今年はエドガー・アラン・ポーの生誕200周年だそうですね。朝日新聞にも少し記事が出ていました。(記事は)かなり欲張った内容でしたね。
そういうわけで、ということはないのですが、新潮文庫から出ている、阿部保訳の『ポー詩集』を読みました。有名な「大鴉」「アナベル・リイ」も所収。
これを今日読んだのは本当にたまたまで、生誕200周年だなんて知りませんでした。ポーといえば、怪奇小説や探偵小説が有名ですが、彼の本領が発揮されたのは実は詩である、と考える人もたくさんいます。ぼくはこれまで小説しか読んでこなかったのですが、詩がすごいらしいというのを聞いて、前から読んでみたいと思っていました。それを達成できたのが、偶然今日だった、ということです。
ちなみに言うと、ぼくは詩というものをこれまでほとんど読んでこなくて、というのも詩は原文で読まなければ意味がないと思っていたからです。ロシアも例外ではなくて、もっともある程度は読んでいるとはいえ、しかし小説に比べてかなり少数の作品しか読んできませんでした。だったら原文で読めよ、と言われれば何も言い返せないのですが…
でも、そんなに頑固になる必要はないだろう、と最近は思い始めていて、それで試しに読んでみたのがポーだったわけです。薄っぺらい、すぐに読了できてしまいそうな本でしたからね。
前置きが長くなりました。本題は短いです。
ポーは27歳のときに、まだ13歳という少女ヴァージニアと結婚します。が、まもなく彼女はみまかり、ポーはこの上ない悲哀と絶望を味わいます。その感情が投影されたのが、本書に収録されている「大鴉」や「アナベル・リイ」です。他にも、「死美人」という言葉に象徴されるように、愛しい人の死、美女の死というものにポーは強く惹かれているようで、それは彼の代表作「アッシャー家の崩壊」でも明らかでしょう。けれども、本書の詩では、死者の復活という怪奇的な要素は見られず、ただ哀悼や憂悶の情を詠います。
ポーの詩は、恋人を詠う他の多くの詩とは違い、太陽からは隔離され、青白い表情や暗い夜が印象に残ります。海の底に沈む都などは、ポーの心象風景としても考えられそうです。そのような情景を描き出すには、阿部保の訳文も力を貸しているでしょう。古風でありながら簡明で、余分な贅肉が削ぎ落とされた名文です。
この中では特に気に入った詩というのはなかったのですが、原文で熟読すれば、また違った感想を得られるかもしれませんね。
そういうわけで、ということはないのですが、新潮文庫から出ている、阿部保訳の『ポー詩集』を読みました。有名な「大鴉」「アナベル・リイ」も所収。
これを今日読んだのは本当にたまたまで、生誕200周年だなんて知りませんでした。ポーといえば、怪奇小説や探偵小説が有名ですが、彼の本領が発揮されたのは実は詩である、と考える人もたくさんいます。ぼくはこれまで小説しか読んでこなかったのですが、詩がすごいらしいというのを聞いて、前から読んでみたいと思っていました。それを達成できたのが、偶然今日だった、ということです。
ちなみに言うと、ぼくは詩というものをこれまでほとんど読んでこなくて、というのも詩は原文で読まなければ意味がないと思っていたからです。ロシアも例外ではなくて、もっともある程度は読んでいるとはいえ、しかし小説に比べてかなり少数の作品しか読んできませんでした。だったら原文で読めよ、と言われれば何も言い返せないのですが…
でも、そんなに頑固になる必要はないだろう、と最近は思い始めていて、それで試しに読んでみたのがポーだったわけです。薄っぺらい、すぐに読了できてしまいそうな本でしたからね。
前置きが長くなりました。本題は短いです。
ポーは27歳のときに、まだ13歳という少女ヴァージニアと結婚します。が、まもなく彼女はみまかり、ポーはこの上ない悲哀と絶望を味わいます。その感情が投影されたのが、本書に収録されている「大鴉」や「アナベル・リイ」です。他にも、「死美人」という言葉に象徴されるように、愛しい人の死、美女の死というものにポーは強く惹かれているようで、それは彼の代表作「アッシャー家の崩壊」でも明らかでしょう。けれども、本書の詩では、死者の復活という怪奇的な要素は見られず、ただ哀悼や憂悶の情を詠います。
ポーの詩は、恋人を詠う他の多くの詩とは違い、太陽からは隔離され、青白い表情や暗い夜が印象に残ります。海の底に沈む都などは、ポーの心象風景としても考えられそうです。そのような情景を描き出すには、阿部保の訳文も力を貸しているでしょう。古風でありながら簡明で、余分な贅肉が削ぎ落とされた名文です。
この中では特に気に入った詩というのはなかったのですが、原文で熟読すれば、また違った感想を得られるかもしれませんね。