早速見てきました。
昆虫たちが、人間の侵入と開発によって生活の場を脅かされて、新天地を求める話。
今見ると、そこそこおもしろい作品です。ただぼくは思うのですが、この作品を自分から進んで見ようと思う人は、たぶん作品のおもしろさというものを第一に求めているわけではないですよね。やっぱり有名な作品だし、フライシャーのだし、見る機会も最近はないから一度は見ておきたい、といった理由で見るんだろうと思います。だから、アニメーション表現のおもしろさに注目することはあっても、ストーリーのわくわく度っていうのはそんなに期待していないのではないか、と。で、実際のところ、そこそこおもしろい作品ではありますが、ここだっていうような盛り上がりはないし、後に述べるように最後のシーンにも違和感が残ります。
アニメーション表現の魅力。それは、何人かの人が言っているように、明らかにモブシーン(群衆シーン)のものすごさにあります。昆虫たちが人間に追われて(というか、工事に追われて)逃げ惑うシーンの異様なほどの動きっぷりには、目を見張るものがあります。あと、感電して踊るダンスなども楽しい。
このアニメーション映画では、人間の動きはリアルに描かれ、昆虫の動きは誇張して描かれます。人間の動作は、実写の動作をそのまま写して作画されているので(ロトスコープ)、非常にリアルなのですが、昆虫はアニメーターが自由に動かしているので、大袈裟な身振りで駆け回ります。ぼくは基本的に、ロトスコープとかライブアクションとかモーションキャプチャーとかは、アニメーション表現の一部であって、それをベースに置いてはいけないと考えていますが、庵野秀明も言うように、この映画でのロトスコープの使用法は適切だと思います。人間の世界と昆虫の世界とをうまく描き分けることに成功しているから。
この映画にはしかし色々と甘いところがあって、これも何人かの人たちが指摘していることですが、金の力が全て、という話になってしまっているのですよ。結局、虫たちが助かるのも、金のある人間についていったからであり、金の積みあがる様子とビルが建設される様子とが重ねあわされているのは、いかにも下品で、眉をひそめざるを得ない。また、たしか高畑勲が言っていたと思うのですが、最後の庭園が人間たちにとって住みよい場所であって、自然の場所ではない、というのは非常に人間中心的な発想で、虫が主人公なのに、どこからこの発想が出てきたのかよく分からないのです。最後の展開自体がご都合主義的すぎるし(なぜか庵野さんはご都合主義はないと書いていますが)、金、金、金、の展開に持ち込むのはどういうものなんでしょうね。
と思っていたら、この映画はそもそも位階構造(上下関係のヒエラルキー)が基礎としてあって、「金」という問題は既に初めから設えられていて、実際、随所に金のことが話題に上る、ということが山村浩二の評論を読むとよく分かりました。とはいえ、虫が主人公なのにどうして人間の視点からしか物語が構築できないのか(画面は虫の視点なのに)、擬人化も行き過ぎじゃないのか、といったことがわだかまりになって残ってしまい、世界の多様性というものが発揮されていないように思うのです。
人間には人間の見える世界があり、虫には虫の見える世界がある。ところが、虫の世界を人間の戯画のように描いてしまったら、世界の多様性というものが失われてしまう気がします。もちろん、諷刺作品であればそもそもの目的が違うからいいのですが、「バッタ君」の場合は、金の恩恵にあずかる話ですし、ちょっとおかしい。「くもとちゅうりっぷ」とかに比べると、やはり完成度は劣ります。ナザーロフの「虫の生活」(という題名でしたっけ?)にも及ばないなあ。だから、ストーリーとか作品の構築のされ方とか、そういう点にはすごく問題があるように思います。
ただし、モブシーンはいい。わーっとたくさんのものが動き回る、というのはそれだけで魅力があります。宮崎駿が褒めるのも分かります。あと、人間と虫の描き分けもいい。ロトスコープという技術を活かしています。でもそれが世界観と結びついていないんですよねえ。それが何かちぐはぐな印象を与えてしまう。
ちなみにぼくの一番好きなシーンは、主人公と恋人が、石畳の隙間を歩いてゆくシーンです。迷路みたいで、楽しそうでした!
昆虫たちが、人間の侵入と開発によって生活の場を脅かされて、新天地を求める話。
今見ると、そこそこおもしろい作品です。ただぼくは思うのですが、この作品を自分から進んで見ようと思う人は、たぶん作品のおもしろさというものを第一に求めているわけではないですよね。やっぱり有名な作品だし、フライシャーのだし、見る機会も最近はないから一度は見ておきたい、といった理由で見るんだろうと思います。だから、アニメーション表現のおもしろさに注目することはあっても、ストーリーのわくわく度っていうのはそんなに期待していないのではないか、と。で、実際のところ、そこそこおもしろい作品ではありますが、ここだっていうような盛り上がりはないし、後に述べるように最後のシーンにも違和感が残ります。
アニメーション表現の魅力。それは、何人かの人が言っているように、明らかにモブシーン(群衆シーン)のものすごさにあります。昆虫たちが人間に追われて(というか、工事に追われて)逃げ惑うシーンの異様なほどの動きっぷりには、目を見張るものがあります。あと、感電して踊るダンスなども楽しい。
このアニメーション映画では、人間の動きはリアルに描かれ、昆虫の動きは誇張して描かれます。人間の動作は、実写の動作をそのまま写して作画されているので(ロトスコープ)、非常にリアルなのですが、昆虫はアニメーターが自由に動かしているので、大袈裟な身振りで駆け回ります。ぼくは基本的に、ロトスコープとかライブアクションとかモーションキャプチャーとかは、アニメーション表現の一部であって、それをベースに置いてはいけないと考えていますが、庵野秀明も言うように、この映画でのロトスコープの使用法は適切だと思います。人間の世界と昆虫の世界とをうまく描き分けることに成功しているから。
この映画にはしかし色々と甘いところがあって、これも何人かの人たちが指摘していることですが、金の力が全て、という話になってしまっているのですよ。結局、虫たちが助かるのも、金のある人間についていったからであり、金の積みあがる様子とビルが建設される様子とが重ねあわされているのは、いかにも下品で、眉をひそめざるを得ない。また、たしか高畑勲が言っていたと思うのですが、最後の庭園が人間たちにとって住みよい場所であって、自然の場所ではない、というのは非常に人間中心的な発想で、虫が主人公なのに、どこからこの発想が出てきたのかよく分からないのです。最後の展開自体がご都合主義的すぎるし(なぜか庵野さんはご都合主義はないと書いていますが)、金、金、金、の展開に持ち込むのはどういうものなんでしょうね。
と思っていたら、この映画はそもそも位階構造(上下関係のヒエラルキー)が基礎としてあって、「金」という問題は既に初めから設えられていて、実際、随所に金のことが話題に上る、ということが山村浩二の評論を読むとよく分かりました。とはいえ、虫が主人公なのにどうして人間の視点からしか物語が構築できないのか(画面は虫の視点なのに)、擬人化も行き過ぎじゃないのか、といったことがわだかまりになって残ってしまい、世界の多様性というものが発揮されていないように思うのです。
人間には人間の見える世界があり、虫には虫の見える世界がある。ところが、虫の世界を人間の戯画のように描いてしまったら、世界の多様性というものが失われてしまう気がします。もちろん、諷刺作品であればそもそもの目的が違うからいいのですが、「バッタ君」の場合は、金の恩恵にあずかる話ですし、ちょっとおかしい。「くもとちゅうりっぷ」とかに比べると、やはり完成度は劣ります。ナザーロフの「虫の生活」(という題名でしたっけ?)にも及ばないなあ。だから、ストーリーとか作品の構築のされ方とか、そういう点にはすごく問題があるように思います。
ただし、モブシーンはいい。わーっとたくさんのものが動き回る、というのはそれだけで魅力があります。宮崎駿が褒めるのも分かります。あと、人間と虫の描き分けもいい。ロトスコープという技術を活かしています。でもそれが世界観と結びついていないんですよねえ。それが何かちぐはぐな印象を与えてしまう。
ちなみにぼくの一番好きなシーンは、主人公と恋人が、石畳の隙間を歩いてゆくシーンです。迷路みたいで、楽しそうでした!