松本清張に続いてチェスタトンです。いかにも「探偵小説に目覚めた」的な流れですが、でも実はそう単純ではないわけで、チェスタトンの小説には松本清張を読む前から興味がありました。というのは、ボルヘスがチェスタトンを好んでいた、という伝記的事実を去年知り、そのうえ篠田一士によればチェスタトンの小説にはボルヘスを思わせるところが随所にあるらしいからです。ボルヘスが好み、またボルヘス的でもあるチェスタトンの小説とはいかなるものか、というわけで、是が非でも読みたいと思ったわけです。
チェスタトンはブラウン神父という人物を創出したことで知られ、その五冊からなる「ブラウン神父もの」はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズもの」に比肩せらるるとのことですが、日本における知名度では明らかにシャーロック・ホームズに劣りますね。他に有名なものとしては『ポンド氏の逆説』と『木曜の男』が挙げられます。後者は光文社の古典新訳文庫でたしか新訳が出たと思います。で、今日のテーマは『ブラウン神父の童心』です。これはブラウン神父ものの第一短編集で、神父が初登場した小説が収録されています。
前置きが長くなりましたが、肝心の読んだ感想はというと、トリックというより奇想に属する話が多いですね。江戸川乱歩がチェスタトンのトリック創案率は随一だ、みたいなことを言ったと解説に書かれていましたが、しかしトリックと呼ぶにはあまりに大雑把なものが目に付きました。実際にはちょっとありえないような仕掛けなんですよね。特に「見えない男」などは、いわゆる「盲点」を中心に据えた話なわけですが、無理があります。どこに無理があるのかを書くとネタバレになってしまうのでもどかしいのですが、要するに作者が強引に「見えない男」を見えなくさせているように思えます。この盲点であれば、見えているはずなんですよね。
「イズレイル・ガウの誉れ」はもはや探偵小説ではなく、「世にも奇妙な物語」と化していますし、「秘密の庭」は一番探偵小説らしいと言えばらしいのですが、犯人が意外すぎて、その動機から切実さがなくなってしまっています。総じてこの短編集は意外な結末を持った奇妙な話の集合であり、たぶんその点においてボルヘス的なのでしょう。逆説のような切れ味鋭い切り返しを結末に用意するところは確かにボルヘスの知性を思わせますし、トリックと言うよりは、滅茶苦茶に見える出来事を独特で奔放な論理に従って辻褄を合わせる奇想もまたボルヘスの想像力を思い出させます(辻褄合わせがボルヘス的だという意味ではありません)。
ただ、これが探偵小説の体裁を取っているところが引っかかってしまって、というのも、探偵小説というのはリアリズムが基調にないと成立しづらいジャンルだとすれば、チェスタトンの奇想とそのリアリズムとが反発し合っているような気がするからです。解説には、「氏(チェスタトン)の扱う素材を写実的な手法で描くなら、おそらく子供だましの支離滅裂な作品ができあがるに相違ない」とあって、それをチェスタトンの「抽象的表現がカバーしている」のだ、というのですが、探偵小説というものが実際の人間心理と細かな情況描写に基づいているのなら、『ブラウン神父の童心』にリアリズムを期待するのは仕方のないことであって、しかし実際には本書にリアリズムは感じられないのです。箱はあるのに(リアリズムの様式なのに)、中身がない(リアリズムが足りていない)といった物足りなさ。人間心理を克明に描写することをもリアリズムとここでは呼んでいるわけですが、まさにこの点がチェスタトンの小説に足りない部分であるようです。人がなぜ犯罪を犯したのか、動機はなんだ、というようなことが当然読者は気になるはずですが、それへの答えがおざなりになってしまっていて、「初めに奇想ありき」なのです。実際にその行動を起こしえた可能性、また犯行に至った心理などはいい加減にあしらわれているように思えます。もちろん説明がないわけではないのですが、明らかにそこには重点はおかれていません。探偵小説としては、成功とは言えないのではないでしょうか。
しかし、それは一種の「逆説」とも取れるわけで、あえて探偵小説の枠にはめ込むことで、奇妙な効果を狙ったと言えるのかもしれません。が、ぼくとしては、探偵小説というジャンルに捉われず、チェスタトンの奇想をとにかく楽しみたいですね。
ところでこの短編集には夕暮れの風景描写が異様に多くて、ほとんど全ての作品に黄昏時のシーンがありました。チェスタトンのこだわりでしょうか?
なお、探偵小説にしては会話よりも叙述の文章が圧倒的に多くて、またその描写もなかなかの本格派。すらすら読める体のものではありませんでした。目下『ポンド氏の逆説』を読書中ですが、この本でもそれは同じなので、これがチェスタトンのスタイルなのでしょうね。
チェスタトンはブラウン神父という人物を創出したことで知られ、その五冊からなる「ブラウン神父もの」はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズもの」に比肩せらるるとのことですが、日本における知名度では明らかにシャーロック・ホームズに劣りますね。他に有名なものとしては『ポンド氏の逆説』と『木曜の男』が挙げられます。後者は光文社の古典新訳文庫でたしか新訳が出たと思います。で、今日のテーマは『ブラウン神父の童心』です。これはブラウン神父ものの第一短編集で、神父が初登場した小説が収録されています。
前置きが長くなりましたが、肝心の読んだ感想はというと、トリックというより奇想に属する話が多いですね。江戸川乱歩がチェスタトンのトリック創案率は随一だ、みたいなことを言ったと解説に書かれていましたが、しかしトリックと呼ぶにはあまりに大雑把なものが目に付きました。実際にはちょっとありえないような仕掛けなんですよね。特に「見えない男」などは、いわゆる「盲点」を中心に据えた話なわけですが、無理があります。どこに無理があるのかを書くとネタバレになってしまうのでもどかしいのですが、要するに作者が強引に「見えない男」を見えなくさせているように思えます。この盲点であれば、見えているはずなんですよね。
「イズレイル・ガウの誉れ」はもはや探偵小説ではなく、「世にも奇妙な物語」と化していますし、「秘密の庭」は一番探偵小説らしいと言えばらしいのですが、犯人が意外すぎて、その動機から切実さがなくなってしまっています。総じてこの短編集は意外な結末を持った奇妙な話の集合であり、たぶんその点においてボルヘス的なのでしょう。逆説のような切れ味鋭い切り返しを結末に用意するところは確かにボルヘスの知性を思わせますし、トリックと言うよりは、滅茶苦茶に見える出来事を独特で奔放な論理に従って辻褄を合わせる奇想もまたボルヘスの想像力を思い出させます(辻褄合わせがボルヘス的だという意味ではありません)。
ただ、これが探偵小説の体裁を取っているところが引っかかってしまって、というのも、探偵小説というのはリアリズムが基調にないと成立しづらいジャンルだとすれば、チェスタトンの奇想とそのリアリズムとが反発し合っているような気がするからです。解説には、「氏(チェスタトン)の扱う素材を写実的な手法で描くなら、おそらく子供だましの支離滅裂な作品ができあがるに相違ない」とあって、それをチェスタトンの「抽象的表現がカバーしている」のだ、というのですが、探偵小説というものが実際の人間心理と細かな情況描写に基づいているのなら、『ブラウン神父の童心』にリアリズムを期待するのは仕方のないことであって、しかし実際には本書にリアリズムは感じられないのです。箱はあるのに(リアリズムの様式なのに)、中身がない(リアリズムが足りていない)といった物足りなさ。人間心理を克明に描写することをもリアリズムとここでは呼んでいるわけですが、まさにこの点がチェスタトンの小説に足りない部分であるようです。人がなぜ犯罪を犯したのか、動機はなんだ、というようなことが当然読者は気になるはずですが、それへの答えがおざなりになってしまっていて、「初めに奇想ありき」なのです。実際にその行動を起こしえた可能性、また犯行に至った心理などはいい加減にあしらわれているように思えます。もちろん説明がないわけではないのですが、明らかにそこには重点はおかれていません。探偵小説としては、成功とは言えないのではないでしょうか。
しかし、それは一種の「逆説」とも取れるわけで、あえて探偵小説の枠にはめ込むことで、奇妙な効果を狙ったと言えるのかもしれません。が、ぼくとしては、探偵小説というジャンルに捉われず、チェスタトンの奇想をとにかく楽しみたいですね。
ところでこの短編集には夕暮れの風景描写が異様に多くて、ほとんど全ての作品に黄昏時のシーンがありました。チェスタトンのこだわりでしょうか?
なお、探偵小説にしては会話よりも叙述の文章が圧倒的に多くて、またその描写もなかなかの本格派。すらすら読める体のものではありませんでした。目下『ポンド氏の逆説』を読書中ですが、この本でもそれは同じなので、これがチェスタトンのスタイルなのでしょうね。