ぼくはいま修士論文に取り掛かっているのですが、ぼくのやっていることっていうのはとても幅広いのです。もう本当に範囲が広くて、広く浅く、ということにならざるをえません。でもそうなったのはもちろん故意でして、そのことで悩んでもそれは結局自分が原因なのです。
しかし、本当のことを言うと、ぼくはもっと一人の作家のことや、一つのテクストについて詳しく調べ、それを分析したいと思っているのです。それをしないのは、まずぼくが飽きっぽいから。一つだけのことに専心するなんて、とてもじゃないけどできそうにないのです。例えばチェーホフをけっこう読んでいるのでチェーホフについて論文を書こうとしても、やっているうちに飽きてしまうんじゃないかと思うわけです。寝ても覚めても、一年中(いやもっとか)チェーホフではね。
それと、実はこちらの方がより本質的な理由かもしれませんが、ぼくは一つのことだけで論文を書ける自信がないのです。だいたい8万字は書かなくてはならないのですが、チェーホフのことだけで、場合によったらその一つの作品だけで、8万字も書けるのか。かりにチェーホフではなく日本であまり研究されていない作家であったら(ハルムスとか)、欧米の文献が基盤となるし、そうなったらぼくにはそれを読みこなして論を発展させてゆける自信がないのです。
だからぼくは、日本語でも読める文献のあるテーマを設定し、そのテーマについて調べ、関係する文学作品を論じる、という手順を踏むことになるのです。もちろんこれはぼくの性向に由来するものではありますが、いま言ったような自信のなさも大きく影響しています。
だから希望としては、まだ日本では研究されていない作家や作品を、独自の手法(テーマ設定)で切り込むことですね。ぼくは参考文献をけっこう駆使するタイプなので、それには外国語でたくさんの本を読まなくていけないので大変そうですが、そんなことができたらいいなあ。今回の論文では、一部でそれに近いことをしようと画策しています(今日思いつきました)。翻訳のない某ロシア文学をミメーシスの観点から論じられるかな、と。メルツァーという人がいるのですが、この人が卓抜な論文を書いていて、それに触発されたのでした。
暇を見つけてそのロシア文学作品を読み直しておこうっと。
しかし、本当のことを言うと、ぼくはもっと一人の作家のことや、一つのテクストについて詳しく調べ、それを分析したいと思っているのです。それをしないのは、まずぼくが飽きっぽいから。一つだけのことに専心するなんて、とてもじゃないけどできそうにないのです。例えばチェーホフをけっこう読んでいるのでチェーホフについて論文を書こうとしても、やっているうちに飽きてしまうんじゃないかと思うわけです。寝ても覚めても、一年中(いやもっとか)チェーホフではね。
それと、実はこちらの方がより本質的な理由かもしれませんが、ぼくは一つのことだけで論文を書ける自信がないのです。だいたい8万字は書かなくてはならないのですが、チェーホフのことだけで、場合によったらその一つの作品だけで、8万字も書けるのか。かりにチェーホフではなく日本であまり研究されていない作家であったら(ハルムスとか)、欧米の文献が基盤となるし、そうなったらぼくにはそれを読みこなして論を発展させてゆける自信がないのです。
だからぼくは、日本語でも読める文献のあるテーマを設定し、そのテーマについて調べ、関係する文学作品を論じる、という手順を踏むことになるのです。もちろんこれはぼくの性向に由来するものではありますが、いま言ったような自信のなさも大きく影響しています。
だから希望としては、まだ日本では研究されていない作家や作品を、独自の手法(テーマ設定)で切り込むことですね。ぼくは参考文献をけっこう駆使するタイプなので、それには外国語でたくさんの本を読まなくていけないので大変そうですが、そんなことができたらいいなあ。今回の論文では、一部でそれに近いことをしようと画策しています(今日思いつきました)。翻訳のない某ロシア文学をミメーシスの観点から論じられるかな、と。メルツァーという人がいるのですが、この人が卓抜な論文を書いていて、それに触発されたのでした。
暇を見つけてそのロシア文学作品を読み直しておこうっと。