レーモン・クノー『あなたまかせのお話』を読了。
それにしても最近の読書にはまるで脈絡がない・・・
この本にはクノーのほぼ全ての短編と、クノーと文芸ジャーナリストとの対談が収められています。ページ数的には2:1。ただし、対談の方が活字が小さくびっしり詰まっているので、分量的には同等か、ひょっとすると対談の方が比重が大きいかも。逆に言えば、短編の数はそれほど少ない。クノーってあまり短編は書かなかったんですね。なんだかなあ、というものから、おもしろい、というやつまで様々でしたが、とりあえず幾つかの作品について。
「ささやかな名声」は、異端的思想の学者(文学的狂人と言うらしい)の名声への執着の物語。取り立てて言うほどの作品ではないかもしれませんが、本の順番的に、ようやくはっきりと筋のある小説に出会えたと思ってかなりおもしろく読むことができました。ユーモアもあって、いい。話の途中で、どうやらこの人物は既に死んでいるようだぞ、と察知することが可能になる仕掛けも、興味深いですね。だから最後の種明かし(?)は不要という意見もあるでしょう。すなわち最後の一文は余計ではないか、ということですが、こういう問題は難しいですね。個人的にはなくてもよかったですね。
「パニック」と「何某という名の若きフランス人 Ⅰ、Ⅱ」は非常にハルムス的な短編。時代も1930年代に書かれたもの。「パニック」は長期滞在するための部屋を探す男が、結局すぐに出て行ってしまう、というだけの一見他愛もない話。どうやらこの男は何かを感じ取っているらしいのですが、それが何なのかは明示されません。「何某」においては、登場人物の動機づけが欠如しています。筋もはっきりとせず、つかみどころがない。物語の結末がほとんど放棄されており、葛藤とその後の解決というものも存在しません。心理的動機づけの消去、原因・結果の破綻、一貫した筋の崩壊、といった特徴がこの短編の主要なそれとなっています。それは20世紀前半の小説には恐らくしばしば見られるものであり、1920年代から30年代のヨーロッパ文学を横断的に研究することができれば、より多くの例が見つかるでしょう。
「森のはずれで」に登場する喋る犬、といったキャラクターや、そういう超自然的な事象が少しの不思議もなく存在している、といった状態がたぶんこの小説の大きな魅力なんだろうと思います(解説にもそんなことが書かれています)。日常への非日常の介入、そしてそれへの反応、といった事柄がクノーの文学のテーマだったとすれば、「森のはずれで」はまさしくそれを体現した物語であると言えます。ただ、このような手法は当然妖精物語と類縁性があり、もっと言えば幻想文学と関わりがあります。そのような範疇で捉えるならば、クノーの文学はありきたりのものになってしまう気がします。日常と非日常、という区分は、極めて有効ではありますが、しかしながら些か物事を図式化しすぎるきらいもあります。このことは、「日常/非日常」の現象レベルにおいても言語レベルにおいても同様でしょう。現象レベルというのは、「森のはずれで」における喋る犬、といった出来事やキャラクターの言動、つまりは言葉で書かれた現象そのもののレベルのことで、言語レベルというのは、その言葉のレベルです。日常的な言葉と非日常的(通常用いられない言葉・語法)な言葉があるとされます。
しかし、非日常的な言葉を用いて現実感覚を刷新する、という文学理論のあり方に、ぼくはどうしても賛同できかねる、ということが最近になって分かりました。その概念自体は興味深いのですが、現実認識を刷新するためには、日常的な言語を用いても可能ではないか、と思うからです。きのうのダールの短編で、「運がいい」という言葉がありましたが、これは非常に俗っぽい言い方です。ところが、このような手垢にまみれた言葉が、ダールの小説では思いがけない光を放散しているのです。一つの言葉が輝くために、ストーリーが準備され、その言葉の置かれる場所が勘案されます。あくまでも日常と非日常という二分法にこだわるならば、「運がいい」という日常的な言葉は、日常的な使用法でありながらも、しかし非日常的な認識を読者に植え付けてしまいます。そしてそちらの方が、多くの読者の共感を得られるだろうと思うのです。というのは、非日常的な言葉や語法で書かれた小説を読むのは、大抵ずいぶん骨の折れる作業ですからね。
現象レベルで言っても、恐らく日常的な出来事が非日常的な出来事に感覚されうることは大いにあるでしょう。「パニック」などはその好個の例かもしれません。そちらの方が当然より密やかで、そして巧みな小説であることでしょう。「日常」と「非日常」という区分があって、小説がそのどちらかに分類されるというよりは、両者は容易に交代しうるものであって、その区別は便宜的に使用されるにすぎません。確かに、両者が明確に分かたれている場合、あるいははっきりと分かるように共存している場合があります。その一方で、日常の仮面を被った非日常、という場合があります。後者の場合は、ひょっとするとトドロフの「ためらい」の思考に接近しているのではないか、と感じています。「森のはずれで」は前者の場合ですね。だからこそありきたりの小説に見えるのでしょう。
ただ、この小説には他にも興味深いモチーフがたくさんあるため、単なる「よくある小説」には堕していません。
クノーの対談についても書くはずが、もう長くなりすぎましたね・・・
それにしても最近の読書にはまるで脈絡がない・・・
この本にはクノーのほぼ全ての短編と、クノーと文芸ジャーナリストとの対談が収められています。ページ数的には2:1。ただし、対談の方が活字が小さくびっしり詰まっているので、分量的には同等か、ひょっとすると対談の方が比重が大きいかも。逆に言えば、短編の数はそれほど少ない。クノーってあまり短編は書かなかったんですね。なんだかなあ、というものから、おもしろい、というやつまで様々でしたが、とりあえず幾つかの作品について。
「ささやかな名声」は、異端的思想の学者(文学的狂人と言うらしい)の名声への執着の物語。取り立てて言うほどの作品ではないかもしれませんが、本の順番的に、ようやくはっきりと筋のある小説に出会えたと思ってかなりおもしろく読むことができました。ユーモアもあって、いい。話の途中で、どうやらこの人物は既に死んでいるようだぞ、と察知することが可能になる仕掛けも、興味深いですね。だから最後の種明かし(?)は不要という意見もあるでしょう。すなわち最後の一文は余計ではないか、ということですが、こういう問題は難しいですね。個人的にはなくてもよかったですね。
「パニック」と「何某という名の若きフランス人 Ⅰ、Ⅱ」は非常にハルムス的な短編。時代も1930年代に書かれたもの。「パニック」は長期滞在するための部屋を探す男が、結局すぐに出て行ってしまう、というだけの一見他愛もない話。どうやらこの男は何かを感じ取っているらしいのですが、それが何なのかは明示されません。「何某」においては、登場人物の動機づけが欠如しています。筋もはっきりとせず、つかみどころがない。物語の結末がほとんど放棄されており、葛藤とその後の解決というものも存在しません。心理的動機づけの消去、原因・結果の破綻、一貫した筋の崩壊、といった特徴がこの短編の主要なそれとなっています。それは20世紀前半の小説には恐らくしばしば見られるものであり、1920年代から30年代のヨーロッパ文学を横断的に研究することができれば、より多くの例が見つかるでしょう。
「森のはずれで」に登場する喋る犬、といったキャラクターや、そういう超自然的な事象が少しの不思議もなく存在している、といった状態がたぶんこの小説の大きな魅力なんだろうと思います(解説にもそんなことが書かれています)。日常への非日常の介入、そしてそれへの反応、といった事柄がクノーの文学のテーマだったとすれば、「森のはずれで」はまさしくそれを体現した物語であると言えます。ただ、このような手法は当然妖精物語と類縁性があり、もっと言えば幻想文学と関わりがあります。そのような範疇で捉えるならば、クノーの文学はありきたりのものになってしまう気がします。日常と非日常、という区分は、極めて有効ではありますが、しかしながら些か物事を図式化しすぎるきらいもあります。このことは、「日常/非日常」の現象レベルにおいても言語レベルにおいても同様でしょう。現象レベルというのは、「森のはずれで」における喋る犬、といった出来事やキャラクターの言動、つまりは言葉で書かれた現象そのもののレベルのことで、言語レベルというのは、その言葉のレベルです。日常的な言葉と非日常的(通常用いられない言葉・語法)な言葉があるとされます。
しかし、非日常的な言葉を用いて現実感覚を刷新する、という文学理論のあり方に、ぼくはどうしても賛同できかねる、ということが最近になって分かりました。その概念自体は興味深いのですが、現実認識を刷新するためには、日常的な言語を用いても可能ではないか、と思うからです。きのうのダールの短編で、「運がいい」という言葉がありましたが、これは非常に俗っぽい言い方です。ところが、このような手垢にまみれた言葉が、ダールの小説では思いがけない光を放散しているのです。一つの言葉が輝くために、ストーリーが準備され、その言葉の置かれる場所が勘案されます。あくまでも日常と非日常という二分法にこだわるならば、「運がいい」という日常的な言葉は、日常的な使用法でありながらも、しかし非日常的な認識を読者に植え付けてしまいます。そしてそちらの方が、多くの読者の共感を得られるだろうと思うのです。というのは、非日常的な言葉や語法で書かれた小説を読むのは、大抵ずいぶん骨の折れる作業ですからね。
現象レベルで言っても、恐らく日常的な出来事が非日常的な出来事に感覚されうることは大いにあるでしょう。「パニック」などはその好個の例かもしれません。そちらの方が当然より密やかで、そして巧みな小説であることでしょう。「日常」と「非日常」という区分があって、小説がそのどちらかに分類されるというよりは、両者は容易に交代しうるものであって、その区別は便宜的に使用されるにすぎません。確かに、両者が明確に分かたれている場合、あるいははっきりと分かるように共存している場合があります。その一方で、日常の仮面を被った非日常、という場合があります。後者の場合は、ひょっとするとトドロフの「ためらい」の思考に接近しているのではないか、と感じています。「森のはずれで」は前者の場合ですね。だからこそありきたりの小説に見えるのでしょう。
ただ、この小説には他にも興味深いモチーフがたくさんあるため、単なる「よくある小説」には堕していません。
クノーの対談についても書くはずが、もう長くなりすぎましたね・・・