7月6日(水)
息子のHOUSEは小学生2年の頃に会っている。
おしゃべりである。
新橋徳寿3
その時、小学5年生。
1996年 平成8年 中華民国歴85年
3月10日 台北 結婚式場
息子が写っている。
今は2児の父親である
料理学校に入学したのだが、中退して
他の専門学校に進学。
幾つかの仕事を経験して
父親の跡を継ぐ。
台湾企業も大不況である。
房社長はステーショナリーメーカー
バブル時代には、年間200万本の筆記具を製造していた。
大陸にも合弁で工場を設立した。
現在は無い。
台湾工場も縮小した。
ヨーロッパ、アメリカに販促ボールペンを販売していたが
現在は少ない。
今回 来日は展示会見学もあるが
日本の取引先との打合せもあった。
タッチペンを1万本製造した。
その日本商社から、大手家電量販店に卸された。
日本では、それほど売れるとは思えないのだが?
欧米人は手指が太いのでタッチペン操作が使いやすいのだろう。
房社長は強い眼差しで言った。
企業間取引 B TO Bは駄目だ。
ブランドを立ち上げなければならない。
私は言った。
今回 来日して展示会を見たでしょうが
閑散としていたはずです。
日本企業には販促品をばら撒く金などありません。
更に 販促品を貰っても陳腐なプレミアなどゴミで直ぐに捨てられます。
台湾社長は深い溜息を吐いた。
今日あるのは、台湾人 房社長のバックアップ。
彼がいなければ企業継続はできなかった。
年齢は私と殆んど変わらない。
戦後 日本の植民地支配終わり、蒋介石の国民党政権になった。
房社長は台湾中央部台中の出身。
両親はミカン農園を経営。
客家人である。
家庭では客家語を使い、小学校では中国語を学んだ。
両親は植民地時代の日本語と客家語しか話せない。
刻苦勉励して国立成功大学工学部で学んだ。
台湾の英雄 国姓爺合戦の鄭成功の名前が付けられた名門大学。
日本で比べると東京工業大学に当たる。
優秀な技術者であり、小さな島国台湾で事業を興すには
独学で英語を学んだ。
ユダヤ人と同じ流離い民族客家人はたくましい。
房社長の父親は10年以上前に亡くなった。
台中の家では日本語でカラオケを歌い
恩師の日本人教師の手紙を見せてくれた。
房親族は親日家である。
それと、大陸中国人が嫌いである。