為は支配されているということを暴き立てる作品だ、とも言えそうです。その線で行くなら、手は権力の象徴であり、手を造形することは権力者を讃える作品を生み出すことに通じてきます。トルンカがこの作品を制作した背景について僕は全くの無知なのではっきりしたことは言えませんが、しかしそういう風にこのアニメーションを眺めることはできそうです。
ぼくは最初に「手」を観たときは全く意味が分からず、ある識者が本の中でこの作品についてコメントしているのを読んで、そのとき初めてこれが作品創造の寓話なのだ、という考え方を知りました。そして二回目を観た後ネットで調べている途中で、これが権力機構の寓話であるという考え方を知りました。だから上に書いたような視点は最初からぼくに固有のものではなくて、後から授かったものです。でも、何の予備知識もない一般人がこの作品を観て、いったいどれくらいの人がそのようなことを感じ取れるでしょうか。チェコの事情に詳しい人ならともかく、相当に勘のよい人でなければ気付かないだろうと思います。自分の鈍さを正当化したいわけではないのですが、正直言って、基本的に退屈な作品ですからね、これは。意味が分からん、の一言で終わってしまいそうな気がします。
深層の意味を理解しなければ楽しめない作品というのは「傑作」とは呼べないのではないかと思いますが、評価は高いんですよね。表面的なおもしろさもある作品をぼくは期待してしまいます。やっぱり頭が高等ではないからでしょうか…
一般の人のブログっていうのはどのくらいアクセス数があるものなのでしょうか…。gooブログは1000位までしか順位が出ないので、よく分からないんですよね。ただ、去年の夏に600~700件のアクセスがあった日、800番くらい(?)にランクインしたことがあるので、そんなに多くはないのだろうとは思いますが。100~200件くらいが普通なのかな?
さて、『イジー・トルンカの世界 vol.1』をDVDで鑑賞。収録作品は、「善良な兵士シュヴェイク」シリーズ3本と「手」。
「手」は何年も前に既に観たことがあったのですが、それ以外は今回が初めて。「シュヴェイク」は、チェコの国民的作家と言われるハシェクの代表作『兵士シュヴェイクの冒険』のアニメ化です。原作は大長編なので、その全てをアニメ化するのではなく、幾つかのエピソードを選んでいるようです(詳しく言うと、第一巻の最後から第二巻の最初にかけてのエピソードをアニメ化)。ちなみにぼくはこの本を持っていますが(全4冊あります)、例によって例の如く、未読。ちょっと長すぎますよね。でもいつか読んでみたいと思うのでありました、これもやはり例によって例の如く。
「シュヴェイク」は、シュヴェイクという兵士が戦争で活躍する話、ではなく、彼が所属部隊でいかにひょうひょうと生活しているかを物語る話です。上官の目を盗んでコニャックを買いに行ったり、汽車を停めてしまったり、警察に尋問されたりしますが、その度にシュヴェイクはいつものらりくらりと追及をかわし、気負うことなく困難をやり過ごしてしまいます。しかも彼は大変な雄弁家で、困ったときは色々なエピソードを開陳し、鉄砲水のようにそれを相手に浴びせ掛けます。こうまくし立てられてはいかに位の上の人物でもシュヴェイクを叱責する気は失せ、ただただ呆れるばかり。もうお分かりだと思いますが、この話はユーモア作品です。映像で観るよりも、むしろ小説で読んでみたい物語ですね。
「手」という作品は、トルンカのアニメーションの中では恐らく最も評価されているものですが、しかし最大の問題作でもあります。トルンカは人形アニメを制作しますが、「手」もやはりその例に漏れず人形が動き回ります。ただしその人形は「シュヴェイク」のような愛嬌のあるどことなくほのぼのとしたものではなく、少し不気味な、可愛らしさの排除された人形です。
ある部屋でその人形が植木鉢に水をやっているところから物語はスタートします。そこへ突然手袋を嵌めた人間の「手」が闖入し、彼(人形)に粘土で手を拵えるよう要求します。人形は拒否して「手」を追い返しますが、再び「手」は現れ、両者の攻防はその後もしばらく続きます。しかし遂に人形は「手」に操られ、大きな手を彫刻するはめになり、それを完成させます。意識を取り戻した人形はまたしても「手」から逃れようとしますが、最後には死んでしまいます。
いったいこの物語(これを物語と呼んでよいならば)は何なのか。芸術家というものは所詮、自分よりも巨大なものに操られているに過ぎない、その作品は、彼の自由意志によって創られたものではなく、別の意思が働いた結果なのだ、という作品創造の寓話なのでしょうか。あるいは権力によって創造行為は支配されているということを暴き立てる作品だ、とも言えそうです。その線で行くなら、手は権力の象徴であり、手を造形することは権力者を讃える作品を生み出すことに通じてきます。トルンカがこの作品を制作した背景について僕は全くの無知なのではっきりしたことは言えませんが、しかしそういう風にこのアニメーションを眺めることはできそうです。
ぼくは最初に「手」を観たときは全く意味が分からず、ある識者が本の中でこの作品についてコメントしているのを読んで、そのとき初めてこれが作品創造の寓話なのだ、という考え方を知りました。そして二回目を観た後ネットで調べている途中で、これが権力機構の寓話であるという考え方を知りました。だから上に書いたような視点は最初からぼくに固有のものではなくて、後から授かったものです。でも、何の予備知識もない一般人がこの作品を観て、いったいどれくらいの人がそのようなことを感じ取れるでしょうか。チェコの事情に詳しい人ならともかく、相当に勘のよい人でなければ気付かないだろうと思います。自分の鈍さを正当化したいわけではないのですが、正直言って、基本的に退屈な作品ですからね、これは。意味が分からん、の一言で終わってしまいそうな気がします。
深層の意味を理解しなければ楽しめない作品というのは「傑作」とは呼べないのではないかと思いますが、評価は高いんですよね。表面的なおもしろさもある作品をぼくは期待してしまいます。やっぱり頭が高等ではないからでしょうか…