シャルル=ルイ・フィリップ『小さな町で』(みすず書房、2003初版)を読みました。著者は19世紀後半から20世紀初頭にかけての人。若くしてこの世を去り、短篇集を残しました。それがこの『小さな町で』と『朝のコント』。ちなみにコントというと、日本ではドリフなどが思い出されるように笑いのジャンルとして定着していますが、フランス語本来は「短い話」程度の意味です。日本では何の注釈もなしにこの言葉が本来の意味で使用されることがままあるので、老婆心ながら解説(?)しておきました。
よい本だと思いました。解説には「暗い題材を扱いながらも、フィリップはどこかにとぼけたようなおかしみ、人生そのものの諧謔をしのびこませるのを忘れない」と書かれていますが、言いえて妙で、まさに悲劇性と喜劇性とが混在した独特の味わいを醸し出しています。トゥイニャーノフは自らのパロディ論で、悲劇は喜劇のパロディとなり、喜劇は悲劇のパロディとなりうる、と述べていますが、両者は普通そう思われているように真逆なものではなく、表裏一体のものなのでしょう。チェーホフ劇にも悲劇性と喜劇性とが同居していますが(どこに焦点をあわせるかで作品の様子が違ってくる)、フィリップは恐らくそれとは異なり、悲劇的な題材にもかかわらず、ひょうひょうとしたタッチでそれを描いているところに、作家としての冷静さや洗練があると言えるでしょう。
基本的にリアリズム小説で、ある町での出来事を連作短編風に描いています。ある家族における子どもの成長物語(実は衝撃的なオチが付くのですが)、教会に関わる出来事、子どもの危険な遊び、等々。同一の登場人物が、何度も登場します。あるときは主役として、あるときは脇役として。特筆すべきは子どもを扱った小説の多さですが、ぼくがこの本の中で惹かれた作品は、いずれもそうではないものばかりでした。
「老人の死」は、たぶんこれまでに何度も何度も同じような内容のものが書かれたことでしょうし、実際にデジャ・ヴ感のある小説だったことは確かです。しかしながら、どういうわけかこのとても短い作品はぼくの胸を打ちました。冒頭のわずか数行で語られる老いたる妻の死、葬式までの早い展開、それから老人自身の死。異様なほど感情を抑制した淡々とした描写は枯淡の域にまで達し、妻が入った棺をじっと見詰め、ついにそこから遠ざからねばならない老人の姿は鋭い悲しみに貫かれています。老人は翌日から食べることをやめ、椅子に腰掛けて足の間を見詰めることで日を送ります。三日目に彼は死にます。この小説では「愛」という文字は一度も使われませんが(何とも消極的なことに「あいつは生前から自分を怖がらせたことはない」と表現される)、感情の発露を極限にまで抑え、しかしそれだからこそ圧倒的な愛の物語を読み終えたという読後感を味わうことができます。
また、「囚人の帰宅」は小さな町ならではの囚人への差別と恐怖を描きます。主人公の苦悩については言及せず、周囲の反応を物語ることで、彼の哀しみを浮き彫りにしています。「無言」には祈祷師が出てきて女性にまじないをかけますが、どこか『ゲド戦記』シリーズを思わせるところがあり、他のものとは風味が異なります。
多くの作品が人生の思いがけない面を開示してくれて、ときに可笑しく、ときに悲しい物語となりますが、決して押し付けがましくない、読者を教え諭そうなどという意欲は微塵もない描写方法は優しく、好感が持てます。むかし日本ではかなり読まれたようですが、なるほど「微苦笑」という言葉を発明した日本人好みかもしれません。今ではそれほどでもないそうですが、一家に一冊置いてあってもよい本ですね。
よい本だと思いました。解説には「暗い題材を扱いながらも、フィリップはどこかにとぼけたようなおかしみ、人生そのものの諧謔をしのびこませるのを忘れない」と書かれていますが、言いえて妙で、まさに悲劇性と喜劇性とが混在した独特の味わいを醸し出しています。トゥイニャーノフは自らのパロディ論で、悲劇は喜劇のパロディとなり、喜劇は悲劇のパロディとなりうる、と述べていますが、両者は普通そう思われているように真逆なものではなく、表裏一体のものなのでしょう。チェーホフ劇にも悲劇性と喜劇性とが同居していますが(どこに焦点をあわせるかで作品の様子が違ってくる)、フィリップは恐らくそれとは異なり、悲劇的な題材にもかかわらず、ひょうひょうとしたタッチでそれを描いているところに、作家としての冷静さや洗練があると言えるでしょう。
基本的にリアリズム小説で、ある町での出来事を連作短編風に描いています。ある家族における子どもの成長物語(実は衝撃的なオチが付くのですが)、教会に関わる出来事、子どもの危険な遊び、等々。同一の登場人物が、何度も登場します。あるときは主役として、あるときは脇役として。特筆すべきは子どもを扱った小説の多さですが、ぼくがこの本の中で惹かれた作品は、いずれもそうではないものばかりでした。
「老人の死」は、たぶんこれまでに何度も何度も同じような内容のものが書かれたことでしょうし、実際にデジャ・ヴ感のある小説だったことは確かです。しかしながら、どういうわけかこのとても短い作品はぼくの胸を打ちました。冒頭のわずか数行で語られる老いたる妻の死、葬式までの早い展開、それから老人自身の死。異様なほど感情を抑制した淡々とした描写は枯淡の域にまで達し、妻が入った棺をじっと見詰め、ついにそこから遠ざからねばならない老人の姿は鋭い悲しみに貫かれています。老人は翌日から食べることをやめ、椅子に腰掛けて足の間を見詰めることで日を送ります。三日目に彼は死にます。この小説では「愛」という文字は一度も使われませんが(何とも消極的なことに「あいつは生前から自分を怖がらせたことはない」と表現される)、感情の発露を極限にまで抑え、しかしそれだからこそ圧倒的な愛の物語を読み終えたという読後感を味わうことができます。
また、「囚人の帰宅」は小さな町ならではの囚人への差別と恐怖を描きます。主人公の苦悩については言及せず、周囲の反応を物語ることで、彼の哀しみを浮き彫りにしています。「無言」には祈祷師が出てきて女性にまじないをかけますが、どこか『ゲド戦記』シリーズを思わせるところがあり、他のものとは風味が異なります。
多くの作品が人生の思いがけない面を開示してくれて、ときに可笑しく、ときに悲しい物語となりますが、決して押し付けがましくない、読者を教え諭そうなどという意欲は微塵もない描写方法は優しく、好感が持てます。むかし日本ではかなり読まれたようですが、なるほど「微苦笑」という言葉を発明した日本人好みかもしれません。今ではそれほどでもないそうですが、一家に一冊置いてあってもよい本ですね。