3月13日
冬明け初の森時行き 下仁田町奥の姫街道本宿「そばのれん」に立ち寄る
春先のドカ雪で焚火場の屋根が潰れ、外ダイニングの波板屋根が風でボロボロになっていた
3月19‐20日
4月5‐7日
冬越しのニンニク。養分が不足していたようで大きくならなかった
4月12‐15日
5月1‐4日
諏訪大社に参拝し、安曇野の知人「丸六穂高わさび問屋」経由で森時へ
5月16日
5月30日
カナダ出張中に新車が納入されていた。帰国してから一度だけ対面したが、まだ乗る機会がなかった。息子が年末の休みに「森の時間」に行きたいと言うので、晴天の大晦日、新車の試し運転を兼ねてひと走りしてきた。
「のらくら農場」は、年末年始家族皆で里帰り中で休業。佐口の里奥に人の気配はない。かつて天然スケートリンクであった佐口湖は乗っても割れない程に結氷している。雪面が太陽を反射して眩しい。前回来た際に、今年最後だと思って冬を迎える準備はしてあるので、特にやらねばならない作業はない。だれも来ない小屋だが、正月の飾り付けをしてゆったりしていた。すると、青空が俄かに黒雲に覆われた。暫くすると激しく雪が降り出した。先程までの穏やかな太陽が一転して、突然の冬景色。ゆっくりしてられない。家路が気になったので、早々と帰宅することにした。ところが出発する頃になると、突然太陽が顔を出し、再び青空が広がった。標高千メートルは山の天候。目まぐるしく変化する。
今日こそは本当に2009年の「森の時間」納め。 2010年、良い年を迎えましょう。
この一年の安泰と無事に感謝し、来年の作業と来訪者の安全を祈り、再び雪が降り出した小屋を後にした。
和歌山から机・棚を搬入することになっていた。輸送費を軽くするために搬入日指定なしで依頼していたが、出張予定が迫って来たので、先方の都合でこの日に搬入してもらう事になった。机と引出しキャスターのセット11個と棚3個。全て吉野杉の地元の大工さんのオリジナル。間伐材ではあるが、杉の銘木「吉野杉」の無垢の家具。私の働く会社の和歌山事業所では、
これらの引取り手が居ないので廃棄処分にすると言うのだ、「モッタ イナイ」。 再利用の道を模索し、のらくら農場の事務所や学習机、更にお知り合いの方々に輸送費だけを負担して頂き、利用してもらうことになった。一部は来春引取に来るまで、小屋の屋根下に積んでおくことにしたので、搬入箇所を指示せねばならず、その為に、どうしても現場に行かねばならなくなった。
前夜、長野方面は雪が降った。 路面積雪になっていないことを祈りつつ、内山峠ルートで向かった。冬のウイークデイ、しかも雪・雨予報の暗い一日。内山峠に向かう車は殆どない。峠の上りにさしかかると、たった一台の前方を行く車が路肩に寄せて止まってしまった。路面に雪の轍が目立つようになり、スリップし始めていた。私の車も滑り止めは着けていない。ちょっと躊躇ったが、雪交じりの雨に変っており、峠にかかる霧の状態、外気温の上昇具合からすると、これ以上は降雪することはないと思えたので、止まらずに峠に向かった。 峠に向かう車は全くない。降りてくる車も殆どない。
「森の時間」は雪混じりの雨。時折、強く降る。朝方までは雪が降っていたそうで、大地の一部が白く覆われている。取り残したカリフラワーにザラメの雪。薄暗い曇天の中、飯田市の中継地から中型トラックが到着した。雨の中の荷降ろし作業。間もなく冬至の曇天の一日。 搬入作業が完了し、机・棚にシートを掛け終わる頃には、すっかり暗くなっていたが、 雪の混じる冷たい雨に打たれながらも、来たついでに小屋の周囲を整頓した。そして、小屋の中で一休み。暖かいお茶で一休み。冬を迎える里奥はシーンと静まり返っている。時折強く降る雨音が屋根を叩くだけの無音の世界。暖まったホットカーペットの上、そのまま眠り込んでしまいそうだったが、屋根を打ちつける雨音が連続するようになった。
大雨になると、足元がぬかるんで車が小屋のまでのパスから抜けられなくなる。それ以上に心配なのは、内山峠の雪。帰れなくなる恐れがあるので、しっかりと戸締り、入口に二重のチェーンをかけ、急ぐように家路についた。
「森の時間」は、この日から冬眠に入った。
だいぶ冷えてきた。今年最後のつもりで小屋に泊まりに行った。夜半の外気はマイナス3度。 まだそれほど寒くはない。のらくら農場のビニールハウスの中は、ターツァイ、コマツナ、シュンギク等がまだ青々としている。このターツァイ、ひとつで大型フライパン一杯の炒め物が出来る。上質のごま油でさっと炒めてミネラルたっぷりの塩を軽く振る。大皿に大盛の青菜の惣菜になる。あっという間に平らげてしまう。そうすると、
翌日濃緑色の便が出る。 最初は何かの病気ではないかと心配したが、何度か繰り返しているうちにターツァイが原因どとわかった。
森の時間の小さな菜園の最後の収穫は、ブロッコリー。 パセリも元気だが、歯ごたえが強い。のらくら農場のおいしいニンニクの葉が均等な長さで地表に這っている。来春の収穫が楽しみ。
夜は「山の幸ぶっかけ鍋」、翌朝は「ポパイ鍋」。いずれもNHK「ためしてガッテン」で知った鍋料理。ぶっかけ鍋は甘みを出すエノキ・シメジ・マイタケと苦味のナメコを上手に掛け合わせ沸騰させないのがコツらしい。 焚き火をガンガン燃やし、炎を囲んで、語り、飲んだ。赤・白ワイン。ドブロク、更に一升瓶。この日は、のらくら農場の罠にかかった鹿のロース肉のご馳走もあった。雑菌があるから良く火を通さないと危ないと言われたので、焚き火で思い切り焼いたら硬くなってしまった。焼きすぎて珍味にもならない。味付けが足りなかったのかもしれない。それから部屋のコタツでお鍋。そして、語り疲れ、飲み疲れ、そ~して男は~♪、静かに眠った。
森の時間は冬を迎える。2009年の活動はこれで終わる予定。
1万8千年~1万3千年前の氷河時代、東日本を代表する森は、エゾマツ・トドマツ・コメツガ・ゴヨウマツなどの亜高山帯針葉樹の粗林だった。縄文海進期(ヒプシマール)という気候の温暖化とともに海面が上昇し、大陸と一体をなしていた日本列島と大陸の間の低地に対馬海流の流入が始まり日本海が拡大した。暖流が流れ込むことによって日本海側の降雪量が増加し、およそ8千年前頃になると、温帯の落葉広葉樹に適した海洋的気候が成立し始め、ブナ、ナラやクリを中心とする樹林帯が広がった。
日本最古の土器は、この落葉広葉樹林帯が成立した西日本の日本海側に発見されている。その最古の土器文化は、日本海側を急速に北上したが、ブナやナラの温帯落葉広葉樹林が拡大しなかった北海道からは、分布は今のところ確認されていない。同時期、長野県南佐久郡一帯では、土器を持たない細石器文化の人々が居住していた。八千穂佐口地区の中部縦貫道工事現場で縄文の竪穴住居跡が出てきた。周囲が見渡せる小高い丘の上全面に広がっていた。それは土器文化ではない。八ヶ岳周囲に分布する縄文遺跡は石器文化だったようだ。この南佐久一帯は、当時から積雪が少なかったので、年間を通して比較的快適に暮らせる高度千メートル辺りに集落を形成したとみられる。 「森の時間」はちょうど海抜千メートル。今も雨は少ないが、冬の寒さは厳しい。ヒプシマールが終わると地球は冷え始め、この辺りでは集落が拡大・反映することはなかったのだと思う。一方、土器を作る燃料となるブナやナラの落葉広葉樹の森が繁茂した日本海側の集落は繁栄した。そこに日本独自の海洋的風土が形成され始め、土器作りが盛んに行われ固有の文化が誕生した。その時代の人々が、ブナやナラ林と深い関わり合いを持ち始めた時に、日本固有の文化が誕生したと思われる。その文化が縄文文化であり、「森の文化」なのである。
「森の時間」には、コナラもミズナラも自生している。武蔵野のコナラの苗木を移植し、利根川上流のドングリから育てたミズナラも植えた。いずれも人の背丈程に大きく成長している。日本の森で、8千年以上前から繰り返されたコナラの紅葉。春を迎える準備万端、ミズナラの冬芽。じーっと見つめる。
この日の中心作業は第二小屋裏の整理。来年になるが、そこに風呂小屋を作る計画を立てている。
ブロッコリーが続々と収穫出来るようになった。カリフラワーの収穫も近い。
ゴールデンウィークは2日から6日までと8日と9日を「森の時間」で過ごした。
ここで通年、といっても春から秋の間 、過ごす年月が訪れるかもしれない。不便な小屋で連続滞在が、といっても極めて短期、どんな具合か試す機会になるのではと考えた。前半には上高地山歩き後のH君が来てくれた。さらに珍しく息子が来たいというので、早朝に新幹線で来てもらい翌日一緒に帰宅した。といった人の出入りがあって、慌しくしていたらあっという間に日が経ってしまった。お試しのまとまった一人の時間は僅かで、一人を感じる間もなく、ひとり暮らしが盛り上がらない内に帰宅してしまった。とは言うも、人に来てもらえるのは大変うれしい。どうせ、ひとりの時間の月日は持て余すほどやってくる。今から無理して、ひとり暮らしを求めることはないのだ。
(小)小屋の前のデッキの屋根と小屋のデッキの屋根を一体化する材料を、1トントラックで持ち込んだ。H君と柱の基礎をコンクリで固めた。二人でやると難なく出来る。
雨が降らない。遠くの畑で舞い上がった土が黄沙のように降り注いでいるのか、外に物を置くと瞬く間に埃で白くなる。車は砂漠を走り抜けたように真っ白。貯めておいた雨水もなくなったので、池から水を拝借することした。ひとりでは容易に出来ないので、基礎固めの余勢を買ってかって、猫車で池を何度か 往復して大きなポリ桶二つにたっぷり水を貯めた。さらに余力があったの
で、間伐した森に行き、放置された丸太や枝を集めて薪置き場に積み上げた。水と燃料が補充されると何となく安心、幸せになる。 二人の力は大きい。息子が来たときにも更に水を汲み、薪を集めた。この辺りは昔は水争いがあったとかで、佐口湖を作り、八ヶ岳白駒山荘からの水路を作った。池の水には水利権がある。
勝手に使ってはいけないと、地元の電気工事業者に言われたことがある。間もなく井戸が出来るはずなので一度だけの盗水です、お許しを。
この季節になると、あちらこちらに可憐な花が咲き始める。 一面に咲くタンポポ、タチツボスミレ、キジムクロ、ツチグリ? 一人静。
H君が私の気づかなかった可憐な花を見つけた。ハルリンドウ、イカリソウ。
8日は夕方に出発し、途中で資材を買って、小屋に到着したのは夜10時過ぎ。この日はS代の始めての「お泊まり森の時間」。息子が家よりも良く眠れて快適だったという言葉に動かされたのかもしれない。早朝の鳥の目覚ましで目覚め、ペンキ塗り、畑整備などを手伝ってくれた。 ノブキを摘みたかったようだが、まだ小さすぎる。不届き侵入者にもぎ取られずに残ったタラの芽が大きく成長している。食べるには大きく育ちすぎた。
ブルーベリーの花がたわわに咲く。昨年は花も少なく、ほとんど結実しなかった。今年の収穫は大きいかもしれない。
「森の時間」のある地に初めて足を踏み入れた7年前、なだらかにうねる馬の背状の土地は草 原の一部のようにほぼ全面が草に覆われて、森の土が削り取られた平坦な部分は草の疎らな剥き出しの赤土だった。林分の遷移で言えば、「二次遷移」の「林分成立段階」。土地を手に入れた開発業者は、3-4百坪10区画ほどに分けて別荘地として分譲しようとしたらしい。西側の半分は土地投機目的の東京在住者に売って、
売れなかった残り半分を開発しようとした業者の名義になっていた。登記簿にはバブル時代に2億円弱の担保設定された記録がある。その後、田中長野知事時代に大規模開発は厳しく規制され、町でも厳しい環境条例を制定したこと、農業用水ため池の隣地にあるため地元の強い懸念があった等で開発は実現されなかったらしい。
周囲の深い樹林はカラマツを中心とするアカマツ、コナラ、クリ等の二次林。近代史において日本の森は二度壊滅的に伐採された。一度目は明治維新。江戸時代まで、「木一本、首一つ」と言われ各藩によって守られた樹林が、無秩序状態の明治新政府時代に薪炭用に大量に伐採され、里近くは禿山になった。その後再生が図られ森林は回復したが、第二次世界大戦後の物資不足時代に再び過剰に伐採され、経済復興、高度成長期、輸入木材が解禁され、さらに燃料革命によって薪炭・木炭生産が衰退する1970年頃までは集中的森林伐採が続いた。日本林業の全盛期ではあったといえる。辺りのカラマツ林は、70年代以降に集中的に植林されたと思うので、樹齢は凡そ30歳前後だろう。 太いのは50-60歳。近くに間伐した森がある。太い切り株の年輪を数えたことがあった。私の歳と同じだった。一緒に薪拾いをしていた息子が、同じ年月を生きた貴重な木なのだから切り株でも大切にしたらと言った。人の手が入った二次林は生態学
的には本当の自然ではない。二次林の近くには必ず人が住んだことがあり、原野や原生林を切り開いて作った田畑がある。人の活動は、暗い原生林を明るい雑木林にして、色々な生き物の生活の場を作り出してきた。深い森から明るい場所へと移行する環境に、それぞれの明るさを好むさまざまな植物と動物の生息場所・空間が形成される。人は生きるために自然に手を加え変えてきた。しかし、自然は人に干渉されなくなると押し返してくる。人と自然が凌ぎ合い、生物種の移行帯である人の手の入った里は「エコトーン」なのだ。
5時過ぎになると鳥が囀り始める。寝ていられない程うるさい色々な鳴き声。強制的な目覚まし、起床ラッパのように眠い眼をこすりながら起きざるを得ない。この日は、さらに騒がしい朝だった。この季節の日曜日、佐口湖の土手が地元の消防団によって「野焼き」される。朝早くから軽トラがたくさん終結し、大声と枯れ草の燃える音が賑やかに聞こえる。時には10メートル程も炎が舞い上がり、枯れ草を焼く音が爆竹のように響き渡る。野焼きによって人為的攪乱が与えられた枯れた草叢に、明るい場所を好む色々な草花が蘇る。埋土種子、風散布種子、地下茎、根萌芽から芽が出て、花を咲かせる。
井戸掘りの業者を探した。月曜日に現場に来て打ち合わせることになったので、予定外に土曜・日曜連泊した。里奥にある「森の時間」はエコトーン。私のロジックと先住の生物達のロジックがぶつかり合う。
冬枯れに包まれている一角に小さな変化。枯れた草、枯葉の間から柔らかそうな薄緑に輝く芽があちこちに顔を出し始めている。人里離れた静かな里奥。穏やかな日。優しいと言う表現は人間について形容する言葉で、自然が優しいというのは正しい表現ではないかもしれない。だけど、生命の復活、春の兆しが見え始めたこんな時、自然の優しさをふと思う。自然は何も言わずとも、能動的に働きかけずとも、受けてである人間はそれ自体に「優しさ」を感じる。
「春の喜び」、「夏が終わる悲しみ」や暴風雨になると「自然が怒っている」という言う。自然にある一番深い感情は、優しく育む喜び、「春の喜び」だろう。人の感情は自然の変化を感じる感性から生まれたのだと思う。「天地有情」という言葉はそういうことなのだろう。感性を有する人間にとって自然の変化はとても大切だ。他の生物は人間と同じような感情はあるのだろうか。
春の山菜が採れるかもしれないという言葉に釣られてS代が同行した。藪に入ってフキノトウを無心に採る。S代が変わった。自然の優しさが満ちていると思った。 人の優しい部分と自然の優しさが通じ合っている。優しさに満ちた空間。 S代が籠一杯にフキノトウを摘んだ。
昨日、ジョッギングの途中、荒川土手の南斜面に横たわり太陽を浴びていたら、突然、山歩きがしたくなった。今週末は実家へ行くこと以外拘束される予定はない。天気も良さそう。思い立って直ぐに行けるのは高尾山。
6時過ぎに家を出て、新宿7時発の中央線に飛び乗った。相模湖側から陣場の湯経由入るか、八王子で降りて和田峠から入るか、電車の中で決めることにした。ひと寝入りすると高尾山駅が近い。結局、安易な高尾山口へ向かう。8時20分登り始め、稲荷山コースから陣場山を目指した。風もなく、穏やかな朝。残念ながら富士山は霞んでいた。時間が経過するにつれ、ますます霞んできたので、あわててカメラを向けたが、写真では霊峰は殆ど判別できない。急坂を登り切ると一丁平。まだ10時。人も疎らな広々した草地を独り占め。汗をかいた肌に風が心地よい。待望のビールをグビっ。お腹が空いたので、早めの昼食。軽い疲労と、太陽下の朝のビール。好天の日、ハイカーが続々と到着。一人歩きの中高年は相変わらず目立つが、若手、カップルが意外にも多い。
人間、特に都会で暮らす人は適宜、オフの状態を取り入れることで、オンとのバランスを保つ。自然と触れ合うことは、生物としての人間の精神の均衡を保つための人間の本能。金融危機だ、不景気だと言われ、社会が委縮しだすと、人は生きる実感を野外活動に見出すような気がする。バブル経済後の不況期に、環境、里山、森林に関心を持つ人が増えた。砂上の楼閣で暮すような都会生活の仕組み、空虚さを知ったとき、会社、国が頼れないと知ったとき、心、命を支えてくれるのが自然。
この国土はその豊かな自然に守られている。自然の恵みに感謝する心、自然を畏怖する心を持つ日本人、日本であれば、必ず元気を取り戻し、生き抜き、繁栄続ける。と、思う。
S代からメール。「つぼ萬」で柚子トウガラシを買ってきて欲しい。そのお店は、高尾山口にある。希望をかなえてあげるには戻らねばならない。急登山の疲労と軽いほろ酔い。暫し目を閉じ横たわった。自然の空気を満喫した五感が蘇った気がした。今日のところは、引返すとするか。Jナビで調べると、秩父宮ラグビー場2時開始のサントリーvsワセダ戦に間に合う。11時下山開始。高尾山山頂から「森と動物」の4 号路で大樹の木肌に触れ、琵琶滝から6号路に入る。「つぼ萬」到着は12時半。ご依頼のトウガラシを2袋買って、京王線で新宿へ。早足の高尾山の上り下りが足に効いていた。都会のアスファルトを歩く登山靴は重く感じる。軽登山姿で千駄ヶ谷から足早に歩き、試合開始前に到着。今季最後のW大ラグビー。惨敗。が、劇的な2トライに思わず立ち上がった。感激。満足。贅沢な1日だった。