
希望のビタミンを毎日摂取しなさい
ただ、何回かだめになったと、つらく思ったらプロになることはできない。人生は元々挫折の連続だ。幼い頃、乳離れをして歩き始めた時から死ぬ時まで、数多く転んではおきるのが人生だ。希望と言うビタミンを毎日摂取しなさい。希望のビタミンは私達を幸福にする。机の上にビタミン剤がたくさんあるのか。希望の妙薬を準備して、一番初めに飲まなければならない。一つ、慰めたい言葉は、今つらいならば良くやっているということだ。一生懸命努力したけれどダメだということは、すべの成就者が歩む過程に、自分もいるのだという意味だ。努力が足りなくてつらいのではなく、最善を尽くしているからつらいのだということだ。
つらくなければ人生ではない。生きるのはつらいものだ。だが、つらい理由が希望を追及しようとして生じたことならば良くやっているということだ。
勉強があまりできなくて両親も先生もあきらめた少年がいた。友達は「バカ」と言って一緒に遊んでもやらなかった。高校をやっと卒業して、チューリッヒ工大の入学試験にも落ちた。しかし、浪人してチューリッヒ工大に入った後、天才性を発揮した。彼が正にアインシュタイン博士だ。アインシュタインは自らあきらめることは無かった。周囲の人たちの低評価に落ち込まず、強く自分の道を行った。誰も自分をわかってくれない時、大きな自分で行動しなさい。その時を、自尊心の高める視点で捕えると、ゆれることは無い。周囲の反応のせいで嫌気がさして放棄したらだめだ。自分の人生は価値のある美しいものであることに挑戦しなければならない。挑戦しているという証拠は、つらいと思わされる時だ。挑戦しないで現状に甘んじているのにつらいだろうか。挑戦しない若者は惨めだ。創業しろとか、通っている職場を今すぐやめろとかという話ではない。私の言う挑戦とは、今やっている事で、夢を成し遂げるために嫌気を出さず持続して耐えていきなさいということだ。嫌気を出してあきらめると惨めになる。人生が惨めにならないためには、絶対に嫌気をださずあきらめるな。
現在の姿が満足できなくても落ち込む必要はない。希望のビタミンで免疫力を高めなさい。希望を持って逆境に勝った後に、希望の光を放つ人にならなければならない。他の人に希望を与える人と希望を奪う人がいる。最も良いことと、最も悪いことだと言う事ができる。希望で現在の苦難に勝った後に、人生の後輩たちに希望の証拠になりなさい。明日に対する希望で一杯に満たしていれば、嫌気を出す隙間がどこにあるだろうか。絶対に放棄することは無いだろう。希望があればどのような状況にでも、あらゆる方法を使ってでも、生きていくことができる。希望が無ければ、一生懸命生きても力が抜けて楽しくない。
どんなに大きなビジョンでも、あきらめると虚しい夢想に終わる。希望は犠牲が無くては絶対に現実にならない。あきらめないで代価を払えば必ず夢はかなう。そこに、夢を妨げることがおきても希望を持っていれば避けることができる。
「穏やかな海は良い船大工を作らない」と言う言葉がある。試練が無く成功した人はいないという意味だ。苦難と試練無しで人生を生きていくことはできない。試練は神が人間を鍛錬するためにつくった贈り物だ。高い温度で陶磁器を焼いてこそ本物になるように、人間の人格は苦難を通して生まれ変わる。試練を克服するために努力をしない者は、小さなことに挫折し落ち込む。
私達は皆、人生の運動場でかけっこをする。成功と言うメダルを取るために期待を胸に走る。しかし、現実は喜びばかりくれずに望まない失敗を共にくれる。その時、生の意志をつかまなければならない。嫌気を感じて生をあきらめてはいけない。誰でも出会う失敗に、どのような心で対するかによって人生が変わる。全力を尽くして最善を尽くしても、すぐには結果が出ない。時には状況がもっと苦しくなることもある。あきらめなければ必ず時が来る。成功したすべての人が経験した人生の法則だ。決してあきらめなければ、何でも成し遂げることができるという言葉のように聞こえる。
多くの企業の講演と執筆で忙しく人生を送っている私は、一日に数十回と放棄したいという心が出し抜けに生じる。その度に、「あと少し」そして、「多くの人が私により小さな挑戦を受けるはずだ」と思って、考えを整理して文章を書いて講演を準備する。もし私が日常で簡単にあきらめて原稿の執筆を遅らせたならば、多くの作品が出てくることができなかっただろう。
原稿の執筆によって尻が痛くなった経験のある人は、本がベストセラーになろうがなかろうが、自らあきらめないで人生の意味を成し遂げたと考える。楽しい執筆だけだろうか。毎度、同じではないか。あきらめない姿勢を体になじませてこそ、人生の価値が光を放つ。
「後もう少し」と言う心で自らを励まそう。そして、自分があと少し努力して誰かが幸福になれることを知ったならば、生きていく存在の理由が十分ではないか。