Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

私は何者かであっただろうか?

2009-07-16 23:43:24 | アニメーション
ニーナ・ショーリナ『夢』という人形アニメーションがあります。10分ほどの短編ですが、ぼくは好きで、最近この作品の中で聞けたフレーズを思い出しています。

私は何者かであっただろうか?

今まさに死のうしているかに見える男の独白が続くアニメーションで、人形アニメーションなのに非常に幻想的で、寒々とした作品です。人形なのだから具体的だと思うのが普通で、しかも日本では人形と言えばかわいらしいのが想起されがちなのですが、この『夢』はまるで違います。さて、男の独白「私は何者かであっただろうか?」は、胸にきりりと突き刺さりますね。男はすぐに、「何者かであったものなど、愚か者ばかりだ」という意味のことを付け加えるのですが、それは本当でしょうか。それともただの負け惜しみ?

ぼくはまだ何者でもなく、周囲の人たちがどんどんと「何者か」になってゆくのを見るにつけ、非常に悲しく寂しい気持ちになります。頭を抱えたくなるほどの絶望。ああ、何者かになりえた連中など、所詮馬鹿ばっかだよ!と言い切れたらどれほど楽か。

さて、彼女の別のアニメーション『ドア』(という題名だったっけ?)も、一風変わった作品です。あるアパートの立て付けが悪くて開かないドアを巡って住民たちが騒動を巻き起こすのですが、これがただの笑劇にはならず、魔術的な効果さえ出てくるのですから、たいしたものです。概して幻想的で特殊な雰囲気を持ったものを作るのが得意なようです。

アニメの殿堂とやら

2009-07-16 01:34:14 | アニメーション
ここ最近ブログへの訪問者数が急増していて、ちょっと怖い思いをしていたのですが(なぜ?)、再び元の状態に戻りつつあるので一安心(なぜ?)

さて、例の通称「アニメの殿堂」とやらのことで、今更ながら思うことを少し。
まず、これって民主党が政権をとったらただちに凍結する事業の一つらしくて、今のままではまず間違いなく実現しない事業だと思われます。自民党は、このアニメの殿堂の運営やら展示方法などについて広く国民から意見を求める、などとのたまってましたが、ちゃんちゃらおかしい。だって、すぐにおじゃんになってしまう計画かもしれないんだから。

正式名称は国立メディア芸術ナントカとかと言うそうですが、「メディア芸術」という名詞がどれほど一般人に浸透しているのかは怪しい。ぼくなどは毎年メディア芸術祭に遊びに行くので、大体のイメージくらいは持っていますが、多くの人はそうではないと思うんですよね。だから、国営の漫画喫茶などと野党から揶揄されるわけですね。これはひどい悪口で、まあ漫画を馬鹿にしているとしか思えないわけで、こんな暴言を吐く方も吐く方だと思いますが。

さて、なぜ「メディア」なのかということはぼくには実はよく分かりません。アニメ、漫画、ゲームなどを総称するのになぜメディアという名称が付されたのか。絵画や音楽、文学といった旧来の芸術に対して、メディア芸術よりは「新芸術」とでもした方がむしろ分かりやすいのでは。しかしながら、「旧」とか「新」とかいうのは暫定的なもので、いま新しくてもじきに古くなってしまうのだから、あまりよい名前ではないことは分かりきっています。それに感情的に言っても、芸術を「旧」とか「新」とかで括ることに反発があるのは容易に想像できます。

それよりもむしろ、メディア芸術は「芸術」という名称の方に問題があるのかもしれません。漫画やアニメの制作者の中には、自分(たち)は芸術品を作っているわけではない、と考えている人たちは大勢いるでしょう。そうではなく、もっと猥雑な民衆性に奉仕しているんだ!と。そもそも少し前までこれらの作品は一般的に言って下位文化に属すると思われていて、その認識が改まったのはつい最近のことでしょう。宮崎駿の国際的な評価などがその情勢を後押ししたんですね。サブカルチャーは日本を代表する文化ということになって、政治的・商業的にそれらは利用され、「芸術」の枠に嵌められてしまった。だから当然そういう動きに反発する人たちが現れるわけです。

どこかの政党のようにのっけからそういう文化を馬鹿にする古い体質の人から、今言ったような事情でサブカルの高尚化に反発する物知りまで反対者はたくさんいるわけで、そういう中でアニメの殿堂を作るのは難しいでしょう。安ければ大して問題になりませんが、100億を超えると言えば、アホらしいと思う向きも多いでしょう。

アニメの殿堂がどのようなものになるのか、という具体案はほとんど決まっていないようですので、ぼくもそれについて云々できないし、またどうせ凍結されそうだから、無駄ではないか、という諦めが先にきて、これについて何事かを語ろうとする意思を奪ってしまうのですが、基本的なことを一つだけ。芸術という範疇でだけアニメーションや漫画を捉えるのは間違いではないか、ということ。

文学や映画のようになればいいと思っているわけです。あるものは芸術的だし、あるものは大衆的な。芸術文学館なるものが仮に建造されるとしたら、ぼくはそこにあまり足を運びたくないです。ぼくなんかは純文学ばかりを読んでいる人間ですが、それでも文学にある娯楽性というものは重視しているし、あまりにも文芸的な作品というものは数少ないことを知っています。ほとんどは程度の差こそあれ大衆文化に結びついているし(ドストエフスキーだってプロットの枢要は探偵小説だ)、もしも高踏的で文芸的で芸術的で大衆への媚びがない文学作品ばかりが集められていたら、ちょっと嫌です。大衆的なものを蒐集するのであれば、どこまで手広くやるのかということが問題になります。ピンきりですからね。

だから、アニメーションを芸術という単一の単位で括って、一箇所で展示するという発想はほとんどありえないことのように思えるわけです。アニメーションと言ったって、文学のようにピンきりですからね。線引きを誰がするのか。どのようにするのか。

アニメーションや漫画を展示する施設があること自体はいいと思います。でも、やるのなら、戦前・戦中アニメーション館とか、人形アニメーション館とか、あるいはもっと漠然とした括りでもいいけれど、テーマ毎のイベントをしょっちゅう開催するとか、「芸術」にこだわらない方針を目指してもらいたいです。文学記念館は全国に数多くありますが、中央集権的な現在の方針より、もっと複数的で小規模な方向に話をもっていってもらいたいですね。図書館にDVDや漫画(またそれに関わる雑誌、たとえば『アニメージュ』など)を置いて無料で(または安価な値段で)貸し出せるようにするとか。

ところで、アニメーションや漫画はそれを観る、読むことで享受するわけですが、アニメの殿堂の構想では、その場ですぐにそういうことができるようになっていることでしょう。貴重な作品を蒐集して、館内に研究員を置けば、こういったものを勉強する人には喜ばれるでしょうね。しかしそれよりも、アニメーターの生活保障に金を使えよ、という声は根強いわけですが。

ですが正直なところ、ぼくも考えが揺れています。結局、まだ何も決まっていない、そして計画そのものが凍結しそうなアニメの殿堂への賛否は、自分の中でもはっきりしないのです。